リョウヘイ
彼と公園で初めて出会った次の日。挨拶は交わしたものの、彼は学校にいるうちはぼくにあまり話しかけてこなくって、図書室で借りてきたと思われる世界の風景を撮った写真集を眺めていた。
でも、学校が終わると、
「なぁ。今日もあの公園、行く?」
と声をかけてきた。ぼくが「うん」と答えると、
「じゃあ、おれも行く」
そう言って、駆けて行ってしまった。
ぼくが画材一式持って公園に行くと、彼はもう先に公園にいた。ベンチに座り、片手を上げて挨拶をよこす。
「よう」
「うん」
ぼくがベンチのいつもの定位置に座ると、彼が言った。
「今日も絵ェ、描くんだろ。おれ、それを見てるから」
「な、なんで?」
「だっておまえ、絵ェうまいもん。絵ェ描いてるとこ見るの、おもしろい」
そんなことないから……と返事しつつも、ぼくはやっぱり、まんざらでもなかった。少し緊張しながら、下書きの続きを始める。
まだ気温は高く、秋の気配はまだ感じられなかった。木々の葉も青々としていて、蝉の鳴き声が三百六十度から聞こえた。天気は良く、気持ちのいい青空が広がっている。五枚目の『街の絵』は四枚目の『街の絵』と同じく、夏の風景。色鉛筆で描いたものと水彩絵の具で描いたものを見比べるのが、今から楽しみだった。
しばらくは集中して描いていたのだが、ぼくはなんとなく落ち着かなくって――また沈黙に耐えきれなくって、気になっていたことを聞いた。
「……ねぇ、リョウヘイくん」
「“くん”はヤメロって! なんかヤダ!」
見ると、苦い抹茶を飲んだような顔をしていた。
「リョウヘイでいいよ」
「リョウヘイ……」
なんだかぼくもしっくりこなかったけど、作業を続けながら、話を続けた。
「転校、何回もしてるの?」
「うん。そりゃあもう。数えるのもメンドクサイくらいしてる」
「……なんで?」
「父ちゃんとじいちゃんが、宮大工ってのしてんだ」
(ミヤダイク……?)直接声には出さなかったが、おそらくその時のぼくの顔には疑問が表れていたのだろうと思う。
「宮大工ってのは、お寺とかを修理する大工なんだ。ホラ、そこにお寺があるだろう」
彼は山頂を指差した。そこには、浄鐘寺がある。
「父ちゃんは今、そこの修理をしてんだ。そこの寺を直したら、次の寺に行く。そこをまた修理したら、また次の街に。そんな感じで、いろんなとこに行くんだ」
ぼくは納得しつつ、素直に思ったことを言った。
「そっか……大変だね……」
その声は、きっと同情に溢れていたと思う。
転校先で友人を作っても、仲良くなった頃にはすぐ転校。学校行事に参加するにしたって、思い入れの無い学校の行事にどんな思いで臨むのだろう。そんなの、誰だって嫌なはずだ。そう思った。
でも、彼の返事はぼくの予想を裏切るものだった。
「……マコト。たぶん勘違いしてるだろうから言っとくけど、おれは父ちゃんについて行くことを、自分で選んだんだ。……だって、楽しいから!」
驚くぼくを横目に、彼は続けた。
「じいちゃんの実家にばあちゃんが住んでるから、そこに残ることだってできたんだ。転校ばっかしなくたってな。あっ、もう一つ勘違いしてほしくないのは、別に父ちゃんが好きで、離れたくなくってついて行っている、ってわけでもないってこと。……まぁ父ちゃんのことはもちろん嫌いじゃないけど……。まぁつまり、おれはね。いろんな街が見たくって、いろんな景色が見たくって、父ちゃんについて行くとそれが見れるから、ついてってんだ」
彼は頭をぼりぼり掻きながら、「おれって説明すんのヘッタクソだな……」とぼやいた。
でも、ぼくはなんとなく理解した。彼の、言わんとしていることを。
「つまり……転校するのを楽しんでいるんだね」
「そうそう! そういうこと!」彼はぼくの発した言葉を示すように、指差しながら言った。
「……でも、最初はただ、小さかった頃は父ちゃんと離れたくなくって、それでついて行ってたんだ。その時はやっぱ、ちょっとイヤだな、って、思うこともあった。でも、母ちゃんが昔言ってたんだ。『何事も、気の持ちようなのよ』、って。最近になってやっと意味がわかったんだけど、それって『どんなことも、おれの感じ方しだい』、ってことなんだよな。『悲しい』って思えば『悲しい』し、『楽しい』って思っちゃえば、『楽しい』」
彼は目の前の景色に見惚れるような表情で、続けた。
「父ちゃんについて行ってなかったら、この景色だって見れなかったんだもんな……」
その瞳は、海や空や太陽の光を吸い込んで、きらきらときらめいて見えた。
「……うん、やっぱ、楽しいよ」
ぼくは、その言葉に力を感じた。
彼は、自分の置かれた状況を、意識して楽しんでいる。楽しもうとしている。普通の人間であれば、悲しむしかないような状況を。
この街を出たことのないぼくにとっては、想像も出来ないことだった。――もしぼくが、彼の立場だったのなら。……どうだったのだろう。
「人生、楽しまなきゃ損なんだ」
うん、と頷きながら、まるで自分に言い聞かすように、彼は続ける。
「だって、人はいつか、必ず死ぬから」
なんとも明るい表情でそう言う彼を、きっとぼくはなんとも言えない表情で、見ていたのだと思う。
それまで世の中を達観していたぼくは、彼の持つ、つよい人生観に、惹かれた。
周りの状況に身を任せるも、逆らって暴れることなく、諦めることもなく、ただ楽しんでいる。
……ぼくはどうなのだろう。父の跡をついで漁師になることを、好ましく思うことも嫌がることもなく受け止め、ただその日が来るまで、暇つぶしばかりして過ごしている毎日。
楽しむ彼と、ただ待つぼく。
――。
その日の夜は、なかなか寝つけなかった。