第一章 転校生、椿小夜
「今日は一段と眠そうだな、鉄」
「どうせ夜遅くまでゲームしてたんでしょ」
朝の教室。賑やかな声に肩を叩かれ、俺は顔を上げた。
声の主は、幼馴染の戌亥甚太と柊蓮花。小さいころからずっと一緒にいて、高校に入っても相変わらずの付き合いだ。
ちなみに俺の名前は虎牙鉄弥。白銀海聖学院の二年生。海沿いに建つ中高一貫の進学校で、制服からはどこか上品さが漂っている……らしい。少なくとも俺はそう思ったことはないが。
「そんなんじゃねーよ。ただ、昨日は月がきれいだったから」
「ああ、満月だったな。……お前、また浜辺でぼーっとしてたのか?」甚太が呆れ混じりに笑う。
「ほんと好きねぇ、ロマンチストっていうか。今度ポエムでも書いて読み上げなさいよ!」蓮花はくすっと笑って俺をからかう。
「そんなの書けるかっての!」
俺が抗議する声をかき消すように、チャイムが鳴った。すでにホームルームの時間だというのに、担任はまだ来ない。
「なんでも今日来る転校生が遅れてるみたいだぞ」甚太が小声で教えてくれる。
なるほど、それでみんな騒いでいたのか。耳を澄ませば、クラスのあちこちで「男かな?」「女かな?」「可愛い?」「カッコイイ?」と盛り上がっている。まったく、高校生にもなって転校生でこんなに浮かれるとは……。
……いや、可愛い女の子だったら俺も浮かれる。
できれば、アイドル級に。
「鉄、お前はどっちだと思う?」
「もちろん女の子だな。可愛いならなお良し!」
「はは、即答かよ!」
「まったく……。目の前にこんなに可愛い女の子がいるのに」蓮花が拗ねたように唇を尖らせる。
「いやお前はもう見慣れてるし」
「だな」
「二人揃ってハモるなーっ!」
俺たちの笑い声に混じって、教室のドアがガラリと開いた。
担任が入ってきて、教壇に立つ。
「はいはい、席につけー。今日から転校生が来るぞ。みんな仲良くしてやれよ。……じゃあ、入ってきてくれ」
次の瞬間、教室の空気が凍りついた。
月の光を閉じ込めたような黒髪。背中まで流れる絹のような艶。透き通る白い肌に、わずかに陰を宿した大きな瞳。
――完璧な美貌の少女が、そこに立っていた。
「椿小夜と申します。家の事情でこちらに転入することになりました。……どうぞ、よろしくお願いします」
澄んだ声と同時に見せた笑顔に、一瞬、時間が止まった。
そして爆発するように教室がざわめきだす。
「可愛いっ!」「やばい、マジ天使」「惚れるわ……!」
男子も女子も、みんなが目を奪われていた。
男子も女子も彼女の美貌に興奮が冷めないでいた。それもそのはずだ、こんな美人がクラスに来たら誰だって騒ぎたくなる。それに、彼女の魅力は容姿だけではなく、何か人を惹きつける不思議な磁場みたいなものがあった。あの眼に正面から見つめられたら、心のどこかの重力がふっと彼女の方角へ傾く。視線を外そうとしても、糸でつながれているみたいに戻ってしまう。なんだ、この感覚。危ない。けど、目が離せない。
彼女が転校して来てから数日間の休み時間は、ほんとうにすごいことになっていた。噂は学院中に広まり、その姿を一目見ようと中等部からも生徒が押し掛ける。廊下の角ってこんなに人が隠れられるスペースあったっけ? というくらい、見知らぬ顔が壁に張りついている。担任は「通路は走るな、溜まるな、騒ぐな」の三連発でどうにか人波を押し流しているけど、鐘が鳴るたびにまた満ち潮のように戻ってくる。やれやれ、白銀海聖学院の潮汐は今日も活発らしい。
当然、休み時間の彼女の周囲には厚い人の壁ができる。近づこうものなら、まず一層目の「声かけ隊」を抜け、二層目の「質問係」を突破し、三層目の「無言で近くにいたい係」の視線をくぐり抜け、そのうえ最後に「ファンクラブ幹部(自称)」の審査を受けねばならない。門、多くない? ここ入国審査ですか? いや、むしろ王城か。
「相変わらず、すごい人気ねー」
「ほんとにな。来て数日で学院のマドンナ的存在になったらしいからな」
「あの美貌だからな。仕方ないだろ。むしろ、あの美貌に魅了されないほうが失礼に値する」
「鉄、あんた鼻の下伸びてるよ」
言われて思わず鼻の下を手で覆い隠す。反射速度だけは一流だと自負している。
「でも、同じクラスなのに声もかけることが出来ないのは異常だろ。鉄だって狙ってるんだろ?」
「当たり前だ! 真っ先に行ったさ、だが人の層が厚すぎて近寄ることすら出来なかったがな」
「ほんと、あんたたちは」
仕方ないという風に蓮花はため息をつく。こういうバカな話を遠慮なくできる女子は蓮花だけだ。だからこそ、三人でいるこの時間が、俺はたまらなく好きだ。俺のどうでもいい見栄も、くだらない冗談も、だいたい蓮花のツッコミと甚太の笑いに救われてきた。けど、今日は救いよりも煽りが勝っている気がする。気のせいか?
