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第五章 甚太の犠牲

 あとから聞いた話だが、俺が学校を休んだ最初の月曜日、昼休みのざわめきが薄くなるタイミングで、小夜は教室の真ん中で甚太に声をかけたという。

 いつもの窓際じゃない。誰もが視界の端で捉える位置。逃がさない、というより、隠さない場所。


「甚太くん、少し相談があるの。……ここじゃなくて、図書室で」


 声は落ち着いていて、でも背中に風を孕んだみたいに軽かったらしい。クラスの視線が糸を投げる。男子の何人かはわざと聞こえる声で笑って、女子の何人かはノートを閉じる手を止めた。


「おう、わかった。すぐ行く」


 甚太は、あくまで普段通りに返したという。

 けれど、「みんなの手前」彼は了承した。みんなの前で了承する、ということがどういう意味を持つのか、あいつは薄々察していたのだろう。

 後に本人がぼそりと言った。「あの時点で、俺はどこに風が吹くかだいたい分かった。……でも、風上に立つことと、誰かの風除けになることは、たまに同じ意味なんだ」と。


 俺はその頃、部屋のベッドと天井の境界をぼんやり眺めながら、一日に何度も浅い眠りに落ちては浅い現実に戻ってくる、を繰り返していた。水の味がやけに遠い。スマホの震えだけが、乾いたところに落ちる雨みたいに、現実を連れてくる。


 蓮花からのメッセージは、相変わらず具体的で、やさしい。


蓮花《鉄、生きてる? 今日も休みで正解。プリント、ドアノブにかけといた。ごはん食べた? 無理ならゼリーでも摂ってね》


 甚太は短く、命令形が多い。


甚太《寝ろ。食え。水。既読したら寝る!》


 小夜からは、夜になると必ず一通は届いた。


小夜《今日の月、雲に隠れたり、出てきたり》


 俺は『見たい』と返し、『見よう』と続ける。

 返事より先に眠気が来る日は、スマホを胸に置いたまま眠ってしまう。目覚めると、朝の白い光のなか、画面に「おやすみ」が煌めいている。


 数日そうして過ぎ、体の芯の重りが少しだけ軽くなった頃、俺は登校した。

 玄関の靴箱の鉄の匂い。廊下の風の塩。教室に入ると、いつもより視線の針が数本だけ増えた気がした。俺が戻ってきたこと、小夜のとなりに俺が座ること、その二つが同じ文脈で見られている視線。


「鉄」


 最初に声をかけてきたのは蓮花だった。眉の角度が普段の元気印より二度くらい下がっている。


「顔色、よくないよ。帰れって言われたらすぐ帰る。いい?」


「大丈夫。今日は、来たかったんだ」


「“大丈夫”に“ほんと?”って重ねる役、私もう飽きてきたから、ほんとに大丈夫なやつだけ言ってね」


「うん。ほんとに大丈夫だから」


 そう言いながら、俺は窓際の席へ目をやった。

 小夜は、そこに「いつも通り」の形でいた。ノートを開き、細い字で日付を書き、ペン先を一度だけ空に払ってから、一行目に触れる。頬の白さは変わらない。髪の艶も、指の動きの丁寧さも、話す時の微笑も。

 ただ、ほんのわずかだけ違った。午前の終わり、ふいに姿を消すことがある。昼休みの半ば、屋上へ向かう階段の踊り場で足を止め、そこから姿が見えなくなる。放課後、駅と逆方向へ歩く背中を、誰かが見たと言う。


 そして――甚太が、他人行儀になった。

 目が合えば「よう」と手を上げるが、足は止めない。冗談をふっても、笑うけれど拾わない。メッセージも、語尾が固い。


甚太《明日のプリント、渡す。体調どう》


 どうした、じゃない。どう。

 短い言葉の断面に、意図して切り落とした柔らかさが見える。俺は画面を閉じて、深呼吸をする。

 距離は、優しさの別名になることがある。頭ではそう分かっていても、胸は納得しない。


 そんな状態のまま、二週間、三週間。

 不思議なくらい、俺の体調はみるみる回復した。朝の起き上がりが軽くなり、階段で息が切れず、昼過ぎの欠伸が浅くなる。首筋の痕はもう見当たらない。体が自分の体に戻ってくる感覚。

