ボヘミアン・ラプソディ
この作品はあるゲーム会社へのシナリオライター応募のために書きあげたものです。
とにかく、せつない、を前面に押し出そうとプロットもなしに書きすすめた結果がこれだよ!\(^o^)/
正しい小説の書き方などをワザと守っていない個所が多数あり、お見苦しいかと思います。
ゲームシナリオと小説の中間、と言った意識で書いたものですのでどうかご容赦ください。
いったいぜんたいどうして僕はこんなにも恵まれないのだろう、だなんて考えるだけ無駄だよね。だって僕より恵まれない人たちを僕らはテレビの中だったり橋の下の段ボールの中だったりで結構目にすることができる。あぁそれにしても報われないなぁ。何をがんばったわけじゃないし、特別な代償を支払った記憶もないけれど他人にここまで貶められるようないけないことをしたつもりだって更々ない。だけど世界は時として残酷なんだ。特に僕のような適応力のない人間は、群衆の中にあってその中の下卑た存在に仕立て上げるには格好の的になるんだ。
あぁ、報われない。というか痛い。だいたい連中は加減というものを知らなさすぎるんだ。腹や背中を殴られる痛みは意外なほどすぐに消えてなくなるけれど、顔をああまで殴られちゃそうはいかない。試しににこりと笑ってみると左の頬がうまく動いてくれない。今僕はおもしろい顔をしているんだろうなあ、どれ鏡でも覗いて一人で笑ってやろうかなんて考えたけれどさすがにつらいよね。第一僕は鏡なんて持ってないし。
でも連中は何やかやと言っても甘いんだ。僕はもう殴られることには慣れてしまったし。鞄の中の文庫本やらMDプレイヤーやらに手を出されたらかなりダメージを受けると思うけれど。痣を作る理由だってボクシングをしている、って嘘を付いているからお母さんにはばれっこない。というかお母さんは本当に僕がボクシングみたいなハードなスポーツをやっているって信じているんだろうか。これだけ毎日のように殴られたり蹴られたりしていると、進んで人と殴り合うなんて考えられないなぁ。まぁ僕の場合は一方的に殴られてばかりいるんだから一度人を思い切り殴ってみたら少しくらい考えは変わるかも知れないけれど。
小高い丘から見下ろす街はここからでもその喧騒が伝わってくるようだ。さっきまで僕を殴るなり蹴るなりしていたやつらも、今頃はゲームセンターかどこかで、バカみたいな顔で笑いながら遊んでいるんだろう。蝉の声がやかましいなぁ。僕がここに来るのは大抵こうしてぐしゃぐしゃのぼろ雑巾みたいになった後なんだけれど、それなりに気を使ってほしいものだ。もしかしたら僕を励ますためにミンミンと合唱をしているのかも知れないけれど、僕にしてみたら、もう少しだけひそやかにやってくれた方が癒しの効果もあるかもね、と言った感じだよ。
ポケットから煙草の箱を取り出してみる。別に不良にあこがれたわけじゃないけど、一本吸ってみればあの連中の、桜島の大根みたいに図太い神経になれるかも、なんて思って買ってみた。それはもう3か月も前の話だけれどさ。箱の中にはまだ半分くらい、茶色いフィルターのタバコが入っている。一日に3箱吸う、だなんて話を聞くけれど僕は一か月で3本吸うのが限界だね。だいたいなんで好き好んで煙を吸うのかがよく分からんのだよね。確かに、ぷはーってやってるあれを見ていると、さぞかし気持のいいことをしているんだろうなぁ、何て思わないでもないけれど実際にやってみるとそんなにうまくはいかないものだね。喉は痛いし口の中はべたつく。だけど僕はめげずに吸ってみる。火をつける瞬間はカッコいいよね。僕なんかがやっていてもそれなりにかっこいいんだろうか。あぁ、やっぱり不味いなぁ。反吐が出る。でもこんなことでもしなきゃ僕は明日からまた平気な顔をして学校に行くことができないよ。案外、いじめられっこは陰で、学校に通い続けられるように日々努力を惜しまないようにすべきなのかもしれないね。ほら、こうして少ない自尊心が底をついてしまわないようにするためにさ。
立ち上った煙が空の上の分厚い雲に溶けて消えていくのを眺めていた。いっそのこと僕も一緒に空の上まで連れて行ってくれないかなぁ、なんて思ったけれどその考えがくだらなくて、それでいてなんて理想的な展開なんだろうと思って笑えた。ばらばらになった僕の体が風に舞いながらゆらゆらと天に昇って行く様を、街の人たちが「あぁきれいだなぁ」なんて言いながら眺めるんだ。きっと僕は得意な気持になってしまって手でも振ってやろうかと思うんだけど、そういえば手はどこへ行ったんだろう、あれあんなに高くに上ってしまったなぁ、なんて思って一人で笑っているんだろう、きっと。
丘を下って街へ出る。大きなガード下の薄暗い空気。なんだかこう、淀んでいるよね。心からそう思う。太ももを蹴られたから少しだけ歩きにくい。しょっていたリュックからMDプレイヤーを取り出してイヤホンをつける。
『I sometimes wish I’d never been born at all』
ははぁ、普段ならなんてこともない歌詩もこんな風に聞いてみるとうまく僕を励ましてくれるよね。いっそのこと生まれてこなければよかった、だなんて逃避の言葉にすらならない。だって僕はもうこの混沌とした世界に生まれ落ちてしまったのだし、どうせなら誰か僕を痛くないようにして殺してください、ってな感じだよ。足音が不気味に響いて僕は少しだけ立ち止まる。振り返っても誰もいない。誰もいない。
夜の街は派手なネオンと、酔っ払いがくだを巻く声が混ざり合った、僕にとってはとても居心地の悪い場所だ。何がそんなに楽しくて笑っているのか分からないよね。世界はこんなに不条理に満ちているっているのに。あ、なるほど、その不条理さゆえの感情の格差とでもいうやつが僕と顔を真っ赤にした酔っ払いとの間に生じているんだね。そう思うと僕の気持ちが沈んでいて、その他の人たちが楽しげに笑っているって言うのも説明がつきそうだ。すべてはこの世の不条理から来るのもだったのだね。これは興味深い。いっそのこと論文でも書いて総理大臣にでも送りつけてやろうかしらん。もしかしたら僕の論文から研究が進められて、この不条理さを取り払う、言うなれば世の中清浄機なるものが登場するかもしれない。そうなればいいなぁ。そうなれば僕も、この汚れた繁華街で声を張り上げて笑えるようになるのだろうか。
駅まで近道をしようと思って通った裏路地で、50歳くらいのおじさんと高校生の女の子が手をつないで歩いていた。もしかしたら親子かもしれないけれど、もしあのおやじが女の子のお父さんだとして、誰も見ていないからと言って娘の尻を撫でまわすのはいかかがものか。まぁ僕が見ているんだけれど。それでいいのか日本人。だからつまりあれは援助交際なのです。援交は文化です、とエロい人が言ったような気がするけれど、何か間違っているような気もする。ともあれ僕はなるだけ足音をたてないように、高いお金を払って女の子を買ったおじさんが金額相応の楽しみを得ることを邪魔してはならぬ、といった感じでそろそろと歩いた。
やがて路地を抜けようかといったところで、大通りに面したラブホテルに裏口から入って行く女の子の横顔は、いらだちと諦念の入り混じった複雑なものだった。可哀想に、とは思わない。女の子のそれは代価を得た上での代償なのだ。決して、僕のように一方的な行為によって傷つけられるものではない。その分彼女は僕よりは幸せだ。そして僕は、援助交際に手を染めた少女よりもみじめな人間なのである。
家の明かりは消えていた。母さんは仕事だろうか。男とどこかに行っているのかも知れない。僕は自宅がたまらなく嫌いだ。それは大体が母さんのせいであると僕は思っている。
もしもこうして帰ってきた時に母さんが家にいたなら、開口一番ヒステリックな叫び声を浴びせられるだろうし、それよりももっと嫌なのがこうして一人きりの家で時間を過ごすことだ。母さんがいなくてホッとするっていうのに、一人でいるのが寂しい、だなんてお笑いだよね。本当にどうかしてる。人の親とは思えないくらいに傍若無人な母親でも、やはり僕にとっては唯一の肉親だ。心のどこかでは、そんなもの糞くらえ! と思っているんだけれど、やっぱり大切なものなのかもしれない。なんやかやと言っても僕はまだ子供だね。どうしようもなく無力なんだ。
散らかり放題のキッチンのテーブルには、鍋で調理するタイプのインスタントラーメンが一つ置いてあった。
普通なら手料理にラップをかぶせるだとか、『夕飯は冷蔵庫に入ってるからレンジでチンしてね』とかいうメモがあったりするものなんだろうけど。
そういえば、電子レンジを使うことを「チンする」というのはいささか幼稚すぎる表現だと思うけれどどうだろう。流しの下から鍋を取り出してすすぎ、適当に水を張って火にかける。
出来上がったラーメンは少しだけ味が濃すぎた。
熱いシャワーを浴びると、傷口がひどく染みた。一番みじめになるのはこの瞬間かもしれないね。なんだか自分でも自分をいじめているような気持になる。
