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第六章 浜辺の真実

 蓮花の声が胸の内側に刺さったまま、息の仕方を忘れたみたいに肺が固まっていた。

 否定したい事実が、二つ三つ、頭のなかの机に勝手に座り込む。ひとつは俺の体に起こったこと。突然の衰弱と、突然の回復。もうひとつは甚太の体に起こっていること。骨鉛筆みたいに細くなった腕、笑うたびに乾いた音を立てる喉。

 どちらも数で殴ってくる“現象”だ。感情では勝てない種類の、無言の証拠。

 でも、同時に、俺の目の前には蓮花の真っすぐな瞳があった。泣き腫らした赤で縁取られて、それでも逃げずにこちらを刺し貫いてくる瞳。そこに嘘はない。自分の言葉で自分の首を絞めるタイプの正直さが、昔から彼女の中にあるのを俺は知っている。


 それでも――信じたいものは、別にある。

 小夜だ。

 笑うときに少し肩が上がる癖。水しか飲まない素朴さ。赤いソーダの写真から目を逸らす指。指先で紙の縁をなぞってからページをめくる仕草。線香花火の終わりに光を見届ける横顔。胸元で揺れる小さな満月。

 信じたいのは、それら全部の総和だ。


 頭の中で声がぶつかった。

 蓮花の「別れて」と、小夜の「大丈夫」と、甚太の「俺が頼んだ」と。

 どれも本物の声だと思う。偽物の声を聞き分けるくらいには、俺はみんなを見てきた。だから余計に、まとめられない。

 考えるたびに脳の中に砂嵐が立つ。結論を出そうと手を伸ばすと、砂が指の間から零れて、爪の中に入り込んで痛い。

 答えは出ない。

 でも、事実は目の前で起きている。白いベッドの上で、俺の幼馴染が痩せ細って息をしているという、押し返せない事実だけが。


 そこまで思考を進めたところで、何かがぷつんと切れた。

 うまく息が吸えない。病室の空気が薄い。いや、俺の肺が小さい。

 気づいたら、ドアノブを握っていた。

 蓮花が何か言った。甚太も何か言った。内容は耳に届かなかった。

 まるで現実から逃げるみたいに、俺は病室を抜け出した。


 廊下の白は冷たく、蛍光灯の光はやけに生々しい。ナースステーションの前を通るとき、看護師さんが「ご家族の方ですか?」と声をかけかけて、俺の顔を見て何も言わなくなった。俺の顔に、何が書いてあったんだろう。

 エレベーターのボタンに指を伸ばして、やめた。階段を選ぶ。閉じた箱の中で自分の呼吸音だけを聞くのに、耐えられる自信がなかった。

 踊り場の小窓から、うっすら海が見えた。細い帯。色は灰。風は届かないのに、塩の匂いだけが喉の奥で思い出された。


 外に出ると、夕方の手前の空気が肌を叩いた。冷たい風。肺が縮む。けれど、吸える。吸えるだけ吸って、吐いた。

 足は、目的も持たずに動き出す。

 走る――というより、転がるように歩幅が伸びていく。上半身が先に行こうとして、下半身が慌てて追いかける。

 どこへ行く、と誰かが聞いた。自分の声か他人の声かもわからない。

 答えはなかった。けど、足は答えを知っている。

 道は坂を下り、信号を二つ越え、商店街のアーケードをくぐる。閉店前のパン屋から甘い匂いが残り香みたいに漂い、古本屋の前ではダンボールが積まれている。路地を抜けると潮風が強くなり、看板の金具がかすかに鳴った。


