6-2. お寿司の食べ方
なんとなく体が重い。そう気付いたのは、起き上がる気力すら生まれずに正午近くまでいた布団から出ようとした時だった。
食欲はあまりない。最近は食も細くなってきているが、今日は食べる気すらしない。額に手を当ててみると、ほんのりと熱い気がした。
レトルトのおかゆを取り出し、数口含む。梅干しを探してみるが、最後に食べたのがいつだったか、思い出せなかった。
風邪を引いたのもいつ以来なんだろうか。家の中には風邪薬すらも置いていなかった。体は相変わらず重いままだが、仕方がない。
「あ」
近所のスーパーで梅干しを買い、薬局にも寄って風邪薬を買った帰り道。たまたま通ったコンビニから出てきたのは、肉まんをくわえた彼女だった。
「ほんひひは」
「あぁ……こんにちは」
行儀が悪いよ、と注意したいところだが、見た目も幼い彼女の幼さが強調されているような気がして、普通に挨拶を交わしてしまった。
「んっく……買い物ですか?」
すぐに飲み込んだ彼女は、私の右手を見てそう問いかけてきた。……別に、隠すほどのことではないからね。
「少し風邪気味でね。薬を買いに……マスクを忘れてしまったな」
「あ、要りますか?」
移すといけない。今更そう気付いた私に、彼女はコンビニの袋からマスクを取り出し、差し出してきた。
「……これは」
「そういや流行ってるなと思ってたんですが、良いタイミングでしたね」
「あぁ……ありがとう。いくらかな」
「要らない。高いもんじゃないし」
「……」
なぜ、君は私に。その続きを言うべきか、とても迷ってしまった。しかし、差し出されているものは好意に違いない。それだけは理解できた。
「ありがとう。大切に使わせてもらうよ」
だから私は、その先を紡ぐことができなかった。
「なら、今日は無理ですね」
何がだろう。その疑問を口にする前に、彼女はもう一度私に差し出してきた。取り出したマスクを再び突っ込んだコンビニの袋を。
「一緒にどうかと思ってたけど、家で食べて」
「……これは」
差し出された袋を受け取り、中身を確認する。小さな袋には、マスクと、肉まんが一つ入れられていた。
「……」
「なに?」
「ありがたい、ありがたいけど……」
「ありがたいけど?」
「食欲もあまりなくてね……。年を取るとこれだから困ってしまう。せっかくの
好意を申し訳ないが、これは君が食べてくれないか」
「そんなに悪いの?」
そう問いかけてきた彼女は、とことこと私に近付く。そしてかかとを上げつま先で体重を支えると、左手を私の額へと伸ばしてきた。
「微妙なって、なに?」
私は今照れているのだろうか。照れている時は、胸の奥底が熱くなっていただろうか。
「ほら、早く帰って寝ときなよ。私それ要らないから」
返したはずの肉まんは突き返されてしまった。まぁ、好意を踏みにじるわけにはいかないか。ありがたく受け取ることにする。
「ありがとう」
「早く元気になってよ。暇だから」
「あぁ。善処するよ」
やはり私は照れているのだろうか。彼女の顔を直視することができない。顔は向いていても、視線は遥か彼方を見つめている。
夕焼けにもならない、澄み渡る青が広がる空。それはまるで、私の心の中を表しているかのようだった。
「では失礼します」
「あぁ、さようなら」
別れが惜しい。そう感じたのは、いつ以来だろうか。伸ばせば届く距離だったのに、ひょこひょこ歩く彼女は遠ざかっていく。
しかし、行かないでくれとは言えなかった。そのあとをどう紡げばいいのかがわからなかった。
寒風が吹く中、コンビニの前で立ち尽くす老人が一人。不思議と、寒気はしなかった。本当に風邪なのか? 病院に行った方がいいのかもしれない。
だが、行く気にはなれなかった。長生きするつもりはないと、そう考えていたから。
しかし、その決心も揺らいでいるような気がする。風邪を治そうと考えている今の気持ちは本物だから。
三日三晩寝たところで、体調は良くならなかった。むしろ、動いていた方が元気になるのではないか。そう思えるほど、気力が湧いてこない。
どんどんと沈んでいく体を奮起させようと、私は久しぶりに公園へと向かった。
