09
上まで見上げると首が痛くなりそうなほどに大きな皇城の正門を見上げ、私はきゅっと唇を引き結んだ。
(華栖伝そのままじゃない)
物語の中で、主人公はなんどもこの正門を睨み付けていた。この中にいる皇帝への憎しみを募らせた表情だったり、決意に満ちた表情だったりと様々だ。
心の片隅ではまだ信じ切れていなかった現実を突きつけられた思い半分と、いわゆる聖地を目の当たりにした感動をない交ぜにしていると、隣に立っていた拓師がコホンと短い咳払いをする。
「小怜。お前は若い割りには理解が早く、要領も良い。後宮でも十分勤めていけるとは思うが、どうか自分を大切に過ごすのだぞ」
「拓師もお身体をお大事にお過ごしください」
深々と腰を折れば、拓師は静かに頷く。
「もしどうしても後宮での仕事が苦しいときは手紙を寄越しなさい。儂の店で雇ってやることもできるし、結婚相手を探してやることもできる」
「……はい」
じん、と胸の奥が痺れた。
拓師の元で過ごした半年間、あまり言葉を交わすことは無かったがまるで本当の親のように見守ってくれていたのだろう。
(この人のためにも、頑張ろう)
そう、再び誓いながら拓師に頭を下げ、私は紹介状を片手に正門をくぐった。
「新入りさん、水が足りないよ。早く汲んできてちょうだい」
「わかりました!」
女性ばかりで華やかな暮らしをしていると思っていた後宮だが、実際はとにかく毎日朝から晩まで忙しい。鹿角のところに比べれば多少はマシではあるが、下っ端女官などただの労働力に等しい。
後宮に入って二ヶ月ほどが過ぎたが、いまだに仕事場と居住区以外の場所に出る隙すらないほどだ。
私が配属されたのは、炊事場だった。
新人は洗濯場か炊事場のどちらかからはじめるのが習わしらしい。なぜならば両方ともとにかく朝が早い上に過酷な肉体労働。新人を鍛え上げながらこき使うには最適だろう。
(本当は洗濯場がよかったんだけどな)
洗濯場ともなれば、皇帝や妃の衣類を見る機会があったに違いない。衣服にはその人間の癖が出る。汚れやすい場所や、痛みやすい場所、皺の寄り方などなどからおおよその性格を読むこともできる。
仕上がった洗濯物を届けるついでに、顔を見る機会もあったろうに。
(食事からでも色々わかるんだけど、あまりに下っ端過ぎてメニューすらわからないし)
大厨房では皇族の食事は作らない。材料を選別したり下ごしらえはするけれど、食べられるようにする調理は、それぞれの住居である「宮」に備え付けられた厨房で行われるのだ。
これは、毒の混入などを防ぐためだったり、料理が冷めたり傷むのを防ぐためだ。
なにせ後宮は一つの大きな町ほどの広さがある。大厨房で作った食事を届けていたらあたたかいものは冷め切ってしまうし、夏場ともなれば傷んでしまう食材も多くなる。
大厨房では皇族に届けるための食材を揃えるのが一番の仕事だ。朝イチで運び込まれる大量の食材を選り分け、季節や好みに合わせてどこの宮に何を送るのかを決める。米や麦、塩などの注文を請け負い買い付けるのも厨房女官の大切な役目だ。
とはいえ、新人に任されるのは殆どが水くみや食材の運搬などの雑用ばかりで、皇帝どころか妃の食材を見るような機会にはまだまだ間恵まれそうもない。
「こんなに忙しいとは想定外だったわ」
「なにが想定外なのよ」
「緑汐」
せっせと井戸から水をくみ上げていると、女官仲間の咏緑汐が肩を叩いてきた。年は今年で十八と私よりも二つ上だが、肉付きの薄いすらりとした体型とあどけない顔立ちのせいであまり年上とは感じない。
「水くみを頼まれるなんて、めずらしいわね。手伝うわ」
「ありがとうございます」
腕まくりをしながら井戸縄を持ってくれる姿は大変頼もしい。
十五から後宮に勤めている緑汐は、真面目で勤勉な働きぶりもあり、上から目を掛けられている。人を見た目や立場で判断せず、誰に対してもハキハキとした物言いをするのが好まれるのだろう。彼女と同室にしてもらえたことは幸運だ。
上下関係が大事だろうと『緑汐さん』と話しかけたらすぐに『さん付けなんで堅苦しいのやめてよ』と言われたことを思い出す。
(緑汐は華栖伝には出てきてないのよね)
今のところ、華栖伝に登場したキャラクターには遭遇していない。拓師など名前だけ出てきたキャラクターばかりだ。年齢を考えれば、どこかの誰かに縁づいていてもおかしくない。
(まあ物語が始まるのは今から十年後くらいだから当然なのだけれど)
「で、なにが想定外だったの?」