 振り返るな、と頭のどこかが命じる。

 振り返ったら、蓮花の声が追いついてくる気がしたから。

 「鉄――」

 呼ばれた気がした。実際に呼ばれたのか、記憶の中で呼ばれたのか、判別がつかない。

 その声すら振り払うみたいに、俺は走った。走る、という動詞を借りるにはお粗末なフォームで、でも、とにかく前へ。


 海へ続く階段の手前で、足が自然と速度を落とした。膝に手をついて呼吸を整え、塩が混じった空気を肺に押し込む。

 視界の端で、子どもがバケツを持って駆けていく。母親が手を伸ばして止める。遠くで笑い声。世界は、俺の事情とは無関係に、いつもの速度で進んでいる。


 階段を下りる。

 浜は、いつもの浜だった。

 波は一定で、砕ける場所も、引いていく角度も、ほとんど変わらない。足跡がいくつも交差して、いくつかは波に消され、いくつかは乾いた砂に残っている。

 俺はそこに立った。立つしかなかった。立つ以外、何もできなかった。


 呼吸が落ち着いてくると、頭の中の砂嵐も少しおとなしくなる。

 かわりに、記憶がよく喋り始めた。

 線香花火の最後のひとしずく。

 「手が届かない」と言った小夜の声。

 胸元で揺れた小さな満月。

 「大丈夫」というメッセージの短さ。

 水しか飲まないこと。赤い飲み物から目を逸らすこと。

 ふいに姿を消すこと。

 俺が倒れて、小夜が距離を取ろうとしたこと。

 俺が元気になって、甚太が倒れたこと。

 ――点はたくさんある。線にしてしまうのは簡単だ。結んでしまえばいい。けど、それを俺は、したくない。

 したくない、という感情が、線を引く定規を持つ手を叩く。

 叩き続けられるほど、俺は強いか。

 わからない。

 わからない、という言葉ほど頼りないものはない。

 でも、今の俺には、それが本音だった。


 ベンチもない浜だ。堤防の縁に腰を下ろす。

 足元に転がる白い小石を拾って、波打ち際へ投げる。小さく跳ねて沈む。波紋はすぐに消えた。

 もう一つ拾って、今度は砂に「大丈夫」と書いた。

 書いたそばから、波が来て、半分をさらう。

「大大丈夫」みたいな読めない言葉になって、やがて全部消えた。

 馬鹿げた行為だと自分で思いながら、それでももう一度書く。今度は「信じる」と。

 波が来て、「信じ」までを連れていく。

 残るのは「る」。

 笑う。笑って、目の奥が痛くなる。


 ポケットでスマホが重い。取り出して、親指が勝手に動く。

 小夜のトーク画面に「今、浜にいる」と打って消す。

 蓮花に「ごめん」と打って消す。

 甚太に「戻る」と打って消す。

 どれも、送るには中途半端だった。体温が乗っていない。送信は、祈りだ。半端な祈りは、届かない。


 風が吹くたびに、胸の中の“ふた”がかしゃんと鳴った。

 小夜が言っていたふた。必要なときに開くふた。閉めなきゃ困るふた。

 今、俺のふたは勝手に開いている。閉めたいのに、閉まらない。指で押さえると、指が砂まみれになって、ざらざらが皮膚に残る。


 波音の合間に、街の音が薄く混じった。遠くの踏切。自転車のブレーキ。犬の吠える声。

 それらはすべて「日常」の音だ。

 病室で白に押し潰されかけた俺の耳に、今は優しく響いた。

 日常は裏切らない。裏切らないかわりに、助けもしない。ただそこにいる。

 俺はそこに座って、日常に体を寄せた。

 寄りかからなきゃ、立っていられないときが、人生にはある。格好悪いと思っていた。格好悪さの定義が、今は少し変わっている。


 空の色が、群青へゆっくり移行していく。

 雲は低い。切れ目があって、その向こうがかすかに明るい。

 月はまだ出ていない。

 満ち欠けの途中にいるらしい。カレンダーで見たとき、今日は十三日目だったか。小夜ならすぐに答える。俺は曖昧なまま目を細め、空の濃度を測る。


 砂浜をひとりで歩く人影があった。

 老夫婦だ。手をつないでいる。足取りは遅い。波打ち際ぎりぎりを選ばず、少し内側を歩く。

 その背中を見て、胸のどこかがほっとした。世界はやっぱり世界で、誰かは誰かと並んで歩いている。


 ふいに、あの夜の感触が首のあたりに蘇った。

 やわらかい温度。痛みはほとんどない。体が軽くなって、光が満ちた感じ。

 ――それを、どんな名前で呼ぶべきなのか。

 俺はまだ言葉を持っていない。

 噂の持つ言葉は、鋭すぎる。

 俺が選ぶ言葉は、まだ薄い。

 だから、今は名付けないで、ただ思い出すだけにする。

 思い出すと、心臓が静かに打つ。そのリズムは、怖いほど心地よかった。


「……鉄」


 呼ばれた気がして、顔を上げる。

 誰もいない。

 自分の記憶が、勝手に声帯を震わせたのだろう。

 蓮花の声も、甚太の声も、しばらくは聞きたくなかった。聞いたら崩れる。崩れたら、ここまで来た意味がなくなる。

 俺は膝を抱え、額を乗せた。砂の匂いが鼻に入る。少し湿っていて、冷たい。


 時間が、どれくらい過ぎたのかわからない。

 潮の満ち引きだけが時計だった。

 いつの間にか、空に白い欠片が浮いていた。

 月だ。薄い膜を被ったみたいな輪郭で、雲の合間から顔を見せたり隠したりしている。

 海に落ちる光の道は、まだ細い。

 でも、そこにある。

 俺は立ち上がって、その道の端まで歩いた。

 波が靴の縁を濡らす。冷たさが甲から染み込む。

 胸の中で、満月を模したペンダントがきらりと光る幻を見た。

 実際には、あれはもう俺のものじゃない。小夜の胸元で、彼女の心臓のリズムを聞いている。

 俺の胸には何もない。

 けれど、確かに、何かがある気がした。

 見えない輪。言葉にできない重み。

 それを、今は“約束”と呼ぶことにした。俺と、俺自身への約束。逃げない。見る。聞く。選ぶ。


 ポケットの中のスマホが、短く震えた。

 反射的に取り出す。

 画面には何もない。風で誤作動したらしい。

 苦笑して、夜空を見上げた。

 雲の切れ目が広がって、月が少しだけ濃くなる。海の道が太る。

 その明るさに目が慣れると、堤防の上の影が一本、長く伸びた。

 人影だ。

 まだ遠い。

 歩き方は静かで、風の音に溶けるようだった。

 俺の胸が跳ねる。

 誰かわからなくても、身体は先に答えを持っている。

 小夜、だ。

 ――そう決めつけるのは危険だ。危険だけど、危険を承知で、心がその名前を選ぶ。

 もし、違っていたら?

