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第三章 夏、海、花火

 甚太「なー今度の連休に四人でどっか遊びに行こうぜ!」


 甚太の声は、昼休みの喧噪に負けない。教室の窓が半分だけ開いていて、海からの風が白いカーテンをふわりと押し上げた。

 俺は机に肘をつき、すぐさま頷く。


「おー! いいな、行こうぜ!」


 こういうときの返事は早いほうが勝ちだ。迷っているあいだにチャンスの波は岸に砕ける。俺の信条である。


「アンタらねぇ、来週には期末テストがあるのに、遊んでられないでしょ!」


 蓮花がすかさず縦ロール(脳内演出)みたいな勢いで突っ込みを入れる。実際の髪はポニテだが、言葉の圧で三割増しに見える。


「テストなんて一夜漬けすりゃなんとかなるだろ。なー鉄!」


「おうよ! 人間追い込まれてからが勝負だからな!」


 俺と甚太は肩を組み、拳を合わせる。ぱしん、と乾いた音がして、カーテンの白が一瞬だけ眩しく跳ねた。


「ほんとしょうがない奴らね。小夜からも何か言ってやってよ」


 蓮花に水を向けられた小夜は、ノートの角に指を添えたまま、少しだけ目を細める。


「うーん、私も最近テスト勉強ばっかで疲れてたからな~。たまにはリフレッシュしたいな!」


「さすが小夜! いいこと言う! やっぱりリフレッシュは必要だよな!」


「アンタは勉強してないでしょ!」


 蓮花の鉄壁ディフェンスが飛んでくる。だが、ここは攻め切る。


「まま、あんまり固いこと言わずに。あとは、蓮花お嬢様だけだぜ!」


「お嬢様、お願い!」


 小夜が両手を胸の前で合わせ、少し首を傾げる。潤んだ瞳――というより、光の反射でそう見えただけかもしれないが、その角度は反則だ。


「お嬢たま、お願い!」


 俺も真似る。甚太は横で合掌して「南無」とか言っている。カオス。


「ああ! もう、わかった、わかった! 私も行くわよ!」


 甚太と小夜の圧に折れる形で蓮花は両手を上げ、俺は歓喜のガッツポーズ。直後、黙って脇腹に小さな拳骨をもらった。痛い。黙っていないのに黙って殴られた。理不尽だが、勝訴だ。


「でも、どこか行くっていっても、どこにする?」


「そうだなー。海なんてどうだ?」


「海っていうと、あそこか?」


「そっ!お前のお気に入りのところ!」


 甚太が親指で海の方向を示す。俺の脳裏には、いつもの浜辺の光景が即座に浮かんだ。風で砂紋がうっすら変わる、あの緩い湾曲。防波堤の向こうで波が砕けて白い霧を上げる。満月の夜、海面に道が落ちる。あそこで四人。悪くない。むしろ最高に決まってる。


「海か~じゃあ水着買わなきゃな~。小夜、一緒に買いに行こうよ!」


 さ、小夜の水着だと!? 一体どんな……いや落ち着け。人はパンとサラダのどちらかを先に食べるかで人生が変わるという格言(俺発)もある。今はサラダ、つまり冷静。

 ……だが脳内では、モザイクのかかった想像が勝手に再生を始める。「健全なる想像」と付箋を貼っておき深呼吸だ。


「鉄、あんた鼻の下伸びてるよ。どうせ、私と小夜の水着姿でも想像してたんでしょ!」


「いや、まて。小夜のは想像したが、お前のはしてないぞ」


「ふ~ん。そんなこと言うんだ~。でも、私と小夜の水着姿なんてそうそう拝めるものじゃないけど、それでも想像しないの?」


 蓮花は言いながら小夜の腕に絡む。友達スキンシップ。目福。

 た、確かに小夜はもちろん、蓮花だって美少女だ。そして、スタイルも抜群。二人で歩けば街が一段明るく見える。――が、俺は海の風景と合わせて想像しているだけであって、不健全なことは考えていない。健全。とても健全。

