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返事を待たずに私は駆け出していた。
妓女の踊りに集中している雲奎は、麗妃が退席したことに気が付いていない。だが、瑠妃だけは目線で麗妃の動きを追っていた。その表情に混じるのは僅かな喜色。
作中では麗妃の死は事故死扱いだった。でも、麗妃を取り巻く状況を考えれば瑠妃が手を下したと考えてもおかしくない。
(今は冬じゃない。でも、今日は朝からほぼ日が照っていないし気温も低い)
もしこんな日に池に落ちたら。
医学の発達した現代ならまだしも、この時代の医療で命を助けられるとは思えない。何より、あんなゴテゴテとした衣装で池に落ちたら絶対に溺れてしまうだろう。
(もし今日がその日だったら取り返しがつかない)
食器を下げる振りをして高台近くへ近づいてみると、すでに麗妃の姿は見えなかった。不思議なことに、高台から裏庭へ向かう道に警備の兵士が殆ど立っていない。
(たしか、この先には大きな池があったはず)
気配を消しながらその道を辿れば、少し離れたところから「桂々」と呼ぶ声が聞こえてくる。
松の幹に身体を隠して様子を窺えば、二人の女官を伴った麗妃が、いろいろな樹木の植えられた庭を歩き回りながらしきりにいなくなった猫の名前を呼んでいるのが見えた。
遠すぎてそれ以外の声は聞こえないが、お付きの女官たちは猫よりも麗妃が心配なのだろう。早く戻ろうとなだめているようだ。
(護衛の兵士どころか、官吏すら付いていないなんて)
いくらすぐそばで宴が開かれているとはいえ、無防備すぎないだろうか。
(もしこれが罠で、これからあの事件が起きるのなら……)
そこまで考え、私はすぐにその場から踵を返す。
元来た道を辿り、宴の場所に戻ると高台の近くを歩いている兵士の前でわざとらしく身体をよろけてみせた。
「おい、大丈夫か」
「ああ、すみません。急いでいたもので」
顔を隠しながら弱々しい声を出す。
「何をそんなに急ぐことがある。お前、どこの女官だ」
流石は皇帝を守る兵士といったところだろうか、突然現れた小怜にすぐに警戒態勢を取る。
一般兵の制服を身にまとっているわりに、ずいぶんと体格のいい兵士だった。兜を被っているせいで顔は見えないが、隙間からわずかに除く黒い瞳は涼しげで、妙な色気がある。
「おい、答えろ」
「は、はい……実は麗妃様のお姿が見えず探しているのです。先ほど、猫を追いかけて裏庭に行ったというのですが……」
「なんだと」
兵士は鋭い声を上げると小怜から離れ、高座を確認するようにのぞき込む。事実、麗妃の姿が見えないことを確かめると、すぐに傍にいた兵士たちに声をかけた。
「麗妃様を探せ。専属の護衛や、官吏たちもだ」
キビキビとした指示に周囲の兵士たちが一斉に動き出す。
「おい、お前は……」
声をかけられる気配を察した私は、わざとらしく「麗妃様~」と声を上げながら再び裏庭の方へと向かった。
背後では先ほどの兵士が何かを叫び、追いかけてくる気配がある。
(よしよし)
先ほどの場所までもどってくると、すでに麗妃の姿は見えなくなっていた。
奥へと急げば、池の近くを麗妃が歩いているのが見えた。桂々を呼ぶ声はわずかに震えていて、よほどあの猫が大事な存在なのだろう。
(どこに居るのよ、あの御猫様は)
池の周りに視線を巡らせると、水面に張り出すように伸びた松の枝が奇妙に揺れているのが目にとまる。細く伸びた枝の先端には、何やらフワフワとした毛玉が動いている。
「嘘でしょ!」
思わず声が出てしまった。
桂々はあろうことか、池にせり出した松の枝に乗っかっているのだ。
「なんであんなところに? 猫って水が嫌いなはずなのに」
桂々を怖がらせないように足音を殺しながら枝へと近づけば、答えはすぐにわかった。木の根元に、数匹の蛇が巻かれているのだ。しかも、ご丁寧に楔で地面に打ち付けてある。
猫は蛇を嫌う。それを利用して、誰かが桂々をこの枝の上に追い込んだのだろう。
桂々はそのふわふわとした身体を丸め、枝の上でか細く鳴いていた。降りるに降りられなくなっているのがよくわかる。
「それにしても、どうやってここまで……ん?」
更に周囲を確認すれば、小さな枝が散乱している。手に取ってみれば、なんだか懐かしい匂いがした。
「これって、マタタビの木じゃない」
つまり、桂々はマタタビでここまで連れてこられ、木の枝に放置された。その上、蛇を仕込んで降りられないようにしたのだ。
「動物虐待じゃない。腹立つ!」
ふつふつとこみ上げてくる怒りに眉を吊り上げながら、私はマタタビを持ち上げ、桂々へと差し出す。
「おいで。こっちにおいで」
私の声に反応し、桂々がニャーとか細く鳴いた。しかしこちらに来る気配はない。
「うう……やっぱり無理か」
不安定な枝の上、足元には蛇。いくらマタタビを持っていても、こちらに飛びついてきてはくれない。
遠くから麗妃の声が聞こえ、桂々がか細く鳴き返す。
彼女がここまで来るのは時間の問題だろう。いなくなっただけでここまで探しに来る溺愛ぶりだ。この姿を見れば自分で助けようとして枝に登りかねない。
(これが死因だとしたら、犯人は相当ねじくれてるわ)
迷っている時間は無い。私は靴を脱ぎ捨て袖をまくると、えいやと木に飛びついた。ざらりとした松の表皮が肌にこすれて痛いが、泣き言は言っていられない。
太い幹はいいが、問題は枝だ。猫ならいいが、私が乗れば折れる可能性が高い。
「こっちにおいで。ね、助けてあげるから」
マタタビの木を振ってやれば、桂々がおずおずとこちらに近づいてくる。
麗妃に大切にされているから、基本的には人なつっこいのだろう。手の届くところまでやってくると、にゃあと甘えた声で鳴き手の甲に額を押しつけてきた。
「ほら、おいて。よしよし、もう大丈夫よ」
ふんわりとした身体を抱きかかえれば、ぐるぐると喉が鳴る音が響く。
ほんわかとしたぬくもりと僅かな重みに、状況を忘れて心が安らいでしまった。麗妃が猫を溺愛する理由がなんとなくわかってしまう。
「よかったぁ……」
ほっと息を吐いた瞬間、ミシリと枝が悲痛な音を立てた。このままでは間違いなく池に落ちてしまう。
桂々がみゃうと鳴いて服に爪を立てた。
「おい、お前! 何をしてる!」
「!?」
突然聞こえた大きな声に振り返れば、松の幹近くに、若い兵士が立っているのが見えた。
「それは麗妃様の猫ではないか。お前、一体なにを」
「助かった!」
「は?」
兵士が間の抜けた声を上げる。
戸惑っているのがわかるが、一刻を争う事態だ。
「この子が降りられなくなっていたの。早く、麗妃様のところへ」
「なっ!? おい!!」
考えるよりも先に身体が動いていた。
今にも折れそうな枝のうえで立ち上がり、勢いよく腕を伸ばす。桂々には申し訳ないが緊急事態だ。小さな毛玉が弧を描き、兵士の腕へとすっぽり収まる。
それと同時に、枝がぼきりと音を立てて完全に折れた。
「ひゃあ!」
なんとも間抜けな声を上げ、私は池へと落下したのだった。




