第1話
四月はどしゃ降りとともに始まった。朝から降り頻る雨は、俺がバイトを終えた夕方になっても弱まることはなく、足早に家に帰ってきた。
傘を差してはいたものの、アスファルトに跳ね返る雨粒で、ズボンの裾がびしょ濡れだ。靴の中に水が溜まって気持ち悪い。
「お母さん、タオル持ってきてー!」
玄関の扉を閉めて少しすると、母が小走りでやってきた。タオルを受け取り、ズボンや鞄を拭く。
その時、玄関の片隅にある一足の靴が目に入った。グレーのスニーカー。誰の物なのかは分からないが、どこかで見た気がする。
「あ、さっきお姉ちゃんから電話があってね。帰ってきてるわよ」
「……姉ちゃんが? こんな四月頭に?」
姉が帰ってきているなんて、何かあったのだろうか。
とりあえず、濡れた靴下とタオルを洗濯籠に投げ入れ、自分の部屋に向かう。
俺は鞄を置き、顔くらいは見ておこうと姉の部屋まで来た。扉を叩く。
「姉ちゃん、いる? 俺だけど」
「あー! 圭、おかえり。入っていいよ」
声を聞く限り、元気そうで安心した。中に入る。
「どうしたの? なんの用?」
座ったまま、身体を捻ってこちらを向く。小さなテーブルの上にはノートパソコンがあり、何かを見ていたようだ。会うのは年始め以来だ。
緩いパーマのかかった長い黒髪、華奢な身体、そして八つ年上の28歳にもかかわらず、下手すると俺より若く見える顔。三ヶ月前の姿と特に変わりはない。まあ、こんな短期間で変わりすぎてもおかしいが。
「お母さんが、姉ちゃんが帰ってきたって言ってたから、なんでだろうと思って」
「用がないと帰ってきたらダメなの?」
「いや、そういうわけじゃ……おかえり」
「ただいまあ」
彼女は目を細めた。俺は会話もそこそこに部屋を出た。そういえば、ベッドの脇に大きなキャリーバッグがあったのが気になる。いつまでここにいるつもりだろう。
19時を過ぎて、俺、姉、父と母の四人で食卓を囲んだ。今日はカレーライスだ。テーブルの中心にはサラダも置かれている。俺たち四人はそれらを食べながら話し始めた。
「急に電話があってビックリしたわよ。いきなり帰ってくるなんて」
やはり、話題は姉のことになる。母もまだ事情は知らないらしい。
「ああ……ごめん。まあ、いろいろあってね」
姉はその『いろいろ』について話しだした。三年程前から、彼氏と同棲をしているというのが家族の認識だが、それはもう解消し、さらには会社も辞めてきたようだ。さっき見たキャリーバッグは、しばらくここにいるという意思表示なのだろう――衝動的に仕事を辞めるなんて、余程のことがあったに違いない。
記憶の中の彼女は俺が幼い頃、面倒見のいい姉だった。というより、第二の母のような存在と言うべきか。歳が離れているということもあるだろうが、何かあったら駆けつけてくれて、いつでも味方になってくれるヒーローだった。女だけど。
だからこそ、行き当たりばったりな行動には違和感がある。俺が知っている彼女なら、もっと賢い選択が出来たんじゃないだろうか。
「――そうなってしまったのなら仕方がない……仕事はどうするんだ?」
父の眉根がピクリと動いた。
「結構勢いで辞めちゃったから、あまり何も考えてなかったな。バイトでもしようと思う。それしながら次の仕事を探すよ」
職と住居と恋人を一度に失った姉に対して、父と母の表情は曇っていた。
0時前、俺はリビングのソファーに座り、ぼんやりとテレビを観ていた。風呂上がりの身体を通る、アイスクリームの冷たさが心地いい。
そろそろ眠くなってきたので、自分の部屋に向かう。階段を上がると、姉の部屋の扉がわずかに開いていた。
「ドア、ちゃんと閉めなよ」
扉に手をかけながら部屋の中を覗くと、彼女はテーブルに突っ伏して寝息を立てていた。傍には酒の缶がいくつか置かれている。
気のせいかもしれないが、なんだか彼女が小さく見える。人間、一度にたくさんのものを失うと、こうなってしまうのだろうか。
「姉ちゃん、ベッドで寝た方がいいって。風邪引くよ」
声をかけても起きる気配がない。仕方なく、ベッドの上から布団を持ってきて肩にかける。
「んー?」
「わっ!」
肩に触れた瞬間に動いたので、思わず後退ってしまった。
「あー……圭か。どうしたの?」
