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6-1. 時は流れる

陽は西に傾き、昼下がりとはもう言えないような時間。私はその辺りで家を出る。時刻で表してみるのなら何時何分なんだろうか。

時計など、最近はテレビの右上でしか確認しなくなってしまった。最後に電池を変えたのはいつだったかな。遠い昔の話に感じてしまう。

家を出た私が向かう先は、近所の公園。以前ショッピングモールに行ってみたことがあったが、あれはダメだった。

見渡す光景がただの雑音でしかなかった。その点公園は違う。私のようにくすんだ色も目立つが、それ以上に放たれる輝きが多い。

ただ、決して羨ましいわけではない。あくまで前途は皆平等に多難なのだから。

ならなぜ私はそれを好んで見ているのだろうか。簡単な話だ。嘱望される未来を見ることで、二度と味わえない私がまだ生きていることを実感できるから。それに尽きる。

いつからだったかな。最後に誕生日を意識したのは、何年前なんだろう。そもそも私の誕生日は何日なのだろう。私は何歳生きたのだろう。わからなかった。

公園に着くとベンチに腰を下ろし、賑やかな遊具を見つめる。雨の日は屋根がある場所で別世界のような公園を見つめる。それもまた、私が生きていることを実感できた。

それは毎日のことで、今日は晴れの日だから、賑やかな遊具を見つめ続ける予定だった。しかし、いつもとは違う光景がそこにはあった。


「やぁ、こんにちは」


「こんにちは」


ブックカバーに覆われた文庫本をパラパラとめくっている女の子が、そこには座っていた。あれは確か、近所の高校の制服だったかな。


「高校生かな?」


「そうですね」


小柄な体格は失礼ながら高校生に見えないが、どうやら高校生らしい。しかし私も不用意に声をかけてしまった。セクハラと訴えられなかったからよかったものの。

まったく、何を浮かれているのやら。年甲斐も無い話だ。


「邪魔ですか」


今度は女の子から声をかけられた。乏しい表情と抑揚のない声からは意味があまり察せなかったが、上目遣いから考えるに、私に問いかけているらしい。


「私の方こそ、隣に失礼してもよろしいかな」


「邪魔じゃないですか」


遠回しな返答は通じなかったようだ。しかし、考えてみるとどうもおかしい。まるで、私が座ることは決定事項のように扱われている。

彼女が聞いているのは、彼女がここに居続けることができるかというもの。そんなことは、私が決めることではないだろう。


「ああ、年寄りの与太話にでも付き合ってもらえるとありがたいよ」


「わかりました」


ただ、私が邪魔に思うわけがない。先客は彼女なのだから。それだけを伝えると彼女は再び本に目を向けて、一人分の席を空けるように移動した。


「では失礼するよ」


「どうぞ」


与太話に付き合えと言ったものの、話をするつもりはあまりなかった。私と話したところで彼女にメリットがあるとは思えないのと、そもそも話題が合わないだろう、と。

それでも、隣に温かみがあるという事実は、じわじわと心に浸透してくる。私はそれに心地よさを感じながら、公園に目を向けた。

景色はいつもと変わらなかった。どこからそんな力が湧いてくるのかと思える子どもたちを見る。老い落ちぶれた私との差を考え、まだ考えることができることを噛み締める。

何かがうねっているような、そんな気がした。駆け回る子どもたちを覆う、無色透明の流れ。なぜ見えるのだろうか。それは私だけなのだろうか。そもそもそれはなんなのだろうか。


「ちょいと、お嬢さん」


数年間行い続けてきたが、そんなことは今日が初めてだった。不思議に思う。そ

して普段なら問いかけることもできないが、初めてのことはそれだけではないことを思い出せた。


「はい」


おかしな問いかけに反応した彼女。彼女をも、流れは覆っていた。しかしながら、公園で遊ぶ子どもたちに比べると、比較的緩やかな流れ。これは、彼女も見えているのだろうか。


