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第四章 甘い日々と衰弱

 付き合いはじめて最初の月曜日、校門の手前で小夜が待っていた。

 朝の光はまだ白く、海風は少し冷たい。けれど俺の胸の中だけは、季節がふたつ先を走っているみたいにあたたかかった。


「おはよう、鉄」


「おはよう、小夜」


 名前を呼ばれるたび、耳の裏がくすぐったい。小夜は手を差し出す。俺が握ると、その手はやっぱり少し冷たかった。冷たさはすぐに俺の手の中で馴染み、ふっと息を吐くように体温をわけ合う。


「今日ね、窓際の席、光が柔らかいだぁ」


「じゃあ一限目は眠気との戦いだな」


「起こしてあげる」


「頼んだ」


 たぶん、そのやり取りを何度繰り返しても、嬉しくてしょうがないんだと思う。校舎に入ると、廊下の空気が塩のにおいを薄め、かわりにチョークの粉っぽさが鼻先にくっつく。登校してくる生徒の視線がふっとこちらへ揺れ、すぐに戻る。近すぎず遠すぎず、俺たちの輪郭をなぞって通り過ぎていく。


 席につき、ホームルーム。連絡事項はいつも通り。俺がうっかりため息を漏らすと、小夜が横からメモ用紙を滑らせてきた。


『今日の月、十日目。帰りに見えるよ』


 小さな字。きれいなクロッキーのような月のスケッチまで付いている。

 俺は親指を立て、メモの端に『見よう』と書き足した。紙一枚のやり取りが、胸の中の何かを静かに整える。甘いというより、落ち着く。落ち着きが甘い。そんな感じ。


 昼休み。屋上は風が強く、空は高い。

 レジャーシート代わりに敷いたタオルの上に並ぶ弁当。俺は購買のパンを二つ。小夜は小さな二段弁当――上段は白いおにぎりが二つと漬物、下段は柑橘の切れ端がきれいに並ぶ。飲み物はやっぱり水だ。


「それ、足りるのか?」


「うん。今日はこれがちょうどいい」


「ちょうどいい」を見つけるのが、彼女はうまい。

 俺が袋からメロンパンを出すと、小夜が少し身を乗り出した。


「それ、好きなの?」


「うん。子どもの頃からずっと好きだった」


「そうなんだ。……匂い、かわいいね」


「かわいい匂いってなんだよ」


「鉄に合う」


 直球で照れる。パンが急に“特別なパン”になって、噛むたびに笑いそうになる。俺が水を飲むと、小夜がペットボトルの口元をのぞいてくる。


「炭酸じゃないの?」


「今日はやめた。……小夜に合わせた」


「そうなんだ。ありがとう」


 ありがとうと言う時、小夜は少しだけ視線を落とす。照れではない。言葉の重さを指で確かめてから置くみたいな間。そこも、好きだ。


 食後、俺はスマホを取り出した。「プレイリスト、作ってきた」


「海の?」


「うん。“海に月がおりるとき”ってタイトル」


「きれい」


 イヤホンを片方ずつ分ける。流れてくるイントロが潮騒みたいに柔らかく、ベースが低く響く。

 小夜の肩が触れる。髪の匂いは薄く、風の匂いが勝っている。曲のサビで、彼女が小さく息を吸った。


「好きだよ」


「よかった」


「鉄の“好き”と、私の“好き”が重なるの、嬉しいな」


 たったそれだけの会話で、午後の五限が全部ご褒美に変わる。甘さ、ってこういう密度のことを言うんだと思う。


 放課後。駅のベンチ、いつもの並び。

 俺と小夜は肩を少しだけ寄せ、メッセージを往復させる。目の前にいるのに、メッセージで話したい内容があるのが不思議だ。言葉を重ねると、画面が柔らかく光るみたいに見える。



小夜《明日の朝、校門の前で待ってる》

俺《俺が迎えに行く》

小夜《先に着いたほうが勝ち》

俺《勝ったら?》

小夜《勝ったら、鉄に“おはようのハグ”》

俺《全力で勝ちにいくぜ》


 文字にするのはときどき照れくさい。けれど、文字にしたほうが、その言葉に触れられる時間が長い。スクショにして、こっそり保存したい衝動を必死に抑える。

 電車が来る。二つのホームに分かれ、ガラス越しに手を振る。小夜はいつも、最後の最後まで目を離さない。電車が動いても、角を曲がって見えなくなるまで、ゆっくり手を振る。

