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「怜々よ。お前の名は今日から小怜だ」
「……は?」
思わず間抜けな声が出てしまう。
それが気に食わなかったのか、目の前に仁王立ちしいている父親が、不機嫌そうにふん、と鼻を鳴らした。
齢四十を過ぎているにもかかわらず肌つやはよいが、唇の色は悪い。酒の飲み過ぎで内臓が荒れている証拠だろう。
白目もわずかに濁っているし、そう長生きはできないのがわかる。
最近流行の真新しい胡服を身に付け、金や翡翠を遇った派手な帯を腰に巻いているくせに、靴だけは長く履き古した麻靴のまま。
靴だけは何があっても人には売れないからと履けなくなるまで履きつぶす癖は、それなりに成功した今でも抜けないところが、実は小物であることを物語っていた。
目が離れているのでどこか蛙に似た顔立ちもあり、裏では引蛙などと呼び捨てにされている。
「聞こえなかったのか。相変わらず愚図な娘だ。いいか、お前は今日から名を小怜と改める。十六歳になったのだ。そろそろ幼名を名乗るのはやめてもらおう」
何という身勝手な物言いだろうとふつふつと怒りがこみ上げてくる。
やめるもなにも、なかなか改名してくれなかったのは一体誰だと思っているのだ。本当なら十五歳を過ぎれば幼名を卒業するのが普通なのに、今日まで放っておいたくせに、と。
(反論しても無駄だろうけど。むしろ、よく改名を思い出したわね)
ここは大陸に西部にある小国・苔古。様々な国へと続く街道が集約した立地であることから、交易国としてそこそこ栄えている。他国に攻め入られないのは、周りを囲む山脈と狭い入り江という特殊な地形のおかげである。要は中立地域なのだ。
私の父親は目の前にいる鹿角。
この国ではそこそこ名の知れた商人で、首都に大きな屋敷を構えている。産みの母はこの南家で飯炊きをしていた若い娘だったそうだ。
豊かな黒髪に黒猫を思わせるような凜とした顔立ちをしていたと、母を知る古参の使用人から教えてもらったことがある。そして私はそんな母にうり二つだという。
産後すぐに妾の存在を疎んだ正妻によりここを追い出されているため、一度も会ったことはない。幼いころは母を恋しいと思ったこともあったが、今となっては母はここから逃げて正解だと思っている。ここではないどこかで、元気に暮らしていければいい。
何せ、この鹿角という男はとんでもないケチで人使いが荒い人物なのだ。使用人たちの給金は相場以下。労働環境は最悪。体を壊して宿下がりする者も少なくない。
そのくせ女には目がなく、私以外にも使用人が産んだ子供がごろごろしているという、最低の男だ。
正妻の産んだ子供たちはいつもきれいな服を着せられ屋敷の奥で大切に育てられているが、私のような使用人が産んだ子は「無料の労働力」と思われているらしく、幼い頃から朝から晩まで働かされていた。
特に私は正妻に嫌われていることもあり、他の兄弟たちよりも扱いが酷かった。
食事を抜かれるのは当たり前。成人男性がするような仕事を任されることもあったし、外に一人で使いに出されることもあった。だが。
(まあ、私にはそんなことをしても無駄なんだけどね)
普通の子どもだったらとっくに心を病むか、身体を壊してしまっている境遇だったろう。
しかし、私は平気だった。何故なら私にはこことは違う世界で生きた『前世の記憶』があるのだから。




