おてんばマリーン
「なあ兄貴」
誕生日が半年も違わない健斗を、俺は「兄貴」と呼んでいた。けれど、本当は俺たちの血は繋がっていない。
母さんは俺が五歳の時に再婚した。兄貴はその相手の連れ子なのだ。そのせいか、健斗は「兄貴」と呼ばれるたびに困ったような笑顔を浮かべる。その反応を見るのが楽しくて、わざとそう呼んでいた。
「兄貴さぁ、覚えてる?」
「覚えってるって、何を?」
とぼけた答えを放った兄貴を、後ろからどつく。
「これだよ、これ」
「……ったいなぁ」
後頭部をさすりながら、兄貴が振り向いた。その位置からでも見えやすいように絵本を顔の方へ差し出した。
兄貴は一瞬眉を寄せたが、すぐにあぁと声を漏らした。
「随分と懐かしいモンを引っ張り出してきたんだな」
「机の周りの片付けしてたら出てきたんだ。覚えてるだろ、この絵本」
日に焼けた上にすり切れていて題字はもう読み取れなくなっている。けれど、俺はその本のタイトルをしっかりと覚えていた。
『おてんばマリーン』。
何度となく母さんに読み聞かせをせがんだ本だ。
何より忘れられないのは、その絵本の主人公マリーン姫のネックレスだった。緑の石がはめ込まれたそれは、母さんが持っている翡翠のネックレスにそっくりだったのだ。
だが、母さんのネックレスはなくなってしまった。いつのことだったかは定かでないが、当時の母さんの落ち込みようといったらなかった。落ち込んだ姿だけはしっかりと脳裏に焼き付いている。
「懐かしいよなぁ」
二人で額を突き合わせ、絵本を覗き込みながらページをめくった。その瞬間、急な眩暈に襲われた俺は絵本の上に突っ伏した。
「何だよこれ!」
兄貴の悲鳴にも似た怒鳴り声に、慌てて顔を上げた。そこまで酷く本が破損していたのだろうか。兄貴の手元を覗き込もうとして、体が固まった。
風景がおかしい。色は全て単色で、奥行きも感じられない。まるで絵本の中のような……。
「アナタハ誰?」
機械のようなぎくしゃくした高い声が飛んできた。何事かと声の主を探すと、風景と同様に平面の女の子がいた。何度となく眺めてきたマリーン姫その人だった。
マリーン姫は記憶の中の姿よりも質素な姿をしていた。ともすれば滑稽にも見える。子供たちにわかりやすいように「お姫様」らしさを表す記号であるドレスとティアラを身につけているのだが、のっぺりとした印象のそれらは逆効果を発揮しているようだ。
「アナタハ誰?」
再度マリーン姫が問いかけてくる。
俺たちは顔を見合わせた。絵本の世界に入り込んでしまったとでもいうのだろうか。呆気にとられている間にも、機械のようなお姫様の声は繰り返された。感情のない声が恐怖感を煽る。
「俺は智紀」
「僕は健斗だ」
「ソウ。私ハまりーん。ヨロシクネ」
器用に顔のパーツを動かして、姫が笑った。絵本で見ていれば何の違和感もない動きなのだろうが、目の前でそれが行われると気味悪くすら思えてしまう。
「私ネ、ねっくれすヲ無クシテシマッタノ。一緒ニ探シテ」
そういえば、絵本の内容もそんな感じだった。ネックレスを紛失したお姫様が、その日行った場所を順に辿る。そこで出会った人や動物たちにネックレスを見かけなかったかと聞いて回るのだ。
確か結末は……。
「なぁ兄貴、この絵本の最後って何だったか覚えてるか」
そこだけ靄がかかったようになって思い出すことが出来なかった。それは兄貴も同様だったらしく、難しい顔をして首をかしげていた。
思考の海に沈む俺たちをよそに、平面のお姫様は森の方へと動き出していた。足を動かさず滑るように移動する様は、幽霊を思わせる。
俺たちも導かれるように幽霊のような姫様の後に続いて森へ向かう。怖かったのは、遠くの景色が黒く塗りつぶされていることだった。きっと、絵本に描かれていない部分は存在しないということなのだろう。
森の中で、マリーン姫はウサギやフクロウに声を掛けて回った。その間も俺たちは記憶の奥底にあるはずのネックレスのありかを求めて思考を巡らせ続けた。
どうやら、ここでの俺たちの役目はお姫様の後ろをついて歩くだけらしい。おかげで考える時間だけは十分にあった。
森を一回りしたお姫様は、疲れた様子を一切見せずにお城へ向かう街道を進んだ。時には道のわきにある畑で作業をしている農民と思わしき人たちに、ネックレスを見かけなかったかと尋ねている。