髪を乾かしてベッドにもぐると、ちょうど母さんが帰ってきた。
「ただいまー。っははは! ちょっとー! 寝てるのー? っはははは!」
完全に酔っぱらって笑い上戸になっている母さんは手がつけられないので僕は狸寝入りを決め込んだ。少しだけ騒がしくなった家の空気をひとつ吸いこんだら、不思議なくらいあっけなく僕は眠りに落ちた。
いつものように近道をしようとしただけだった。それだけだったのだけれど、どこかで運命の歯車ともいうべき何かが狂っていたのかも知れないね。いつもよりもたくさん殴られたからかもしれない。入り組んだ道のさらに裏。工場群の建ち並ぶ、うらぶれた地区の細い路地。
とにかく、それは起きた。
否、起きていた。
「ハッ、ハッ、ハッ………」
獣じみている。
ひどく息が上がっている男がいた。
男? 分からない。もしかしたら女かも。とにかくそれは
「フーッ、フーッ………」
獣じみていた。
その男は右手に刃物を持っていた。さらに言うと、男の半身は血濡れだった。真っ赤に、染まっていた。薄汚いハーフコートには、返り血だろう、まだらな模様を描いて血痕が。刃渡り25センチくらいの愚鈍な光沢を放つ包丁には、人の油やら血液やらが付着していて、気味悪くぬらぬらとした液体を滴らせている。
辺りは薄暗い。そうだ、いつも通り、ここは薄暗い。男は頭をゆっくりともたげて僕を見る。僕は初めからその男の方に目が釘付けだったから、当然視線がぶつかる訳だね。
あぁ、そう。
僕は間違っちゃいなかった。
「…………」
うるさいくらいに喉が鳴る。
でもそれは僕のものだったのか、それとも目の前の男のものだったのか分からない。
男は獣なのだ、それもとびきり気の立った。
社会という複雑なシステムにより構築された人間の”群れ”の中にあって、どういった形であれ牙をむき出しにする行為は、おおよその場合所属した”群れ”の規律に従って制裁が加えられる。
目の前の男は明らかに”群れ”の中では異端だった。
たった今、逸脱したのだ。
血や臓物を撒き散らした”人間だった何か”。
男の足もとに平伏したそれは、あまりに雄弁に、男の社会的な死を訴えていた。
自らの理不尽な死のせめてもの代価として。
嫌になるくらい冷静だな僕は。
無理もないか、僕は思っている。
死んでもいい、とそう思っている。
目の前の男は獣だ、僕を殺傷するには十分なほどの殺気と陶酔が脳を支配しているだろう。
と同時に考えるはずだ。
僕を殺せば、逃げられる。
僕だってそう思う。
もちろんこのまま目の前の男が僕に危害を加えずに逃げてくれたら僕はこのことを口外しないだろう。
だって面倒は嫌だ。
でも男はそうは思わない。
この場で僕を物言わぬ肉塊に変えてしまうことが出来れば、自分が異端であることを知る者はいない。
男はそう考えている、気の毒になるくらいに充血した双眼がその殺意を裏付けている。
目が合ってどれくらい経っただろうか。
30秒? それとももっと?
パチっと指を鳴らしたような音。目の前の男はゆっくりと地面に伏した。男の包丁が乾いた音を立てて跳ねる。僕は相変わらず動けない。一つの死体と一人の殺人者、それから僕。こういった構図が一瞬のうちに二つの死体と、それから僕、という状況に変わってしまった。
たぶん銃。銃を持った人間が、目の前の男に制裁を加えたのだ。でも、どこにいる。そしてそれは、はたして僕の味方なのだろうか。
男が倒れてどれくらい経っただろうか。
一分? それとももっと?
「静かに」
囁くような声とともに、僕のこめかみに冷たい何かが押し当てられた。
「なぜ立ち去らない?」
声の主は女? その声に焦りなどの感情は垣間見えない。言葉の通り、僕がここにこうしていることを心底不思議がっている、そんなトーンだ。
「分かりません」
と僕は言う。
「分からないのか。そうか」
と女は言う。
そして、女は何かを僕に押し当てたまま、片方の手で、僕の体をまさぐり始めた。たぶん武器を持っていないか確認してるんだろう。脇腹とか、お尻とかを執拗に撫でまわすようなその手つきと、人生最大の危機的状況によるストレスのせいで、僕は図らずとも勃起した。
「ん? 変態だなぁ、君は」
愉快そうに女が言う。違う、と言いたかった。けれども、僕自身少しだけ、少しだけだけれど、この状況を悪くないと思っている自分に対して、“変態ノ恐レアリ”だと思った。
一通りチェックを終えた女は、最後に僕の胸ポケットへ手を伸ばした。そこには、例の茶色いフィルターの煙草が入っている。
「ん……」
女は箱を抜き出して、検分しているようだ。
「少年」
「はい」
「煙草をもらっていいかね?」
「どうぞ」
ライターを擦る音と、ゆっくりと煙を吐き出す音。鼻につく、濃厚な匂い。僕は相変わらず立ち尽くしたまま、静かに灰になっていく煙草のことを思った。
「なあ、少年」
「はい」
「どうしてこんなところにいた?」
「家に帰るところでした」
「ふぅん」
女はつまらなさそうに相槌を打った。背後からまたライターを擦る音が聞こえてきた。
「もう一本、くれ」
もう吸ってるくせに、と思ったけど言わなかった。もちろん。
「あの、僕もいくつか尋ねたいことが」
「あん? いいよ」
「これは、どういう状況なんでしょう?」
我ながらなんて尋ね方だろうと思ったけれど、そう言う以外に思いつかないのだからしょうがない。
「うーん」
女は少しだけ間を置いて、
「人が、死んでるね」
と言った。
「二人も」
と僕が言った。
「職業的殺人者」
と、女は言った。
「そんでもって、さっき包丁で人をぎたぎたにやってたの、あれ、官能的殺人者」
おかしなことに、僕と例の女は繁華街のスターバックスでコーヒーなどを飲んでいる。
「私の仕事はぁ、ああいう官能的殺人犯を懲らしめる、ってか。まぁ簡単に言うと殺しちゃうこと」
こともなげにそう女はいう。ちなみに、あのあとどうなったのかと言うと。
「君、なんにも関係ないただの一般人?」
2本目の煙草を吸い終えて女が聞いた。
「そうです」
と僕。
はあ、とため息をついて、女はこめかみに当てた何かを下ろした。
「こっち、向きなよ」
僕はできるだけ緩慢な動作で振り返る。
小さな赤い眼鏡を掛けた、ショートボブ(と言うのが正しいのか僕には分からないけれど)のヘアースタイル。背丈は僕と同じくらい。顔は、可愛い。虫の一匹も殺せないような、と言うのがまさにぴったりの、ぽわんとした顔立ち。ようは童顔と言うのが分かりやすいかもしれないね。歳は、20くらいだろうか。格好はジョギングか、ちょっとそこまでコンビニへ、といった感じのラフなジャージ姿。右手にぶら下げた黒光りのする鉄の塊だけが、彼女を普通じゃないと物語っている。
「てへ」
彼女ははにかんでそう言った。死体が2つ、その辺りに転がっているのに、だ。
「あの……」
僕もつられて、少し笑う。
かちゃ、っと軽薄な音を立てて、彼女の持っている黒い銃が僕の額に向けられる。
「見られちゃったからぁ……」
悪戯っ子のような笑みを浮かべて。
「死んで?」
えええ? と、本日一番の動揺。彼女のそんな動作と言葉で、ようやく僕はまともに驚くことが出来た。
「なーんて、冗談」
なーんだ、冗談か。僕はまた小さく笑う。
「んな訳―、ないじゃない?」
ぱっと、光が弾けた。銃口から、弾が飛び出る瞬間を見たのだ、と僕はしばらくして知った。
「あっはははは! ビビった? ビビるか! そりゃビビるよねぇ! あっははははは!」
弾は僕の背、廃工場の壁に吸いこまれたらしい。その証拠に、僕は生きている。ビビった。そりゃあビビるよ。膝が震えている。そのまま、ぐにゃりと座り込んでしまいそうになったけど、なんとか堪えた。女は大きな口をあけて笑っている。そりゃあもう、気が触れたみたいに笑っている。
「ねぇ」
「は、はい?」
僕が口を開くと、銃口が再び僕の額へ。あれだけ爆ぜるようにして笑っていた女はいつの間にか真顔で僕を見つめている。
「君、ホントに普通の人間?」
心底信じられない、といったように女が聞く。
「は、はい」
僕は女の変わり身の早さについていけなくって辟易していた。それに相変わらず銃口は僕を捉えて離さない。
「なーんか、普通じゃないなぁ。おかしいなぁ」
小首を傾げて女はいう。
「ほ、本当にただの高校生で……」
「でも君、顔中傷だらけだし。なんか服もボロボロだし。あっやしーなー」
「た、ただの“少しいじめられやすい”高校生、なんです」
「そう? ま、いっか。とりあえず、こんなところで立ち話もなんだし」
女は足元に置いてあった小さなショルダーバッグに、手際良く分解した銃をしまうと、僕の手を取って、
「お茶、しましょう」
と言った。
こういう具合に、舞台は再びスターバックスへ。
「ところで君、名前は?」
ほとんど満席のスターバックス、チョコレートのパイをほおばりながら女が聞く。
「――――」
僕は熱いコーヒーで舌を焼かないように注意しながら名前を告げた。
「ふーん。普通ね、つまんない」
確かに僕の名前は普通だけど。
「ヨシスケ。君のこと、ヨシスケって呼ぶから」
はてな。 ヨシスケ?
