第三章-2 雪森のホーンラビット大暴走
二人で軽く笑い合ったそのとき、森の奥で「ぱきん」と硬い乾いた音が走った。枝が折れる、氷が裂けるような音。音は一本ではなく、何本も、連続で耳に届く。
二人は瞬時に黙った。笑いがスッと消え、冬の空気がさらに鋭く感じられた。息が白く、心臓の音だけがやけに大きい。
「いまの……風じゃないよね」夏帆の声が小さく震える。
「うん、誰かの足音というか、動きがある」紗良は腰を落として、タイヤのチェーンを最後にもう一度点検する。金具がしっかり噛んでいるのを確認すると、動悸が少しだけ収まった気がした。
その直後、雪をかき分ける大きな音が近づいてきた。ガサガサ、ガサッ――と、雪と氷が一度に動くような音。白い物体が視界に入る。
「うさぎ……?」紗良が呟く。
まず一羽が、ゆらりと雪の縁から姿を現した。白く、ふわふわした毛並み。だが頭のてっぺんにはツノが一本、ぴんと立っている。胴は大きく、ゴールデンリトリバーほどのサイズはありそうだ。顔はうさぎだが、全体の迫力が違う。
「でたでたでたぁぁぁ!」紗良は反射的に声を上げ、慌てて転びそうになる。
夏帆は頭を下げ車のドアの影に少し身を寄せたまま、のんびりとした口調で言う。「やっぱり生えてるねぇ……角。」
「のんきすぎるでしょ!」紗良が振り返ると、もう一羽、もう一羽と、白い影が浮かび上がってきている。三羽、四羽――群れである。ホーンラビット。ここでそういうのが出るのは分かっていたつもりでも、実際目にするとやはり違う。
慌てて紗良はエブリイの運転席に駆け上がり、キーを差し込み、回す。だが――うんともすんとも言わない。セルが回らないキーをひねる音だけが虚しく聞こえる。
「うそ、バッテリー?」紗良は焦る。あれだけポータブル電源が勝手に充電される異世界だ。バッテリーが切れるタイミングなんて読めない。
「落ち着け(笑)、クラッチ踏め」夏帆が冷静に指示する(冷静に見えるだけ)。
「クラッチって、そんなことを今ここで!」紗良は半分パニックでクラッチペダルを踏み込む。キーを回し直すと、キュルル、ブォン! とエンジンが目を覚ました。マフラーの吐く白煙が一瞬舞い、エンジン音が森に響く。
エブリイが動き出す。紗良はハンドルを握り締め、振り返る。ホーンラビットはやはり増えていた。白い巨体が跳ね、口元に雪を残しながら、二羽、三羽と進んでくる。跳躍のリズムがこちらへ近づく。
「増えてる! 増えてるよ!」紗良が絶叫しながらシフトを入れる。
「やっぱり群れで来るんだ。しかし、なんで一羽、二羽って数えるんだろ?」夏帆は半分叫び、半分笑う。目は輝いているが、慌てているのか冷静なのか?。
紗良は咄嗟にハンドルを切り、エンジンを吹かす。雪道でタイヤチェーンが雪を巻き上げ、エブリイは横に小さく振られながら加速した。後ろで何かがぶつかる鈍い音がする。
「なに今の!」紗良が振り返ってもよくわからい。サイドミラーに白いうさぎの影がちらちら映る。
ホーンラビットがバンパーに刺さったらしい。
「ええええ!!?」二人とも同時に吐き出す。
ホーンラビットは必死にもがき、雪を蹴ってはじかれたように暴れる。一本の角がバンパーに食い込んだまま、体の大きな音とともに横揺れする。雪煙が背後に立ち上り、残りの仲間も追いかけてくる。
「沙良、ダッシュよ!ダッシュぅぅ!」夏帆の声色が変わった。ふざけていた空気は消え、真剣そのものだ。
「わかったわかった、行くぞ!」紗良はアクセルを深く踏み込み、エブリイは雪を蹴って前へ跳ねる。ホーンラビットの角がバンパーにがっちり刺さったまま、ひたすら前へと引きずられる。バンパーがきしむ音、雪が舞い上がる音、動物の荒い息遣いが混じって、異様な行列ができた。