 違っていたら、そのときはそのときだ。

 目を逸らすために砂を蹴るやり方は、今夜は選ばない。


 影は、ゆっくり近づいてくる。

 心臓は、ゆっくりじゃなかった。

 鼓動が波に追いついて、追い越して、戻ってくる。

 呼吸は浅くなった。

 でも、逃げない。

 逃げない、と決めた。

 逃げなければ、何かが変わる。変わらないかもしれない。でも、立ち止まることだって“選ぶ”の一つだったように、逃げないことも選択だ。


 足音が砂の上に落ちる音が、ようやく耳に届いた。

 月が、雲から顔を出す。

 光が、近づく影の輪郭を、ゆっくりと描く。

 胸のなかで、何かがほどけた。

 ほどけて、こぼれ落ちそうになる。

 俺は両手をぎゅっと握り、爪が掌に食い込む痛みで現実をつなぎ止めた。

 視界の端で、波がひとつ、静かに砕ける。

 俺は前を向いた。

 その先に、俺の“答え”が歩いてくるのを、ただ待った。

 ゆっくりとこちらに近づいてくる、人影。月の光に照らされて、その輪郭が次第に浮かび上がる。


 ――小夜。


 それは、疑いようもなく彼女だった。


 長い黒髪が月光を受けて銀色に輝く。白いワンピースが潮風を孕み、揺れるたびに彼女の姿を幻想的に彩る。

 まるで散歩をしていたかのように自然に、何気なくそこへ現れたように見えた。けれど俺には、それが偶然ではないと直感できた。


 ここは俺たちの場所だったからだ。

 出会った場所であり、告白をした場所であり、想いを確かめ合った場所。

 小夜が現れるのは、必然に思えた。


 彼女は立ち止まり、月明かりに照らされた瞳で俺を見つめた。

「……どうしたの、鉄?」


 小夜の問いはやさしかった。けれど、そのやさしさは、甘やかす種類のものじゃない。こちら側の言葉の欠片を拾い集めて、そっと並べ直すときの、あの手つきに似ている。

 俺の喉は、砂を飲んだみたいに乾いて、つづきを作れない。


「……ただ、散歩してただけだよ」


 出た言葉は、自分でも驚くほど軽かった。

 小夜は短く瞬きをして、「ふーん。そっか」とだけ言う。

 それから、ほんの少しだけ首をかしげた。見透かすような、でも責める色のない目。

 静かな波が足首のあたりまで寄ってくる。靴の先が湿る前に、一歩だけ下がった。小夜の影も同じように後ろへ滑る。二つの影は、離れすぎない距離を保ったまま、砂の上で重ならない。


「小夜こそ……どうしたんだ?」


 自分の声が、自分の胸に落ちていくのがわかる。反響はない。

 小夜は正面から答えず、視線を海へ送った。月の明るさを反射した横顔を見ているだけで、胸のどこか、細く折れやすいところを指で触られているような感じがする。


 風が少し強くなる。

 小夜の髪がほどけて、肩に当たって揺れた。その瞬間、胸元で小さな光がきらりと跳ねる。

 ――満月のペンダント。

 俺が夜の店で選んで、震える手で渡したもの。銀色の輪の表面に刻まれた細い凹凸が、波の細波みたいに光を拾う。螺鈿の欠片が角度を変えるたびに、青と金のあいだを行き来した。