 ……たぶん。


「だから、鼻の下伸びてるってば」


「本当に鉄はエッチだなぁ」


 小夜は面白がっている。蓮花はやれやれと頭に手をやる。甚太は腹を抱えて笑い、締めるときは締めた。


「じゃあ、決まりだな! 当日はみんな遅れるなよ!」


 黒板の端に大きく「連休・海」と書き、下に小さく「※期末あり」と書いたのは蓮花だ。ツンデレの仕事は正確。



 放課後、俺たちは早速スケジュールを詰めた。グループチャットの名前が「潮風遠足(仮)」から「潮風遠足(本気)」へと二段ジャンプするのに三分もかからなかった。


甚太《駅集合9:00でどうよ》

蓮花《朝は10:00からです》

小夜《9:30は?》

俺《9:30なら行ける》

蓮花《9:30可。代わりに翌日朝ゼロ限自習ね》

甚太《鬼教師》

蓮花《天使だよ》

小夜《天使♡》

俺《多数決で天使♡》

蓮花《鉄、有罪》


 みんなの「必要なもの」が流れてくる。タオル、日焼け止め、帽子、ラッシュガード、飲み物、簡単な救急セット。そこへ甚太が謎の一行を投下。


甚太《あと秘密兵器》


 不穏。だが、甚太はこういうところで悪ふざけより「雰囲気を良くする」方向に走る男だ。きっと大丈夫。……たぶん。


 俺は別途、持ち物に「クーラーボックス(小)」と「保冷剤」「スポドリ」「水」を追加する。海に行くなら、熱中症は最大の敵だ。小夜が水派であることも、ちゃんと覚えておく。


 翌日、放課後のショッピングモール。

 女子二人は水着売り場へ。男子二人はパラソルとレジャーシート売り場へ。それぞれ戦線が分かれた。

 男子チームの買い物はシンプルだ。シートは大きめ、パラソルは風に強いタイプ、ペグは長いもの。日陰の面積が全てを救う。

 甚太が「この色が映える」と言って青のパラソルを手に取る。俺は「取り回し」を重視して持ちやすい柄のものを選ぶ。実用と映え、二択のようで両立する一本を見つけるのに十五分。まあ、良い買い物だ。