晴れた日に座るベンチには誰の姿もなかった。何度も見てきた光景は、少し辛かった。
子どもたちの姿も今日は少ない。元々繋がりがあったとは思えないが、たった三日で世間との距離がこれだけ開いてしまうらしい。
照りつける日差しはあまりに弱く、厚着をしてきたにも関わらず体は冷えていく一方だった。
しかし、私はベンチに腰を下ろす。何を迷っているのだろうか。迷う価値すら、私にはないというのに。
「あ、お久しぶりです」
「……あぁ、久しぶりだね」
ただ、座ってよかった。それだけは、心から思った。
「治った?」
「熱はたぶんないと思うがね。食欲がないんだ」
私の答えに、目の前に立った彼女は額に手を伸ばしてくる。その手はとても冷たく、それでいて心地の良いものだった。
「好きなのってなに?」
「好きとはなにかな」
「食べたいの」
「……魚かな」
「ならお寿司を食べましょう。回転寿司でいいですか?」
意図がわからない質問に困惑していると、何やら話に追いつけなくなっていた。しかしこれは老いたことだけが原因ではないだろう。
「いいも何も、どうやって食べるんだい」
「え、皿をとって醤油につけて」
「お金の話さ。あいにく、今持ち合わせてないんだ」
子ども相手にこんな話はしたくないが、仕方がない。私は今、一銭も持ち合わせていない。財布すら持っていない。何も買う気がなかった。
家に帰ればなんてことのない話だが、少々、体が持たない。
「私が出すに決まってるじゃないですか」
「おいおい、いくら老人とはいえ、さすがにそれはできないよ」
「余ってるんだけどね、使い道ないし」
「しかし……」
「今日だけ。だからいいでしょ」
彼女は決して譲らなかった。結果として私が折れることになり、近所の回転寿司へと連れて行かれてしまった。
私にもプライドというものが残っていたらしいが、やはり使い方がわからないものは、どうすることもできない。
すごすごと引き下がるのが、私にできる唯一の抵抗だった。
「君はお金持ちだね」
「そこまでじゃないけどね」
「アルバイトでもしているのかい?」
飯時からは少し外れた時間にも関わらず、店内はそこそこに混み合っていた。席に通され、お茶を準備してくれている彼女に、気になっていたことを投げかけてみた。
「まぁ、似たようなのはね」
毎日五時に帰っていた彼女。きっとその後アルバイトをしているのだろう。とは思ったが、反応は少し鈍いものだった。
「あまり人には言えないようなアルバイトだったかな?」
「うんまぁ。ちょっとね」
「……危ないことはしてないだろうね」
少し心配になった。いや、少しどころではなく心配になった。女子高生である彼女の、浮き沈みのない表情。まるで何かを悟ってしまっているような、そんな雰囲気。
思い起こしてみれば、彼女をまとう流れは、一切の澱みがなかった。彼女がいじめられていると言った子ですら、帰る間際には流れが速くなっていたというのに。
「大丈夫だよ」
彼女が言っていた時の流れという言葉や、私自身の体感から考えると、この流れは体感時間だと思われる。いじめられていた子は、きっとあの時間が苦痛だったのだろう。
だとすると、彼女の流れは一体どういうことなのか。説明がつかない。表情と同じように、心も何も感じないというのだろうか。
「なら、いいんだけどね……」
そして私はなぜ、これほどまでに彼女のことを心配してしまうのだろうか。赤の他人だというのに。知り合ってから間もない、名も知らぬ間柄だというのに。
悶々とした気持ちは晴れることなく、結局私は四皿食べたところで満腹になってしまった。前に座る彼女は六皿も食べているというのに。
「ありがとう。美味しかったよ」
制服姿の彼女と、着膨れした老人の私を見て、店員はどのように思ったのだろうか。孫に会計を任せている、ダメな老人だと思われたのだろうか。自惚れはいけないな。
「行った方がいいよ」
「……何を、かな」
「病院」
予兆なくさらりと述べられた言葉に、心の中を見透かされているのかと思ってしまったが、冷静に考えるとそんなことがあるはずもなかった。