チャイムが鳴って、数学が始まって、終わって、またチャイム。鐘って偉いよな、鳴るだけで教室の空気をがらりと変える。次の休み時間、俺はささやかな作戦を立てた。まずは遠巻きに様子を見て、波が引く一瞬を狙って声をかける。要はサーフィンだ。波を読むのが肝心。
ところが、俺の「波を見る眼」は海の素人そのものだった。引いたと思えば別の波が押し寄せ、隙間ができたと思えば「え、椿さんって部活どこ入るの?」「ねえねえ、出身って――」の連続で、彼女の横顔は見えるのに半径一メートルにバリアが張られたまま。くぐり抜けた先に彼女の視線がすっと動いて、ふっと笑うのが見えた。笑顔は遠くでもわかる。肺の奥が少し熱くなって、俺は自分の机に戻った。焦るな。焦ると足をもつれさせて海に落ちる。そう、俺は慎重派。今日は偵察。うん、偵察。
昼休み、購買の前はいつも以上に混んでいた。揚げパン待ちの列が蛇みたいに廊下を伸びる。俺も並ぶ。前の奴がスマホでこっそり撮って、後ろの奴は「貸して!」って小声で騒いでる。ダメだぞ、そういうの。心の中で説教していると、横を白い影がすっと通った。彼女だ。購買の喧騒をよけるみたいに流れていく。タブレットの広告画面が彼女の頬を青く染め、制服の襟元には細い銀のチェーンがのぞいていた。ペンダント、じゃないな。ただのネームプレートか。それとも、違う何か。なんで俺はそんな細部ばかり見てしまうんだろう。癖か。悪い癖だ。でも、目に入ってしまう。
午後、古典の時間。先生が昔の恋文を朗読して、教室が微妙な笑いで揺れた。俺は教科書の余白に意味もなく波線を書いて、ちょっとだけ横目で窓際を見る。彼女は真面目に本文を追っていて、指先が紙の端に触れていた。白い。季節のせいだけじゃない冷たさが見える。俺は衝動的に消しゴムを落とした。転がった先は――彼女の机の脚に当たって、止まる。おい、狙ったみたいになってる。俺は椅子を引いて拾いに行き、息を止めて手を伸ばした。彼女の視線がゆっくりと下りてきて、目が合う。心臓が「どく」と音を立てたのがわかる。
「あ、ごめん。消しゴム、落として」
彼女は小さく首を横に振って、ほんの少しだけ笑った。言葉はない。なのに、妙に通じた気がした。俺は「ありがとう」とか「すみません」とか、どっちの台詞を言うべきか迷って、どっちも言えずに席へ戻る。ダサい。けど、たぶん俺はずっとこうだ。
放課後。靴箱の前で、甚太が肩で大きく笑った。
「消しゴム作戦、成功したか?」
「作戦、だったわけじゃない」
「結果的に成功か失敗かで言うと?」
「言葉が出なかったから、失敗……なのか?」
「そうね。百点満点で十五点」
「辛口審査員、現る」
「十五点の理由は“目が合ってから固まる時間が長い”。あと、“戻るときに足もつれそうだった”」
「見てたのか」
「見てた。というか、クラス半分くらい見てた」
ぐうの音も出ない。いや、出すまい。今日の俺は反省と改善の塊だ。
その帰り道、空はうっすらと曇っていた。海から上がる風が濡れていて、制服の裾をひやりと撫でる。校門の向こう、歩道に白い傘がひとつ咲く。彼女は傘を差す姿すら絵になる。歩幅が一定で、足首の角度が綺麗で、前を見ている。俺は一歩、二歩、足を止めて、それから歩き出した。追いかける理由はない。けど、目で追ってしまう。視界の端に白い円が小さくなって、角を曲がって消えた。
