まだ、プロローグ
昇ってきた冷たい風が、潮のにおいを運んでくる。
日曜の昼下がり。街は静かで、遠くから微かに、波の打ちつける音が聞こえてくる。
ぼくは筆を止め、コートの襟元を首に寄せると、眼前の――眼下の景色に目をやった。木々の緑は所々、暖色に変わりつつある。ひっそりと佇む住宅街の中を、赤い車が一つ、右手から左手へと横切るように、走っていくのが見えた。その向こう、海岸線には白い泡と、揺れる船が見える。
鈍色の日本海が、海岸線の向こう、地平線の彼方まで、広がっていた。
空は、眩しくて透明な水色。そして、ぼくの頭上。遥か上空には――
“つばさ雲”が、広がっていた。
今年で二十歳になったぼくは、東京に出て、美大に通っていた。でも、あまりに天気が良いので、衝動的に学校をサボって、ここに帰ってきてしまった。
毎年、そうなのだ。どうしても秋に帰ってきたいのに、どうして秋休みがないのか。だからぼくは、学校をサボる他になくなってしまう。
なんせ、天気が良くないといけない。中学の時に一眼レフを買って、それから何年にも渡って写真だって撮ったのだ。この景色に関しては。どこに行ったって、この風景が描けるように。一生、この景色を描いていこうと、決めたのだ。あの日に。
何百枚目かの(数え切れなくなってしまった)、『街の絵』を描いていた。今回は、シンプルに油絵だ。油絵で描くのももう、何度目か覚えていないが、今回はやはり、いいものになる気がする。なんせ、本物を見ながら描いているから。東京で描いたものより、きっといいものになる。
絵描きで一生、生きていきたい。あの日そう決心した時、ぼくの安定した漁師としての未来は消え去った。それと同時に、感じたことのない不安もやってきた。彼にああは言ったけど――彼はああ言ってくれたけど、絵描きで一生生きていくだなんて……そんなこと、可能なのだろうか。どうやって生活していく……? 世界中でどれだけの人がそんな夢を持って、叶う人はその中で、何人いるんだろう。「夢は必ず叶う」って言う人は決まって“夢を叶えた”人で、叶わなかった人は何も言うことができないんだ。……“夢を叶える”という口にするのは簡単なことが、実はとてつもなく難しいことであることは、子どもだったぼくにもわかった。
でも、決心はゆらがなかった。絵に対する情熱は冷めるどころか、勢いを日に日に増した。新しい景色やモノを見るたびに、新しい画法を学ぶたびに……。それはぼくの中で、マグマのようにグツグツ燃えた。
高校三年の時、いよいよ両親に話した。あれ以来、初めて口にした夢。
母は、気付いていた。少し残念そうな顔だったのは、もうどうしようもないことを知っていた、諦めの顔だったのだ。
でも、暗くはなかった。不安七割、笑顔三割の顔で、「がんばりなさい」と言った。
父は、「お前の将来は、お前が決めるんだ」と、あの日と同じ顔で、同じことを言った。
でも、本当は漁師になって欲しかったに違いない。一緒に海に出て、教えたかったこともたくさんあっただろう。でも、ぼくも父がそれを望んでいると知っても、選択を変えることはできようがなかった。
街の風景は、あれから少しだけ、変わった。大きなショッピングモールができた。小学校は、耐震工事のために立て直された。
でも、海は相変わらず大きくて、空は青くって、秋がきた。
イーゲルに立てかけさせたキャンバスに、“つばさ雲”の白を塗りたくっていると、ふいに視界の端に、何かが映った気がした。
崖の切っ先に立ち、スーパーマンみたいに腰に手をあてた、ベージュの半ズボンに浅黒い足。
ハッと、そちらを見る。
――もちろん、そこには誰もいなかった。
なんだか笑ってしまって、いつかの日と同じようにベンチに座り、いつも彼が立っていた場所を見た。
そして、記憶の中にある彼の幻影を、そこに投影する。――確かにあの時、そこに彼はいたんだ。
ぼくはふと思いついて、その幻影を、二十歳の青年に成長させて見た。相変わらず頭はツンツンで、肌は浅黒いけど、逞しい。
きみは今、どこにいる……。まだ日本にいるだろうか。それとも、もう世界のどこかに、旅立ってしまったのだろうか……。
ぼくは更に、成長した彼の幻影に、つばさを付けてあげた。全体が黒く、根元だけが白い。大きくて、どこまでも飛べる。いつか図鑑で見た、大鷲のつばさだ。確かあれは、渡り鳥だったはずだ……。
しなやかで、なめらかで、それでいて、力強くて……それさえあれば、どこまでだって飛べる……。
最近、空想が過ぎる。リョウヘイ。ぼくは最近、こんなことを、考えるんだ。
ぼくはリッパな絵描きになって、世界中で個展が開けるようになるんだ。それでヨーロッパのどこかの、海が見える綺麗な丘にある、真っ白な素敵な建物で、ある日、個展を開くんだ。
ぼくももちろんそこへ行って、向こうの人たちとお話をしたりなんかする。「いい絵だね」なんて言われて、ぼくもまんざらでもない顔をして、「ありがとう」って言うんだ。
するとそこに、一人の旅人がやってくる。ぼくは何百枚目かの気に入った『街の絵』を一番目立つところに飾るから、きみは気がつくんだ。
「この風景は……!」……なんてね。
それでぼくは、ほほえみながらその旅人に近づいて、右手を差し出す。すると旅人もパァーっと笑顔になって、ぼくに右手を差し出してくる……。
……子供じみた、恥ずかしい空想だろう? 「冷めた子ども」だったあの時のぼくなんかに、こんな話聞かれたら、鼻で笑ちゃうかな……。
……でも、無理だろうか。
ゼッタイこんなの叶わない、夢、空想なんだろうか。
ねぇ、きみはどう思う?
『そんなことない‼︎』
……よね。