僕の名前には一つたりともヨシスケ的な要素はない。けれども彼女の中では、どうやら僕はヨシスケ的な要素を含んだ人間だったらしい。
「ねぇヨシスケ」
パイのくずを口の左側につけたまま、女が言う。
「私の名前、気になる?」
正直、気にならない。と言うか僕は、この奇妙な状況になじみつつある自分に叱咤して、どうにかこうにか、ありふれた日常へと戻る努力をしなければいけないのではないか。
「気になります」
でもこう言う。言ってしまう。だって仕方がないじゃないか。相手はただの女じゃなくって、さっき人を殺したばかりの危険人物なんだ、一応。
「メーテル」
「はぁ、メーテルさん……?」
「あれ、いまいち? ヨーゼフ? クララ? ハイジ? ドストエフスキー?」
どうやら偽名を考えているらしい。
「メーテル、でいいとおもいます」
「そう? じゃ、私、メーテル。君、ヨシスケ」
にっこりと。職業的殺人者のメーテルさんは僕に右手を差し出す。
「…………え?」
当然、僕は理解に苦しむわけだね。するとメーテルさんはさも当たり前と言った風に、
「握手」
と言った。
「握手」
と僕は復唱。
「してよ」
ああ、と僕はようやく理解する。つまりメーテルさんは僕に握手を求めているわけなのだ。
「は、はい」
とりあえず、握手。
メーテルさんはぎゅっと僕の手を二回握って、手を離す。
「当面は一緒に行動するわけだから、仲良くしないと、ね?」
また、はてな。
ね? と言われても、僕には何の事だか分かりゃしない。当面は一緒に? ああ、はてな。
「その、僕は家には帰れないんでしょうか?」
控え目に聞く。機嫌を損ねたら何をされるか分かったもんじゃないのでね。
「当たり前田のクラッカー。って、ちょと古いか。」
童女のようにはにかむ姿は、少し見とれてしまうくらい愛らしい。
「あのね。君の疑い、まだ晴れたわけじゃないんだよ」
そしてまた急に真面目な顔。僕は何か疑われていたらしい。これっぽっちの心当たりもないけれど、とにかく疑いはまだ晴れていない、とそういうことらしい。
「本当に偶然あの場に居合わせただけかも。でも、そうじゃないかも、だよね?」
「いえ、あの、本当に……」
「シャラップ!」
豪快にコーヒーを飲みほして、メーテルさんは言った。
「とーにーかーく、だ」
「君は怪しい。私の勘が告げている。ってか、ほら、何かあった時に便利そうだし、君」
何か、って何だろう。銃撃戦の時のおとりとか? まさか。でもありうる。この人なら、ありうる。
「私ってほら、一応正義の味方ジャン? でももしもの時のために民間人の人質って役に立つんだ。そういうの経験したことないけど、ほら、なんとなく」
つまり、そういうことらしい。すると、僕はこれからどうなってしまうんだろう。監禁?
せめて軟禁くらいだといいなぁ。それとMDプレイヤーは取り上げないで欲しい。
「じゃあ、そろそろいこっか」
メーテルさんはそう言って席を立つ。隙を見て逃げ出せないだろうか。つられて席を立った時そう思ったけれど、それは叶いそうにない、ってことを、蹴られた太ももの痛みで悟った。
「あ、あの。これからどこに行くんでしょう?」
うーん、と唸ってメーテルさん。
「やっぱ仕事の後はゲーセン。これに尽きる!」
ゲームセンターって案外、職業的殺人者さん達のたまり場なのかも知れない。とても恐ろしいところだと思った。
ジャージ姿の若い女と、顔は痣だらけで制服もボロボロの高校生。この珍妙な取り合わせは、人いきれのするゲームセンターの中でも存分に目立った。
「なんか、注目されてるね」
そうは言うものの、大して気にした様子もなく、メーテルさんはどんどんゲームセンターの中を闊歩する。
「ヨシスケはさ、ゲーセンよく来るの?」
周囲の騒がしさからか、僕の耳の側でメーテルさんが言葉を発するたびに、僕は少しだけどきどきしなければならなかった。
「まあ、ときどき」
「へぇー、友達と?」
「いえ、一人で」
「あっ、そっかぁ。君、“少しいじめられやすい”から、友達少ないんだ」
くくく、と小さくメーテルさんは笑う。こういうことって、屈託なく言われると、そんなに傷つかないものなんだ、ってことを僕は知った。
「でも、私も一緒。誰かと来たの、初めて」
「“職業的殺人者”だから、ですか?」
大きな娯楽施設の陽気な雰囲気にあてられてか、僕は少し砕けたようにそう言った。
「そ。私、友達なんて一人もいない。だから夢だったんだ、誰かとゲーセンで遊ぶの」
そう言うメーテルさんの横顔は心底楽しそうで、僕は少し緊張を解いた。
メーテルさんが迷いなく向かった先は、対戦型の格闘ゲーム。僕がひそかに自信を持っている、最近流行りのやつだ。
「ねえヨシスケ。これ得意?」
僕は、少し、という風なジェスチャーをした。
「バトル、しようよ」
100円玉を投入する。僕の得意な女性キャラを選択すると、すぐさま“ニュー・チャレンジャー”の文字が画面に浮かんだ。
メーテルさんのキャラはそのゲームの主人公的な、筋肉隆々の格闘家だった。バランス型で、使い手の実力次第、と言った感じ。僕の戦績は547戦423勝。かなり上級者の数字だ。自分でいうのもなんだけれど。対してメーテルさんは戦績なし。記録するカードを発行していないみたいだ。
『READY』
『FIGHT!』
正直、僕は苦も無く勝てるだろうと思っていた。思っていたのだけれど、僕の予想は簡単に裏切られた。
「やったー!」
真向かいから、ずいぶん大きな声ではしゃいでいるメーテルさんの声が聞こえる。
信じられないくらいの、瞬殺。
「ヨシスケ―! 手ごたえないぞー!」
ああ、くやしいなぁ。
僕は久しぶりにカッとなってしまった。図らずとも。
「まだまだこれからですよ!」
自分でも信じられなくらい大きな声が出た。もちろん、図らずとも。
2回戦が始まる。今度は互角、僕が少し優勢か。僕はモーションの小さい技を小出しにしてメーテルさんの体力をじわじわと削っていく。それとは反対に、常に大技狙いのメーテルさん。まるで戦い方は素人なのに、どうしてだか僕は技をもらってしまうし、こちらの攻撃は思うように続かない。1分のタイムリミットが迫る。攻防入り乱れる、息をつく暇もない展開。体力のゲージは互角、このまま小技で体力を削り続ければ僕の勝ちだ。残り5秒の警報が鳴る。タイムアップを狙って距離をとった僕に対して、見計らったかのように懐に飛び込んでくるメーテルさん。
やられた、と思った時にはもう勝敗は決していた。
「あちゃー。惜しかったなー」
心底悔しそうな声が向かい側から聞こえる。
残り時間0。ほんの僅差で、僕の勝ちだ。
「1勝1敗。次、本番ね!」
もちろん、と僕は思う。すかさず試合開始の合図。熱くなった身体から、汗がにじみ出てくるのを感じる。電脳の世界へ没頭していく感覚。僕の指は今までにないくらい冴えわたっていた。
外に出ると、辺りにはすっかり夜の帳が下りていた。とはいえ、ここは繁華街。闇に包まれまいと、ネオンは一層の輝きを増して、街は相変わらず賑やかなままだ。けれど、歩く人たちの種類は変わる。露出の多い格好をしたお姉さんとか、くだを巻いた酔っ払い。ああ、そう言えばいつか見たあの援助交際をしていた女子高生はどうなっただろう。いや、むしろあのエロいおじさんは無事に事を為せたのだろうか。そんなくだらないことを、僕は一瞬にして考えた。
「あー、楽しかった!」
外の空気をいっぱいに吸い込むメーテルさん。熱くなった身体に、夜の乾いた空気が心地よい。
「ね、またやろうね」
メーテルさんは笑顔でそう言う。僕も笑顔で頷いて、それからはっと気がついた。
そう言えばこの人、職業的とはいえ人殺しなんだなぁ、と。
「さて、帰りますか」
