最終章 忘却と再会
翌朝、俺はいつもより早く学校に着いた。眠っていない。眠れなかった。まぶたの裏に残った月の光の残滓と、腕に残ったぬくもりの記憶と、最後に散っていった光粒の感触が、夜の終わりまで俺の胸を占領していた。
校門をくぐると、風はいつもの匂いで、校舎はいつもの色だった。昇降口の鉄の匂い、廊下のワックス、掲示板の貼り紙。どれも同じで、ひどく違っているのは俺の内側だけ――のはずだった。
教室のドアを開ける。
次の瞬間、心臓がひっくり返る音がした。
「おはよー……って、おい、鉄。どした。ゾンビみたいな顔」
頬に健康な赤み、背筋はまっすぐ、いつもの笑い皺。その声、その調子――甚太がそこにいた。
昨日、病室の白に溶けかけていたあの甚太が。
痩せこけて骨の棒みたいだった腕は肉付きが戻り、瞼の下の影は消えている。点滴の管も、病衣も、痩せた輪郭も、何ひとつない。
何事もなかったかのように、自分の席に座って、机にサッカーボール柄のペンケースを投げ出して、俺にいつもみたいな悪態をつく幼馴染がいた。
「……お前、なんで」
「なんでって?」
「なんで、死にかけてたじゃないか」
口から勝手に出た言葉に、甚太は眉をひそめる。
「は? 何言ってんだお前。俺、昨日はオフで家にいたし。夜はゲームして寝落ちした。夢か?」
俺は言葉を失った。
昨日の病室は、夢だったのか。いや、違う。あれは確かに現実だ。あの白の匂い、消毒液の刺激、機械の規則正しい音、蓮花のかすれた声、そして――。
視線が自然に隣へ滑る。
「今日の鉄、変よ」
机の上で肘を組んで俺を覗き込む隣の席――花蓮が、心配そうに眉を下げていた。
その顔もまた、昨日の病室で泣きながら叫んだ彼女の顔とは違って、いつもの、俺を叱り飛ばす前の顔だ。
「どっか痛いの? 頭? お腹? それとも心? ……とにかく、保健室行く?」
「いや、俺は――」
そこで初めて、あたりの“異変”に気づいた。
俺の視線が自然に向かってしまうはずの窓際の席、そこにある“はず”の気配。いつも、あの席から凪いだ風みたいな視線が俺へ届いていた。
今朝の教室には、あの席の“物語”が存在していない。机は一つずつ整然と並び、席表は十六×十六の単純な配列になり、どこにも“転校生のための空席”も、“彼女の置いていった消しゴムのかけら”もない。
俺たちの生活の中心だった話題――椿小夜についてのざわめきは、どこにもなかった。
男子は相変わらず部活の話で騒ぎ、女子は文化祭の準備で計画を立て、誰も、彼女の名を出さない。
「……なあ、転校生って来ただろ」
俺は隣に身を寄せ、小声で花蓮に聞いた。
「転校生? え、どこの話」
「このクラスに。ほら、椿――」
言いかけた名前が喉でひっかかる。音にならない。
花蓮は本気で不思議そうに首を傾げた。
「鉄、寝不足でしょ。うちのクラス、増減なし。ずっとこのメンバーだよ」
ホームルームが始まり、担任が朝の連絡を始める。
先生の口から出てくるのは、いつもどおりの連絡ばかりだ。転入生の話なんて一言もない。
俺は挙手したい衝動を抑え、授業が終わるや否や職員室に走った。担任はコーヒーをすすっていた。
「先生、転校生の件で質問なんですが」
「ん? どの件?」
「椿、小……」
音になる前に、名前が砂みたいに崩れ落ちる。
担任は苦笑いした。「鉄弥、今日の君はやけに不思議な夢を見てるね。――転入の予定は、この学期ありません」
放課後、俺は三年棟へ向かった。
テニスコートの脇で汗を拭う三木谷先輩を捕まえる。彼は相変わらず女子の視線を一身に集めていた。
「先輩、少しお時間いいですか」
「ん、後輩くん、なんだい」
「最近、誰かに告白したり、誰かとデートしてました?」
「急に何の取材? ……いや、テニスと受験でそれどころじゃないね」
目が泳いでいない。本当に“ない”のだ。
“街でデートしていた先輩を見た”という複数の目撃談、彼女の噂で持ちきりだった日々、廊下にできた人垣、屋上の影――そのすべてが、俺の世界からだけ抜き取られて残ったのだと悟る。
俺はスマホを開いた。
メッセージの履歴をさかのぼる。
――ない。
検索窓に“椿”“小夜”“Sayo”と打つ。
ヒットしない。
あの夜の「大丈夫」は、どこにも残っていない。
写真フォルダをめくる。
海。線香花火。満月。砂の足跡。