 俺は車内で、胸の真ん中に何か温かいものをしまう。無くさないように、名前をつける。――“今日”。


 甘い日々は、形を変えながら続いた。

 雨の日は透明傘に二人で入る。傘に当たる雨が数を増すたび、俺の脈も数を増す。

 図書室では同じ机の両端に座り、真ん中に詩集や参考書を積んで小さな壁を作る。壁越しに、一行だけ紙を滑らせる。それが合図。『この一節、好き』『わかる』――文字で交わした“好き”は、声よりも少しだけ深く沈む。


 休日の街では、喫茶店の隅で二人で席を取る。俺はブレンド、小夜は水。ときどきホットレモン。レモンは薄く、湯気は透明。

 小夜がメニューの一角、赤いソーダの写真に目をすべらせ、すぐに視線を外す。赤が苦手なのは、前から何となく知っている。理由は聞かない。聞かないことが、誰かを守ることもある。


 手をつなぐと、小夜の手はいつも冷たい。

 冷たいのに、握っているうちに、ひんやりが心地よくなる。微熱に当てた保冷剤みたいに。

「鉄、手、握って」

 歩道の端、小夜がそう言って指を差し出す。俺が握ると、彼女は安心したみたいに息を吐く。俺も同じタイミングで息を吐く。その呼吸の一致に驚いて、笑う。

「呼吸、合ってるな」

「ね」

 そんな小さな一致が、甘さを増やしていく。


 ――気づいたら、俺は少しずつ、疲れやすくなっていた。


 最初は、ただの“恋の副作用”だと思った。夜更かしが増えたせい。メッセージが楽しくて寝るのが遅い。考え事が多い。心臓が忙しい。

 でも、二週間目くらいから、朝の目覚めが重くなる。階段で息が上がる。体育の持久走で足が早く重くなる。昼過ぎには眠気が鋭く刺さってきて、黒板の文字が二重に見えることもある。