 嬉しい。正直に、嬉しかった。

 同時に、嬉しさに噛み合わせる奥歯の裏側で、不安が小さく鳴った。

 俺の回復曲線と、甚太の他人行儀と、小夜の「時折の不在」。三つの線が、どこかで交わっている気配。


 ある昼休み、廊下の向こうから、噂がやってきた。

 噂の足音は軽く、言葉は薄く、でも刺さる場所を知っている。


「ねえ、聞いた? 甚太くんと、小夜さん」


「付き合ってるんだって。放課後、図書室でずっと二人でさ」


「職員室の前でも見た。あれはもう、そういう」


「鉄くんが最近元気なのも、ね」


 その「ね」が、最初から俺に向けられていたみたいで、笑えなかった。

 噂は噂だ。俺は噂で動かない。俺は信じる。甚太を。小夜を。

 ……信じる、と決めることと、信じ切れることは、別だ。

 頭の中で何度も繰り返しても、胸の奥は別の計算を始める。引き算、掛け算、割り算。答えは出ない。記号だけが増える。


 放課後、蓮花を呼び止めた。

 階段と階段の間の踊り場。外の光が斜めに差し込み、白い壁に鉄柵の影が格子模様を描く。


「蓮花。……甚太と小夜のこと、なにか知ってるか?」


 蓮花は、少しだけ目を伏せた。

 返事は早くなかった。

 彼女はいつだって、言葉を急がない。言葉に責任を持つからだ。だからこそ、俺は余計に緊張する。


「“知ってる”ことと、“話せる”ことって一致しないの、知ってるよね?」


「今はどっち?」


「今は……“話せない”。ごめん」


「それは“知らない”の強化版と、どう違うだよ」


「違うよ。私は見てる。二人とも。見てるから言えない」


「俺は、恋人だ」


「知ってる。だからこそ、言えない」


 膝の裏が熱くなった。

 怒りではない。悔しさでもない。名前が付けられない体温。踊り場の空気が少し塩辛くなる。

 蓮花は動かない。逃げない。俺の目をまっすぐ受け止める。


「鉄、私を嫌ってもいい。でも、お願いがひとつある。――今は、信じる方向に倒れて」


「“今は”って言うな」


「言うよ。“今は”未来はまだ誰のものでもない。だから、今は、信じる側に立って。お願い」


 俺は喉の奥で言葉をつぶして、うなずいた。

 うなずくしかなかった。

 蓮花はほっと息を吐き、「ありがとう」と小さく言った。


 帰り道、夕焼けがやけに長かった。

 郵便受けに手を入れる動作まで、どこかぎこちない。部屋に入ってバッグを投げ、床に座り込んだ。

 スマホの通知は静かだ。

 静けさは、優しさの反対側にいることがある。

 俺は立ち上がって、顔を洗い、冷蔵庫から水を出し、グラスに注ぐ。水面が揺れる。グラスを持つ手がひとつ震える。台所の時計の音が急に大きくなる。

 その時、スマホが震えた。

 画面に、蓮花の名前。短い一文。


蓮花《甚太が倒れた。今、救急。病院に運ばれる》


 グラスを置く前に、手が滑りかけた。

 水が少しこぼれる。床に小さな湖ができる。

 文字は逃げない。

 でも、現実は走る。


俺《どこ?》


 親指が勝手に打っていた。すぐに返信。


蓮花《市民病院。私は今向かってる。――鉄、小夜は、連れてこないで》


 最後の一行だけ、少し長い。

 「。」が欠けている。いつも文末にきちんと句点を打つ彼女が、それを忘れている。

 胸の奥で何かが跳ねて、深いところへ沈む。

 靴ひもを結ぶ指が急いて、ほどけ、結び直す。ドアを開ける。夜風が顔を叩く。

 走り出した足のリズムに合わせて、頭の中で言葉が崩れていく。

 “倒れた”

 “救急”

 “連れてこないで”