四人で撮ったはずの自撮りは、三人で笑っている写真に変わっていた。空いた一角に、波の飛沫だけが白く写っている。
心臓が、深いところへ落ちていく。
保健室でも、教務でも、図書室でも、誰も、彼女の名を知らなかった。
まるで最初からいなかったかのように、いつも通りの日常は続いていた。
黒板に書かれた板書、昼休みの購買の列、騒ぐ男子、笑う女子、下駄箱の砂、昇降口の靴音。
その中で、俺だけが異物だ。
俺だけが、昨夜の光を知っている。
夕方、屋上に出た。
フェンス越しに見える海は、校舎の窓ガラスを淡く染めている。
風が吹き、シャツを引く。
ポケットの中には、小さな紙箱――あのペンダントを買った店でもらった、空の箱がある。
リボンをほどいた跡が残っている。中は空洞。
空洞は、俺の胸の中の空洞と同じ形をしていた。
――小夜は本当に、いなくなった。
この世界から。
この時間から。
この学校の誰の記憶からも。
そして、俺の腕から。
それでも、俺は、忘れない。
誰も知っていなくても、誰も覚えていなくても、俺だけは覚えている。
海に浮かぶ月の道、線香花火の最後の一滴、胸元で揺れた小さな満月、やわらかな笑み、最後に散った光の粒。
それら全部を、俺は抱えて生きていく。
届かない月の下で、届かないものを抱くやり方を、俺は昨夜、学んだのだから。
俺は空へ、声にならない声で誓った。
――忘れない。
――忘れたふりをしない。
――前を向く。
それは矛盾しているけれど、矛盾のどちら側も、俺の中では同じ強さで生きていた。
*
数年が過ぎた。
高校を卒業し、県外の企業に就職した。引っ越しの段ボールに、浜の砂がどこからか紛れていた。靴の底に入り込んだまま連れてきてしまったのだろう。新しいアパートの床でその砂をつまんだとき、時間の匂いがひとつ溶けた。
仕事は忙しく、朝は早く、夜は遅い。
満員電車で肩を押され、昼休みはコンビニのおにぎり、会議の資料は積み上がり、成果も叱責も数字で表される。
それでも、ときどき、会社のビルのガラスに映る夜の月を見上げた。ガラスは月を二枚にし、地上の光と溶け合わせる。胸の中で、きらり、と微小な何かが光っては消えた。
俺は誰かと付き合ったり、別れたりするほど器用ではなかった。飲み会の席で恋愛の話題になると笑ってごまかし、休日は洗濯機を回して近所の川沿いを歩いた。
川べりの風は海とは違って、甘い草の匂いがした。月は相変わらず届かなかった。
それでも、届かないものに手を伸ばす癖は、やめなかった。
盆の少し前、俺は久しぶりに故郷に帰省した。
新幹線を降りると、空気の粒が大きい。吸い込むだけで肺が広がる。
駅前のロータリーは少し整備され、知らないカフェができていた。けれど、バス停のベンチの古さは変わらない。
家に寄って荷物を置き、母親の作った味噌汁をひとくち飲んで、それから「ちょっと、海」と言って家を出た。
坂道を下る。
潮の匂いが、記憶を丁寧に撫でてくる。
信号を二つ渡り、商店街を抜け、賑やかな時間帯を避けるみたいに路地を曲がる。
堤防の上に立つと、海は、あの頃より少しだけ広く見えた。
浜に降りる。
砂が靴を包む。
波が寄って、返す。
何年も経ったのに、足が勝手に“あの場所”を探す。線香花火の火が泣いた場所、満月の道が太かった場所、最後に光が散った場所。
そこに立つと、胸の中に誰かが指を入れて、落ち葉を払うみたいに優しく古いものを揺らした。
歩きながら、ふっと笑ってしまう。
甚太の馬鹿笑い。花蓮の「マヨネーズは正義」。俺の鼻の下が伸びるたびに彼女が拳骨をくれたこと。
記憶は残酷でもあり、やさしくもある。
抱えたまま歩ける重さにしてくれることがある。
少し先に、人影が立っていた。
夕方の光に逆らって、細長く伸びる影。
胸が跳ねる。
四年分の時間を飛び越えるみたいに、心臓が無作法なリズムを刻む。
シルエットは、あの夜と同じ肩幅で、同じ髪の長さに見えた。
服の裾が風を孕む。
月はまだ出ていないのに、俺の目は勝手に彼女を月の輪郭で縁取る。
高鳴る鼓動を押さえながら、俺は駆け足で近づいた。砂が飛ぶ。呼吸が浅くなる。
そして、勇気を、いや、祈りを振り絞って声をかける。
「あの――」
振り向いた顔は、小夜ではなかった。
けれど、俺の胸に落ちたものは、落胆ではない。驚きと、懐かしさと、少しの照れ笑いが混じった何か。