「で、女子チームはどうかな」


 合流のために水着売り場の近くへ行く。近く、まで。男子が領分を侵すと面倒が起こる。ここは文明人として距離感を守るべき場所だ。

 と、蓮花からメッセージ。


蓮花《試着終わった。今はパーカーとラッシュガード見てる》

俺《了解》

甚太《海、来ちゃうな》

俺《来ちゃった♡》

蓮花《まだ来てないでしょ!》

小夜《……♡》


 最後の「……♡」が可愛い。文字列にまで温度が宿る人間、強い。

 やがて二人が現れた。袋の形状から察するに、水着は決まったらしい。

 蓮花は爽やかな笑顔で袋を掲げ、「企業秘密」。小夜は「似合うといいな」と小さく言った。たぶん似合う。というか、何でも似合う。問題は俺の心臓が終日もつかだ。


「こっちはパラソルとシート完了。あとクーラーボックス」


「おお、頼もしい」


 甚太が胸を張る。頼もしさに関しては全面同意。やるときはやる男。

 ついでにドラッグストアで日焼け止め(SPF高め・敏感肌用)と、日よけのパーカーを買い足す。小夜は「私もパーカー持っていく」と言って、薄手の白を手に取った。

 彼女は陽射しに弱い。これまでの観察から、明らかだった。教室の斜めの光で目を細め、強い照り返しの廊下を避け、屋外では日陰を選ぶ。

 俺は無意識に白のパーカーを一緒にレジに並べ、会計を済ませる。袋を手渡すと、小夜は一瞬きょとんとして、すぐに「ありがとう」と言った。


 試験前の「一日だけの息抜き」だからこそ、残りの日々はおとなしく勉強に専念した。

 図書室の大テーブルで、四人並んで教科書を開く。蓮花がタイムキーパー役、甚太が空気緩和役、俺はペースメーカー役、小夜は静かに進捗を積む役。役割は自然に分担された。

 休憩のたび、俺は「海用プレイリスト」を少しずつ作る。タイトルは《Sea & Moon》。レコード店で一緒に聴いた曲を真ん中に、過度に明るすぎない曲を並べる。

 小夜に共有すると、すぐに返事が来た。


小夜《月が波に落ちる曲がある》

俺《何それ最高》

小夜《当日、海で聴こう》


 約束が増えると、時間がやわらかくなる。今日の硬さが、明日の柔らかさに変換される。勉強のページも、不思議と捗る。

 そんなふうに準備を積み上げ、連休の朝は思っていたより早く、そして静かにやってきた。


 当日。

 駅前に九時半集合。俺は九時に着き、コンビニで氷を補充し、ベンチで風に当たる。潮の匂いはまだ薄い。

 九時十分、甚太が大きなトートを肩にかけて現れた。中身の三割が「秘密兵器」らしい。袋の口から、細い筒が覗いている。あれは――花火だ。昼の花火ではなく、夜のそれ。

 俺が目で問うと、甚太は片目をつむって「ばれたか」と笑った。


「夜は早めに切り上げるけど、日が傾く頃に砂浜でちょっとだけ。もちろん、人と距離は取る。ゴミは持ち帰る。大人のマナーで」


「お前、ほんと根が真面目だよな」


「ロマンはルールの中で燃えるんだよ」


 良いことを言った風だが、実際良い。ロマンとルールの両立は難しいが、彼はいつもその線を探す。

 九時二十五分、蓮花登場。大きなトートと、帽子。元気印が歩いてくると、駅前も一段明るい。

 最後に小夜。白いパーカーのフードを軽くかぶり、日傘をたたみながら小走りでやって来た。


「おはよう」


「おはよう」


 声を合わせる。朝の駅前は、通勤と観光の人が混ざっている。俺たちは観光側。いつもより一歩軽い。

 電車に乗り込むと、四人でボックス席に座った。窓の外で町が流れ、やがて視界の片側がぽんと開ける。海だ。

 小夜は窓に近い席を選ぶが、直射は避ける位置に上手く体を置いた。パーカーの袖が手の甲を隠し、視線は落ち着いている。

 俺はプレイリストをイヤホンで共有し、窓の外の海に合わせて音量を決めた。ベースが心臓を少しだけ押す。小夜は目を細め、少しだけ頷いた。


「この曲、好き」


「だろ」


 短いやりとりが風の隙間を埋める。蓮花は車内マップを広げて乗換案内を確認し、甚太は「海に着いたらまず場所取り、次に冷たい飲み物の手配」とロードマップを述べる。頼もしさのアンサンブル。


 海の駅に着くと、空の青がさっきより一段深かった。

 バスで丘を下り、視界がすべて青に満たされる地点で降りる。潮の匂いが強く、肌が塩を一粒ずつ拾っていく感覚。

 浜へ降りる階段の手前で、俺たちは一度立ち止まる。眩しさに目を慣らすため、深呼吸を一つ。

 砂に足を踏み入れ、場所取り。風の向き、他の客との距離、波からの距離、全部を考えてシートを広げる。ペグを打ち、パラソルを立てる。

 この一連の作業、チームワークが試されるところだが、俺たちは驚くほどスムーズだった。蓮花がペグの角度を見て、甚太が柄を押さえ、俺が紐を引き、小夜が影の伸びを見て「少しだけ右」と告げる。その一言が絶妙だった。

 影がちょうど四人分の椅子を飲み込み、クーラーボックスを日陰に入れる。完璧。


「鉄~、お前もう鼻の下伸びてんぞ」


「いや~お前だって顔がニヤけてんじゃねぇか」


 俺と甚太は二人でニヤけながら顔を見合わせ、まずは戦略的場所取り。連休ということもあり、家族連れやカップル、インスタ用の浮き輪を持ったグループがそこそこいる。波打ち際からほどよい距離、トイレも売店も近い“勝ちポジ”を見つけると、俺たちはすばやくレジャーシートを広げた。


「おし! こんな感じでいいかな!」


 レンタルのパラソルを突き、クーラーボックスを置き、サンダルを脱ぎ捨てる。ペットボトルの水が光って見えたのは、期待のせいか日差しのせいか。


「男子諸君! おまたせ~!」


「おまたせ~!」


 その声だけで、気温が二度あがった気がした。振り向けば、蓮花と小夜がタオルを羽織って立っている。砂に沈む足首、風にゆれる髪。――ついにこの時が来た。二人(特に小夜)の水着姿を見たら昇天するかもしれん。いや、タオル越しで既に半分くらい昇天しそうだ。