人ごみの中へ、躊躇わず歩きだすメーテルさん。僕はどうすればいいのか分からずに、その場に立ちすくむ。
「ん? ヨシスケ、なにやってんの」
「え、いや、僕はどうすればいいのかと」
目の前の可愛らしい人殺しは首を傾げる。ああ、この人はどこか欠落しているのかも。僕はなぜだか、今この瞬間にそう思った。訳もなく。
「どう、って。帰るの。私ん家に」
でも。僕は正直どうでもよくなってしまった。人殺しだろうが社会の異端者だろうが、僕と大して変わりはない、と。偉そうにそう思ってしまった。
そう思ってしまったら、もう後は考えるのが面倒になる。僕は僕のやりたいように、自ら彼女の後をついて歩き出した。
空を見上げると、月のない、さびしい空だった。
メーテルさんの家は歩いて数分の、短期借用のアパートだった。
「ここ。結構いいとこ住んでるでしょ」
エントランスにあるエレベーターのボタンを押して、メーテルさんはそう言う。
「あの、住んでるところとか、僕に知られて大丈夫なんですか?」
この人は一応、そういうことが公になったらまずい部類の人なのでは?
「大丈夫。2週間ごとに住処変えてるから」
なるほど。やっぱり職業的殺人者ともなれば、大変な苦労があるんだなぁ。他人事のようにそう思った。いや、もちろん他人事なのだけれど。
4階にある部屋の表札には名前は書いてなかった。
「ただいまー」
「お邪魔します」
物のない、殺風景な部屋。
「あ、その辺に座って。今出前取るから」
二人掛けのソファを指さして、電話を始めるメーテルさん。ついでとばかりに、乱暴にショルダーバッグをソファに投げる。思えばあの中には人を殺したばかりの、禍々しい凶器が仕舞われているわけで。どうすることもできないから、仕方なく僕はバッグの隣に腰かけた。
「チャーシューメン。ギョーザ。チャーハン。全部2人前。場所は、えっと……」
チャーシューメン。ギョーザ。チャーハン。それが今夜の夕食らしい。改めて部屋を見渡すと、基本的な家電以外に、やはり物はほとんどない。けれど窓際、ベッドの隣に、何よりも無機質な銀色のアタッシュケースを見つけた時にはさすがに動揺。
「ねえ、チャーシューメンとギョーザとチャーハンでいいよね? ってもう注文しちゃったんだけど」
はい、チャーシューメンとギョーザとチャーハンでいいです。僕は首を縦に振った。
しばらくしてインターホンが鳴った。メーテルさんは着の身着のまま、相変わらずのジャージ姿で玄関へ出て行って、食事を取って戻ってくる。手際良くテーブルにそれを並べて、行儀よく正座。
「ほら、食べよ」
遠慮する義理もないので、僕も黙って従う。
「うーん。ふつう。すしにすればよかったかな。ねえ、美味しい?」
僕は啜りかけの麺を口からぶら下げたまま、頷く。
「そう? まあ、ならいっか。ヨシスケに免じて、許す」
何を許すのかは分からなかったけれど、美味しかったのは嘘じゃない。どうやらメーテルさんは普通をあまり好ましく感じないようだ。
僕は好きだけどなぁ。普通。
食事を終えると、メーテルさんはシャワーを浴びる、と言って浴室の方へ向かった。
覗かないでよ! とは言わなかった。言われるかと思ったけれど、言われなかった。
僕はソファに横になる。少しだけのつもりだったのだけれど、どうやら僕はやたらと疲弊していたらしい。もちろん、と思う。だって、いつもよりも多めに殴られて、そして二人も人の死ぬ現場に遭遇し。果ては職業的殺人者のメーテルさんと熱いバトルを繰り広げたのだから、そりゃあ疲れているのは当然なのだ。僕はふと家のことを思い出す。母さんは今日も誰かと、どこかに出かけているのだろうか。僕が帰らないことに気がついていないのだったら、それは都合がいいけれど、少しだけさびしいかもしれないね。
いろいろなことが頭を駆け巡っては消えていく。さながら走馬灯みたいだなぁ、なんて考えながら。
僕はいつの間にか深い眠りに落ちた。
ちなみに、格闘ゲームの結果だけれど。
7勝6敗。僕の勝ち越しだった。
甘い煙草の匂いで、僕は目を覚ました。目をあけるとシミ一つない真っ白な天井。痛む身体を無理に起こして辺りを見渡すと、開け放たれたカーテンがひらひらと風に揺れていた。外はすっかり明るくて、空気はお昼のそれだった。ベランダにはパジャマ姿のメーテルさん。窓から吹く柔らかな風に乗って、メーテルさんの吸う煙草の匂いが漂ってくる。
僕は昨日の出来事を思い出す。とにかく、とんでもない一日だった。ああ、とんでもない一日だった。
僕はそのままソファで眠ってしまったようだった。薄いブランケットが掛けられていたけれど、僕が汚れた服のまま眠ってしまったものだから、ブランケットまで汚れてしまっていないか心配だった。
しばらくぼうっとしていた。何も考えられないし、なんだか何も考えなくていいような気がした。それくらい、気持ちのいい風と、穏やかな時間の流れ方だった。
「おや、ヨシスケ。起きてたんだ」
煙草を吸い終えたメーテルさんが戻ってくる。
「おはようございます」
僕は一応、そう挨拶をする。
おはよう、とそっけなく言って、メーテルさんは買い物袋を僕に差し出した。中を開けると、シャツにスラックス、靴下にパンツまで、それぞれ2つずつ、パッケージされたままの状態で入っていた。
「着替え。ヨシスケ、君、だいぶひどい格好してるよ?」
なんだかんだで面倒見のいい人なのかもしれない、と僕は少し感動。
「あの、ありがとうございます」
僕がお礼を言うと、
「私、ペットって飼ったことなかったの」
とメーテルさん。
はて、ペットの話なんかしていただろうか、と少し考える僕。
「食事と着替えくらい与えないとかわいそうかなって。ペットに」
ははあ、合点承知。つまりあれだね、僕はメーテルさんにとってはペットみたいなものだと(人質だという名目を今も彼女が覚えているかは怪しい)。
「ま、とにかく、シャワーでも浴びてそれに着替えなよ。付き合ってもらう用事もあるし、ね」
めずらしく悪戯な笑みを浮かべずにそう言ったメーテルさん。いやな予感がした。もしかしたら殺しの片棒を担がされるのかも。それはそうと、体中がべたついて不快だったので、お言葉に甘えてシャワーを借りる僕だった。
「シャワー、お借りしました」
メーテルさんの買ってきた着替えに身を包んで、リビングへ。メーテルさんは呑気にお昼の情報番組なんかを見ていた。時刻は12時過ぎ。僕はずいぶんと長い間眠っていたことになる。
「うむ。ではヨシスケ君。君に任務を与える」
僕の方を振り返らずに、メーテルさんはそう言う。腕を上げて、手をひらひらと振っているから何かと思って近づくと、手には紙切れが一枚握られていた。
煙草3箱、新聞各誌、歯磨き粉、歯ブラシ(君の分、と書かれている)、ハーゲンダッツ。
「買ってきて」
そこで初めてこちらを振り返り、とびきりのスマイル。なるほど、僕は今からおつかいへと出かけなければならないようだ。
「煙草はこれと同じヤツ。ハーゲンダッツはチョコならなんでも。あ、ヨシスケも好きなの買っていいよ。歯磨き粉はなんでも、あんまし辛くないのがいいな。書き忘れたけど、適当にお弁当買ってきて。あー、それとそれと、下のバス停で上りのバスの時間調べて、その紙にメモってきて」
早口でそうまくし立てるメーテルさん。同時に僕の手に5000円札を掴ませる。めんどうだなぁ、と思ったけれど、一宿一飯の恩義があるのでしかたなく頷いた。
「じゃ、おねがいねーん」
テレビを見ながらぷらぷらと手を振るメーテルさん。僕は小さくため息をついて、よく晴れた外へと出て行った。
買い物を済ましてアパートに戻る途中、僕はふと気がついた。このまま家に帰るのはどうじゃろか、と。
ああ、でも。……はてな。何が、でも、なんだ?