 胸が、いっそ苦しい。

 似合っている。似合いすぎて、言葉が要らなくなるほどだ。

 けれど、言葉が要らないときほど、ほんとうは言わなくちゃいけないことが増える。脳のどこかでそう思いながら、俺は黙っていた。


 沈黙に、波の音だけを混ぜる。

 息を整えようとして、数を数える。四つ吸って、四つ止めて、四つ吐く。

 ――病院の白。甚太の腕。蓮花の目。

 数えるたびに、それらが順番に浮かんでは消える。

 小夜の「大丈夫」という短い文字列も、同じ速度で現れては沈んだ。

 砂の上に、俺たちの足跡が並んでいる。ところどころ、波にさらわれて欠けている。欠けた形も、見慣れた二人分に見えるから、余計にたちが悪い。


「寒くないか?」


 どうでもいい言葉を口にしてしまう。

「少し」

 小夜は肩をすくめるわけでもなく、事実だけを確認するみたいに言う。

 どうでもいい会話がひとつ増えた。

 俺は焦って、次の逃げ道を探す。

「最近、夜は風が冷たいな。テスト、どうだった?」

「ぼちぼち。鉄は?」

「……ぼちぼち」

 嘘を重ねると、体温が下がる。嘘が一つ増えるごとに、胸のなかの“ふた”がかしゃん、と鳴って、うまく閉まらなくなる。

 小夜はそれを知っているのか、知らないのか。彼女の横顔は、波を数えているみたいに静かだ。


 視線が自然に胸元のペンダントへ戻る。

 渡した夜のことを思い出す。

 「満月を、胸に」と、結局は子どもっぽい言い方しかできなかった。

 小夜は、笑ってくれた。「ありがとう」と言って、うなじを見せて、俺に留め具を預けてくれた。

 指先が触れたときの冷たさは、いまも指先に残っている。

 彼女はその夜、「触れていいよって言ってくれる誰かが必要」と言った。

 月は見上げるものだから。手を伸ばしちゃいけないものだから。

 俺はそのとき、うなずいた。何度もうなずいた。

 ――なら、俺が言う。触れていい。触れていてほしい。

 その約束は、言葉にしなくても確かにそこにあった。


 だけど、約束は約束で、現実は現実だ。

 病室の白に、約束の色はない。

 現実は、言葉を待ってくれない。日付は勝手に進む。噂は、顔のない足で歩く。

 俺は海を見た。海はいつも、俺の事情に無関心だ。

 だからこそ、ここに来ると呼吸ができる。

 無関心は、時に救いになる。


「鉄」


 小夜が俺の名を呼ぶ。

 名前を呼ばれるたびに、背骨のどこか、隠れている痛点が反応する。

 目を向けると、彼女は視線を落として、砂に小さな円を描いていた。

 波にさらわれれば消えるほどの、小さな円。

 すぐに消える。

 ――消える、という言葉に身体が過剰に反応する。

 消えないでくれ、とは言えない。

 だから、黙る。


「……ごめん」


 なぜ謝っているのか、自分でもよくわからなかった。

 小夜は小さく首を振った。

「鉄は悪くないよ」

 その言い方が、いちばん苦しい。

 俺は悪くなくて、小夜も悪くない。そういうとき、世界のどこに“違い”は置かれるんだろう。

 風が、彼女の髪の先を持ち上げて、すぐに戻す。

 小夜の瞳が、まっすぐこちらを見る。

 その目に嘘はなかった。

 たぶん、俺の目にも。


 舌の裏で、言葉が集まっては壊れる。

 “噂”という短い二文字が、喉の入口で引っかかって、痛い。

 “甚太”という幼馴染の名前が、胸の内側で何度も呼ばれて、苦しい。

 “信じる”という簡単な動詞が、こんなにも難しいとは、いつから知っていた?

 知っていた気もするし、今日初めて知った気もする。


 小夜は海を見た。

 波の白に視線の先を置いて、そこから目を逸らさない。

 その横顔を、俺は何度も見てきた。

 屋上の風の中でも、喫茶店の窓越しでも、図書室の片隅でも。

 “見る”ことは、俺の中でいつだって“確かめる”に繋がっていた。

 見れば、わかると思っていた。

 けれど、今は違う。

 見ても、わからない。

 わかったような気がするたびに、それは“自分に都合のいい理解”に変わる。

 だからこそ、俺は問いを作る。

 本当は、逃げたいくせに。


「小夜は、どうしたんだ?」


 もう一度、同じ問いを置く。

 さっきのより少しだけ、声が静かだ。

 小夜の肩が微かに上下する。呼吸。

 息を整えて、彼女は口を開いた。


「……」


 月が薄い雲に隠れて、海の道がいったん細くなる。

 世界の明るさが少し下がり、音だけが残る。

 その暗がりの中で、小夜の胸元のペンダントが、かすかな光を手放さない。

 俺があげた光。

 その光が、彼女の喉元の小さな陰影に触れて、夜の温度をほんの少しだけ変える。


 俺はその変化を、たぶん一生忘れない。

 言葉より先に、風より先に、変わった温度の名前を探して、見つけられないまま立ち尽くすしかない。


 小夜が、海から目を戻した。

 唇が、わずかに動く。

 声になる直前の息が、俺の耳にもわかるほど、細く、静かだった。


「……最後にここに来たかったから」


 小夜の言葉は、波に濡れた砂に落ちた一滴のインクみたいに、じわりと広がっていった。意味は薄いのに、染みは深い。胸の真ん中にある白い紙を、ゆっくりと塗りつぶしていく。


「最後って、なにが」


 声に出してみたけれど、自分の耳にも頼りなく聞こえた。

 小夜はすぐには答えない。代わりに、静かに息を吸って、吐く。

 それだけで、夜の濃度が少し変わる。


「……ねえ、鉄。覚えてる?」


「なにを」


「最初に、ここで話した日のこと」


 思い出は、呼ばれるとすぐに姿を現す。

 潮の匂い、濡れた砂の冷たさ、遠くのブイの鈍いきらめき、そして――「きれいだな」と独り言みたいにこぼした俺の声。小夜は少しだけ遅れて同じ言葉を返して、二人分の“きれい”が重なった。