翌日も、その次の日も、似たような風景の中で小さな違いが混ざった。例えば、彼女が図書室で借りた本は海洋生物図鑑と古い詩集で、たぶん二冊同時に読むタイプ。例えば、体育の見学のとき、ベンチに座っているのに足首だけは軽く動いていて、リズムを刻む癖がある。例えば、保健室の前で先生と話していたとき、先生の顔より窓の外を見ていた。気づいてしまう自分が厄介だ。気づけば気づくほど、距離が縮まった気になって、でも実際の距離は相変わらず遠い。
そんなふうに一週間が過ぎて、土曜の短縮授業。三限で終わる。解放感が教室を軽くして、男子はボールを持ち出しそうな勢いだ。そこで俺は決めた。波を読むんじゃない、波に乗るんだ。行くぞ俺。行ける、行けるはず。
鐘が鳴って、ざわ、と音が広がる。彼女の机の周りは――いつもほど混んでいない。三人、四人、五人。少ない。いける。俺は椅子を引いて、深呼吸して、立ち上がる。足は真っ直ぐ。途中で蓮花が視界の端で親指を立てた。甚太はニヤニヤしている。余計な情報を遮断。ターゲットロックオン。あと三歩。二歩。――
「椿さーん、これさ、部活見学の……」
先に声がかかった。陸上部の女子だ。彼女は丁寧に受け取って、柔らかく笑って、短い会話を交わす。俺は足を半歩止めて、笑顔が終わるのを待つ。陸上部女子が去る。よし、今だ。
「椿さ――」
同時に、前から三年の男子が来た。テニス部のエース、三木谷先輩。うん、知ってる。背が高い。声がいい。笑顔の角度が既に完成されている。「このあと時間ある?」みたいな、慣れた調子。彼女はそれにどう答えたんだっけ。俺は聞き取れないまま、喉の奥に引っかかった自分の「椿さん」を飲み込んだ。先輩の笑い声の波が、俺のつま先に当たって砕ける。潮目が変わった。今日は引く。俺は踵を返して、自分の席へ戻った。
席に戻る途中、窓の外がきらっと光った。雲間から陽が差して、遠くの海が一瞬だけ眩しく反射する。俺はその光に救われるふりをして、深呼吸。大丈夫。焦るな。焦ったやつから海に落ちる。俺は――俺は、逃げない。
昼前、短縮授業は終わる。教室に残る者、部活へ向かう者、駅へダッシュする者、分かれる動線の真ん中で、蓮花が俺の肩を軽く叩いた。
「今日は撤退。正しい判断」
「……見てたのか」
「見てた。エース先輩、壁高いね」
「まあな」
「でも、波は毎日違う。明日はもっといい波が来る。サーファー甚太が保証する」
「お前、サーフィンできないだろ」
「海を愛する心はある」
「海じゃなくて、鉄の背中を押しなさい」
笑い合う。笑い合うけど、胸の奥の渇きは消えない。たぶん俺はもう、あの笑顔に水をもらうことを知ってしまったんだ。喉が渇くたび、思い出す。教壇の前で一礼した横顔、窓辺で水を飲む仕草、消しゴムを拾ったときに一瞬だけ合った眼差し。全部が、俺のなかの記録媒体に高解像度で刻まれていく。忘れようとしても、たぶん無理だ。
帰り支度をしながら、ふと思う。彼女の周りにはいつも誰かがいるのに、ふとした瞬間だけ、輪の中心から半歩外側に立っていることがある。笑顔の奥に、耳鳴りみたいな静けさが見えるときがある。誰も気づかないほど短い瞬間。……俺は、たまたま見た。たまたま、拾った。たまたま、目が合った。たまたま、心臓が跳ねた。たまたま、でも、もう偶然では片づけられないくらい、心がそっち側に傾いている。