僕はまたどうでもよくなってしまった。悪い癖なのかもしれない。手にぶら下げた袋の中のアイスが溶けないうちに。僕は、急がなくては、なんて思ってしまったのだ。
「これ、買ってきたものです。それとお釣り……」
「うん。御苦労さん」
素直に、大人しくメーテルさんのアパートに帰ってきた僕は、メーテルさんと二人でのんびりアイスなど食べている。
「あ。ヨシスケ、時刻表見てきた?」
僕は頷いて、バスの時間をメモしてきた紙を渡す。
「うーん、1時過ぎのに乗ろっか」
メーテルさんはそう言って、最後の一口をさっと口に運んだ。
「さ。支度支度」
勢いよく立ち上がったメーテルさんは不意に身にまとっていたパジャマを脱ぎ出した。おおう。僕は慌てた。それはもう、すごく慌てた。だって、その、ブラジャーとかパンツとかが、急に目の前に飛び込んできたのだから。
「にやり。何見てんの?」
レースが多めについていた。意外とセクシーなやつだった。
「……。見てる、ね」
そしてさらに。意外なほどのボリューム。ああ、意外なほどの。
「えーっと。見過ぎ、じゃないかな」
見過ぎ?
「ちょっと、恥ずかしくなってきたんだけど……」
……!
「その! ……ごめんなさい」
僕は目を背ける。それはもう、すごい勢いで背ける。確かに僕は見過ぎていた。見過ぎていたけれども!
「あ、ははは……。ごめん、悪ふざけが過ぎたよ」
メーテルさんはそう言って脱衣所の方に消えて行った。突然の刺激に頭がくらくらする。しかし、でも、いや。あの下着姿は反則だと思う。思い出すと……。いけない、いろいろなところが活性化してしまう。僕は掛け算を始めた。二桁と二桁の掛け算。82×59×84。
「おまたせ。青少年」
考えているうちに、メーテルさんが着替えを終えて脱衣所から出てきた。昨日と同じ、上下おそろいのジャージ姿。
「えっと、さっきのは。忘れて?」
両手を合わせて、メーテルさんがそう言う。さっきの? …………。
いけない! 84×57×86。
「……ふぅ。ほら、ヨシスケ! ぼんやりしてないで! 行くよ!」
僕は働かない頭のまま、メーテルさんにつき従うようにアパートを出た。途端に強い日差しに目がくらむ。
「はー、いい天気」
隣を見ると、メーテルさんは右手で日差しを遮って。目を細めたままそう言った。
「いい天気、ですね」
僕もメーテルさんにならって目を細める。気持ちのいい、午後の日差し。
バスはがらりと空いていて、僕とメーテルさんは一番奥の席に並んで腰かけた。斜に差した日光に照らされて、埃がゆらゆらと漂っているのが見える。僕は久しぶりに乗ったバスの得も言われぬ心地よさについうとうととしてしまった。
「ねえ。ヨシスケ。って、聞いてる?」
メーテルさんの声にびくっと体が反応する。
「あ、はい。なんですか?」
もう、とあきれたようにメーテルさん。
「これからどこに行くのか。君、聞かないね。なんで?」
なんで、と言われても。一切の行動に僕の意見は無意味なわけで。そんな僕がこれからの予定を聞いたところで、ねぇ。
「聞いた方がいいんですか?」
「もう、そう言うこと言ってるんじゃなくって。でも、どちらかと言えば聞いてくれた方がいいかな? 私的には」
「はあ。どこに向かってるんですか?」
「ふふ、秘密。とにかく君にはうんと働いてもらう予定だから」
とまあ、こんな具合に何も状況は変わらない。けれどメーテルさんはすごく楽しそうで。そんな彼女を見ているのに悪い気がしない僕がいて。だから、僕はまた眠たくなってきたって、静かに目を閉じていられた。小さく震える柔らかいシートにもたれたまま、僕たちは運ばれていく。きっと楽しい出来事が待っていると、そんな風に漠然とした予感をたたえながら。
「ヨシスケ。ヨシスケってば」
肩を揺すられる。僕は眠ってしまっていて、バスは目的地に着いたらしい。二人分、と言ってメーテルさんはお金を僕に放り投げる。そうして先にさっさと降りてしまうものだから、僕は慌てて彼女の後を追った。
バスを降りると、眼下には一面の青が広がっていた。海かと思ったけれど、どうやら巨大な湖らしいということが、よく観察してみると分かった。
メーテルさんの姿を探す。きっと湖へ向かったに違いない。すぐ先に、傾斜のきつい石造りの階段が伸びているのを見つけたから、僕はそれを急ぎ足で下った。ゆるく湾曲した階段を下っていくと、そこには案の定メーテルさんの姿があった。
彼女の少し後ろ、石段2つ分の間隔で僕は歩く。メーテルさんは僕が追いついてるのを知っているはずなのに、振り返ったりしなかった。
まさか、メーテルさんってば怒っているのかも、と僕が思い始めたのは石段を下り終えた時だった。何しろ、口をきいてくれないし、僕と目も合わせてくれない。こちらから話しかけてもアクションはないし、むしろ意図的に無視を決め込んでいる風な態度だ。
「あの……」
「…………」
「え、っと。その」
「………………」
「メーテル、さん……?」
「……っ! …………」
とにかく埒があかないし、もしかしたらほんの少し悪いことが起こっているのかも。例えばメーテルさんが尾行されていることに気がついた、とかそんなところ。そういう想像をしたら、僕は急に恐ろしくなってしまった。だって、僕はもともと善良なる一般市民な訳で、そもそもこうやって、殺し屋の女性なんかと昼間から湖に来ていることだっておかしな事だっていうのに。それなのに、もしこんな遮蔽物もない、人だってまばらな場所で武器を持った人間に襲われたらと考えると。ああ、僕は死ぬかもしれない。死ぬのはいやだなぁ。死んでもいいと、いつかそう遠くない過去に考えたような気がするけれど。でもやっぱり、今ここで死ぬのは困る。僕は意を決して、メーテルさんの背後から正面へと躍り出た。きちんと状況を説明して、僕にも何か手伝えることはないか、と、そう思った、の、だが…………。
「……っ! ………」
メーテルさんってば完全に笑っていた。肩を震わせて、笑いを押し殺していた。否、押し殺そうとしているのだろうけど、完全に笑っていた。もう今にも吹き出しそうなくらい笑っていて、僕の顔をちらちらと見ては、視線を宙にさまよわせて知らん振りを決め込もうとしている。
「……あの」
「………ひゅー、ひゅー」
にやついた顔のまま口笛を吹いている。が、吹けていない。
「あのっ!」
「ひゅー、ひゅー……っく。くくくっ……」
僕はあきれてしまった。だってそうでしょう。曲がりなりにも彼女は殺し屋で、それから僕はその人質、というかペット? まぁ、どちらでも結構。
それなのにこの人ときたら、理由もなく僕を不安にさせておいて、くつくつと笑っているのだから、手に負えない。
「…………」
僕は無言で彼女の背後に戻った。疲れがどっと押し寄せてくるのが分かった。膝が折れて、その場にくずおれてしまおうかと思った。
「っくくく。……ねぇ」
メーテルさんは振り返らずに言う。僕は返事をしなかった。
「ヨシスケ、怒ったかな? ちゃんと怒ってくれたかな?」
意味が分からずに、僕は。今度は押し黙るよりほかになかった。なぜならメーテルさんのそのおどけたような物言いに少しの寂しさを感じたからだ。
「私ね、こう言うのって、マンガとかアニメ、ドラマの中だけの話だって思ってた」
「誰かのこと、本気でからかったり、誰かを本気で不愉快にさせたり。そういうさぁ、リアル? って言うのかな。リアルな人との接触って、私の憧れだったの」
僕はどうしたらいいのだろう。この時、僕は初めて、メーテルさんに明確に何かを求められていると知った。でも僕には何もない。この人の想像もつかないような寂しさを埋められる何かを僕は一つとして持っていない。
「ねぇ、怒った? 相手がさ、怒ってもいないのに謝るのってヘンだよね? ヨシスケ、君は私の悪ふざけにちゃんと腹を立ててくれたかなぁ?」
「……怒りましたよ。すごく、腹が立ちました」