「熱下がってないでしょ」
「……君の手が冷たいわけじゃなかったんだね」
バレてないかと思っていたが、さすがに無理があったようだ。動き回るべきではなかったな。少し辛くなってきた。
「なに? 怖いの?」
「はは、そんなわけないだろう」
「ですよね」
注射を腕に突き刺す真似をする彼女は、少し可愛いと思ってしまった。やはり、行った方が良いんだな。気力は湧かないが、風邪を治したいのは本物の気持ちだから。
「明日、今日の夜にでも行ってくるよ」
「よろしい。なら私も帰りますね」
「あぁ、ごちそうさま。気をつけて」
気付けば辺りは薄暗くなっていた。まだ四時半だというのに。ひょこひょこと帰っていく彼女を見送って、私も歩き始める。
彼女に怒られないようにするため、何年も通っていない病院へと足を向けて。
「こんにちは」
「あぁ、こんにちは」
彼女が現れたのは午後二時。私は今日、朝の十時から公園にいた。きっとその時の私は、止まりそうなほどの流れで覆われていただろう。
年末ということもあり、近所の子どもたちは帰省してしまっているのか、その姿も見えない。見えていたとしても、眺める気にはなれなかったが。
「君は実家に帰らないのかい」
「私の実家ここだから。迎える側」
ならなぜこの場所にいたのか。理由はただ一つ。彼女と会うため。
「なるほど」
しかし、会話はそこで途切れてしまった。スマホを取り出した彼女は、ぼんやりとその画面を見つめている。
私から、声をかけるべきなんだろうか。……言い出せない。言い出せるわけがない。
また、昨日のように、彼女から声をかけてくれないだろうか。どうでしたか? と。インフルエンザ? と。
あいにく、そのような素振りは見せてくれない。もう忘れてしまったのだろうか。私はもういいのだろうか。やはり、私は。
彼女を覆う流れは普段と変わらない。変わる素振りを見せない。きっとその画面も、ただ見ているだけなんだろう。
それなら、声をかけてほしかった。なんでもよかった。ヒマですね、寒いね、しわくちゃだね、と。
時間だけが過ぎ去っていく。止まってくれとは思わない。ただ、彼女と会話をしたかった。
「……」
「……」
「……」
「……」
それ以外で、私から会話を振ろうかとも思った。無理だった。私は彼女のプライベートを全く知らないし、侵そうとも思わない。思えない。
誰にでも言いたくないことはある。きっと彼女の流れも、理由があるんだろう。しかし、聞けるわけがなかった。
結局何もないまま、時間だけが過ぎ去っていく。気付けば辺りは薄暗くなっていた。もう、別れの時間だ。
「では、失礼します」
「……あぁ、……」
さようなら。その一言すらも紡げなかった。別れたくなかったから。しかし彼女は私の返事も聞かず、ひょこひょこ歩き出していた。
出てくるのは深い溜息ばかり。誰に向けた失望なのかもわからないまま、帰宅する他になかった。
目が覚めたのは午後三時。いつ寝たのかも記憶にないが、まだ睡眠は足りていなかった。
きっと彼女はもう来ているのだろう。いや、来ていないかもしれない。そもそも、彼女が絶対に来るなんてことはないのだから。
このままずっとこうしていようか。そうすれば、私がずっと望んでいたことができるはずなのに。
しかし私はテレビをつけてしまっていた。面白くもなんともない番組。思えば、テレビを見るのも久しぶりな気がする。
画面の中にいる人々も、それぞれ流れをまとっていた。バラエティ番組だというのに、出演者の流れは緩やかなものだった。
私は今、どんな流れをしているのだろう。これまでにも何回か試していたが、再び手鏡を使い、覗きこむ。やはり、自分の流れは見えなかった。
兎にも角にも、私は今の自分の流れが知りたかった。どちらの私が本物なのか。それが知りたかった。そう思う気持ちは本物のはずなのに。
どうして私は三時に起きたのだろうか。どうして私は、聞くことができないのだろうか。どうして私は、彼女に会いたくないと思ってしまっている自分が嫌になっているのだろうか。
答えなど出ない思案の中で、ただただ時間を浪費することしかできなかった。