次は、言おう。ちゃんと。真正面から。波がどうだとか、門が多いとか、そういう言い訳は置いておいて、俺の口で俺の声で、普通に。「よかったら、一緒に行かない?」って。それだけでいい。たぶん、最初の一言が一番難しい。だけど、言えさえすれば、あとは歩幅を合わせて歩くだけだ。
窓の外では、風が校舎の角を回って、桜の残り花弁をさらっていく。きれいだ。風はいつでも、誰かの背中を押している。なら、今日くらいは――俺の背中も、押してくれ。そう心の中で頼んで、俺は鞄を肩にかけた。明日は、今日より少しだけうまくやれる気がする。いや、やる。やってみせる。俺は階段を降り、昇降口へ向かった。扉の向こう、潮の匂いがふっと鼻をくすぐる。海が近い。満ち引きの音が、どこかで反芻されている。
教室に戻れば、また人の波。廊下に出れば、また風の波。浜辺に立てば、月の波。どれも俺を運ぶためにあるみたいに、今日だけは思えた。明日、俺はあの白い波の向こうへ、もう一歩。たった一歩でいい。踏み出す。
「あ、でも、この前三年の三木谷先輩があの子に告白したって聞いたよ」
「なに!? あの、たらしの三木谷がか?」
たらしの三木谷――この学院じゃほとんど固有名詞だ。三年、テニス部のエース。長身、整った顔立ち、さわやかスマイル完備。校内放送のゲストに呼ばれればリスナー数が跳ね上がり、学園祭では模擬店の売上まで上げてしまうらしい。ファンクラブがあるとかないとか、いや、ある。昼休みの渡り廊下で列を作らせたら、そのまま購買の行列と合流できそうだという冗談まであるくらいだ。おまけに、人たらし。誰にでも肩の力が抜けた声で話しかけ、距離の詰め方がプロ。なるほど、敵に回したくないタイプ。いや、今は完全に敵だ。
「ああ、俺もその話聞いたぜ。街でデートしてるところを見たって奴もいたな」
「な・ん・だ・と!? 甚太、俺はイケメンが憎いぜ」
「ああ、俺もだ」
二人で同時に机に突っ伏して嘆いてみせる。とはいえ、甚太、お前は普通にモテる。高身長、整った顔、サッカー部のエースストライカー。女子の歓声がゴールネットよりよく揺れる。ファンクラブの噂もある。なのに一緒に嘆いてくれるあたり、幼馴染補正って偉大だ。
俺はというと――たぶん、きっと、モテるはず。どこかの教室の片隅で、ひっそりとファンクラブ第一期生が水面下で活動している可能性だって、ある。うん、ある。人は希望で生きる生き物だ。
「はいはい、アンタたちには美少女・蓮花ちゃんがいるんだから、いいじゃない」
「おーそうだった。俺たちには『自称』美少女のれんかちゃんがいるのだった!」
「確かに『自称』美少女の蓮花ちゃん、ありがたや~」
「ハッ倒すよ!」
いつものコントで、教室の片隅に笑いが生まれる。こういうバカ話を遠慮なくできる女子は、蓮花だけだ。肩までの髪を後ろでひとつに結んだポニーテールは、今日も快晴。動くたびに弾み、本人の気っ風の良さをそのまま線にしたみたいに軽い。表情もよく動くし、ちょっと怒っても、すぐ笑う。クラスの空気を明るく保つ、たぶん誰よりも難しい役を、彼女はいつの間にか引き受けている。好きか嫌いかで言えば、好きだ。友達として、すごく。
だが今は、心の中心に別の月がある。黒髪の転校生、椿小夜。教壇で自己紹介したときの、あの一瞬の微笑。視線を受け止める角度が、完璧に計算されたみたいに美しいのに、どこか心細い影を帯びていた。あれが、頭から離れない。
……三木谷先輩が、告白?