もちろん僕の胸にもう怒りなんて感情はこれっぽっちだってなかった。けれどそう言うより他にない。この人は、僕にたびたびこうした言葉の枷を与えるよね。僕にはそれが少しだけ心地よい。
「……ごめん。ふざけたりして。怖くなった? 心配した? そして、私のこと許してくれるかな?」
「……許しません、とか言ったら殺されちゃうかも。だから、許します」
あはは、っとメーテルさんが笑った。そしてこっちを振り返って、それから
「ありがと」
と一言。
僕とメーテルさんは大きな湖の周りをゆっくりと歩いて回った。途中、何人かの人とすれ違った。すれ違うたびに僕は少しだけ緊張をしたのだけれど、メーテルさんは僕の気も知らないで、
「ねぇ、私たち、どういう関係に見えるんだろうね?」
なんて楽しそうに喋っていた。
「兄弟、ですかね」
「ぶー」
「友達、ですか?」
「ぶー、ぶー」
「……恋人」
「見えるかなぁ? ヨシスケはどう? どう思う?」
ちなみにこんな風な会話が繰り広げられた。
散歩を楽しんだのか、日が暮れる前にメーテルさんは、帰ろう、と言った。
長い石段を登り終えた時にちょうどバスが来たのが見えて、二人で走った。バスは停留所を少し通り過ぎた所で停まり、僕らは転がりこむようにして乗り込んだ。
「あー、楽しかった!」
少しだけ息の乱れたメーテルさん。僕は頷いて、車窓から流れる景色を眺めていた。
「……帰りたい?」
もうすぐでマンションにつくという時に、メーテルさんはそんなことを口にした。
「……分かりません。家族は僕のことを心配していないかも」
「それが、怖い?」
はっ、と。メーテルさんの方を僕は見た。湖で悪ふざけをした、あの時と同じ表情で笑うメーテルさんがいた。
「心配されていなかったら、ということが。 って意味ですか?」
「そうなるね」
僕はまた母さんの事を考えた。
「僕の家族は一人だけなんです」
「言わないで」
メーテルさんは僕の言葉を遮った。さびしそうな頬笑みが、ほんの少し歪んだ。
「君の家族の事、大切な友達の事、もしかしたらいるかもしれない付き合ってる女の子のこと、全部聞きたくない」
「僕にはまともに家族と呼べる人間も、友達と呼べる人間も、付き合ってる女の子だっていない」
どうしてだろう。僕はとても苦しかった。だから今まで口にしたこともないくらいぶっきらぼうな口調でそう言った。だってしょうがないでしょう? 僕はとても苦しかったんだ。
「そっか」
「そうです」
それからはお互いに無言でバスに揺られた。
たった24時間なのに、僕は思った。僕とメーテルさんが一緒に過ごした時間だ。たったそれだけの時間なのに、メーテルさんと僕の間には何かが生まれているような気がした。それはあまり好ましくない類のものかもしれないし、そうでないかもしれない。けれどそんなことを深く考える猶予なしに、バスはマンションの側のバス停に停車した。
「つきましたね」
「ん」
今度はメーテルさんが二人分の運賃を払った。外はすっかり日が落ちて少し肌寒かった。
「今日こそは、すし」
玄関に上がるとすぐにメーテルさんは電話を掛けた。
「すし、特上、二人前」
僕はソファーに座って昨日蹴られたふとももの痣を点検していた。あまり大事出ないようで安心した。そもそも、今日一日、そんなことは忘れていたんだから、大事であるはずがないのだけれど。
「すし、特上、二人前。問題ない?」
すし、特上、二人前。特に問題はないように思えた。僕は頷く。
「明日はさ、もっと遠くへ行こうよ」
すしを食べながら、メーテルさんはそんなことを言った。
「いいですよ」
すっかり元通りのメーテルさんだ。僕は安心した。やっぱり彼女はこうしていた方がいい。僕は、ネタとシャリの間にこびりついたわさびをちくちくと外しながらそんなことを考えた。
翌朝、お昼手前にメーテルさんに揺り起こされた僕は、支度もほどほどに気がつくと電車に揺られていた。例のごとく行先は教えてもらえなかったけれど、昨日のあのやり取りが嘘のように、メーテルさんは凄くはしゃいでいた。
「駅弁! ヨシスケ、君どれがいい?」
「僕は幕の内で十分です」
「え、何それつまんない。ほらぁ、これなんてどうよ?」
メーテルさんはよくわからない魚の丸焼きが入った駅弁を勧めてきたけれど、僕は断わった。
「んじゃ、私も幕の内」
「これにするんじゃなかったんですか? ほら、丸焼きが入った……」
「私焼き魚って苦手なんだ」
とかなんとか。
結局どこに行くか教えてもらえないまま、長いこと電車に揺られれていたのだけど、終点の一つ手前の駅でメーテルさんは唐突に席を立った。
「このあたりでいいかな」
このあたり、とかメーテルさんが言ったような気がするけど、僕は聞かなかった振りをした。
駅に降り立って、僕はこれからどうするのか、ってことをメーテルさんに聞いてみた。
「そうねぇ、とりあえず宿」
そんな具合で、僕らは見知らぬ街に降り立った訳なのだけれど。
「くっ、はははは!」
「あの、あんまり大きな声は……」
「だってさー、ヨシスケってばヘタクソすぎ! まだたったの14本しか倒せてないじゃん!」
確かに僕は壊滅的にボウリングとかいうヤツがへたくそだった。6フレーム投げて、スコアが14。対するメーテルさんは5フレーム投げて46。僕もメーテルさんも初めてのボウリングだったから、勝手がわからなかったのだけれど、周囲を見ればメーテルさんだって全然下手な部類に入るってことだけは分かった。
「ったくもー、見ててよ。私がお手本、みせたげるから」
すくっと立ち上がったメーテルさんは背筋をぴんと伸ばして、ボウリングの球を胸の前で掲げる。その姿はとてもきれいだ。見とれてしまうくらいに。
「いっくよー!」
少し控え目に勢いをつけて、メーテルさんはレーンにボールを放った。決して速くはないけれど、確実に中心に向かって転がっていくそのボールを、僕は目で追った。
「いけっ」
メーテルさんが小さくそう言ったのが聞こえた。
「あ、……っちゃー」
綺麗に中央を転がって行ったボールはそのまま真ん中のピンへ当たった。けれど、運が悪いのか、それとも真ん中にあてるだけじゃあダメなのか、一番奥、両端の2本のピンを残してしまう形になった。
「あーあ。あれじゃあ次、全部倒すのって無理よねー」
メーテルさんは残念そうに、でもとても愉快そうにそう言ってこちらに戻ってきた。
「だめなお手本だったみたいね」
「でも、惜しかったですよ」
うー、と唸りながら2本のピンの残ったレーンを睨みつけるメーテルさん。数秒そうしていたメーテルさんだったけれど、何か妙案でも思いついたのか、掌をパチンと併せて凄い笑顔に。
「ヨシスケ! やろう!」
「な、なにをですか」
「一人でできないなら?」
「できない、なら……」
「二人でやるに決まってるじゃない!」
立ち上がってボールを手に取るメーテルさん。そのままレーンに対峙するのかとおもいきや、ボールを持ったまま僕の元へ。
「はい」
「はい?」
僕は差し出されたボールをとりあえず受け取って呆けていると、メーテルさんは別のボールを持って僕を手招きし始めた。
「はやくぅ」
まさかとは思ったけど、僕は一応ボールをベンチに置いてからメーテルさんの元へ向かった。
「球がなきゃあボーリングできないってば」
ああ、やっぱり。僕はしぶしぶ置いてきたボールを手にとってメーテルさんの元へ戻った。
「あの、これって反則じゃあ」
「反則? 別にいいじゃない。君と私、競争しているわけじゃないんだし」
「いえ、でも一応ルールとかそういうのが……」
「うじうじしない!」
びくっ、っとしてしまった。メーテルさんはとっておきの笑みを浮かべて、
「上手くいったら、今晩いいこと、しようよ」
とか言い出した。