「鉄。あんたガン見しすぎ」


「い、いやガン見してねーし!」


 口は否定しながらも目は離れない。視線って正直だ。視線が勝手に生きてる。


「ふふふ、目血走ってるよ」


「ははは、鉄やべーな!」


「まったくも~。じゃあ、お披露目するよ! せーのっ!!」


 タオルが同時にふわりと舞い、太陽が一瞬音を立てた――気がした。


「「おおおおおおお!!!」」


 小夜は花柄のショートパンツに、胸元は控えめなフリルのついた可愛い水着。清楚という言葉の現物証明。風がフリルの影に小さな影を作り、陽光が肌に薄く反射する。

 対して蓮花は、健康的なラインの大人っぽいビキニ。動けば笑う、止まれば絵になる、反則系。

 どちらも破壊力抜群――いや、これは破壊ではない。浄化だ。見える。俺には見える。一面のお花畑、遠くでおじいちゃんが手招きしてる。今なら幸せな気持ちでいけそ……。


「おーい! 戻ってこーい!!」


「はっ……! あぶないところだったぜ……」


「気持ちはわかるけど、いきなり昇天すんなよな!」


「あははは! 鉄、おもしろーい!」


「もう、どうせ逝くなら感想くらい言ってから逝きなさいよね。で、どう? 私達?」


「二人とも似合ってるぜ! ホントもうめっちゃかわいいわ!」


「甚太、ありがとう!」


「ふふ、ありがとう!」


「で、鉄はどうなの?」


「いやもう、ホントありがとうございました!!」


「あのねぇ、それは感想じゃなくてお礼でしょうが」


「あはは! 鉄、ありがとう!」


「お、おうよ!」


 やれやれ、と蓮花が額に手を当て、甚太と小夜が笑う。笑い声が波に混じって、夏の音色がひとつ増える。


 そこからは、とにかく遊んだ。

 最初のダッシュで海へ駆け込み、足首、膝、腰、と段階的に冷たさに悲鳴を上げ、肩まで浸かったところで「これだよ、これ!」と誰かが叫ぶ。ビーチボールでラリーを始めれば、俺が小夜の水着を注視している瞬間だけボールが俺のこめかみを射抜くように飛んでくる。送球者は高確率で蓮花。的確すぎる。

 砂に城を築いて「防波堤が弱い」と甚太が崩し、焼きそばを買いに行けばソースの匂いに連なる人の列で夏休みの気配を吸い込み、凍ったジュースを齧れば頭がキーンとなって、その姿を見た小夜が肩を震わせる。

 日焼け止めを塗り忘れた甚太の肩が赤くなり、蓮花が「貸しな」と手早く塗る。俺も塗ろうとして、うっかり小夜の腕の近くで手を止めた。


「塗る?届かないとこ」


「ううん、自分でやる。ありがとう」


 差し出した言葉の先に、遠慮の薄い膜。彼女の線を越えないこと。今日のルールに、俺は黙って頷く。

 彼女は日陰を選ぶのがうまい。パラソルの影と太陽の境目に座り、時々水に足首だけを浸す。冷たいと笑い、波に触れた指をすぐに拭う。

 触れた水の温度、触れない影の温度――彼女の温度は、いつもその間にある。


 正午を過ぎ、太陽が少し傾き、風がやわらぐ。

 俺たちは交代で売店に走り、クレープだのかき氷だの唐揚げだのを持ち寄って、レジャーシートの上に“海の屋台”をつくった。小夜は唐揚げを一つだけ食べて、かき氷は無色のものを少しだけ。

 その横顔をじっと見る俺に、蓮花が肘でつつく。


「ガン見やめ」


「見学だ」


「どんな見学よ」


「美術の」


「美術ならスケッチブック持ってきなさい」


 午後三時。

 少し雲が出て、日差しが柔らぐ。海から上がった小夜がパラソルの陰で髪をタオルで押さえ、俺と甚太はスコップで何か作り始める。

「どどーんと“白銀海聖”だ!」と甚太。砂浜に学校名を書く男二人。バカだ。でも楽しい。

 完成した“白銀海聖”の最後の「聖」の画数が妙に多くなったところで、蓮花が写真を撮る。「はい、バカ二人と可愛い二人」――シャッター。小夜の笑顔がレンズに吸い込まれ、俺の胸に溜息みたいに残る。