逃げるように道を戻る。白い森が後方へ流れ、次第に城下町の石畳が視界に入ってくる。門の塔が見えたときには、二人の体力も限界に近かった。
「門だ! 門まで逃げ切れば!」紗良が叫び、最後の力でハンドルを切る。
門の前に差しかかると、城の門番が足を止めてこちらを見た。雪煙の中を飛び込んできたのは、銀色の四角い箱に角付きの動物がついているという、何とも説明しがたい光景だった。門番の顔が明らかに「?」で満たされる。
「お、おい! 大丈夫か!?」「ど、どうしたんだ君たち――」門番は慌てて声を出すが、言葉が追いつかない。エブリイは滑るように門をくぐり、そのまま城下町の通りへと転がり込んだ。
ジャラジャラとチェーンの音をさせながら走るエブリイに
城下の人々は驚きと好奇の入り混じった表情で外へ出てきた。屋台の主人が鍋を置き、子どもが母親の裾を引っ張る。白い粉がまだ車体についていて、まるで雪の精を引き連れているかのようだ。紗良と夏帆は、いつもの宿の前にやっと車を停めると、二人とも息を弾ませた。
「……はぁ、はぁ、死ぬかと思った」
紗良はハンドルに額を押しつけるようにして深呼吸した。肺に冷たい空気が満ちて、震える指先の感覚がようやく戻ってくる。
「もう、ありえないって。こんなこと日常で起きるとか、想定外過ぎる」
夏帆はシートベルトを外しながら、まだ肩を震わせていた。だが震えは恐怖というより、込み上げてくる笑いを抑えているようにも見える。
「降りよう。……後ろ、見てみて」
紗良はようやく決心がついたようにドアを開け、雪を踏みしめながら車体の後方へと歩いた。夏帆も続き、二人は揃ってバンパーを覗き込む。
そこにいたのは――例のホーンラビット。
真っ白な体をばたつかせながら、一本の角をがっちりとエブリイのバンパーに突き立て、まるで自分から刺さりにいったかのように抜けなくなっていた。雪が舞い、乱れた毛が風に揺れるたび、日差しに氷片がきらりと光る。
「もぉぉぉ……やだぁぁ……」
紗良はその光景にしゃがみ込み、膝に手をついて顔を覆った。情けない声が雪に溶けていく。
夏帆は反対に、ついに耐えきれなくなった。
「……ぷっ、あはははは! ちょっと待って、これもう完全にコントじゃん! ほら見て! 角がバンパーに刺さって抜けないとか、どんなファンタジー映画のギャグシーンよ!」
その笑い声に釣られて、周囲の人々もざわざわと近寄ってきた。子どもたちが目を丸くし、大人たちは苦笑いを浮かべる。
そして――宿の方から、エプロン姿のミスターブラウン大将がのっそり現れた。腕を組み、二人とバンパーを交互に見やり、低く唸る。
「……ほぉ。なかなかいい大きさじゃねぇか」
次の瞬間、大将は腰の包丁をすらりと抜き、迷いのない手つきでホーンラビットの動きを封じた。あまりの素早さに、夏帆の笑い声がぴたりと止まる。紗良も目を見開いたまま固まってしまった。
手際よく角を引き抜き、血抜きまで済ませると、大将はにやりと笑って言った。
「ヨシ。今晩の晩飯に出してやる。楽しみにしとけ」
それだけ告げると、ずしりとした肉の塊を肩に担ぎ、あっさりと宿の奥へ消えていった。
しばらく沈黙が流れる。
そして、紗良と夏帆はゆっくりと顔を見合わせ――
「……えへへっ」
「……あははっ」
緊張の糸が切れたように、二人は同時に吹き出した。
雪は相変わらず静かに降り続いていたが、宿の前にはなんとも言えない温かい笑いの気配が広がっていった。