「あの、流れは……見えているかい?」


「見えています。現象として存在するものですから」


「あれは一体なんなのだろうか」


「時の流れ」


返ってきた言葉は、思いもしなかった言葉。


「あの子はたぶん、いじめられてる子」


彼女が指した子の流れは、他の誰よりも緩やかな流れ。何を言っているのだろう。なんでわかるのだろうという疑問より、早く浮かんできた。


「私の流れはどうですか?」


「……あの子よりは速く、他の子たちよりは遅い」


「それはたぶん、ボーっとしてるから」


「……」


理解が追いつかない。私の質問に対する答えだとはわかっていても、繋がっていないようにしか思えない。


「ボーっとしながらでも、本が読めるのかな?」


「読んでないんです。本なんか」


しかし、やはりこれは会話だった。私と彼女は今会話を行っている。なら、なぜ理解できないのだろう。理解できないのに、どうして彼女の言葉が耳から離れないのだろう。


「私はどうかな」


「今は速いです。たぶん、私よりも」


「……時間の体感は、歳とともに早くなるはずだがね」


「日常ってただのルーチンワークだからね。今何時だと思います?」


ころころと変わる話題についていくのが精一杯な私。ついていくだけで、理解はしていないがね。言葉の一つ一つは、私の心に深く染みこんでいく。


「四時頃じゃないのかな」


「ブー、ハズレ。五時二十分」


「……もうそんな時間なんだね」


「たぶんこれが日常になったら、まだ四時かになるよ、絶対」


それは残念な話だなと、心の底から思った。でも、私にとってはどちらがいいのかがわからなかった。


「どっちがいいですか?」


「どっちでもいいさ」


なぜなら、どちらでもいいから。残念と悪いは別問題。あるがままを受け入れるだけ。生きていることを実感するのはただの贖罪だから。


「同感でーす」


そう言った彼女は、読んでいなかったらしい本を閉じ立ち上がる。


「気が合うね」


「それはどうでしょう」


にべもない言葉に、思わず苦笑してしまう。表情がないだけでなく、愛想もない少女だったらしい。


「では失礼します」


ぺこりと頭を下げて振り返ると、ひょこひょこと小さな歩幅で立ち去っていく彼女は、やっぱり高校生には見えなかった。

年齢を聞くのを忘れていたな。そう思っても後の祭り。子どもたちの門限も過ぎ、静かになっていく公園を見つめる。それはとても冷たく、寂しい気分になる。

しかし、私の居場所はきっとそこなんだろう。重い腰を上げながらいつも思ってしまう。なんだかんだと言っても、私は逃げているだけなのかもしれないな。





「こんにちは」


冬晴れだった前日とは打って変わって、冷たい雨に世界は叩きつけられていた。もう少し寒ければ白銀の世界が見れたのだろう。

あいにく、ここ数年は肉眼でお目にかかったことはない。世俗から離れて久しい今なら、少しは心が踊るのかもしれない。


「昨日は土曜日で、今日は日曜日だったかな」


「昨日は水曜日で、今日は木曜日です」


雨の中をとぼとぼと歩いて向かった先に、彼女は座っていた。私が雨の日に座る場所に、私の分の席を開けて。


「勉強はしておくものだよ」


「要らない。必要ないし、やりたいことに」


「それでもさ。どこで何が必要になるか、誰にもわからないことだからね」


彼女が何をやりたいと思っているのか、知るわけもなければ、知ろうとも思わない。それでも、まだまだ夢のある年頃の彼女には言っておきたかった。


「あなたはどうでしたか?」


「……さぁ? 忘れてしまったよ。昔のことは」


あった。たった一つだけ、ただ一つだけだけれど、勉強しておけばよかったことはあった。しかし、それは参考にならない話。だからお茶を濁しておく。


「認知症じゃないですか?」


「酷い言われようだ」


「行ってるよ、学校は。ただちょっと、みんなとは違うだけ」


何を言ってるのかはさっぱりわからないが、行っているのなら、私の言いたいことはない。学生の本分は勉強なのだから。全うしている子に言うことはなかった。

会話はひと段落つき、彼女は開いた本に目を落とす。私は別世界の公園を見つめる。冷たく寂しい気分。それに浸ることは雨の日の日課だった。

しかし、今日はそこまで感傷に浸れなかった。孤独だった今までとは違って、今日は隣にぬくもりがあったから。


「なに?」


自然とぬくもりを求めていたのかもしれない。きっかけがなかった今までとは違って、今はすぐ隣にあるのだから。

広げた本に目を落とす少女。そう言えば、読んでいないと言っていた記憶があった。確かに、ページをめくる音が聞こえたことはない。


「聞こえてます?」


ならなぜ彼女は本を広げているのだろう。どうでもいいはずのことだが、とても気になった。聞くべくか聞かないべきか迷っていると、本は閉じられた。


「え?」


「いや、見られてたから、なにかなと」


「……あぁ、お嬢さんがあまりに美しいもので、ついね」


「要らないですよ、お世辞は」


美しいとは言いすぎたかもしれないが、中か上かで言えば、中の上はある顔だと私は思うが。目は大きく鼻も高い。顔自体も小さい。

座ると地面につきそうな栗色の髪もよく似合っている。ただ、美しいではない。可愛いといえば、語弊は少なかったかもしれない。


「褒め言葉は受け取っておくものだよ」


「本音なら喜ぶけど、嘘なら傷つけるだけだよ」


「可愛いと言い換えてもいいかい?」


「褒めてないでしょ、それって」


「ご名答」


ふと、時計を見てみる。時刻は五時を指していた。今日も時の流れは速い。憂鬱なはずの雨の日なのに。


「嫌われますよ」


足を振り、勢いをつけてベンチから飛び降りた彼女は、ワンタッチの傘を開きながら、ぼそっとつぶやいた。もしかしたら聞こえていなかったはずの声で。


「誰に?」


「私に」


まったく予想していなかった言葉だった。きっとだからだと思う。彼女に嫌われる。そう考えた時、胸が揺れ動いたような気がしたのは。


「それは悲しいね」


せめて、口先だけはごまかしておく。私と彼女は、お互いに名乗ってすらいない間柄。そしてそれがずっと続く間柄だから。


「以後気をつけるように」


「仰せのままに、お嬢様」


お姫様にしておくべきだったかな。しかし、さすがにそこまで言ってしまうと嫌われていたかもしれない。とっさに出た言葉だが、彼女の様子を見る限り、大丈夫だろう。

……なぜ、嫌われることを拒んだのだろう。名前すら名乗らない間柄が続くことを望んでいるはずなのに。


「よろしい。では失礼します」


悶々としている私に気付いているのかどうかはわからないが、彼女は今日もひょこひょこ歩きながら立ち去って行く。

そう言えば、昨日も五時前後だったような気がするが、門限でもあったりするのだろうか。今時の子供だというのに。

それともアルバイトでもしているのだろうか。あいにく、どちらにしろ経験することはできなかった。

一人になって見つめる公園。しばらくの間そうしていた。……つもりだった。時計に目をやると、時刻は五時十一分を指していた。


「……帰ろう」


私はこれまで、どうやって一日を過ごしてきたのだろう。問いかけられない気持ちは、独り言になって空へと溶けていった。

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