 鏡を見ると、目の下に薄い影。

 そっと首筋に触れると、うっすら赤い痕がある日もあった。蚊、だと思いたい。認めたい。夏はもう近い。


「鉄、顔色悪いよ」


 屋上で蓮花が眉をひそめた。

「寝不足だよ」

 俺は短く答える。

「ほんと?」

「ほんと。大丈夫だって」

 その時、隣で小夜が水を飲む音だけが、やけに大きく聞こえた。視線を向けると、小夜は穏やかな笑みをつくっている。けれど、その目の奥に、小さな波が立っていた。


「無理、しないで」


「うん。……でも、会いたいから」


「私も」


 目と目が合う。そこで、俺の中の“理性の係”はあっさり負ける。甘さは麻薬だ。わかっている。わかっているけど、やめたくない。


 夜、海。

 風が少し生温かく、波は低い。

 砂の上に並んで座る。小夜が肩に頭を預ける。髪が首筋に触れる。冷たい。

 彼女が顔を上げる。月が細い光の輪郭をつける。

 唇が触れ――そのまま、首筋に柔らかい温度。

 痛みはほとんどない。むしろ、ふっと体が軽くなる。頭の中に白い光が満ち、波の音が遠のく。

 しばらくして、彼女は離れる。俺はゆっくりと息を吸う。酸素が美味しい、と初めて思った夜。

「鉄」

「ん」

「ありがとう」

 礼を言われる筋合いは、本当はないのに。俺は笑って頷く。

 彼女の目は潤んでいて、でも泣きそうというより、満ちている表情だった。

「大丈夫?」

「大丈夫だよ」

 嘘は混ぜたくない。けれど、言葉の一部は自分に向けた祈りになる。


 帰り道、足取りが少しふわふわする。

 でも、幸福感が上書きする。

 帰宅してシャワーを浴びる。鏡を見る。首筋の赤は、翌朝にはひどく薄くなっている。やっぱり蚊、だ。蚊に違いない。

 布団に倒れ込むと、すぐに眠気が襲ってくる。眠る直前、スマホが震える。


『今日の月、きれいだったね』


『きれいだった』


『鉄、おやすみ』


『おやすみ、小夜』


 眠りの底へ沈むとき、胸の上に置いた手の重みが、いつもよりすこし軽い気がした。


 噂は、足音を立てずに増える。

 毎日同じ廊下を歩いているのに、壁の色がじわじわ濃くなるみたいに。

 最初に聞いたのは、男子トイレの鏡の前だった。

「なあ、お前聞いたか」「なにが」「椿さんのさ」

 声はすぐに止んだ。俺の気配に気づいたのかもしれない。

 別の日、掲示板の端に、匿名の紙。『夜に気をつけろ』――よくあるいたずら。だけど、その下に鉛筆で『椿』の文字が薄く書かれていた。すぐに誰かが消しゴムで消す。白い粉が落ちる。

