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9-1. 崩れゆく世界

目が覚めた時、目の前は暗いままだった。前に目が覚めた時も、またその前に目が覚めた時も、ずっと目の前は暗いままだったような気がする。

いつからなのかな。考える気にもならなかった。目が覚めたのはいいけど、起きたあとって、なにをすればいいんだったっけ?

考えてみたけど、なにも思い浮かばない。仕方がないからまた寝よう。そう思って目を閉じかけた時、暗い中に一瞬だけ光が灯った気がした。

起き上がるのも面倒だったから、四つん這いでそこまで這っていく。輝いていたのは一瞬だけだと思ったけど、手にとったそれは、ずっと輝きを放っていた。


「……要らない」


手にとった指輪は、私には要らないもの。だから前みたいに、投げ捨てようとして、やめた。

最後に四つだけ願い事をしてみた。変身しますように、戻ってこれますように、変身解除しますように。


「よーーーーーーーやく戻っべぇっ!」


それだけを願って、壁に向かって指輪を叩きつけたつもりだった。でも壁には当たらなかった。

シルクハットとコートの下に見える、数少ない肌にしか見えない場所に、私が投げた指輪は直撃していた。


「悪魔が存在していますーーー!!」


「それは願ってない」


壁から出てくるなんて、考える気もない。だから今のは偶然。いいじゃんどうでも。私、投げるの下手くそだから痛くないでしょ。


「計りかねますーーーー!! 考えを読むようなことができるのであれば、前回のような失態は犯しませんーーーーー!!」


うざいんだけど。もう一回願おうかな。ふと浮かんでしまった考えを、頭を振ってもみ消す。これが最後だって、さっき決めたばっかりなのに。


「ねぇ」


「何用でございましょうかーーーー?」


「捕まえないの?」


私の世界で言う警察が、私を捕まえに戻ってこれますように。そして四つ目の願いも、私にとって最後の願いも、今すぐに叶う。そう思ってた。


「残念無念なのですーーー!!」


「はぁ?」


「私どもにはお嬢さまを裁く法も手段も存在しておりませんーーーー!!」


「……アイくんは捕まえるんじゃないの?」


「あれは私どもの都合でございますーー! 罪状は何もございませんーーー!!」


……忘れてたけど、変身、してなかったね。一分一秒も耐えられそうになかったからやめちゃったけど。三つで良かった。


「ならもう帰って。要らないから」


「帰りませんーーーー!! あざ笑いますーーーーー!! 滑稽でございますーー!」


「よかったね」


なんか言ってるけど、要らないものが私になにをしてこようと、どうでもいい。適当に相槌を打っておく。


「自責の念を抱くのであれば、ご自身で願えばよろしいと思いますーーーー―!!」


「……え?」


「悪い夢から醒める方法は、お嬢さまが一番よくわかっているのではないでしょうかーーーーーー!?」


「……悪い、夢」


そう、私は夢を見ているんだ。とても嫌な夢。いいじゃない。現実逃避するには、とても良い言葉。

だからありがとうって言おうとした。でも、なんか様子がおかしかった。あざ笑いますーとか言いながらニコリともしなかった顔が蒼白になっている。

そして、全身をガタガタと震わせ始めた。……なんで?


「……もしかして、やってしまったのでしょうかーーーーーー!!」


「知らないけど」


「退散いたしますーーーー!! ごきげんようでございますーーーーー!!」


「えっ? あっ、ちょっ……」


目を離した隙に、って言葉は、きっとただの言い訳で使われることの方が多いはず。今の私は、目すら離してなかった。でも、一瞬で消えてしまった。

……最後の願いだったはずなのに、なんか、私だけが取り残されちゃった。

……悪い、夢。もしこの現実が夢だったら。そんなこと、考えたこともなかったけど。もしそうなら、お父さんが単身赴任中なことも、私が願ったことになる。

そんなわけないじゃん。だって、……。……そんなわけ、ない。だって、お父さんには名前があったはずだから。お父さんがいないなら、私は生まれていないわけだから。

……だからこれは、ただ忘れてしまっただけ。ずっと会っていなかったお父さんだから、ちょっと忘れてしまっただけ。


「……六時半」


真っ暗な中でも、何年も暮らした自分の部屋は迷うことがなかった。やっぱり、これは夢なんかじゃない。

お母さんに聞こう。それでダメなら、あれにでもいい。使う時は使わないと意味がない。……なんで、仲悪かったんだっけ?