 小夜は肩の前で両手を重ね、子どもが秘密の箱を開けるみたいに、ひとつひとつ取り出していく。


「甚太がさ、変な顔で焼きそば買いに走って、蓮花が“マヨネーズは正義”って騒いで。海って、塩と笑いとどうでもいい言葉の味がするんだなって思った」


 小夜の声は、どこか楽しげで、どこか寂しい。

 日記をめくるみたいに、一枚ずつ、しかし確かに、頁が進む。


「それから、線香花火。最後の一粒が落ちるまで、鉄はちゃんと見てた。途中で風が吹いたとき、手のひらで囲ってくれたでしょう。あのときの光、いまでも目を閉じると、まぶたの裏に残る」


 俺は、うなずいた。声が出ないから、首だけで覚えているサインを送る。


「それから……“手が届かない”って言ったら、鉄が“じゃあ、ここなら届く”って言ってくれたこと。海に浮かぶ月は近い気がするって。あの言い方、すごく好き」


 胸の内側で、何度も、何度も繰り返し抱きしめ直してきた光景が、彼女の口から、外の空気に並べられていく。

 こんなふうに“外に出して”しまったら、壊れてしまいそうで、俺はあわてて口をはさんだ。


「小夜、なあ、どうして――」


 遮りたかった。

 最後まで聞いてしまうと、すべてがなくなってしまう気がした。

 思い出は、語り終えた瞬間に完成してしまう。完成は、終わりと隣り合っている。

 だから、俺は必死に言葉を拾い集める。


「どうして、そんなふうに、まるで――」


 まるでさよならの前に確認するみたいに。

 胸の奥の言葉が喉でつかえて、砕ける。


 小夜は俺のほうを見た。いつもの、やわらかい微笑み。

 けれど、瞳の奥に小さな影があった。水面に落ちる微かな曇り。すぐに消えるけど、確かに、そこにいる影。


「……私はね、鉄。遠くに行かなくちゃならないの」


 そう言って、小夜は視線を上げた。

 月を見る。

 海に道を落とす、白い円。

 小夜は、その満月のほうを見続ける。


「遠くって、どこに」


 俺の声が少しだけ荒くなる。

 問いの角が自分の喉にも刺さる。

 小夜は視線を動かさず、まっすぐ月に向かったまま、ぽつりと言った。


「……遠くだよ」


 遠い、という言葉は便利だ。

 具体を拒み、想像を許す。

 けれど、いまは具体がほしかった。地図に描ける、帰り道のある遠さがほしかった。

 だから、俺は反射のように口にする。


「じゃあ、俺も一緒に行く」


 それができないことは、わかっていた。

 行き先も知らない。行ける乗り物も知らない。切符の買い方も知らない。

 それでも、言葉にしないと、俺は言葉のまわりにいる自分を保てなくなる。

 言葉はときどき、存在証明の代用品になる。


 小夜は、ふわりと笑った。月明かりで薄く縁取られた笑みは、儚いという形容詞をわざわざ連れてくるような笑みだった。


「うれしい。……でも、それはできないよ」


「どうして」


「決まってるから」


 決まってる、という言い方もまた、俺を遠ざける。

 誰が決めた。いつ決まった。覆せないのか。覆すにはどうすればいい。

 質問だけが増える。

 問いは増えるのに、答えはひとつも増えない。


 小夜は続けた。

 語りかける声は、波の音に溶ける程度に静かで、けれど一言も取りこぼさないで届く。


「この浜辺で、みんなと一緒に遊んだこと。はしゃいで、からかって、バカみたいに笑ったこと。――全部、好きだったよ」


 “だった”。

 過去形が、耳の奥で鈍く跳ね返る。

 小夜はそれに気づかないみたいに、思い出の頁をめくっていく。


「鉄に告白された夜。線香花火の火が落ちた後の暗さに、ふたり分の呼吸だけが残って、急に怖くなって、でも……うれしくて。心臓が、静かに痛かった」


 俺は、こめかみに触れた。

 痛みの場所を確かめるみたいに。

 そこには何もないのに、確かな鈍さがある。


「そして、ペンダント。満月。胸に小さな月をくれたとき、鉄が、私の“遠さ”に手を届かせようとしてくれたって、そう思った。……あれは、ね。うれしくて、そして、はかない」


「はかない?」


「うん。だって、触れるための言い訳は、触れるたびに薄くなるから」


 言い訳、という言葉に、俺はうまく返事ができなかった。

 うなずくでもなく、否定するでもなく、ただ、胸元の光を見つめる。

 銀の輪は、月の光を受けて、ほんとうの月よりもきらりと見える瞬間がある。

 それが可笑しくて、そして――悲しい。


「思い出は、これからも作れる。……そうだろ?」


 食い下がる自分が、みっともないのはわかっている。

 でも、今夜、みっともなくなることを恥じていたら、何も守れない。

 俺は自分の言葉を、胸の真ん中に投げた。

 跳ね返りは弱い。

 それでも、投げる。


「これからだって、ここへ来ればいい。屋上でも、喫茶店でも、図書室でも。テストの点数が悪かったら慰めてくれよ。よかったら褒めてくれよ。季節が変わるたびに、同じ道を並んで歩こう。――なあ、思い出って、そうやって増やせるだろ」