 ――どうして。

 なぜ。

 何があった。

 聞きたい言葉は幾つもあって、どれにも答えはない。

 夜の街は、いつもより信号が多く、いつもより横断歩道が長い。

 剥がれかけた白線が靴裏に貼り付いて、離れない。

 呼吸が浅く、肺の容積が足りない。

 心臓は、回復したはずのリズムをとっくに越えて、乱打を始めていた。


 病院の正面玄関は明るすぎて、目が痛かった。

 蛍光灯の白の下で、人の顔の色はみんな似てしまう。受付で名前を告げると、「こちらです」と案内され、エレベーターの前で待たされた。

 その間にも、スマホは震える。小夜からは何も来ない。蓮花からは短い連絡。「今、処置」「先生の話がある」。

 エレベーターの鏡に映る自分の顔は、数週間前のそれと別物だった。頬は引き、目は冴え、口は固い。

 扉が開く。

 冷たい廊下。

 先で、蓮花が手を振った。顔が青い。「こっち」

 俺は頷き、歩く。

 歩きながら、何かを決める。

 信じる、ということを。

 ただし、“今は”ではなく、“これからも”として。


 ――その決意が、次の瞬間、どれほど揺さぶられるかも知らずに。


 病室のドアに手をかけた瞬間、指先が自分のものじゃないみたいに冷たくなった。取っ手の金属は体温を吸い取り、静電気みたいな微かな痺れが手の甲に散っていく。消毒液の匂いと、乾いた空調の風と、どこか遠くで鳴る機械の電子音。現実を構成するそれらが、ドア一枚向こう側では別の密度で渦を巻いている気がした。


 押し開ける。

 白い。


 真っ白の壁と白いカーテンと白い天井。そこに一つ、色が削ぎ落とされたみたいな人間の形が横たわっていた。髪はいつの間にか短く刈られ、頬骨は鋭く浮き出て、肩はシーツから浮き上がるほど尖っている。腕は細い、というより薄い。皮膚の下の骨と血管が、青みを帯びた線で「ここだ」と主張していた。


 ――甚太が、いた。


 ベッド脇のモニターが、気まぐれに跳ねる線を描くたび、小さな電子音が鳴る。吸引力の弱そうな酸素の管が鼻の上を通り、テープで頬に貼られている。そのテープの白の下、皮膚は紙のように薄く見えた。


 俺は一歩、二歩、三歩。足音がやけに響いた。靴底と床の間に挟まっているのはゴムなのに、金属同士が触れ合うみたいな硬い音がした。枕元まで近づいたところで、呼吸が浅くなる。肺の容量が急に縮む。


 ……どうして気づけなかった。


 俺の頭のどこかで、別の俺が呟く。

 毎日同じ教室で顔を合わせていた。朝の「よう」、廊下ですれ違う手の上げ方、昼休みのくだらない言葉のキャッチボール。そのどれもから、こいつの体が、こいつの生気が、地面に溶けていってることを、どうして嗅ぎ取れなかった。


 思考は最初から泥沼に落ちていた。泥を掻けば掻くほど、足首が重くなるあの感じで、答えのない反芻が内側で繰り返される。


 ベッドの右側、丸めた椅子に蓮花が座っていた。背筋は伸びているのに、肩だけが小さく落ちている。握りしめた手の関節が白くなって、指先が震えている。顔は伏せられ、髪が頬にかかっていた。髪は濡れていないのに湿って見えた。


 俺が声を出す前に、ベッドの上から、掠れた音がした。


「……人の顔見て、なんて顔してやがる」


 甚太だった。

 声は甚太の声なのに、そこに宿っているはずの乾いた陽気さが薄い。掠れて、擦れて、どこか遠くからスピーカー越しに届けられているみたいな弱さ。冗談の粒が沈んで、底にへばりついている。