 また別の日、体育館の裏で女子の囁き。

「前の学校でも……」「付き合った人、次々と……」「入院って」

 俺は通り過ぎる。耳の穴を閉じるみたいに、内側から力を入れる。


 教室の空気も、少しずつ変わった。

 遠巻きの視線。小さな沈黙。笑いの終わりが少し早い。

 でも、小夜は変わらない。変わらない笑顔。変わらない水。変わらない歩幅。

 俺はそれを支えにする。

 支えにすればするほど、足元がたまに沈む。

 それでも、彼女が俺の名前を呼べば、それで立てる。


 期末前の補習の日、俺は初めて保健室のベッドに倒れた。

 体育のアップで目の前が白くなり、次の瞬間には保健室の天井。白い天井に小さな染み。

 保健の先生がスポーツドリンクを差し出す。「脱水と、寝不足。あと、貧血気味ね。君、低血圧なのかな?」

「大丈夫です」

「大丈夫を言いに来る場所じゃないよ、ここは」

 柔らかい声だった。

 カーテンが揺れる。小夜が立っていた。

「鉄」

「ビビらせてごめん」

「……大丈夫?」

「先生が“寝てろ”って」

 小夜はちいさく笑う。「先生は、正しいね」

 椅子を引いて、ベッドの横に座る。

「手、握ってていい?」

「うん」

 冷たい手が、俺の手を包む。体温が混ざる。まぶたが重くなる。眠りがすぐそこにいる。

 眠る直前、小夜が額に前髪をかけてくれた。指先が、ひやりと気持ちいい。

「鉄、ちゃんと食べて、ちゃんと寝て」

「うん」

「私のことより、自分のこと、ちゃんとして」

 それは、彼女が言うと重い。

 重いのに、やさしい。

 眠りに落ちると、夢は見なかった。


 目を覚ますと、窓の外は夕方。保健室の空気は少し冷たく、カーテンの影が伸びている。

 小夜はいなかった。

 ベッドの横に、小さなメモ。


『おやすみ、鉄。起きたら水、飲んでね』


 俺は笑って、メモを財布にしまった。薄い紙が、護符みたいに感じられた。


 翌日、甚太が言った。


「鉄、痩せたか?」


「気のせいじゃないか」


「気のせい、って答えは気のせいじゃないやつだ」


「しつこい彼氏みたいだぞ」


「彼氏じゃない。幼馴染だ」


 蓮花も隣で頷く。「ちゃんと食べてる?」


「食べてる。メロンパンをな」


「それじゃあ、栄養が偏ってるでしょ」


「うるさい栄養士だな」


「うるさい友達だよ」


 その言葉は、ありがたい。

 でも、ありがたいを素直に飲み込むには、俺の体のどこかが少し弱っていた。

 重い。朝が重い。

 けれど、小夜と会えば軽い。

 軽くなる。

 軽くなった分、どこかが薄くなっている気もする。

 それでも、彼女が笑えば俺も笑える。

 甘いは、正義だ。


 噂はやがて形を持つ。

 匿名の掲示板に、書き込み。

『椿小夜と付き合った人、気をつけたほうがいい』

 証拠のない断定。

 根拠のない親切顔。

 目に入ってしまったのは、俺の自業自得だ。見なければよかったと言うには、目は知りすぎていた。

 同じスレに、“明らかに違う名”で俺の特徴が書かれていた。身長、部活のなし、窓際の席。

 肩が冷えた気がした。

 スマホを画面ごと伏せる。

 机の上に、手のひらを置く。

 そこへ、ノートの端が滑り込んだ。


『放課後、海、行く?』


 小夜の字。

 俺は黒ペンで、『行く』とだけ書いた。

 理由はいらない。必要なのは、海風と、並ぶ歩幅と、月だけだ。


 その夜の海は、静かだった。

 波は小さく、音は浅い。

 小夜はいつもより話さなかった。

 俺も、あまり話さなかった。

 かわりに、手をつないだ。

 手の冷たさ。指の細さ。握る力の加減。

 それだけで、十分だった。

 十分だと信じたかった。


「鉄」


「ん」


「……私のこと、怖い?」


 唐突な問い。

 俺は、すぐには答えなかった。

 正直でいたい。正直でいたいから、言葉を選ぶ。


「怖く、ない。……でも、心配はしてる」


「心配」


「俺が勝手に、ね。噂は、噂だ。けど、俺が弱ってるのも事実だから」


「ごめん」


「謝るなよ」


 すぐに言った。

 謝罪は、距離を作る。

 距離は、俺が望むものじゃない。


「俺は、会いたい。会いたいから、会う。疲れても、会う。会ったら、軽くなるから」


 小夜は目を伏せ、短く頷いた。

「ありがとう」

 それから小さく続けた。「それでも、鉄の体は、鉄のものだから。私のものじゃないから」

「知ってるよ」

「……大事にして。鉄を」

「小夜も、自分を大事にするんだぞ」

「うん」


 月が薄く、海に細い道を落とした。

 波が足首を洗い、砂が指の間に入り込む。

 帰り道、俺は少しふらついて、小夜が支えた。

