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ぱちぱちと火鉢の中で墨が弾ける音がする。
上から下までずぶ濡れになった身体はすっかり清められて、真新しい服に着替えさせられていた。今は火鉢近くの籐でできた椅子に座り、身体を温めている最中だ。
まだ寒気はするが、この程度なら一晩寝れば治るだろう。
鹿角のところではもっと寒くて辛い思いもした。
(頑丈に育った身体が役に立ったわね)
桂々を助け池に落ちると決めたとき、迷わなかった理由の一つはそれだ。
「ありがとう。なんとお礼を言ったらいいかわからないわ」
腕の中にしっかと桂々を抱いた麗妃がもう何度目になるかわからない感謝の言葉を口にする。
「とんでもございません。桂々様が無事で良かった」
これもまた何度目になるかわからない回答だ。
私が池に落ちる音で駆けつけた麗妃は、兵士の腕に抱かれた桂々に気がつき悲鳴を上げた。その悲鳴で集まった兵士たちにより、私は無事に池から引き上げられたのだ。
桂々を受け取ってくれた若い兵士が、私の活躍を説明してくれたおかげで、麗妃によって銀朱宮に招かれ今に至る。
汚れた女官など捨て置けばいいものを、こんなにも至れり尽くせりで接してくるとは想定外だった。
少し恩が売れれば十分と思っていたのに。
騒動の発端である桂々は、私の隣に置かれた籠の中で丸くなり、優雅にあくびをしている。猫とはずいぶん気楽なものだ。
「桂々は陛下が私にくださった本当に大切な家族なの。あの子がいるから私はこの後宮でがんばれるの」
ふっくらとした毛並みを撫でながら語る麗妃の表情には優しさと愛情が浮かんでいる。本当に大事にしているのだろう。
「何かお礼をしないとね。なにがいいかしら」
綺麗な指先を唇に当てうーんと考え込む姿は本当に愛らしい。
雲奎が入れ込むはずだとしみじみ感じてしまう。
「そうだ、ねえあなた……」
何かを思い付いたように麗妃がパンと手を叩いた瞬間、なにやら建物の外が騒がしくなる。
「あら、陛下がいらっしゃったわ」
「へっ!?」
思わず立ち上がれば、まるでそれを待っていたかのように雲奎が宮の中に入ってきた。
慌てて膝を付き、地面に額つけるようにして頭を下げる。
「皇帝陛下にご挨拶申し上げます」
「よい。顔を上げよ」
許しの言葉を噛みしめるようにして頷いてから恐る恐る顔を上げれば、雲奎と麗妃が立ち並んで私を見下ろしてくる。
(雲奎だわ。やっぱり漫画とは全然違う)
宴の席で遠目から見た時から感じていたが、今の雲奎は本当にしっかりとした青年に見える。
健康的な肌つやで白目も透き通るように白い。真っ直ぐに伸びた姿勢の良さからも、自分に自信があるのが伝わってくる。
豊かな髪を結い上げていることもあり、とても若々しい印象だ。
「お前が麗妃の猫を助けた女官か。勇気ある行動、大義であった」
「も、勿体ないお言葉でございます」
まさか雲奎に直接声をかけられるとは思っていなかった。
予想外の収穫ではあるが、いささか都合が良すぎる展開に冷や汗が滲む。
(大丈夫。漫画の小怜が妃になったのは、薬で前後不覚になっていたからの過ちよ。今の私に陛下が興味を持つはずがない)
今の雲奎は、麗妃を一途に寵愛するよき皇帝のはず。
しかしやはり華栖伝でのイメージが強いため、どうしても緊張してしまう。
「何か褒美を使わすぞ。なんでも言うがいい」
「め、滅相もありません。私はただ、麗妃様の大切な桂々様を助けたかっただけで」
「ずいぶんと慎ましいことを言う女官だな」
「私も先ほどから褒美について聞いているのですが、何も望まないと」
「そうか……」
頭上で交わされる殿上人たちの会話を固唾を飲んで見守っていると、再び外から誰かがやってくる足音が聞こえた。
「陛下、ここにいらっしゃったのですか」
(えっ!?)
それは、麗妃を探すために最初に声をかけた兵士だった。
まさかの再会に思わず目を丸くしてしまう。
あちらも私の存在に気が付いたらしく、動きがぴたりととまっている。兜のせいで相変わらず表情は見えないが、なにやら敵意のようなものを感じるのは気のせいだろうか。
「何故この者がここに」
「麗妃の猫を助けた忠信者に褒美をと思ってな」
「褒美……」
ひた、とこちらを見据えているのであろう視線に胃が痛む。
(なんなの。一兵卒のくせに、皇帝と会話をしているなんて)
「いくら桂々殿を助けた女官だからといって、素性の知れぬものを銀朱宮に入れるとは、いささか不用心すぎますよ麗妃」
(えっ!? 寵妃にそんなことを言ってしまうの?)
あまりのことに頭が付いていかない。混乱しながら様子を見守っていれば、責められた麗妃は怒る気配もなく、軽く小首を傾げた。
「あら、大丈夫よ。だって桂々がずいぶん懐いているもの」
「にゃあ」
狙い澄ましたかのように桂々がにゃあと一声鳴いた。
「なっ、桂々殿に懐かれている、だと!?」
兵士はまるでショックを受けたように身体を震わせ、桂々に視線を向けた。
すると、桂々は不満げに視線をぷいっと逸らしてしまった。どうやらこの兵士は桂々に嫌われているようだ。
「あらあら。桂々は相変わらず莫将軍に冷たいのね」
クスクスと楽しそうに笑いながら麗妃が桂々を持ち上げる。
ぐんにゃりとした身体は無抵抗に麗妃の腕に収まった。綺麗な主に抱かれた桂々は、機嫌良さそうに尻尾を揺らしていた。
「……ん?」
今とんでもない単語が聞こえた気がする。
私は麗妃とその腕に抱かれた桂々、それから兵士へと順に視線を動かした。
「莫将軍?」