答える農民も、マリーン姫と同じように機械のような声で話した。当たり前のように感情のこもらないやり取りが行われているため、自分たちの方がおかしいのではないかという錯覚にとらわれた。
城下町の露店にも立ち寄り、ネックレスの目撃情報を探したが、やはり知っている人はいなかった。
心なしか落胆した様子のお姫様が、俺たちの方へ振り返る。よくよく思い返してみると、マリーン姫が俺たちのことを見たのは初めて会ったあの時以来だ。
「ゴメンナサイ。セッカク手伝ッテクレタノニ、見ツケラレナカッタ……。今日ハオ城ニ泊マッテイッテ」
どうして謝られたのかはわからなかったけれど、俺たちはお姫様について城へ向かった。
お姫様や周囲の風景と同様に平面にしか見えないお城の内部は、外見よりも酷いありさまだった。廊下が途中で途切れて、漆黒の闇が口を開けているのだ。おかげで通ることのできる通路は限られていた。
「ココガアナタ達ノ部屋デス」
そう言って通された部屋には、驚いたことに俺たちと同じ三次元の“人間”がいた。十代の少年少女が五人いる。誰もが瞳に絶望の色をたたえていた。
「ようこそ、終わらない悪夢へ」
眼鏡をかけた、いかにもガリ勉といった風な少年が嘲笑気味に告げた。
「どういうことだよ」
「どうやら、お姫様のネックレスを見つけるまでここから出られないらしいんだよ。おかげで、僕はもう三週間もここにいる」
「おてんばマリーン探し物
どこどこ消えた、ネックレス」
兄貴が突然歌い始めた。部屋にいた人たちは、ぎょっとして兄貴を見つめる。
「ふざけた歌なんてやめて探しに行こうぜ」
袖を引いて歌をやめさせようとしたが、兄貴は至って真面目な顔で歌い続けていた。
「外に出る分には勝手だけど、切れ目には気を付けるんだな。あそこへ入ると他の切れ目へ飛ばされる」
ガリ勉が眼鏡を押し上げて笑った。その視線は明らかに兄貴に向けられていた。
「お兄さんは頭がおかしくなってしまったんじゃないのかい? 邪魔になるならここに置いていけばいいさ。ここに居るうちは死ぬ危険もないようだしね」
「いや、俺は兄貴と一緒に行く。貴重な情報ありがとな」
吐き捨てると、俺は部屋を出た。兄貴も俺の後ろをついてくる。顎に手を当てて、歌詞の続きを模索しているようだった。
「智紀、覚えてないか」
「知らないよ、そんな歌」
「知らないはずないだろ。絵本の仕掛けを動かしながら母さんが歌ってくれたんだから」
そこまで言って、兄貴はハッとしたように顔を上げた。きっと、兄貴の言う「母さん」は本当の産みの親のことなのだろう。
兄貴の表情からそれを悟って、気まずい沈黙が生まれた。
「果物のカゴ?
窓の外?
いやいや引き出しの三番目」
俺の口から歌の続きが流れるように出てきた。兄貴がマリーン姫の絵本を見ながら歌っていた変な歌を思いだしたのだ。
「引き出し? ……三番目。あ、あそこだ!」
言うが早いか、兄貴は駆け出していた。俺たちが通された客間からすぐの、マリーン姫の部屋に飛び込む。
頬に青い丸を付けたお姫様が俺たちを出迎えた。頬の丸が涙だと気付くと同時に、マリーン姫の前にある小物入れが目に入る。
小さな箱が三つ積み重なったようなデザインの小物入れの、一番下の段を開けた。すると、そこには翡翠の石がはめ込まれたネックレスがおさめられていた。それだけが妙にリアルで、母さんがなくしたネックレスそのもののようだった。
「アラ、ソンナ所ニ?」
おてんばなマリーン姫は目をぱちくりさせると、涙が消えて笑顔になった。
「アリガトウ。コレデ私ハ幸セ」
はじけるような笑顔とはよく言ったもので、マリーン姫の笑顔によって周囲が眩い光に包まれた。どうやらこれで悪夢の世界から抜け出せるらしい。
クスクスと笑う声で目が覚めた。気が付けば、兄貴と二人寄り添うような形で眠っていたようだ。
「あなたたちは本当に仲がいいのね」
俺は母さんの言葉を否定しようと兄貴を叩き起こした。すると、兄貴の手から何かが滑り落ちる。
それは、翡翠のネックレスだった。
どこからどうやって手に入れてきたのか、母さんがなくしたはずのネックレスは戻ってきた。代わりに、『おてんばマリーン』の絵本はどこを探しても見つけることができなかった。