「大丈夫?」

「大丈夫…」

 嘘ではない。

 嘘ではないが、真実の全部でもない。

 その両立を、俺は学び始めていた。


 翌週、俺はまた保健室に運ばれた。今度は授業中。黒板の文字が遠くへ流れていき、耳鳴りの向こうから先生の声。

 目を開けると、窓の細長い光がカーテンに縞を作っている。

 小夜は来ない。

 代わりに、蓮花がいた。

「馬鹿」

「ただいま」

「“ただいま”じゃない」

 彼女の目は本気で怒っていた。

「噂は噂。わかる。でも、鉄の体は鉄のなんだから。そこを軽く見ちゃダメ!」

「……わかってる」

「わかってない!」

 蓮花は深く息を吸って、吐いた。

「小夜は、鉄が思ってる以上に、鉄のこと大事にしてる。だから、鉄が自分をないがしろにすると、あの子がいちばん傷つく。わかるよね?」

 胸の奥、痛いところに指を突っ込まれたみたいだった。

「――わかった」

「ほんとに?」

「ほんとに」

 蓮花はようやく肩の力を抜いた。「よろしい」

「甚太は?」

「廊下で先生に捕まってる」


 保健室を出るとき、蓮花がふと口元を引き結んだ。

「……噂、広がってる。でも、私は信じない。今は」

「ありがとう」

「“今は”って言ったでしょ。情報が更新されたら、私も更新する。だから、鉄も、目を開けて」

「わかった」


 廊下に出ると、小夜がいた。

 俺を見て、小さく笑う。

「おかえり」

「ただいま」

 蓮花は気配を消すみたいに別方向へ歩いていく。すごいな、と心の中で拍手した。

「無理、してない?」

「してないよ」

「ほんと?」

「ほんと。……今日は、早く帰る」

「うん。送る」


 校門を出て、いつもの道を歩く。

 言葉は少ない。

 でも、足音は揃う。

 “甘い”は、言葉の数に比例しない。

 隣にいるという事実だけが、甘い。

 それを噛みしめるみたいに、俺は歩いた。


 夜。ベッドの上で、スマホを握る。

 画面の向こう、小夜の文字。


『鉄、今日は早く寝てね』


『わかってる。もう寝る』


『おやすみのハグ』


『受け取った。おやすみ』


 送信してから、俺は天井を見た。

 疲労は、砂みたいに体の中に溜まっている気がする。

 揺らすと音がする。

 けど、甘さは、それを包む。

 包まれている間は、痛まない。

 俺は目を閉じた。

 夢の中で、海に浮かぶ月を掬おうとして、指の間からこぼした。


 朝。

 校門の前で小夜が待っていた。

「おはよう、鉄」

「おはよう」

 手をつなぐ。

 冷たい。

 心地いい。

 甘い。

 俺は、少し弱っている。

 彼女は、少し強がっている。

 ふたりの間にあるのは、言葉より先にある何かだ。

 それを信じられるうちは、まだ進める。


 教室に入ると、どこかの列で小さな笑い声。

 俺はそっちを見ない。

 黒板に『小テ』の二文字。

 ため息を飲み込み、シャーペンを握る。

 隣から、紙が滑ってきた。


『今日の月、十二日目』


 俺は笑って、紙の端に『見よう』と書いた。

 噂は、噂。

 彼女は、彼女。

 俺は、俺。

 線は、今はまだ交わらない。

 そう思い込むことで、今日を始める。


 甘い日々は続く。

 俺は少しずつ、削れる。

 それでも、二人の「おはよう」と「おやすみ」は途切れない。

 甘いが続く限り、俺は立てる。

 そう信じて、足を前に出す。

 廊下の風が塩を運び、窓の光が黒板に跳ね返る。

 俺のなかで鳴る鼓動は、まだ十分に大きい。


 ――その鼓動のリズムが、いつか大きく狂う日が来るのだとしても。

 今は、まだ。

 彼女の手の冷たさが、俺の体温をやさしく撫でてくれる。

 それだけで、今日は生きていける。

 そう思えるうちは、まだ、甘さの側にいられる。


 月は満ち、欠け、また満ちる。

 噂は生まれ、膨らみ、形を変える。

 俺は弱り、笑い、また手を伸ばす。

 その手の先に、いつも小夜の名前がある。

 それが、今の俺の、全部だ。


 倒れたのは、ほんの一瞬の隙だった。

 朝の支度をして、靴ひもを結ぶために屈んだとき、視界の端が黒く滲んだ。次の瞬間には床の冷たさが頬に触れ、世界の輪郭がぐにゃりと曲がっていく。遠くで電子音が鳴って、誰かが俺の名前を呼んだ気がした。けれど、返事は喉の奥でほどけて消えた。


 気がつくと、自分の部屋だった。カーテンの隙間から昼の白い光が差し込んで、床に薄い四角を作っている。喉が乾いて、体の芯がやけに軽い。軽いのに、起き上がろうとすると鉛みたいな重さが全身を引っぱった。額に触れると熱はない。あるいは、熱のありかが身体のどこにも見つからないだけかもしれない。