「この忙しさです。後宮ってもっと人が多いと思っていたので」
「ああ……」
水桶を手渡してくれながら、緑汐が大きく頷く。
「みんなそう言うわ。これでも増えてきたのよ。私がここに入ったときは、今の半分ほどしか女官もいなかったもの」
「半分!」
思わず声が出てしまう。
「しょうがないのよ。先帝が身罷ると穢れ落しも兼ねて、女官はほとんど出て行くからね。新帝の即位にあわせて新しい女官を迎え入れて、皇紀を改めるのよ」
中々に厳しい決まりだが、理には叶っている。
古い規律を優先させる人間が多いほどに、新しい人間は萎縮しがちだ。皇帝が変われば、先帝の妃たちも皇城の外に住まいを構えることが多い。
殆どの女官は自分が使えていた妃について後宮を出て行き、古参の女官たちは実家に帰ったり、結婚して退職をするのだという。
「それならもっと人を雇えばいいのに」
後宮女官と言えば、若い娘には憧れの職場だ。
信用のおける紹介は必要だが、給与は高くうまくすれば皇帝のお手つきになるものも多い。場合によっては、兵士や軍人など高貴な人間と縁づくこともあるという。
「今の陛下は清廉な方で、審査が厳しいの。身元が確かで確実な紹介状が必要だから、人が増えないのよね」
清廉という言葉は私が知る皇帝のイメージと真逆で、どうにもしっくりこない。
確かに今の後宮は忙しいものの、風紀が乱れた様子もなく、皆勤勉な人間ばかりで働きやすいこともあり、とても和やかな雰囲気だ。厳しい上下関係はあるものの、あくまでも仕事場でのことだし。
(これがあと十年でクーデターを起こされるほど乱れる後宮だなんて信じられないわよね)
「でもおかげで変な人間も入ってこないからいいのよね。小怜みたいに真面目な子があと百人は欲しいわ」
「百は多過ぎですよ」
「いいえ。今はまだお二人しか妃がいないからこの人数で事足りているだけよ。」
妃、という言葉に思わず心臓が跳ねる。
「まだ麗妃様と瑠妃様にはお子様がいらっしゃらないから、そのうちお妃様が増えると思うわ。そうなれば今のままじゃ到底足りないわ」
「そうですね」
平静を装いながら私は緑汐の言葉に耳を傾ける。
この後宮には二人の妃がいる。
どちらも即位にあわせて後宮入りしており、二人ともまだ側妃のままだ。先に皇子を産んだ方が皇后に命じられるのではないかと言われているが、どちらにもその兆しはない。
麗妃こと、景麗明。
彼女こそ、華栖伝の中で皇帝が最も寵愛したされる側妃。生家である景家は歴史こそ古いものの、権力からはほど遠い小さな家門。そのため、後宮での地位はあまり高くない。住まいは後宮の奥にある銀朱宮。
華栖伝では回想シーンにのみ登場する故人で「もし麗妃が生きていれば皇帝もここまで身を持ち崩さなかっただろう」と語られるほどに、謙虚で聡明な女性だったらしい。
実際、伝え聞く麗妃の評判はとてもいい。女官や官吏相手でも威張り散らすこともなく、いつも穏やかに微笑んでいるそうだ。皇帝も頻繁に銀朱宮に足を運んでいるという。
(まずは彼女を死なさないことが目標ね)
目下の目的はなんとしてでも麗妃付きの女官になって、彼女の死を回避すること。
彼女は真冬に庭園の池に落ちてしまい、そのまま命を落してしまったということになっている。肌寒くはなってきたが、まだ冬と言うほどの季節ではないので余裕はあるはず。
詳しい死亡年がわからないが、なるべく早く懐に潜り込んでおくべきだろう。
対するもう一人の妃、瑠妃こと菅瑠杏。
彼女は時の丞相である菅梁卓の娘ということもあり、多くの女官たち瑠妃に媚びへつらえている。住まいは青圭宮。皇帝の寝所近く、豪勢で大きな宮らしい。
華栖伝の中では皇后にまで上り詰めていた。父親の丞相と一緒になって権力を傘にきてやりたい放題する悪女キャラだ。
しかしそんな瑠妃の栄華は長くは続かない。彼女は中毒性のある薬にのめり込み、幼い皇子を残して病死してしまう。
その後に、皇帝をどこまでも堕落させるラスボス悪女が現れることになる。
(ま、それはもっと先の話。とにかく今は、麗妃に近づく手段を考えないと)
「水を運んでしまいましょう」
「はい」
桶いっぱいになった水を持って厨房に戻れば、なにやら人だかりができていた。
私と緑汐は顔を見合わせ、何があったのかとそちらに駆け寄っていく。
「どうしたの?」
「ああ、緑汐に小怜か。実は困ったことになったんだ」
眉間に深い皺を寄せているのは、厨房係のとりまとめ女官の弓林だ。