いいことって何ですか? どういった種類の? 僕はかなり動揺してしまったけれど、もうどうにでもなれという感じだった。確率的に言えば、僕とメーテルさんはどちらもド素人で、隅っこのピンを狙い撃ちにすることなんてできやしない。そもそも、こんなことがボウリング場の従業員さんにばれたらきっと注意とかされるはずだ。
「ヨシスケ、準備は?」
「お、OKです」
二人で並んで、レーンに立つ。
「せーので」
「はい」
せーの、メーテルさんが一つ息を吸ってそう言ったから、僕は慌てて助走に入った。ボールが離れる瞬間、僕はなぜだかこの試みが上手くいくような気がしていた。奇跡的に、僕もメーテルさんも1本のピンを倒せるんじゃないかって。
「は、ははは……」
「だめ……だったね! やっぱり!」
僕はガーター。メーテルさんもガーター。同時に放たれた二つのボールは両サイドに掘られた溝にそってごろごろと転がって行っただけ。そうして残った2本のピンはあっけなく処理されて。気がつくと10本のピンが行儀よくレーンの先に立っていた。
「さすがに……」
「はあ」
「無理があったみたい、ね」
「は、あ」
なんだか僕は、凄くショックで。上手くいくと信じていたことが、現実にそうはならないってこと、メーテルさんと会ってからずっと忘れていたことを急に思い出させられたような感覚。
「ヨシスケ? 君、落ち込んでるの?」
よほどひどい顔をしていたのだろうか。メーテルさんが僕の顔を覗き込んでくる。はて、僕は落ち込んでいるのだろうか。
「当たり前、ですよ」
行き場のない気持ちだった。どうしようもなく無力だった。僕とメーテルさんは奇跡的な出会いをしたのかもしれない。けれど二人でいれば何かできる、奇跡だって起こせる、だなんて妄想が、こんな下らない遊びで打ち砕かれてしまったのだ。ああ、どうしてこんな気持ちにならなくっちゃいけない? 僕はいま、純粋にメーテルさんと一緒にいることを楽しんでいるはずなのになぁ。
「そんなに落ち込むことないじゃなーい。たかがボウリングだよ? それともさっき言ったこと気にしてるの? あれだってほんの冗談みたいなもんでさぁ……」
どうして連中にさんざん痛めつけられた時のような気持がするんだろう。どうして、隣の部屋で母さんが知らない男と交わっているのをじっと我慢している時のような気持がするんだろう。
『第9レーンのお客様、投球はお一人様ずつお願いしまーす』
そんな放送が聞こえてきても、僕はまだ呆けていた。嫌になってしまうよね。どうして僕ってばこんなに落ち込んでいるんだろうか? もう、どんな気持ちだったのかも思いだせないけれどさ。
「あちゃ、怒られちゃったね」
「あ、うん」
「敬語、やめてくれるの? うれしいかも」
「あ、いや。そんなつもりは……」
「やめて、って言えば君はやめてくれる?」
「……うん」
僕はメーテルさんに抱きしめられたみたいだ。薄いブラウス越しに、彼女の体温が伝わってくる。
こういう時って、僕の場合だときっとパニックになりそうなものなのだけれど。でもこのときだけは、そうしてもらうのが当たり前のように、僕は何も考えずにメーテルさんにすっかり体を預けていた。
「すっかり夜だねぇ」
「そうですね」
見知らぬ街の夜だった。けれど繁華街はどこも似たようなもので。僕とメーテルさんが初めてあった日、ゲームセンターから出てきて最初に吸い込んだのと同じ空気がそこにはあった。
「ねぇ、敬語、やめたんじゃなかったっけ?」
にやにやしながらメーテルさんがそう言う。
「……うん。ごめん」
「よろしい」
そんなやり取りをして僕たちは夜の街を歩き始めた。途中で小さな居酒屋に入ってご飯を食べた。
お酒を飲むかと聞かれたけれど、僕は断わった。メーテルさんも強制はしなかったし、なによりメーテルさん自身がお酒を頼まなかったこともあって、ふつうに食事をして店を出た。
「そう言えば宿ってどうするんです……。どうするの?」
街に着いて早々に宿探しをする筈だったのだけれど、ボウリング場を見つけた途端にメーテルさんがずかずかとそこに向かったものだから、当然今の僕らは宿なしだった。
「そうねぇ……、ああ、あそこなんかいいんじゃない?」
メーテルさんが指さしたのは明らかにラブホテルだった。ぎらぎらのネオンと、踊るような筆記体で書かれたロゴは紛れもなく淫猥な気配を放っている。
「あそこって……。もっと普通のとこがいいんじゃないかな、と僕は思う」
「私は別に構わないけど、ねー」
からかうようにくつくつと笑うメーテルさん。
「じゃあさ、あと30分だけ歩いて見つからないなら、そうしようよ」
「分かり、……分かった」
幸い僕らは28分歩いたところで普通の宿を見つけることが出来た。繁華街を抜けた河川敷の側に、いくつかの提灯で照らされた古風な旅館だった。
『恋人同士で御旅行ですか? お布団は一つの座敷に準備させていただいても?』
旅館の女将であろうおばあさんがにこやかにそう聞いてきた。僕は手を振って否定しようとしたんだけれど、
「ええ。それでお願いします」
もちろんメーテルさんに先を越されてしまった。
ちなみに、チェックインは僕の名前で行った。メーテルさんは相変わらずメーテルさんのままだ。
旅館は古く、部屋の畳は少し汚れていたけれど、僕とメーテルさんは一目見てそれらを気に入った。小さな露天風呂もあったので、部屋に入るとすぐに僕らはお風呂へと向かった。旅行のシーズンとはかけ離れていることもあってか、お風呂には僕以外の誰もいなかった。奇妙な気分だった。ボウリング場で僕はメーテルさんに抱きしめられて。そのあと、すぐにこうして旅館を探し当てたわけだけれど。露天風呂の縁に首をもたれて、僕は空を見た。やっぱりさびしい空だった。昼間は晴れていたのに、今では雲が空を覆っているに違いない。星も月も、その姿を見ることはできなかった。
僕が部屋に戻った時、メーテルさんはいなかった。和室には2枚の布団がほとんど距離のない状態で整えられていた。手持ちぶさたになった僕は据えられた古いテレビをぼんやりと眺めていた。久しぶりに見たお笑い番組は、こんな状況になってもやっぱり面白かった。
「おや、早かったんだね」
部屋に戻ったメーテルさんは浴衣を着ていた。上気した頬とか濡れたままの髪とか、そんなものすべてがとても色っぽくって、僕はまともに彼女の方を見れなかった。
「ねぇ、ヨシスケ」
「な、何」
あからさまに様子がおかしい僕をからかいに来たんだろう。メーテルさんはテレビを見ている僕の隣に腰掛けた。
「今夜が最後。君と私」
司会者の的確なツッコミによって会場がどっと沸いた瞬間だった。だったから、僕はつられて笑ってしまって。
「ねぇ、聞いてるの?」
未だに笑いのボルテージは最高潮で。数名の芸人が我先にと司会者にツッコまれるのを待っている図も笑えた。
「ヨシスケ、あのね」
「きこえてる」
僕は言った。僕はうんざりしたんだろうか? せっかくのおもしろいところに、メーテルさんが打ち水をするような事を言うものだから。
「明日、ここを出たら、君は家に帰るの」
「どうして?」
「理由なんて。ヨシスケ、君は私が人殺しだって忘れた? 私は人殺しで、君はただの高校生だってこと、忘れちゃったの?」
「そう言うことを聞いているんじゃない!」
隣でメーテルさんが息を呑む音が聞こえた。僕は、どうしようもなく大きな声を出したことを後悔した。それでも、後悔しながらも僕はそうするしかなかったんだ。
「離れたくない、なんて言わないです。でも、メーテルさんの事、僕は何にも知らないのに!」
「何か知って、それからどうするの? 君は私を助けてくれる? 君が私の恋人になって、私に普通の生活をくれる? これまで私が脳天ぶち抜いた人たちを、君は、生き返らせてくれるの……?」
いつの間にか、テレビではエンドロールが流れている。さっきまであれだけ盛り上がっていたのになぁ。どうして楽しい時間ってばこうやってすぐに過ぎてしまうんだろう?