奥二重のまぶたを重そうに持ち上げて、まだ意識がはっきりしていないのだろう。事情を説明するが、聞いているのかいないのかは分からない。
「ふーん……ねえ、今から一緒に飲まない?」
「え? 今、寝てたよね?」
「起きてますよー。たまには二人で、どう?」
「うーん……」
これ以上飲ませていいのだろうか。腕を組んで考えようとしたところで、彼女は隙も与えず、冷蔵庫から酒を持ってくるようにと命令する。実家に帰ってきて早々、自堕落極まりない。俺の意思はどうでもいいらしい。
俺は流されるまま、冷蔵庫から缶のビールと酎ハイ、それとつまみになりそうなスナック菓子を持ってきた。思い返してみれば、姉と二人だけで酒を飲み交わした記憶はない。付き合いたい気持ちはある。
「おお、圭もやる気じゃん」
目をランランと輝かせているのを見て、思わず吹き出してしまった。
少しだけなら。誰に許可を得るでもなく、テーブルを挟んで向かい合って座る。
「あたし、なんだか嬉しいよ。圭と一緒にお酒が飲めるなんて」
「別に正月の時も飲んでなかった? 改まって言われても」
「もう、つまんないこと言うなあ」
「はいはい」
わざとらしく薄い唇を尖らせてはいるが、声は弾んでいた。なんだかんだ楽しんでいるようだ。
せっかくなのでさっき聞けなかった、職を含めたいろいろなものを失った理由を聞く。弟としてそれなりには気になる。
「……特に」
「え?」
「だからー、特に理由なんてないんだって! もういいやって思ったから、手放してきただけ」
「いやいや、それはさすがに理由になってないよ。ちゃんと話して」
眉間にシワを寄せ、固く口を閉ざしてしまった。都合が悪くなったら黙り込むなんて、まるで子供だ。何か理由があるのだろうと食い下がるが、一向に答えようとはしない。
このままではらちが明かない。話題を変えようとすると、彼女は嬉々として話の主導権を奪い取り、話しだした。コロコロと態度が変わって忙しい。
話題は俺が幼かった頃のことだ。柳に風と、一定のリズムで相づちだけは打ってあげるが、酔っ払いの話を聞き続けるのは疲れる。それにしても、よくそこまで覚えているものだ。
「あー……また眠くなってきちゃった」
随分前から飲んでいただろうし、もう限界のようだ。またそのまま寝られると困るので、ベッドまで連れていこうと腕を掴む。
「……ん?」
彼女は俺の腕を抱き締めていた。
「ちょっと! 抱きつくな。ほら、立って」
「むー……」
空いている方の腕を、彼女の脇の下に通して抱え上げようとした時、彼女は急に俺の腕を離す。俺はバランスを崩して尻餅をついてしまった。
「痛った! ……姉ちゃん、立ってよ」
それからはしばらく腕を掴んだり、抱き締められたりの攻防の最中、俺の腕を抱きながら何かを呟きだした。
「……まま……じ……」
「え、何?」
声が小さすぎて、何を言っているのか分からない。口元に耳を寄せる。
「……このまま、じっとしてて」
動かないとベッドに運べないのだが。そう思いながらも、呟きを大人しく聞く。
「けい……く……けい……くん……」
目を閉じたまま何度も呟いているのは、おそらく俺の名前だろう。
幼い頃、彼女には『圭君』と呼ばれていた。だが、いつの間にかそれは呼び捨てに変わっていた。恥ずかしさなのか、もう大人として見ているのか、今はそう呼ぶことはない。夢でも見ているのかもしれない。
数分間、腕を抱き締められた後、どうにかベッドまで運んで、自分の部屋に戻った。
次の日、俺は11時前まで寝ていた。今日はバイトも誰かと出かける予定もないし、特に早く起きる理由はない。リビングに向かう。
「おはよ」
リビングでは姉がソファーに座り、そう言った後、テレビの方に視線を移す。
「おはよう。姉ちゃん、昨日のこと覚えてる?」
「昨日って……圭とお酒飲んでたことだよね? 覚えてるよ。まあ、自分でもよく、ちゃんとベッドで寝れたなって思ったけど」
テレビから目を離さず、反省している様子はない。やはり、俺がベッドに運んだことまでは覚えていないようだ。
「姉ちゃん昨日、俺の腕に抱きついて、圭君圭君って、寝言みたいなこと言ってたよ」
急にこちらを向く。
「えっ!? ウソ……」
目を見開いて赤面している。
「何か夢でも見てたの?」
なぜか急に立ち上がり、小走りをしたかと思うと俺の横で止まった。
「どうしたの?」