「お前……どうして、そんな」


 言いながら、自分が何を言っているのかわからなくなった。そんな、って、どんなだ。目の前の事実はこんなだ。言葉が追いつかない。追いつかないくせに、口だけが前に出る。


 蓮花が、不意に顔を上げた。目の縁が赤い。声は低く、押し殺したところから、無理やり外へ出てきた。


「鉄には……わからないの?」


 わからない、って単語が、刃の背で叩かれたみたいに痛かった。

 俺は息を吸って、それでも正直に吐き出す。


「わからねぇよ。どうしてこんなことになったんだよ」


 蓮花は唇の端を噛んだ。噛んだところだけ、色が濃くなる。

 そして、言いかけた。「これは、小夜が――」


「……蓮花、よせ」


 甚太が制した。弱い声だ。弱いが、俺と蓮花の間に一本の線を引くには十分な力があった。


「でも、これじゃ、これじゃ……!」


 蓮花は俯いて、泣き声を胃のあたりで止めた。喉の奥でだけ震える音。肩だけが震え、涙は落ちない。落ちないように全身で堪えている。


 小夜。

 その名前が空気に乗って、俺の耳に届いた。鼓膜がわずかに痛む。

 胸の奥の何かが、音を立てて崩れた。頭の中で組み上げていた仮説の骨組みが、軋みながら一斉に崩れる。


「小夜が……どうしたっていうんだ」


 声が荒くなるのを止められなかった。

 病室の白い壁が俺の声を跳ね返して、もう一人の俺の怒気になって返ってくる。

「何か知ってるなら教えろよ。俺は彼氏だぞ。……彼氏だぞ」


 最後の繰り返しは、言葉というより、哀願だった。

 甚太は目を閉じ、薄いまぶたの下で眼球が左右に動いた。探している。どこかの言葉を探している。でも、見つからない。


 時間がひどく長い。モニターのピッ、ピッという音が、やけに均等だ。こいつの心臓はちゃんとリズムを刻んでいるのに、ここにいる三人の時間は均等じゃない。俺だけが早送りされている。蓮花は一時停止。甚太はスロー。俺のリモコンは壊れている。


「……鉄」


 甚太が、乾いた唇を舐めるみたいに舌を動かして、言った。


「悪い。今は……言えねぇ」


「言えない?」


「言えねぇ」


「言えないって、なんだよ。言えよ」


「言えねぇんだよ」


 同じ言葉が繰り返されるたび、壁の白が濃くなる。

 俺はベッドの柵に指をかけた。冷たい。力が入って、関節が痛む。指先の白さを見下ろしながら、自分が誰なのか一瞬だけわからなくなる。

 俺は鉄弥だ。小夜の彼氏で、甚太の幼馴染で、蓮花の――なんだ。クラスメイトで、友達で、笑い合う相手で、今、目の前で怒鳴っている人間で。


「俺はな」


 甚太が、枕に沈むように声を出した。


「お前に、元気でいてほしいんだよ」


「だから俺に黙って倒れたのか? 元気でいてほしいなら、相談しろよ。頼れよ」


「頼ったさ」


「誰に」


 甚太は目を開けた。瞬きがひとつ、深い。

 その目は、俺を見ていない。俺の後ろにある、白い天井のどこかに焦点が合っている。


「ずるい言い方になるけどな……“誰か”にだ」


「はぐらかすな」


「はぐらかしてねぇ」


「なら、言え」


「……言ったら、お前が壊れるから」


 その一言で、胸の内側にばらまかれていた不安の粒が、一か所に集まった。くるくると回りながら、中心に渦を作る。渦の底に、名前が見える。

 小夜。

 そして――俺。


 蓮花がそっと立ち上がった。椅子の脚が床を擦る音が、やけに軽い。


「ごめん、鉄。私、ほんとはさっきからずっと、ここで叫びたかった」


「叫べばいいだろ」


「叫んだら、潰れる」


「何が」


「全部」


 蓮花は唇を噛んで、もう一度飲み込んだ。「全部」を。

 その仕草だけで、わかった。

 わかりたくなかったことが、喉元に引っかかる魚の骨みたいに、俺の内側に刺さる。


 俺が元気になっていった時期と、甚太がやつれていった時期は重なる。

 小夜が時折姿を消すタイミングと、甚太が「他人行儀」になったタイミングも重なる。

 あの日、俺が首筋の赤い痕を蚊だと思い込み、翌朝には“痕がない”ことを喜んだとき。

 ――誰かが、俺の代わりに、何かを引き受けていたのか。


 そんな都合のいい、いや、“都合の悪い”推測を、俺は追い払うために手を振った。現実は波じゃない。手で払っても、そこに残る。


「甚太」


 俺は呼んだ。

 甚太は目を閉じ、薄く笑った。笑いは形だけで、そこにいつもの熱はない。夏休み前のグラウンドで、ボールを追いかけるときの熱。点を取ったあとに俺の首を絞めるふりをして笑うときの熱。


「鉄。……俺は、お前のことを“友達だから”守りたかったんじゃない。お前が“友達だから”簡単に背中を預けられるって、思ってた。預けられるもんは、預ける。それだけの話だ」


「預けるって、なにを」


「いろいろだよ。……元気とか、笑いとか。寝不足とか、苦しみとか。そういう“いろいろ”」


「ふざけるな」


「ふざけてねぇ」


 俺の声が震える。怒りで、か、悲しみで、か、自分でも判別がつかなかった。

 俺は柵から手を離して、ベッドサイドの小さな丸椅子に腰を落とした。座った瞬間、床が波打つ。船酔いみたいな目眩。

 蓮花が、そっと俺の肩に手を置いた。冷たい手。手の冷たさと、病室の空気の乾きが、俺の皮膚の上で混じる。


「鉄。……お願い」


「何の」


「聞いて。ちゃんと、聞いて。――でも、最後の線は、甚太が引く」


 甚太は、頷いた。「線は……引かせてくれ」


 線、線、線。

 病室の床にも壁にも、無数の見えない線が引かれている気がした。ここから先は医師しか入れないという線。ここに荷物を置かないでくださいという線。ここで泣かないという線。