授業中なのに、脳内では警報が鳴りっぱなしだ。黒板の数式たちが渋滞し、記号のうち幾つかは嫉妬に見える。イコールの線が二本あるのも気に食わない。一本でいいだろ。いや、待て落ち着け俺。深呼吸。吸って、吐いて。先生に当てられたら一巻の終わりだぞ。
放課後。ニュースの真偽を確かめるべく、俺たちはテニスコート脇のフェンスに張り付いていた。というか、俺が勝手に足を向けたら、二人もついてきてくれた。練習はちょうど終わり際。夕焼けを受けた白いユニフォームが風に揺れる。コートの中央で、三木谷先輩が後輩に声をかけている。軽く、優しく、そして中心的。反射的に、歯を食いしばってしまう。
「きゃー、三木谷さん、今日もキレてるー!」と観覧席の女子の声。うん、キレてる。フォームも、笑顔も、空気の取り方も。だが俺はテニスラケットではなく、言葉とタイミングで戦うタイプだ。負ける気はしない。負けてるけど、負ける気はしない。
彼女の姿は――いない。そりゃそうだ、わざわざ部活終わりのコートまで見に来ない。そう思いかけたとき、フェンスの外、校庭と通学路の境目あたりに白い影が見えた。小夜だ。夕暮れの光に浮かんだ横顔は、静かに整っていて、やっぱりどこか遠い。三木谷先輩がふとこちらを向いた。彼女もこちらを見た――のかどうか、距離があってよくわからない。わからないけれど、俺の心臓だけははっきりわかった。跳ねた。二段ジャンプした。フェンスを飛び越えそうになって、蓮花に袖を掴まれて現実に戻る。
「鉄。落ち着け」
「落ち着いてる」
「顔が落ち着いてない」
ふと見ると、甚太が視線を斜めに流して、軽く息を吐いた。気遣いだ。幼馴染というやつは、どうして心の鼓動にまでチャンネルを合わせるのが上手いんだろう。
「帰ろうぜ。今日ここにいても、確かめられることは多くない」
そうだな、と俺も頷く。あの距離からは何も見えない。何も言えない。俺にできるのは、近づくことだけだ。
帰り道、商店街のアーケードを三人で歩く。たこ焼きの匂い、焼き鳥の煙、夕飯の買い物袋を腕に提げた人々のざわめき。町は暮れていくのに、どこか温度が増していく感じがする。俺の胸の内側も、似たような温度になっていた。
「イケメンが憎い」とか言いながら、本気で憎いわけじゃない。本当に憎いのは、自分の鈍さだ。波を読む、なんて言っている間に波は岸に砕ける。声をかけようとするたび、足が止まる。三木谷先輩の距離の詰め方に嫉妬しているのは、つまり俺がまだスタートラインに立っていないからだ。立て。今すぐ。明日にでも――いや、次の休み時間にでも。
「はい、肉まん」
急に蓮花が俺の手に温かいものを掴ませた。商店街の角の中華屋台、いつの間にか買っていたらしい。甚太にはピザまんが渡る。
「お前、いつの間に」
「今。鉄が難しい顔してたから。糖と油でどうにかしなさい」
「科学的アプローチだな」
「そうよ。女子の直感は往々にして科学」
肉まんの湯気が顔に当たる。うまい。舌に乗せると、脳みその端っこで鳴っていたサイレンの音量が少し下がった。歩きながら食べるなんて、ちょっとした反則感がある。けど、こういう反則は、いい。
「なあ蓮花」
「なに」
「もし……“そう”だったら、俺、どうすればいいんだろうな」
言葉を濁してしまう。彼女はすぐにわかって、わからないふりをしてくれる。
「“そう”が何か具体的に言えない時点で、今はまだ考えない方がいいと思うけど」
「身も蓋もない」
「でも、分岐はだいたい近づいたあとに出てくる。遠くから地図見て悩むより、交差点に立ってから迷ったほうが、たいてい正解に近いよ」
交差点。なるほど。蓮花の言葉はいつも、冗談と実用のちょうど真ん中あたりに落ちてくる。助かる。こういう時、俺は何度も彼女に救われている。気づかないふりをしてきたけど、実は気づいている。
「ありがとう」
「どういたしまして。――ほら、落ち着いた顔になってきた。肉まんの勝利ね」
「科学すげえ」
笑い合って、商店街を抜ける。海からの風がまた少し冷たくなって、アーケードの外では夕暮れの色が青に傾き始めていた。街灯がひとつ、またひとつ灯り、遠くで踏切のベルが鳴る。
家に着いてからも、俺は机に向かって参考書を開き、まったく目に入らない文字列を眺めながら、明日の台詞を考えた。最初の一言。それだけに全エネルギーを割く。
――「椿さん、次の移動、よかったら一緒に行かない?」
普通だ。普通すぎる。でも、普通が一番難しい。飾りをつければ逃げ道ができる。逃げたくない。逃げない。そう決めて、鉛筆を置く。窓の外、雲が流れて、わずかに月が顔を出した。満月じゃない。けれど、海に映る月はいつだって形を変えている。掬えそうで、掬えない。だからこそ、近づきたくなる。