 枕元でスマホが震えた。

 画面をのぞく。文字が滲む。もう一度瞬きをして、やっと読める。


蓮花《鉄、生きてる?今日は来ないって甚太から聞いた。大丈夫?無理しないで。プリントは持ってくから、休んでて》


甚太《大丈夫か。とりあえず、寝てろ。そして、水を飲め。メシを食え。連絡しろ。先生には俺から言っといた》


 指先がうまく動かない。けれど、返信だけはしたかった。心配という二文字が、こんなにもまっすぐ体の中に入ってくることを、今さらみたいに知った。


鉄《ごめん。ちょっと倒れた。今日は休む。プリント助かる》


 送信の青が、少し救いの色に見えた。

 呼吸を整えようとして、ふと、胸の奥が鈍く沈む。いやな沈み方だ。そこに名前を当てるなら――不安、だ。


 小夜。

 目を閉じても、その名が脈のリズムに等間隔で浮かぶ。

 スマホを握り直して、二人にもう一つメッセージを送る。


鉄《小夜、今日はどうしてる?》


 送ってすぐに後悔した。彼女のことを、誰かに問いただすみたいで。だけど、今の俺には、事実をつかむ手が少ない。

 蓮花からの返信は、いつもより遅かった。既読の灰色の点が、砂粒のように重く感じる。


蓮花《……今、教室の空気がよくない。詳しいことは、会って話す》


 曖昧だ。けれど、その曖昧さは、蓮花が軽い嘘をつけないからこそ選んだ言い回しのように思えた。続けて、甚太。


甚太《小夜のこと、今は断片的にしか言えない。学院中で、距離を置かれてるのは本当だ。悪意と恐れが混ざってる。俺たちは……俺は、様子を見てる》


 様子を見てる。

 その言い方に、胸の底に火が落ちた。小さな火だが、乾いた草に触れれば広がる。


鉄《なんで、味方になってやらない。お前らならできるだろ。言葉をひとつ置くだけで、空気は変わる。見てるだけなのかよ》


 送った瞬間、自分の声が荒くなっているのがわかった。熱で浮かされたみたいな怒りだ。けれど、抑えられなかった。彼女が今、どんな顔で教室に座っているかを想像するだけで、喉がきしむ。


 返事は、すぐには来なかった。

 十分、十五分。砂時計の砂みたいに時間が落ちていく。

 やっと、蓮花。短い。


蓮花《鉄、私も戦ってる。けど、言葉は、周囲を守るために使う時もある。今はまだ、ごめん》


 甚太からは、打ち込みの音が見えるような重い文。


甚太《味方だよ。だから慎重になってる。俺が軽はずみな味方の仕方をすると、鉄と小夜に風が向く。……信じろ、俺を》


 信じろ。

 信じるに決まっている。幼馴染を、簡単に疑いたくはない。けれど、同時に、待てない自分がいる。信じる自分と、急かす自分が同じ胸の中で喧嘩を始める。


 だったら、直接、確かめるしかない。


 小夜の名前をタップする。メッセージ欄は、昨日までのささやかなやりとりで埋まっていた。『おやすみ』『おはよう』『今日の月』――その連続の延長線上で、俺は短く打つ。


鉄《小夜、今どこ?大丈夫?》


 送信。

 既読は付かない。

 ベッドの上で体を横にし、天井の角を見つめる。時計の秒針がやけにうるさい。喉が渇いた。水を飲むと、胃が水の重さを忘れかけているみたいに、しばらく冷たさの居場所が見つからない。


 五分。十分。

 小さな画面の向こうで、時間が膠のように伸びる。

 ようやく、既読の印。続けて、短い文字。


小夜《大丈夫》


 その二文字に、安堵は半分しか乗っていなかった。

 “だいじょうぶ”という言葉は、時に優しい嘘の仮面になる。いつか彼女自身が言った。「“大丈夫”は、自分に言うときがいちばん多い」――それを、思い出す。


鉄《今夜、会える?》


 返事までの間隔が、また長くなる。

 体の重さは増しているのに、心は浮き足立って、部屋の角という角にぶつかっていく。


小夜《今日は、やめておいたほうが。鉄、休んで》


 やめておいたほうが。

 その言い回しは、優しい拒絶だ。けれど、今は引けない。引いたら、噂の形に俺たちが飲み込まれる。


鉄《会いたい。大丈夫じゃない。噂がどうとかじゃなくて、俺が、会わないと持たない。……お願いだ。いつもの浜辺で》


 送った瞬間、指がわずかに震えた。わがままだ。けれど、わがままを言えるのは、恋人の特権だと、勝手にルールを書き換える。


 長い沈黙。

 やがて、夜に灯りを点けるみたいに、短い返事が来た。


小夜《……わかった。いつものところ。十九時》


 滲む文字を指で撫でる。

 時計の表示が、やけに鮮明に見えた。


 夕方の光は、弱いのに刺さった。

 バス停までの歩道はいつもより長く、アスファルトの粒が増えたように思える。足首が重い。階段で呼吸が上がる。肩で風を切る、なんて派手な動作はできず、風に肩を押されるみたいに進んだ。


 バスの揺れは心地よいはずなのに、今日は少し気持ちが悪い。窓に映る顔がやつれて見えて、窓から目をそらす。目を閉じれば、海の匂いが鼻腔に戻ってくる。ここから先は、身体の記憶で歩ける場所だ。