 俺の中にも、線がある。

 彼女を信じる線。幼馴染を信じる線。噂を拒絶する線。自分を責める線。

 それらが今、絡まり合って、ほどけない縄のように胸に詰まっている。


「……小夜は」


 俺は口を開いた。声が自分のもので、別の誰かのものでもあった。


「俺の彼女だ」


 甚太が小さく笑う。「知ってる」


「俺は、彼女を信じる。……でも、俺は今、甚太、お前を見てる。これを“偶然”で片付けられるほど、俺は鈍感じゃない。鈍感だったけど、鈍感でいたけど、もう無理だ。だから、教えてくれ。――何があった」


 蓮花が俺の肩に置いた手に力を込めた。止めるためじゃない。支えるためだ。

 甚太は、天井を見て、呼吸を整えた。

 ピッ、ピッという音は律儀で、病室の時計は正確だ。俺たちの時間だけが、歪んでいる。


「……鉄。お前、小夜と、別れろ」


 喉がきしむ音が、自分で聞こえた。

「は?」

「別れろ、って言ってんだよ」

 声は弱いのに、言葉ははっきりしていた。

 続けて、蓮花。


「お願い。別れて」


 お願い、なんて言葉で。

 俺の胸に火が落ちる。反射的に口が動いた。


「ふざけんな。……なんでだよ。なんでお前らがそんなこと言うんだよ。俺に“信じろ”って言ったの、お前らだろ。小夜を、俺たちを」


「信じることと、見ないふりは違う」

 蓮花の声は低い。「鉄、聞いて。――噂、全部じゃないにしても、核は本当。小夜は、付き合った相手のそばにいるほど、相手が弱っていく。……鉄、あんた、倒れた」


「たまたまだ。寝不足だった」


「じゃあ、どうして今は元気になったの?」


 蓮花の指が、俺の胸の真ん中を指すみたいに空中で止まる。

 答えはわかっていた。わかっているからこそ、首を横に振る。


「因果を短絡で結ぶなよ。……小夜のこと、そんなふうに言うな」


「言いたくて言ってるんじゃない」


 蓮花の目が鋭くなる。

「鉄が戻ってきた頃から――小夜は、時々いなくなってた。昼休み、放課後、夜。……そのタイミングで、甚太の顔色がどんどん悪くなった」


 俺は甚太を見た。

 甚太は目を逸らさなかった。

「……俺が、勝手にやった」

 乾いた声で言う。「小夜に、頼まれたわけじゃない。俺が、頼んだ。――鉄の代わりに、って」

「やめろ」

 喉の底から洩れた声は、自分のものとは思えないくらい低かった。

「そんな、ヒーローぶるみたいな……話を……」

「ぶってねぇよ」甚太は苦笑した。唇だけが笑って、顔は痙攣みたいに歪む。「俺のほうが向いてたんだよ、こういうの。体力もあるし、何より俺は“幼馴染みの親友”で、鉄は“彼氏”だ。守る順番ってのは、あるだろ」


「守る? 何から」


「鉄、自分の体から、お前をだよ」


 言葉が、肺の中の空気を奪った。

 病室の白が、急に眩しくなる。

 俺の回復の曲線、甚太の衰弱、小夜の“時折の不在”。三つの線が、一本に重なる音がした気がした。


「でも、噂は、噂だろ。証拠なんて、どこにもない。みんなが怖がって名前を貼ってるだけだ。小夜は――」


「小夜は、優しいよ」


 蓮花が遮った。声が震えている。「優しいから、余計に……自分を責めて、言わない。鉄のために距離を取ろうとして、でも鉄は追いつく。だから、甚太が間に入った。……鉄のために、だよ」