 小夜は首を横に振った。

 諭すように、やさしい速度で。


「それは、できないよ」


「なんでだよ」


「鉄も知っているはず。……私が、どんな存在かを」


 夜が、すっと冷えた。

 風がひとつ、形を持って胸の中を通り過ぎる。

 小夜は続ける。言葉は柔らかいのに、逃げ道を作ってくれない。


「そして、私が何をしてきたかも。――気づいてる、よね」


 言葉は刃物だった。

 でも、俺に向けられていない。

 自分に向けて、慎重に下ろす種類の刃だ。

 それがいちばん、痛い。


 俺は、視線を落とした。

 砂に、波が触れて、消す。

 いくつも消された跡の上に、また跡をつける。

 胸の奥で、点と点が勝手に線になる。

 俺が弱って、倒れて、距離を取ると決めた夜。

 俺が回復していくあいだ、小夜が“時々いなくなって”いた事実。

 同じ頃、甚太がみるみるやつれていったこと。

 噂。

 “前の学校でも”。

 “付き合った人が、次々と”。

 首筋に残った、かすかな痕。

 痛みはほとんどなくて、むしろ、ふっと軽くなる感覚。

 その夜、彼女が息を吸う微かな音。

 胸元の満月が、彼女の喉の陰に、細い影を落としていたこと。


 ――見えてくる真実。

 目を背けるために、俺は目を凝らす。

 目を凝らして、輪郭を曖昧にする。

 曖昧にして、言う。


「……関係ない」


 声は、驚くほど静かだった。

 自分の声なのに、自分のものじゃないみたいに冷たい。


「関係ない、って」


「俺には、関係ない。俺は、お前が何者でも、かまわない。俺が、俺の目で見てきた小夜は――ここにいるお前だ。笑って、怒って、からかって、遠くを見て、近くで手をつないで。……俺は、お前と一緒にいたい。だから――」


 だから、行くな。

 だから、遠くなんて言うな。

 だから、俺を置いていくな。

 喉の奥で渋滞した言葉たちが、一気に出口へ殺到する。

 押し合いへし合いの音で、胸の中が痛い。

 その瞬間だった。


 小夜が、一歩、近づいた。

 砂に、細い足跡がひとつ増える。

 顔が近い。

 月が、彼女の髪を縁取る。

 小夜の瞳に、俺が小さく映る。

 なにかを言おうとした。

 言葉が、喉の手前で形になりかけた。

 その形を――小夜の唇が、静かに、そっと、塞いだ。


 温度は低いのに、火が点いたみたいだった。

 痛みはないのに、胸がぎゅっと締めつけられた。

 波の音が遠のき、世界が一瞬、透明になる。

 俺は目を閉じた。

 閉じて、立っていることだけに集中する。

 彼女の手はどこにも触れていないのに、全身が抱きしめられているみたいだった。


 言葉は、どこへ行ったんだろう。

 否定も、誓いも、約束も、懇願も。

 全部、唇の触れ合うところで溶けて、形を失った。

 ただ、そこにあるのは、“いま”だけ。

 “いま”が最大になって、時間が止まり、俺という輪郭が少しだけ薄くなる。

 その薄さが、怖いほど心地よい。


 小夜が唇を離した。

 距離は、最初より近い。

 目を開けると、彼女の中に月がいた。

 胸元の満月が、息に合わせて微かに揺れる。

 小夜は、なにも言わずに笑った。

 笑みの形は変わらないのに、意味は――少し、違って見えた。

 キスの温度が薄れていく。触れていた唇がそっと離れ、ほんの一歩、砂の上に小さな音を残して彼女は距離を取った。

 その仕草ひとつで、目の前の小夜が、さっきまでの小夜と違う存在になってしまったのを、肌が先に理解した。月明かりの白が、彼女の輪郭だけを浮かび上がらせ、影の深さが不自然に濃い。喉の奥で、見えない歯車がひとつ噛み合い直す音がした。


「……小夜?」


 呼びかけると、彼女は細く息を吸い、月へ視線を上げた。

 胸元の満月のペンダントがきらりと震え、その微かな震えが、俺の神経のすべてを撫でていく。次の瞬間、彼女は静かに口を開いた。


「鉄。先に言わせて。――私は吸血鬼だから。君たちの“精気”を吸って生きてるの」


 喉がひどく乾いた。耳の中で波が逆流し、足許の砂が一斉に沈む感覚がした。

 さっきキスで奪われた言葉たちが、一気に戻ってきて喉の入り口で固まる。息が上手く通らない。心臓が無遠慮に胸板を叩き、肋骨がミシリと鳴った。


「だから、君とは一緒にいられないよ」


 拒絶の文法はどこまでも優しかった。

 優しいほど、刃の角は鋭利になる。


 言葉より早く、身体が動いた。

 逃げるみたいに離れていく彼女の背に、俺は飛びつくように抱きついた。肩越しに見える月が、波の道に長い一筋の光を落としている。俺の腕の中で小夜の体は驚くほど軽く、抱きしめる腕の輪にすっぽりと収まった。