どうして楽しかった分だけさびしいんだろう? あはは、最近の僕は、どうして、だなんて事ばっかり考えている。人の気持ちも考えずに、すぐに、自分のことばかり考えてしまうんだよね。
「君が好きだよ」
「ヨシスケ、って呼んでくれないんですか?」
「君だって、敬語を使ってるじゃない」
「僕もメーテルさんのこと、好きですよ」
「ふふ、ありがと」
それからしばらく、僕らは言葉を交わさずに並んでテレビを見た。コマーシャルが流れ、ニュース番組になり、やがていくつかの短いプログラムを終えて、テレビは砂嵐を映した。
「眠ろう」
「はい」
僕とメーテルさんは同時に床から立ち上がった。
「ねえ、君、寒くない?」
「僕は大丈夫ですけど。メーテルさんは?」
「少し、寒いかな。へへへ」
僕とメーテルさんは互いの布団からほんの少しだけ腕を伸ばして手をつないだ。メーテルさんは明らかに震えている。寒さから来る震えだろうか? それとも別の原因があるのかも知れない。どちらにせよ、僕にできることが一つだけありそうだったので、恐る恐る提案してみた。
「あの、そっちに行ってもいいですか?」
「君、案外男らしいんだね。どうやって誘おうか、って考えてたんだけど」
僕は小さく、失礼します、と言いながらメーテルさんの布団に入った。抱きしめると、メーテルさんは驚くほど小さく、そして柔らかかった。
「そういえば君って、変態だったよね」
「ボディチェックの仕方に問題があったように思います」
「覚えててくれたんだ」
「そりゃあ、まあ」
メーテルさんがしゃべる度に、僕の胸に吐息がかかる。くすぐったくもあり、暖かくもある。
「ねぇ、今はどうなってるの? 君の」
「困ったことになっていますよ、当たり前のように」
「くくく、そっかあ。嬉しいなあ」
なにが嬉しいんだろう? 僕には分からなかった。
「ねえ、君って付き合った女の子としかそう言うことしない人?」
「そうなった試しがないから分かりませんね」
「予想はしてたんだけど、やっぱり」
余計な御世話だと思った。思ったけれどもちろん口には出さない。
「君ってやっぱりファーストキスとか大事にしたい?」
「そりゃあ、多少は」
「そっかあ、残念」
なにが残念なんだろう? これは少しだけ分かる気がした。合っているかどうか、自信はないけれど。
「メーテルさんは、僕とキスがしたいんですか?」
「ふふ、ははは! 正解、よくわかったね。偉いぞ、君」
どうして正解したのに笑われなきゃいけないのかな? メーテルさんが胸元で笑うから僕はくすぐったくなって距離を離した。
「あの……」
何を言おうかと思っていたわけでもないけれど。僕の言葉はメーテルさんに呑みこまれてしまった。凄く激しいキスだった。僕はされるがまま。メーテルさんの舌が僕の中に入ってきて暴れた。僕は思わず息が漏れた。メーテルさんは凄く激しく息をしていた。目を開けると、メーテルさんは泣いていた。涙と鼻水が白くすべらかな頬を伝っているのが見えた。僕ももしかしたら泣いているかもしれない、と思った。メーテルさんの頬を撫でて、それから自分の顔を触ってみたら、やっぱり僕も泣いていた。長いキスだった。涙の味が濃密さを無くしてきたころ、ようやく僕とメーテルさんは唇を離した。
「君をいじめる学校の連中と、君を心配していないかもしれない君のお母さんを殺したい」
「君がもう、どこにも行かなくていいように。君が死ぬまで私しか愛せないように」
「……やだなぁ、もう。こんなこと言うとさ、私って本当に君が好きなんだって思い知らされて……、思い、知らされて、涙、止まんなくなっちゃ……」
僕も言いたいことが山のようにあった。それから、上手になぐさめたり、子どものようにしゃくりあげるこの人が一瞬で笑顔になってしまうような、そんな魔法の言葉を。
けれどもちろん、僕のなかにそんな言葉はなかった。これっぽっちだってなかった。
「メーテルさん、僕は……」
「―――」
それはごくありふれた女の子の名前だった。
「―――さん、僕」
「呼び捨てに、して……」
「―――、―――、―――……」
「うん、……うん。…………」
彼女を抱きしめたまま、僕は眠った。どこまでも深い眠りにつければ最高だ。本当に、目が覚めないくらい、ずっとこうして眠っていられればなぁ。
翌朝、僕が目を覚ました時には、メーテルさんはもういなかった。当たり前のように、そこに彼女のぬくもりは残っていなかった。
『ありがとう』
そう一言だけ書かれた紙切れと1万円札が5枚入れられた茶封筒が、ちゃぶ台の上に控え目に置かれていただけだった。
僕は電車に乗る。メーテルさんと過ごした街を通り過ぎて自分の家の最寄りの駅まで。
家に帰ると、母さんがお昼の準備をしていた。
「あんた、久しぶりだね。帰ってきたの」
「うん。ただいま。母さん」
「どこほっつき歩いてたの?」
「ちょっと、友達のうちに泊って勉強してたんだ」
「ふぅん」
僕はほんの少しだけ幸せだと思った。訳もなく、理由も分からず、帰るべき場所に帰ってきたというそのことについてだけ、僕は幸せだと思った。
いったいぜんたいどうして僕はこんなにも恵まれないのだろう、だなんて考えるだけ無駄だよね。今日も連中は加減をしなかったし、とうとう僕はMDプレイヤーまで破壊される始末。ああ、こんなことじゃ、僕は何もかも失ってしまうんじゃないかなぁ、なんて考えていた放課後だった。たったそれだけのことだったんだけれど、僕はもう随分と参ってしまっていたのだね。よくある幻覚なんだろう、痛みを忘れるためにさ、脳が奇妙な麻薬を作り出すことを僕は知っている。ドラマのクライマックスってきっとこんな感じでやってくるんだろうなぁ。僕はきっと幻覚を見ている。あの人がさ、こっちに向かって手を振っているんだよね。ああ、どうしようかな、僕も手を振り返すべきだろうか。でも、僕の右腕はほんの少し折れ曲がって、動かなくなっているんだけれど。笑えるよね、大切なものを守るために、命を投げ出すなんて、まるで物語のなかの主人公みたいだなぁ。煙草を取り出そうとするけど、上手くいかないよ。僕は今屋上にいるんだけどさ、やっぱりおかしいんだ、世界が歪んで、真っ赤に染まっていく。そう言えば、僕をこんな風にしたあの連中はどこに行ったんだろう。どうでもいいや。僕は笑った。
『I sometimes wish I’d never been born at all』
僕はそんなことを口ずさんだ。僕は落ちて行く。落ちて行く途中で、あの人の声を聞いた気がしたんだよね。僕は幸福な気持ちになった。せめてこれから見る夢の中では、あの人と一緒になれれば最高だ。この物語はこれでおしまい。次に目が覚めた時には、もっと愉快な歌を口ずさめるといいなぁ。