「俺が頼んだ」

 甚太が繰り返す。「鉄、お前が元気になっていくの、嬉しかった。ほんとに、心から。……だから、誤魔化した。俺はただの寝不足、ただの風邪、そう言って」


「違う」

 俺は首を振る。何度も、何度も。「違う違う違う。……小夜はそんな、ひどいこと、しない。俺が好きだって言って、あいつも“うん”って言ってくれて、俺は、俺は――」


 言葉は自分を守る盾になるはずだった。

 でも、口から出た途端、軽くて頼りなくて、握った端から砂になって落ちた。

 蓮花が一歩近づき、俺を見上げる。

 その目は、俺がいちばん見たくなかったものを含んでいた。正しさと痛み。正しさと、痛み。


「鉄。――別れて」


「嫌だ」


「別れて」


「嫌だって言ってるだろ!」


 声が跳ねた。病室の天井にも、壁にもぶつかり、戻ってくる。

 機械の音が一瞬、遠のいた気がした。

 甚太が薄く目を細め、蓮花は拳を握った。


「なんで、味方になってやらない。お前らならできるだろ。言葉を一つ置くだけで、空気は変わるんだ。なのにどうして、彼女の肩を持ってやらない。――なんで、見捨てるみたいな真似をするんだよ!」


「見捨ててない!」

 蓮花は即座に返した。

「私たち、ずっと彼女のそばにいたよ。誰も近づけないなら、私たちが隣に座った。昼休みが独りぼっちなら、三人で囲んだ。――でも、これ以上は、鉄の命と、彼女の“今”が天秤になる。……だから、言ってるの。“別れて”って」


「彼女の“今”って、なんだよ」


「鉄の知らない、小夜の今」


 短い言葉。

 そこに、俺の知らない夜がぎゅっと詰め込まれている気がした。

 胸の奥で何かがひしゃげる。


「……俺は、俺の“今”で決める。俺の目で見た小夜を信じる。――お前らの言うことが、真実なのかもしれないって、どこかでわかってる。けど、それでも、俺は、俺の、目で、見た小夜を」


 言いながら、足元のタイルがぐらりと揺れる。

 苦しい。

 正しさに喉を掴まれて、息がうまく吸えない。

 俺は、逃げたかった。正しさから。痛みから。

 だから、最悪の言葉が、口から滑り出た。


「……お前には、関係ないだろ」


 時間が止まった。

 機械の音も、空調の風も、一瞬だけ止まったように感じた。

 自分の言葉が、自分の耳に刺さる。刺さって、抜けない。


 沈黙。

 長い、長い沈黙。

 やがて、蓮花が唇を開いた。声は、ほとんど空気に触れないほどかすれていた。


「……関係なく、ない」


 その一言で、胸の奥の砂が一気に崩れる。

 蓮花は顔を上げ、ほんの一瞬、目を閉じた。

 次に開いたとき、その目は真っ直ぐだった。

 病室の白を焼くみたいに、はっきりと。


「関係なくないわ!」


 叫びは、かすれ切っていた。けれど、誰よりも強かった。

 蓮花は拳を胸の前で握りしめ、小さく震えながら続けた。


「だって、私は――鉄弥のことが、好きだから」


 空気が、形を持った。

 言葉は、病室の白い壁に黒い文字で書かれたみたいに、はっきり残った。

 俺は立っているのか座っているのかもわからなくなって、足元を探した。

 見つからない。

 足元は、今、どこにある。


「小さい頃からずっと、三人でバカやって、笑って、怒って。……鉄はいつも、前を向いてるのに、どこか危うくて、だから目を離せなかった。――告白なんて、しないつもりだった。しないで、ずっと隣にいて、手を引っ張って、背中押して、それでよかった。……でも、今は、言う。だって、関係なくないから。私には、鉄がどうなるか、関係しかないから!」


 言葉が、一つ一つ、胸の底の固いところを叩いた。

 痛い。

 痛いのに、痛みの輪郭が透けて、涙が出る。

 俺は息を吸う。吸った息が肺に届く前に、喉で止まる。


「蓮花……」


 名前しか出てこなかった。

 謝罪も、弁解も、逃げ言葉も、全部、口の手前でほどけた。


「だから、お願い。――別れて。鉄を、守りたい。小夜も、守りたい。……でも、鉄は、いま、選ばなきゃいけないところに立ってる」


「選べない」


 自動的に出た言葉だった。

「選べないよ。どっちかなんて、選べるわけないだろ」


「選べないなら、今は、立ち止まって」


 蓮花の声が静かになる。「立ち止まって、見て。自分の体と、甚太の体と、小夜の目の奥の色。――それを見てから、もう一度、言って」

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