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 彼の転校する日が、決まった。


 それは、十二月の下旬。冬休みに入る為の終業式の日が、彼の最後の登校日となることが、十月の終わり頃、決まった。浄鐘寺の修繕に、終わりの目処めどが立ったのだ。


 学校でそれが発表される前日。ぼくはいつもの公園で、彼に直接、それを聞いた。


 彼はそれを、世間話をするみたいにさらりと言った。


 木々が染まりきる前に空と海を描いてしまおうと、青い絵の具を出していた僕は、チューブを絞る手を止め、固まった。


 彼の顔を見ると、なんともない、普段と同じ顔をしていた。



「まぁ、まだもうちょっと、先の話さ」



 ぼくは、そうとは思えなかった。十一月になっていた。彼と過ごすことのできる時間は、もうあと一ヶ月ちょっとしかない。


 ようやく彼を「リョウヘイ」と呼ぶのに、違和感を感じなくなっていた頃なのに。彼と雪合戦をするところや、ぼくが桜の絵を描く横で、彼がそれを見ているところだって、想像したのに。


 その日はなんだか一日中ぼんやりしてしまって、絵はあんまり進まなかった。彼の話に相槌を打つので、精一杯だった。




 十一月の半ばに入って、ぼくはいよいよ焦り始めた。十二月の中旬、彼が行ってしまうその日までには、絵を完成させなければならない。


 その日も、僕は公園で絵を描いていた。街の、細かい部分に筆を入れていた。一番小さい筆で、筆の毛一本一本に気を使い、慎重に色を塗っていた。


 彼はというと、崖の切っ先に近づいて、腰に手を当て景色を見ていた。彼曰く、そこからの景色はいつまで見ていても飽きないのだという。



 ――すると、後ろから喧騒が聞こえてきた。学校で毎日聞いている、変声期前の男子がじゃれ合う声だ。


 イヤな予感がした。


 今までここに誰かが来たことなんて、(リョウヘイ以外に)なかったのに……。それも、こんな日に限って……! 彼らがこちらに気付きませんようにと、祈った。


 しかし、その祈りは数秒後、虚しく裏切られた。



「あれ、マコトじゃん」



 男子の内の、一人が言った。



「テンコーセーもいる」



 徐々に近づいてくる彼らの気配が、声で、足音でわかる。彼らが四、五人の集団であることは、容易に想像できた。ぼくはそちらを振り向く前にチラリとリョウヘイに目をやると、彼はもう振り向き、なんともない顔で後ろの集団を見ていた。


 いよいよ決心して振り向くと、そこにはクラスメイトがいた。どこのクラスにも一人はいる、昔で言うところの“ガキ大将”タイプが一人と、その取り巻き。


 悪いことばかりして、いつも大人に怒られて、呆れられているような奴らだった。ぼくはいつもそいつらのことを、心の中では見下していた。そして、関わらないようにしてきた。


 そんなヤツらが、そこにいた。



「なにしてんの? マコト」



 最初にぼくを見つけた、背の低い男子(たしか、田島とかいう名前だった)が甲高い声で言った。


 みんな揃いも揃って、ニヤついた笑いを口元に浮かべていた。



「絵を描いてる」



 すんなり言ったつもりだったのだが、妙に声がうわずってしまった。



「へぇ」



 田島が首をひねって、スケッチブックを覗き込む。



「見せろよ」



 そう言ったのは、先述の“ガキ大将”タイプの男子、佐竹さたけだった。


 まわりの子やぼくと背丈や体格はさほど変わらないのに、妙に落ち着いていて、声も低い。


 田島が、ぼくの手からスケッチブックをひったくった。「アッ……」思わず、ぼくは声を漏らす。絵の具が、渇いていなかったのだ。


 スケッチブックが佐竹の手に渡ると、彼は乱暴にページをめくった。取り巻きが彼の後ろに回って、覗き込む。


 そこには街の絵や、図鑑を見て描いた、動物や風景のラフスケッチがあったはずだった。


 ハラハラしながら見ていると、彼らが口々に言った。



「どーよ」



「うまいじゃん」



「そうかァ?」



「普通だろ」



「オレだってこんくらいヨユーで描けるぜ」



「ハッ。ヒデェー!」



 アハハハハ!