……それも含めて、聞き出そう。もうそろそろ晩ごはんの時間だから。


「……あ」


「あ、出てきたです」


何日ぶりなのか、それすらもわからなかった。でも部屋を出た瞬間に見えたアイくんの顔は、久しぶりだと思えた。


「まぁ」


「行くです?」


適当な私の返事に、アイくんが指した場所は下。その動作も、見慣れた姿で久しぶりの姿。だから私も、いつも通りに頷く。いつも通りとは言っても、立場は逆だけど。

アイくんに続いて階段を降り、キッチンへと向かう。テーブルの上には、三人分の食事が用意されていた。当たり前だよね。何日ぶりなのかもわかんないんだから。


「お姉ちゃん、食べないの?」


サッと座って食べ始めていたアイくんを見ていると、お母さんから声をかけられた。……お姉ちゃん? 私、お姉ちゃんって呼ばれてたっけ?

……というか、これが私の分だったら、あれは? あのなんか、生物学的には男の、兄とかいうあれは?


「これって私の?」


「何バカなこと言ってんの。早く食べなさい」


「……お兄ちゃんは?」


何年ぶりなんだろう、お兄ちゃんって言ったの。原因だけは覚えてる。スキンシップが激しくなってきたから。

ほら、覚えてる。だから大丈夫。でもお母さん。なんで私の頭に手を当ててるの?


「どうせ夢です」


「……あんたね、寝すぎよ。もっと元気にとは言わないけど、あなたは大人しすぎるわ……」


熱がないことを確かめてアイくんの言葉に納得したお母さん。何事もなかったのように、またご飯を食べ始める。

名前を言おうとした。きっと家を出たんだ。その考えがまだ残されていたから。でも、言えなかった。やっぱり名前は言えなかった。

仕方なく、席につく。箸は動かしていても、味なんかわからなかった。なんで二人とも黙って食べてるんだろう。娘と姉のはずなのに。

何日も部屋に閉じこもっていた肉親のはずなのに。


「行くです」


「うん」


私が食べ終わるのを待って、アイくんはスタスタと先へ行ってしまう。私はその後をついていく。お父さんの名前なんか、聞けなかった。


「アイくん」


「なんです」


「入らないの?」


階段を上って、最初の部屋が私の部屋。あの日アイくんを追い出した私たちの部屋。


「何故にです」


「……もういいよ。ごめん」


今アイくんと離れたら、アイくんを怖いと思い続けていたら、きっとアイくんは消えてしまう。だからまた二人でゲームでもしよう。そう込めて、呼び止めた。


「何がです」


「……追い出したこと」


「追い出されてないです」


でも無駄だった。怖い気持ちは抑えられなかった。


「ねぇアイくん」


「聞きすぎです……」


「お腹は空かないの?」


アイくんに対してじゃない。アイくんを怖いと思って部屋から追い出したのは、ただの八つ当たり。私が怖いと感じていたのは、アイくんじゃなかった。


「……今食べたのはご飯じゃなかったですか? お姉ちゃん」


本当に怖かったのは、私という存在。心の何処かでそれがわかっていたからこそ、アイくんを警察もどきに差し出さなかった。

目立っていなかったほつれは目に見え始めている。きっとそれはもう直すことはできない。崩れ始めた世界を、私はただ見ていることしかできなかった。

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