体格のいい中年女性で、先帝の時代から厨房で包丁を握っている数少ない古参でもある。
「困ったこと?」
「実は、瑠妃様が麗妃様を招いて茶会をすると急におっしゃられて。胡麻を使ったお菓子を出せと……」
「胡麻ですか? ではいつもように、麻餅でよいのでは?」
麻餅は薄くのばした餡餅の周りに胡麻をつけて揚げたお菓子だ。パリパリとした食感と香ばしい胡麻の香りに加え、薄く伸びた餅と餡のの甘さが組み合わさった茶菓子である。
「それがねぇ。麗妃様は胡麻が苦手なの。お嫌いというより、食べると体調を崩されることがあるので、食材には使わないようにお願いされているのよね」
弓林の表情には隠しきれない疲れが滲んでいる。よほど、瑠妃側からきつく命令されているのだろう。
(胡麻を食べると体調を崩す。アレルギーかしら)
この世界ではまだ該当する言葉自体がないが、特定の食材に身体が反応してしまう体質はこの世界にも存在するようだ。
弓林の言い方でから考えるに、麗妃の胡麻アレルギーは体調が優れないときや、摂取量によっては具合が悪くなってしまうような軽度のものなのかもしれない。
「同じ側妃とはいえ、立場は瑠妃様の方が上だから、お菓子に手を付けないわけにはいかない麗妃様のことを考えると、麻餅を出すのははばかられてねぇ。かといって、他の菓子と言っても思い付かないのよ」
ううん、とうなる弓林に釣られ他の女官たちも表情を曇らせる。
(想像以上に二人の仲はわるいみたいね)
というより、瑠妃が一方的に麗妃を敵視していると考えるのが通りだろう。
皇帝の寵愛を一身に受ける麗妃を、隙あらば蹴落としたいと考えるのは当然の流れだ。
もし、麗妃が先に身籠もれば立場はあっというまに逆転してしまう。
女官たちにしてみれば、優しい麗妃を苦しめたくはないが、瑠妃の命令に逆らうわけにも行かない。そんな葛藤が見えて、この後宮で働く人々の心根の良さが伝わってくる。
(ん? これってもしかしてチャンスなのでは?)
「あの」
私は思わず片手をあげていた。周りの視線が一気にこちらに集まる。
「胡麻の餡を作ってはどうでしょうか」
「胡麻の餡? なんだいそれは」
「黒ごまを細かくすりつぶしてよく練ると、油が出てきて粘り気のある餡のようになるのです。それを普通の餡に練り込めば胡麻餡になります」
前世で健康ブームのようなものがあり、自家製練り胡麻なるものを作ってみたことがあったのだ。
まさかその記憶がこんなところで役立つなど思わなかった。作ったはいいが、使い道に困ってあれこ料理に使ってみたのだ。
「へぇ。そんな料理があるのかい。でも、それがどうしたって? 結局は胡麻を使うんだろう?」
「見た目には殆ど変わらないのですよ、胡麻餡と餡は」
私の言葉に弓林は一瞬だけ考え込むと、すぐに言いたいことを理解してくれたらしい。
「麗妃さまのお菓子には胡麻餡を使わずに普通の餡をつかえばいいのか」
「はい。大皿に乗せてしまうと分らなくなってしまいますので、小皿でそれぞれにお出ししましょう。間違っても取り違えないように瑠妃様には金飾の華やかなものを、麗妃さまには無地で落ち着いた皿にして見た目に格を別けるのです」
「なるほど!」
善は急げとばかりに、弓林はありったけの黒胡麻を細かく砕きすりこぎで練りはじめた。
流石は長年厨房女官をしているだけあって、手際は完璧だ。作り置きしてあるあんこに練り胡麻を混ぜ込めば、あっというまに胡麻餡が完成する。
見た目には殆どかわらないそれを、弓林が一口パクリと味見する。
「これは……! 胡麻の風味と香ばしさが餡に混ざってさっぱりとしているね。こんなに味が変わるとは思わなかったよ」
「瑠妃さまもこれならきっと喜んでくれる」
作るお菓子が決まってしまえば、さすがは慣れたものというところだろうか、手早い動きでどんどんとお菓子が作られていく。
餡を使ったお菓子は多岐にわたるが、きょうは定番の餅を作るようだ。真っ白な餅の中に餡を詰め、妃たちが一口で食べられるサイズのものをどんどん作り上げていく。
そうして見た目身はまったく同じだが、胡麻餡と通常の餡を使った餅が完成したのだった。
受け取りにきた青圭宮の女官に「莉妃様のお菓子は皿を特別にした」と説明すれば、よく心得た厨房係だと納得してくれたので、間違っても逆に配膳されることはないだろう。
「うまくいってくれるといいんだけどねぇ」
お茶会の場に厨房女官は近づけない。私たちにできることは、ただ祈ることだけだ。