 ――僕はたまらなくなって、言った。



「返してよ!」



 その声は自分でもビックリするくらい大きくて、自分で言っときながらドキリとした。



「え、絵の具が、渇いてないんだ……」



 恐る恐る言いながら、彼らを見やると、彼らの顔色が変わっていった。



「……ハァ?」



「なんだよ」



 ギロリと、こちらを睨めつける。


 特に、佐竹の目はこわかった。取り巻きと違って睨みつけるような目をしているわけではなく、普通にぼくを見つめる瞳が、こわかった。


 両手に持つスケッチブックが、人質の役割を果たした。ぼくは、何も言えなくなった。



「かえせよ」



 後ろから、声がした。


 言ったのは、リョウヘイだった。



「絵の具が渇いてないんだって。マコトが言ってんだろ。乱暴にさわんな」



 ……かえせよ。



 佐竹に負けず劣らず、こわい目で言った。


 得体の知れない転校生が強気で言うので、取り巻きはヒいた。佐竹だけは、動じなかった。


 にらみ合いが、数秒続いた。ドキン、ドキン、という、自らの心臓の音を聞いているぼくにとっては、長い時間だった。


 すると、佐竹はぼくを見た。



「……絵ェ描くの、そんなに楽しいかよ」



 一瞬何を問われているのかわからなくなったが、ぼくは頷いた。


 佐竹はつまらない冗談を鼻で笑うみたいに「フン」と鳴らした。



「……くっだんねー。一生描いてろバーカ」



 そう言うと、スケッチブックを地面に叩きつけた。踵を返して、行ってしまう。取り巻きは慌てた様子で、後を追う。



 ぼくはというと、ショックで立ち尽くしてしまった。リョウヘイが先に動いて、スケッチブックを拾ってくれた。


 彼はそれを手で払い、砂埃を落とすと、僕に差し出した。


 ぼくは、ショックからいまだ立ち直れずにいた。人と関わることを極力避けてきたぼくにとって、それは初めて負った、心の傷だった。


 馬鹿にされることで初めて、ぼくは絵を描くことが好きで、どれほど大切なものなのかを、思い知った。


 緊張から解放されたのもあって、恥ずかしさも感じることなく、泣いた。



「アイツら、自分がなにか熱中できるものがなくて、他の人を馬鹿にすることしかできないんだ。人を思いやる気持ちだって、持ってないんだ。かわいそうなヤツらだよ」



 リョウヘイは小さな声でぼくをなぐさめ、ベンチに誘った。海側を向くと、夕陽が眩しかった。ビュウと風が昇ってきて、ぼくの頬を撫でた。


 涙のわだちが、冷たくなった。


 彼の言葉を聞いて、少し前までのぼくもそうだったと、気づいた。一生懸命何かに打ち込んだって、何になる……? 冷めた目で、全てを見ていた。


 でも、違ったんだ。みんな、“好き”だから一生懸命で、楽しくてやってんだ。


 馬鹿になんか、しちゃいけなかったんだ。



「……ぼく、自分で思ってたより、絵を描くことが好きだったんだ……。アイツらに馬鹿にされて、初めてそれに気がついたんだ……」



 うん、と頷いて、「わかるよ」と、彼は言った。横目で見ると、彼の瞳がやはり、輝いていた。



「おれ、実は夢があんだ」



 彼はぼそりとそう言うと、人差し指で鼻をこすった。



「世界中を旅したいんだ。そんで世界中の、いろんな景色を見たいんだ。転校をいっぱいして、いろんな景色を見て、思ったんだ。まだまだ、もっと見たいって……! それが、おれのしたいことなんだって」



 ぼくは彼の顔を見ながら、うん、と頷く。



「やりたいことを、やるべきなんだ」



 『だって、人はいつか、必ず死ぬから』。いつか彼が明るい顔で言った言葉が、ふいに頭に浮かぶ。



「だから、マコトも絵を描くのが好きなら、誰に馬鹿にされたって描くべきなんだ。だって、絵を描いてる時のマコト、ほんと集中してて、一生懸命! って感じがするぜ」



 こちらを見て、イヒヒ、といった風に笑う。


 ぼくもつられて、笑った。




 スケッチブックを開いて絵を確認すると、絵の具が少しかすれていた程度だった。



 完成させなければ。そう、強く思った。

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