第三章-23 雪原を駆けるエブリイと、記憶の名
氷塔のあるヴァルデンを離れ、白銀の世界をエブリイが進む。
雪道を踏みしめるようなタイヤの音が、広大な静寂に溶け込んでいった。
塔を後にしてから、しばらく二人は言葉を交わさなかった。
車内には暖房の柔らかな風が流れ、かすかにエンジン音が響くのみ。
沙良は運転席でハンドルを握りながら、フロントガラス越しに広がる真っ白な世界を見つめていた。
夏帆は助手席で膝の上にブランケットを掛け、手元のスマホを弄っては伏せ、弄っては伏せ、何度目かの溜息をついた。
「ねえ」
静寂を破ったのは、沙良の声だった。
「ユルゲンさんたちが言っていた“エルダン”っていう人だけど」
夏帆は顔を上げ、沙良の横顔を見た。
「うん、あたしも気になってた。塔のことを中心で研究してたのに、急に姿を消したって言ってたよね」
沙良は小さく頷いた。
「うん。でもね……なんか、どこかで聞いたことある気がするの。あの名前」
雪の反射光がガラスを淡く照らし、二人の顔を白く染めている。
夏帆は少し首をかしげ、「もしかして――」と口にしかけて、はっとした。
「ねえ沙良。あたしたちがこの世界に来て、最初に会った人って……なんて名前だったっけ?」
沙良の目が一瞬、驚きに見開かれる。
ブレーキを踏む沙良。少し横滑りしながら停止するエブリイ。
そして、ゆっくりとハンドルを握り直した。
「……まさか、エルダン?」
夏帆が勢いよく身を乗り出す。
「そう! その人! エルダンって言ってた!」
二人の声が車内で重なり、暖かな空気に揺れた。
「やっぱり……」沙良が息を吐く。「なんか引っかかってたんだよね。最初に出会ったあの人。旅の途中で助けてくれたでしょ?」
「うん、そうそう。雪原であたしたちが道に迷ってた時に現れて、町まで案内してくれた」
夏帆は記憶を辿るように、指先を頬に当てる。
「それで、一緒に町の門を通って――確か、商業ギルドの建物に入っていったのよね」
沙良がうなずく。「ああ、そうだった。あのとき“ちょっと用があるから”って言って、それっきり姿を見てない」
「ってことは……」夏帆は目を見開く。「商業ギルドに行けば、エルダンさんのことがわかるかもしれない!」
沙良の目が輝いた。
「オッケー、それ決まり!」
彼女はクラッチを踏み込み、シフトを切り替える。
「行くぜ――エブリイ!」
雪煙が舞い上がり、エンジン音が高く響いた。
白い世界の中、エブリイはまるで滑るように加速していく。
「うわ、速っ!」夏帆がシートベルトを掴む。「ちょっと、雪道なんだから気をつけてよ!」
「大丈夫大丈夫、チェーン巻いてるし!」
沙良が笑いながら言う。その笑顔は塔で見せた慎重な顔つきとは違い、どこか生き生きとしている。
「にしても、あの人……なんで博士たちと連絡取らなくなったんだろうね」
夏帆が外を見つめる。吹雪の向こうに見えるのは、遠くの雪原に点々と並ぶ氷の尖塔群。
「理由があるんだと思う」沙良が小さく言う。「博士の話では、資料も全部消えてたって。きっと何かを隠してる」
「塔の研究をやめた理由が、異界に関係してたりしてね」
「……ありえる」沙良は唇を噛む。
エブリイのライトが前方を照らし、吹き溜まりを越えるたびに雪が舞い上がる。
そのたび、二人の記憶の断片が蘇る――初めてこの世界に来た日、冷たい空気、そしてエルダンの笑顔。
「ねえ沙良」夏帆がぽつりと言った。「もし、あの人が今もどこかで異界のことを研究してるとしたら……」
「――また、会えるかもしれないね」沙良が微笑んだ。
車内の空気が一瞬やわらぎ、暖房の音が静かに流れる。
しばらく走ると、雪原の向こうに淡い光が見えた。
氷の城の町へと続く灯り。街道の標識が雪の下から顔を出している。
「あと少しだね」
「うん、もう少ししたらマリアちゃんたちのいる宿に着く」
夏帆はふと笑う。「あの子、絶対お茶とお菓子用意して待ってるよ」
「だろうね」沙良も笑った。「“おかえり”って顔、想像できるもん」
二人はそんな他愛もない会話をしながらも、心の奥には一つの確信が芽生えていた。
――エルダンは偶然出会った旅人ではない。
彼こそが、塔と異界、そしてこの世界のすべてを繋ぐ“鍵”なのかもしれない。
「ねえ、沙良」
「ん?」
「今度こそ、ちゃんと聞こうよ。あの人が何をしてたのか」
沙良は笑みを浮かべ、アクセルを軽く踏み込んだ。
「もちろん。今度は逃がさないよ」
雪煙が舞い、車体が揺れる。
エブリイのフロントガラスに雪が叩きつけられ、ワイパーが規則正しく動く音が響いた。
吹雪の中を駆け抜けながら、二人の思考は未来へと向かっていた。
エルダンがどこにいるのか。なぜ姿を消したのか。
そして、塔と異界の“記録”が意味するものは何か。
――すべての答えは、エルダンが知っているはずだ。
やがて雪原を抜け、遠くに光の輪が浮かぶ。
氷の城の町。暖かな灯が二人を迎え入れるかのように瞬いていた。
「見えた!」夏帆が指差す。
「ただいま、氷の町!」沙良が笑い、クラッチを踏み込みギアを落とす。
エンジンが唸りを上げ、雪煙が再び舞い上がる。
――エブリイはまるで、ふたりの記憶を乗せたまま雪原を翔ける生き物のようだった。
その先に待つのは、再会か、それとも新たな謎か。
いずれにせよ、彼女たちの旅はまだ終わらない。
氷の城の光が車体を照らし、雪原の夜に道筋を描いていた。