 浜辺に着くと、まだ空は夜の名を名乗り切れていなかった。水平線の上で薄い群青がゆっくりと濃さを増し、波の白がいっそう白く見える時間。風は一定で、潮の匂いは深い。

 そこに、小夜がいた。

 海を背に立つ姿は、最初に見た教室の横顔を、海風で少しほぐしたみたいに見えた。


「鉄…」


 名前を呼ばれるだけで、足の重さが一瞬どこかへ行く。

 数歩近づく。彼女は一歩だけ後ろへ引いた。砂がさっと鳴る。すぐに、戻る。その躊躇の幅が、今夜の風の角度を教えてくれる。


「ごめん。体、無理した?」


「してない。いや……ちょっと、してるかも」


 嘘は混ぜない。混ぜないままの正直は、彼女の目を真っ直ぐ打つ。小夜は困ったみたいに笑って、首を振った。


「わがままだな、鉄は」


「わがままを言いに来た」


「ふふ。知ってる」


 会話の外側で、波が寄せては返す。砂の上で水が薄く走って、すぐに引き、また来る。目の前の彼女も同じだ。近づいて、引いて、また来る。そのたびに、胸の内側の砂が形を変える。


「今日、渡したいものがある」


 そう言って、俺はポケットから小さな箱を取り出した。黒に近い紺の、掌に収まる箱。指先が少し震えるのを、風のせいにする。

 箱を開く。内側の布は深い灰色。そこに、銀の輪が小さく光った。


「満月を、胸に」


 まっすぐに言う。言葉に飾りは要らなかった。

 小夜は目を見開き、そして、ゆっくりと息を飲んだ。


「……きれい」


 ペンダントは、丸い。

 満月を模している。銀の円盤には細かな凹凸が刻まれていて、浅い皺が月面のクレーターのように光を拾う。中心には薄い螺鈿の欠片が埋め込まれ、角度によって淡い青や薄い金に光る。

 鎖は細い。鎖の質感が、彼女の肌に乗っても軽く、冷たさだけがそっと触れるように選んだ。

 ――いつか、海辺の雑貨店で見つけて、すぐに「これだ」と思った。

 そのときの俺は、いつ渡すかをずっと考えていて、満月の夜がいいだろうか、期末が終わった夜がいいだろうか、と小さな未来のどれかに印をつけていた。けれど、噂は印の上からマジックで塗りつぶしていくようで、今日という日付を浮かび上がらせた。


「いつか、小夜が“手が届かない”って言った月を、届くところに置いておきたかった。海に浮かぶ月は、近く見えるけど、やっぱり遠いだろ。だったら、胸元にひとつ、置いてしまえばいい」


 言いながら、恥ずかしくなってきた。自分の一途が滑稽に見えてくる瞬間がある。だけど、もう戻れない。戻る気もない。


「……つけても、いい?」


「もちろん」


 小夜はペンダントを指先で持ち上げた。月の面が彼女の瞳に映り、細い鎖が空気の柔らかさを切る。髪を後ろに手でまとめ、うなじを露わにする。その仕草だけで、夜が少し震えた。