「なら、俺の精気を、好きなだけ吸えばいい!」


 叫びは自分のものじゃないみたいに高かった。

 魂が喉を駆け上って、行き場を求めて空へ飛び出す。

「お前がどんなものでも、俺はお前を愛してる! だから……だから一緒に過ごそう、ここで、これからも、ずっと……!」


 涙は合図もなく流れ始めた。頬を伝い、顎をかすめ、彼女の髪に落ちて、すぐ熱を失った。

 小夜の体がかすかに震える。彼女の指が俺の腕に触れ、静かに、しかし確かな震えを返してくる。胸元の月が俺の胸板に当たり、ひやりと冷たい輪が鼓動の上で揺れる。


 小夜の瞳から、音のない涙がぽたりと零れた。

 その一滴は、俺の叫びより雄弁だった。

 そこには“同じ方向へ歩きたい”という願いが、確かに宿っていた。

 けれど同時に、“歩けない”という現実も、同じ瞳にあった。


「……ありがとう、鉄」


 小夜は囁く。

 腕に置かれた彼女の小さな手が、そっと力を抜いた。逃れようとするのではなく、最後の温度を確かめるみたいに、手のひらで俺の脈を撫でる。


「でもね、私は――自分の愛した人を亡くしたくないんだ」


「死なない! 俺は死なない! ほら、こうして生きてる。歩ける。息ができる。俺は、お前のためなら――」


「鉄」


 名前を呼ぶ声に、身体の中の暴れるものがほんの少し静まる。

 小夜は目を細め、微笑んだ。その微笑みは、さっきまでのどの笑みよりも、優しく、美しかった。終わりの光を含む笑みは、なぜこんなにも綺麗になるのだろう。


「君は、知ってるはずだよ。……私がどんな存在かを。君の体に起きたことも、甚太くんに起きたことも。ぜんぶ、つながっている」


 否定は、唇の手前で燃え尽きた。

 “関係ない”と何度も言った言葉は、今や薄い紙片みたいに頼りない。

 俺はそれでも、最後の紙片を掴み直す。


「関係ない。俺は、俺が見てきた小夜を……ここにいるお前を、愛してる。どんな理屈でも、どんな過去でも、どんな“正しさ”でも、俺は――」


「鉄」


 もう一度、名前。

 彼女は俺の胸に額を預け、海の匂いをひとつ吸い込んだ。


「月はね、決して届かない。だから、綺麗なんだよ」


 告げる言葉は、まるで長い道の終点に立てられた標識みたいに、揺れずにそこにあった。

 それは、俺たちの合言葉の裏返しだった。

 “届く”と言ってくれた夜の、優しい反証。


「届かなくていい。俺は伸ばし続ける。腕が折れても、血が出ても、笑われても、届かないって決まってても、俺は――」


「ううん」


 小夜は首を振った。

 その動きと同時に、俺の腕の中の彼女の存在感が、ほんの少し薄くなる。

 錯覚じゃない。

 髪の重みが軽くなる。肩の線が空気に溶けはじめる。抱いているはずの体温が、砂浜の温度と混じっていく。

 怖くなって、俺は強く抱きしめた。

 それでも薄くなる。

 抱きしめれば抱きしめるほど、指の間から砂が零れるみたいに、彼女は俺の腕の環から“世界”のほうへ滲み出していく。


「やめろ……やめてくれ、小夜。行くな。ここにいろ。俺と、ここにいろ。簡単でいい、難しくていい、どっちでもいいから、ここにいろよ」


 声は壊れていた。

 言葉は幼く、支離滅裂で、みっともない。

 けれど、これが俺の本音のすべてだった。


「最後に、触れていてもいい?」


 小夜が問う。

 彼女の手が俺の頬に触れた。指先は凛として冷たい。

 触れたところから、波紋のように薄い光が広がって、皮膚の上でほどける。

 涙がその光を散らす。光は涙を拒まない。混ざって、海の塩になって、風に運ばれる。


「……小夜」


「うん」


「怖い」


「私も」


「俺は、弱い」


「知ってる。優しいから、弱い。だから好き」


 言われた瞬間、胸の奥の硬い塊がひとつ砕けた。

 砕けた破片は痛いのに、なぜか、温かい。

 世界の輪郭がぼやけ、月だけが異様にくっきりする。


「ありがとう、鉄」


 彼女は言った。

 その『ありがとう』は、いままでのどの感謝とも違う匂いを持っていた。

 終わりの匂い。

 贈り物の匂い。

 そして――祈りの匂い。


「でも、私は君を失いたくない。初めて、好きになって、愛した。初めて、血じゃない何かで、生き返るみたいに心が温かくなった。……だから、ここでさよならする。私が私であるために。君が“君のまま”生きていくために」