「ううん。えっと……トイレ!」
再び小走りでトイレに向かう。だらしない姿を晒したことは、それなりに恥ずかしかったようだ。これで少しは酒を控えてくれればいいのだが。
昼食を終えると、俺は自分の部屋に戻った。特にやることもなく、ベッドに寝転がりながらマンガを読んでいると、誰かが部屋の扉を叩いている音が聞こえた。
「はーい」
「あたし。入ってもいい?」
「いいよ」
姉が部屋に入ってくる。
「どうしたの?」
「あたし暇だから、一緒にどこか出かけない? 圭も暇そうだし」
提案に悩む。暇なことは暇だが、この歳にもなって姉弟二人で出かけるということに、どうしても乗り気になれない。
「俺と出かけないとダメなの?」
「そういうわけじゃないけど……」
身体を左右に捩りながら、バツが悪そうに見ている。
「……とりあえず、早く支度してよ! じゃあ」
俺の返事を聞くこともなく、部屋から出ていく。
「はあ……?」
どうやら、姉と出かけることになったようだ。
俺が姉に連れられてきたのは駅前のカフェだ。店に入り注文を済ませると、俺たちは飲み物を持って奥の席に座る。
「わざわざカフェ? 話をするだけならうちでも良くない?」
こんなことなら、買い物の荷物持ちにでもなる方が良かった。
「いいじゃないの。ねえねえ、圭って彼女いるの?」
「ああ……ちょっと前に別れたよ。まあ、振られたっていうか……」
「そうなんだ!」
なぜ、こんな話をしなくてはならないのだろう。そう思いながら、アイスカフェラテをストローでゆっくり吸う。どういうわけか、彼女はニヤニヤ笑いを浮かべている。人の不幸は蜜の味なのだろうか、気分が悪い。
「圭を振るなんて、お姉ちゃんとして許せない! こんなに可愛い弟なのに」
「そうですか」
許す許さない以前に、もう終わったことだ。励まそうとしてくれている気持ちは、少しだけ嬉しいが。
その後は昨日の夜と同じように、彼女はまた昔話だ。家に帰ってきた理由が聞きたかったが、ここでも聞けず仕舞いだった。
23時半を過ぎて、俺は自分の部屋に来ると、なぜかそこには姉がいた。ベッドの上に座り、缶ビールを片手にテレビを観ている。溢していないだろうな。
「なんでいるの?」
「あたしの部屋テレビないから、ちょっとお邪魔しようと思って……ダメだった?」
ここにはテーブルもクッションもない。勉強机はあるにはあるが、今はベッドの上でくつろぎたい。仕方なく彼女の隣に腰を下ろす。
「俺、もう寝たいから。テレビが観たいんだったら、リビングに行ってくれない?」
彼女は俺の言葉に反応して、妙に素直に立ち上がる。かと思うと、持っている缶ビールを床に置き、ベッドの上に横になってしまった。
「じゃあ、あたしも寝るー……圭、一緒に寝ようよ」
「嫌だ」
目も口もトロンと緩ませ、すぐにでも寝てしまいそうだ。頭を抱えたくなった。今日は自分のベッドを占領されているだけに、このままにしておくわけにはいかない。
「寝るなら自分の部屋に戻れ!」
「ヤダ」
無理矢理起こそうと、肩に手を触れた瞬間、腕を抱き締めてくる。
「離せ!」
「ヤダ……離さない」
昨日とは違って、酔ってはいるが起きている。イタズラにしてはかなり悪質だ。
この時気付いた。主張はないながらも、とろけるような柔らかい場所が、俺の腕に当たっていることに。
「姉ちゃん! おっ……おっぱいが当たってるから……」
恥ずかしさでもなんでもいいから、とにかく離れてほしい。
「テレてるの? ふふー、ほらほら」
返ってきたのは思いも寄らない言葉だった。さらに胸を押しつけてくる。
「うわっ! やめろ」
実の姉にこんなことをされるなんて、セクハラで訴えたいくらいだ。どうにか引き剥がす。
「酔ってるのか知らんが、これはいくらなんでもやりすぎだ!」
「そんなに怒らなくてもいいじゃん……スキンシップ、スキンシップ。ふふー」
無邪気な笑みを浮かべている。やはり、酔っ払いに普段の彼女を求めた俺が、間違っていたようだ。俺の知っている、『しっかり者の姉ちゃん』は今、ここにはいない。なんとなく寂しくなってきた。
「もう、そこで寝てろ。俺は下で寝る」
「えー……一緒に寝ようよ」
クローゼットからパーカーを取り出すと、背後でブツブツ言っているのを無視して部屋を出る。この日はリビングのソファーの上で寝た。