 夕方の気配が混ざり、風の匂いが昼から夜へと少しずつ移行していくころ、甚太が大事そうにリュックから一本の袋を取り出した。


「最後はこれで締めくくろうぜ!」


「おー! 花火いいねぇ」


「そんなのまで用意してたんだ」


「ま、予算の都合上そんなに多くはないけどな!」


 手持ち花火の束。十分すぎる量だ。線香花火もある。

 ライターの火がくすぶり、紫のススキが夜の幕を手作業で引っ張ってくる。火の粉が弧を描き、歓声が上がり、砂に落ちた火が小さく消える。

 時間はいつもより早く進み、気づけば残るは線香花火だけになっていた。


「あとは、線香花火だけか。じゃあ、飲み物切らしたし買ってくるわ。蓮花、付き合ってくれよ!」


「あん、飲み物買いに行くなら俺が一緒に行くぞ?」


「いーから、いーからお前は小夜と花火楽しんでくれよ!」


 甚太は俺の背中を軽く押しながら、小さな声で囁いた。「お膳立てはしてやった。あとは頑張れよ」

 背中から心臓に直通のスイッチが入る。お、お膳立てって? ええええ!? そ、そんな心の準備が……。でも、こんないいシチュエーション、もう二度とないかもしれない。


「鉄、ほら線香花火やろ!」


 小夜が手渡してくる線香花火は、細い枝の先に小さな玉。点いた火が最初にもつれ、やがて丸くなり、ふるふると震える。

 さっきまで四人であんなに騒がしかったのに、今は二人。線香花火の仄暗い灯りと、パチパチという音だけが支配する小さな宇宙。

 火玉が大きくなったり小さくなったり、牡丹、松葉、柳――教科書で覚えた名が頭をよぎる。火の滴が落ちるたび、胸の中の何かが同じ場所に落ちて、波紋を広げた。


 やがて、線香花火はゆっくりと灯りを消した。砂に残る焦げの匂いが、夜の入口を示す。小夜は立ち上がり、海の方を見る。


「私ね。ここから見る月が好きなの。海に浮かぶ月が……」


「……ああ、俺も好きだぜ。月ってあんなに遠くにあるのに、海に浮かぶ月はすごく近くに感じて、すごく綺麗に見える。だから、俺はこの場所が好きなんだ」


「あーわかるー!」


「だろ! すごく身近にあるような気がして、だから……」


「でも、決して手が届かない……だからかな……」


 ぽつりと言ったその言葉は、俺の胸にまっすぐ刺さった。何に届かないのか。誰に届かないのか。理由はわからない。ただ、胸の奥を細い刃で抉られたみたいに、鋭い不安が走った。今にも彼女が、光の濃いところから薄いところへすうっと歩いていって、そのまま輪郭を失うのではないかという、不安。


「小夜! お、俺は……!!」


 気づけば、俺は小夜の手を掴んでいた。小夜の目が丸くなり、こちらを向く。手は冷たく、でも拒まれてはいない。


「俺はお前が好きだ!」


 勢いで告白した。呼吸が荒い。胸が熱い。言葉は不格好だ。でも、嘘は一つもない。


「ずっと……ずっと好きだった。だから、ずっと一緒にいてほしい」


 もっと気の利いた台詞があったはずだ。月だの海だの、用意していた比喩はどこかへ逃げた。代わりに残ったのは、子どもみたいな直球だけ。

 小夜は小さく息を吸い、一瞬だけ目を伏せ、それからやさしく笑った。握った手を、ぎゅっと握り返してくれた。


「鉄、ありがとう。うれしいよ」


「じ、じゃあ……俺と付き合ってくれるか!?」


「私でよければ、よろしくお願いします!」


「う、うおおおお! よっしゃあああああ!」


 跳ねた。跳ねまくった。砂が舞い、月が揺れ、波が笑った。

 頃合いを見計らったように、甚太と蓮花が飲み物を抱えて戻ってくる。俺の顔を見るなり、甚太は親指を立てた。蓮花はきょとんとして、状況を理解した瞬間に目を大きく開き、小夜の肩を掴んで真顔で訊いた。