 俺は背後に回り、鎖の留め具をそっと合わせる。指先が彼女の髪に触れ、首の皮膚にほんの一瞬だけ冷たさを置く。彼女が僅かに息を吸ったのが伝わった。

 留め具が小さく音を立てる。彼女が前を向く。胸元に小さな月が浮かぶ。

 海の光と、ペンダントの光と、彼女の肌の光が重なって、夜の温度がひとつ上がった。


「……鉄」


 呼ばれて、顔を上げる。

 小夜の瞳は、月の表面を映したまま潤んでいた。涙は落ちない。ぎりぎりのところで光に留まって、彼女の言葉の代わりに震える。


「どうして、ここまで」


「好きだから」


「簡単に言うなぁ」


「簡単に言うよ。難しくしたほうが、嘘みたいになるから」


 彼女は困ったように笑って、首を小さく振った。「きみは、ずるいよ」

「ずるい男だ」

「……うん」


 風が、二人の間を抜けた。

 しばらく、言葉が要らなかった。

 月は静かで、波は一定で、胸の内側の重さが、少しだけ形を変える。


「鉄」


「ん」


「私、今、学院で……」


「知ってる。少しだけ」


「噂は、噂じゃない顔をして広がる。私の顔の上に、知らない顔が乗っかる。みんな、その顔を私のものだと信じる」


 言葉は淡々としていた。淡々の中に、かすかな疲れが混ざる。

 俺は、彼女の手を取った。冷たい。けれど、握り返す力は確かだ。


「俺は、君の顔しか信じない」


「それでも、鉄が倒れた」


「俺は、俺が勝手に倒れた」


「私のせいじゃないって言うの?」


「言う。言わせてほしい。――俺は、自分の選択で、君に会って、君に触れて、君の言葉を飲んでる。だから、倒れても、俺のせいだ。君のせいにしない」


 小夜は唇を噛んだ。月の光が彼女の胸元の銀の輪に跳ねて、砂の上に小さな光の破片が落ちる。


「ありがとう」


 それは、深いところから上がってきた音だった。

 彼女は笑って、すぐに笑いをしまい、胸元の月を指でそっと押さえた。


「これ、ほんとに綺麗。……ずっと、欲しかったものかもしれない。形も、意味も。月に触れるための、言い訳」


「言い訳?」


「うん。月は、見上げるものだから。触れてはいけないものだから。――触れていいよ、って、誰かが言ってくれないと、触れられない」


 彼女の言葉は、詩のようで、真実のようだった。

 その“誰か”に俺がなれるのなら、いくらでも言う。触れていい。触れたい。触っていてほしい。そういう言葉を、彼女のために用意しておく。


 夜はすっかり降りて、海は黒く、波の白だけが浮かぶ。

 俺はふっと笑って、意地を張るみたいに言った。


「似合うよ」


「知ってる」


「はは」


「ふふ」


 笑い合う。その笑いの薄膜の下に、言えないことがまだたくさん眠っている。けれど、今夜は、そこを掘り返さなかった。

 俺の中の力の残量は少ない。会いに来た力は、彼女の「わかった」によってやっと満たされ、ここで尽きかけている。

 それでも、渡せた。

 胸元の月が、これからの彼女の夜をほんの少しでも軽くするなら、それで充分だ。


「送る」


「ううん。今日は、ここでいい」


「でも――」


「鉄、休んで。ほんとうに」


 言い切る声に、柔らかい強さがあった。

 俺は頷いた。

「また、メッセージする」

「うん」


 帰りの足取りは、来たときよりもまっすぐだった。

 胸の重さは相変わらずだが、重さの形が変わると、持ち方が変わる。持ち方が変わると、同じ重さでも少し軽くなる。

 バスの窓に映る自分の顔は、さっきより生きていた。

 彼女の胸元の月が、目を閉じるたびにまぶたの裏に浮かぶ。

 あの光は、永遠ではない。鎖が切れれば失われる、風にさらされれば曇る、人の手が触れれば傷もつく。

 だからこそ、尊い。

 だからこそ、今夜、渡せてよかった。


 部屋に戻ると、ベッドに倒れ込んだ。

 スマホが震える。

 画面に、小夜の名前。


小夜《月、きれい。鉄の、月。ありがとう》


鉄《似合ってた。こっちこそ、受け取ってくれてありがとう》


小夜《おやすみ、鉄》


鉄《おやすみ、小夜》


 短い往復。

 けれど、胸に残る余韻は長い。

 目を閉じると、波の音がすぐそばに来る。

 眠りの縁で、ふと思う。

 俺は弱っている。

 それは事実だ。

 けれど、弱さは敗北ではない。

 弱さは、寄りかかれる場所を見つけるための、合図だ。

 寄りかかることを、俺は覚え直している。

 寄りかかり方を、彼女に教わっている。


 ――そして、俺はまだ知らない。

 その夜、ペンダントの冷たい円が、小夜の胸の上で、彼女の「ふた」を静かに揺らしたことを。

 “触れてはいけないもの”に触れてしまったとき、人はどうなるのか。

 月は、近くにあるほど、影を濃くする。

 次に会う夜、影は輪郭を手に入れるだろう。

 それでも、俺はそこへ行く。

 行ってしまう。

 だって、俺は――恋をしている。

 それ以外の言葉は、今の俺には用意できない。

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