そこに佇んでいたのは、花蓮だった。
「……花蓮」
自分の声が、風に乗って彼女へ届く。
彼女は目を丸くしてから、ふっと笑った。
「ひさしぶり、鉄。帰ってきてるとは思わなかった」
彼女は大人になっていた。
髪は肩のあたりで軽く結ばれ、服の色は落ち着いている。高校の頃の活発さはそのままに、輪郭のどこかに“覚悟”の影が薄く差していた。
笑うとき、目尻に小さな皺が寄る。その皺は、昔からそこにあった気がするのに、今のほうがよく似合う。
「偶然だな、ここで会うなんて」
「私は偶然じゃないよ。たまに来るの、ここ。……海は、塩と笑いとどうでもいい言葉の味がするから」
懐かしい言い回しに、笑ってしまう。
「相変わらずだな」
「鉄も相変わらず。まず“相変わらず”って言うところから入る」
二人で浜を歩く。
波打ち際ぎりぎりを避け、少し内側を選ぶ歩き方も、あの頃と似ていた。
話すことはたくさんあるのに、焦らない。
話さなくても、波が適当に間を埋めてくれる。
「甚太は?」
「元気。相変わらずモテるよ。で、相変わらず自覚がない。サッカーは地域のクラブで続けてるよ。子どもたちのコーチやってる」
「似合うな」
「ね。私は、地元の病院で働いてる。慌ただしいけど、嫌いじゃないかな」
「らしいよ」
そう言うと、花蓮は満足そうに笑った。
彼女が誇らしげに笑う姿を見ると、胸の中に明かりが灯る。
それは小さな明かりで、風に揺れるけれど、消えない。
「鉄は? 向こうの暮らしは」
「忙しい。けど、海を思い出す余裕くらいはある」
「ふふ。じゃあ、合格」
「なにに」
「人間として」
軽口が自然に戻る。
俺は、少しだけ救われる。
地面に影が伸び、二人分の足跡が並ぶ。波が片方の足跡をかすめる。もう片方は残る。やがて、逆になる。
残るものと消えるものの交互は、どこかで見た光景だった。
「鉄」
花蓮が呼ぶ。
名前を呼ばれるたびに、俺の中のどこかが正しい位置に戻る。
「……ねえ。今度、海じゃなくて山でピクニックしない?この町、山も近いの。季節の果物が取れるよ。私、サンドイッチ作る」
心臓の鼓動が、波と同じ速度になる。
「俺、飲み物用意する。マヨネーズも持っていく」
「やめて。マヨは正義だけど、ピクニックにはルールがあるの」
「ルール守るのか、正義を貫くのか」
「臨機応変よ」
笑い合う。
夕陽が少し傾く。
海が赤みを帯びる。
俺はポケットからスマホを取り出しかけて、やめた。
いまは、記録より記憶でいい。
記憶は、消えることもあるけれど、残ることもある。
残すという意思が、残ることを手伝う。
「連絡先、教えて」
花蓮がさらりと言う。
俺はうなずいて、スマホを渡した。
彼女は器用に入力して、俺の画面に“花蓮”の新しい通知が灯る。
その名前は昔から見慣れているのに、今のほうが新しかった。
「鉄」
「ん」
「ねえ、歩こう。もう少し」
俺たちは並んで歩いた。
夕方の浜は、やさしく、静かだ。
遠くの防波堤で灯りがひとつ点き、すぐに二つ、三つと増える。
風が吹き、彼女の髪の先が頬に触れる。
俺は目を閉じず、前を向いた。
届かない月の代わりに、これから上る街の明かりを見た。
胸の中で、古い誓いが、別の形で息を吹き返す。
忘れない。
そして、忘れたふりをしない。
そのうえで、前を向く。
“前を向くこと”の隣に“隣で歩く誰か”がいるなら、それはきっと、間違いじゃない。
足元で、波が一度、ひざしぶきを上げた。
花蓮が小さく跳ねて、笑う。
俺も笑う。
その笑い声は、潮風に混じりながら、確かにここに落ちた。
新しい恋の始まりは、号砲も、幕もない。
ただ、誰かの歩幅に、自分の歩幅を合わせることから始まる。
そのシンプルさに、俺は救われる。
――次の休みに、山へ行こう。
サンドイッチの具は何にしよう。
マヨネーズの言い訳をどう用意しよう。
……そんな、具体で、ささやかな未来の話をしながら、俺たちは、暮れる浜辺を並んで歩いた。
風はやさしく、海はいつもどおりで、空は穏やかに暗くなっていく。
そして、やがて夜が来て、月が上る。
届かない形のまま、俺たちを照らす。
その光の下で、俺はほんの少しだけ、手を伸ばした。
届かないことを知っていても、伸ばすことに意味があると、かつて教わったからだ。
伸ばした手の横で、花蓮が笑う。
その笑顔が、いまの俺の灯りになった。