「本当にコイツで大丈夫? 何かあったら言ってね、私がコイツをハッ倒しに行くから」


「ちょ、保護者か」


「保護者だよ。保証人でもいい」


 小夜は声を立てて笑い、「うん」と短く返した。その短い音が、俺の胸のど真ん中に印をつける。ここ。ここが、俺の現在地だ。


 花火の残り香と、月明かりと、海の湿り気。四人はもう一度輪になって缶を開け(もちろんソフトドリンクだ)、紙コップで乾杯した。

「かんぱーい!」

 弾けた炭酸が舌に刺さる。夜風が火照りを冷ます。

 帰り道、四人で砂を落としながら歩く。俺は小夜の手を握った。彼女は少し驚いた顔をして、それから握り返した。冷たさは、そのまま優しさだった。


 ――それから数日。

 俺は天にも昇るほど幸せだった。毎日がまぶしく、時間が光って見えた。

 朝、教室に入ると小夜が窓際で手を振ってくれる。ただそれだけで、ホームルームの五分が短縮される。

 休み時間、二人でノートを重ねて、同じ余白に違う字で書き込みをする。昼休み、屋上で風を分け合う。

 放課後、駅前のベンチで、プレイリストの感想を言い合う。「この曲、好き」「こっちも、好き」。

 帰りの道、手はまだ繋いだり繋がなかったり。距離はときどき縮み、ときどき保たれる。彼女の線は、彼女が決める。俺はそれを尊重する――と自分に言い聞かせながら、十分に満たされていた。

 夜はメッセージが続く。「今日の月、見た?」「見た。細かった」「明日は満ちるって天気予報で言ってた」「満ちるの、楽しみだね」。

 俺は何度も読み返し、既読を付けずに心の内側で保存した。


 そうして、俺は少しずつ、たしかに幸せの耐久試験に落ちていった。

 笑いすぎて、軽く、軽く。

 夢中になって、軽く、軽く。

 夜更かしが増え、朝が重く、昼の欠伸が深くなる。

 でも、それは恋の副作用だと思っていた。誰にだってある。大丈夫。むしろ正常。そう、正常――


 そんなある日の昼休み。

 購買から戻る廊下で、ふと、前を歩く二人組の女子の会話が耳に刺さった。


「ねえ、知ってる? また、らしいよ」


「なにが?」


「椿さんと付き合った人、前の学校でも……って」


「やめなよ、声でかい」


「でも、三木谷先輩も最近……」


「それは部活でしょ」


「さあ。けど、ほら――」


 言葉の先を、扉が閉まる音が飲み込んだ。

 俺は足を止めた。喉の奥が乾く。

 振り返ると、蓮花が廊下の陰からこちらを見ていて、目が合うと無言で首を横に振った。「今は聞かない」。

 その合図の意味は、ちゃんとわかった。

 俺はうなずき、笑顔を作って教室へ戻る。

 窓際、小夜がこちらを見て、手を振った。触れればほどけるくらい柔らかい笑み。俺は同じ笑みを返す。


 ――大丈夫。

 俺は信じる。

 信じる、と決めた。

 それでも、廊下に残った言葉の残響は、靴底に付いた砂のように、簡単には落ちなかった。


 その夜、ベッドに仰向けになって天井を見た。

 スマホには小夜の「おやすみ」が灯っている。

 目を閉じる。砂の匂いも、波の音も、月の白も、ぜんぶ思い出せる。

 思い出せることが、救いだ。

 だが、海の底に沈めたはずの小さな棘は、まだそこにある。

 指で触れると痛い。

 放っておけば、たぶん動く。

 じゃあ、どうする。

 どうもしない。今はまだ。

 幸せは、いまここにある。

 なら、いまここを握り締める。

 そう決めて、俺は目を閉じた。

 まぶたの裏側に、線香花火の小さな火玉が、ふるふると揺れていた。

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