「それでも――」


 食い下がる声を、小夜はやわらかく遮った。

 頬に置かれた手が離れ、かわりに俺の指をひとつずつ、ほどくみたいに握る。

 指先と指先が触れ、離れ、触れ、離れ。

 その繰り返しが、最後のダンスのように思えた。


「鉄。ねえ、お願い。私を、憎まないで。忘れないで。……でも、私に縛られないで」


「無理だ」


「無理でも、いつか」


 彼女は笑った。

 涙を含んだ笑顔は、世界のすべての光を抱いていた。

「君は歩く人だよ。前に。前に。ねえ、鉄。――愛してる」


 その言葉が俺の胸に落ちて、深いところまで沈み切る前に、変化は訪れた。

 腕の中の小夜の輪郭が、ふわりとほどけた。

 髪の一本、睫毛の一本に至るまで、光の粒になっていく。

 砂粒より細かく、星の欠片より淡く、海の飛沫より短い命で瞬く光たち。

 それらが、俺の胸から、肩から、指の間から、夜空へ、海へ、四方八方へ、静かに、しかし確実に散っていく。


「やだ……やだ、待って、小夜。待ってくれ。行くな、行くなよ!」


 必死に抱き込もうとする腕は、もう何も掴めない。

 光は触れられるほど大きくなく、掬えるほど重くもない。

 胸の前で両手を組み、器の形を作っても、そこに留まるのは塩の味だけだ。


「お願いだ、お願いだから――!」


 叫びは風に千切れ、波に攫われ、月の道に届く前に消えた。

 それでも叫び続ける。

 声が掠れ、喉が裂け、息が切れても、名前を呼ぶ。

 彼女の名は、もう光の中に溶けてしまっているのに、俺は呼ぶことをやめられなかった。


 最後に残ったのは――胸元の満月の、一瞬の強い輝きだった。

 ペンダントの銀の輪が、まるで本物の月から直に光を借りてきたみたいに、鋭く光った。

 その光は、俺の瞼の裏に焼きつく。

 焼きついたまま、輪郭を失い、ほどけて、霧散した。


 腕の中は、空虚になった。

 たしかに在った体温が、嘘みたいに消える。

 砂の冷たさだけが、膝に、掌に、頬に触れてくる。

 耳の中で自分の鼓動がうるさい。世界が静かすぎて、逆にめまいがした。


「……小夜」


 名を呼んだ声は、もう囁きにも満たなかった。

 膝から力が抜け、その場に崩れ落ちる。

 砂が服に張り付き、波が靴を濡らす。

 空の月は、届かない高さで凪いでいる。

 海は、何事もなかったみたいに、ただ寄せては返す。


 残滓――彼女が去った痕跡を探して、俺は手を伸ばした。

 夜の空気を掴む。

 掴んだものは何もないのに、掌の真ん中がじんじんと痛む。

 そこに彼女の重さが乗っていたことを、皮膚の記憶だけが訴え続ける。


「う、あ……」


 声にならない音が漏れた。

 涙はもう止めようがない。

 泣きたくない時は泣くなと言われ、泣いていい時は泣けと言われるけれど、いまこの涙は誰の命令にも従っていない。

 胸の底から勝手に湧き、目の奥から勝手に落ちていく。


 掌を開くと、砂がそこに集まっていた。

 指で払うと、月の光が小さく跳ねる。

 光は、彼女の粒の残り火じゃない。

 ただの月光だ。

 ただの、月光なのに、俺はそこに小夜のかけらを探し続ける。


「小夜……」


 もう一度だけ呼ぶ。

 返事はない。

 波が「しっ」と口止めするように白く崩れ、俺の足首を濡らして引いていく。

 遠くの防波堤で、遅い灯りがひとつ点き、すぐ消えた。


 世界は、彼女が消える前と同じように動く。

 月は雲に隠れ、また出て、道を細くしたり太くしたりする。

 俺の背中を夜風が撫でる。

 撫でられるたびに、胸の中の空洞が鳴る。からん、と乾いた音がする。

 空洞は、簡単には埋まらない。

 埋めてはいけないのだと、誰かの声が、どこかでささやく。


 鼻をすすり、額を腕に埋める。

 砂の匂いと、塩と、涙の味。

 全部が混ざって、胸の奥に沈んでいく。


 月は、届かない。

 だから、綺麗だ。

 その言葉は、慰めじゃない。

 呪いでもない。

 ただの、事実だ。

 事実の残酷さに、俺は肩を震わせる。

 それでも、そこにしか掴めるものがないから、指先で事実の端をなぞる。


 俺は泣いた。

 泣き崩れた。

 名前を呼び続け、砂を掴み、空に手を伸ばし、波に謝った。

 誰に向けたものでもない謝罪が、夜の中に滲み、月の道に落ちて、海へ飲み込まれる。


 やがて、喉の奥に残っていた最後の声まで擦り切れ、肩だけが小さく上下する泣き方になった頃、風が一度、優しく吹いた。

 それは、気のせいかもしれない。

 けれど、俺は勝手に思う。

 ――小夜が、ありがとうと言った風だ、と。


 頬を伝う最後の涙が砂に落ち、小さな黒点を作った。

 その黒点さえ、波が来て、連れていく。

 世界は、何も覚えていない顔をしている。

 俺だけが、覚えている。

 俺だけが、覚えていく。

 届かない月の下で、届かないものを抱きしめるみたいに、両腕で自分を抱いて、夜の終わりを待った。

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