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第2章‐14 女王陛下、興奮気味にエブリイへ

 謁見の間は、朝の光を抱く巨大な器のようだった。高い天井を渡る梁は氷の紋を帯び、壁面のステンドグラスには北の星座が散りばめられている。磨き上げられた大理石は薄い青を含んで光り、踏みしめるたびに靴底の音が柔らかく返った。玉座の背後では、凍てつく滝を思わせる透彫がきらめき、冬の息吹を可視化したかのようだ。


 女王は玉座に軽やかに身を預け、川瀬紗良と夏帆の言葉に耳を澄ませていた。レイアナ・フロスト――この氷の城を治める若き女王。瞳の色は極夜を割る月光の銀に近く、笑うと、その冴えがやわらぎ、雪の結晶がほぐれて水になる瞬間を思わせた。


「つまり――あなたたちは“別の世界”から来たのね?」


 澄んだ声。紗良はこくりと頷く。


「はい。わたしたちは“日本”という国から来ました。どうしてここに来てしまったのか、わからないままで……」


「気がついたらもう、この世界に居て。戻り方も、まだ見当がつかないんです」


 夏帆が補う。謁見の間は大きいのに、声は吸い込まれず、むしろ輪郭を与えられて二人の前に戻ってきた。


 レイアナは小さく息を飲み、顎に指を添えた。短い沈黙。広間の空気が、冬の朝のように透明になる。


「……残念ながら、わたくしの持つ知識と、学士院に蓄えられた記録では、異世界からの訪問者……“なぜ”にも“どうやって”にも、はっきりした答えを出してあげられそうにないわ」


 胸の奥で、期待の小さな火がふっとしぼむ。けれど女王は同じ息の連なりで続けた。


「でも不安がる必要はないわ。この町にいる間の衣と食と寝床は、わたくしが責任を持って用意させる。商いをしたいならギルドに話を通しましょう。あなたたちが無事でいることが、まず第一だもの。なんなら、ここに滞在してくれても……」

「ゴホン。陛下」リオネルが制する。


「陛下……ありがとうございます」


 夏帆が深く頭を垂れる。紗良も慌ててそれに倣った。背中に落ちていた緊張の雪が一枚、ふっと溶ける。


 ――が、その次の瞬間。女王の銀の瞳に、別種の光がともった。


「……それと、もうひとつ」


 レイアナはすくっと立ち上がった。玉座から一歩降りるだけで、ぐっと距離が縮まる。背後で控えるリオネル・ド・ヴァレンティーノ伯爵が、さりげなく姿勢を正した。


「あなたたちの“乗り物”。――馬もなしに動く箱? ぜひ、見せてもらえない?」


 きらきら。完全に子どもの顔である。紗良と夏帆は視線を合わせ、同時に(来た)と目で会話した。


「”エブリイ”ですか、えっと……もちろん、構いません。ただ、あの、陛下――」


「触ってもよい? どうやって乗るの? 動くところも見てみたいの!」


 矢継ぎ早。後ろで伯爵がこめかみに指を当てる。


「レイアナ陛下、少々落ち着きを。儀礼と安全の順序を飛ばしては、侍従長の白髭にまた白髪が増えますよ」


「だって気になるんですもの!」


 むくれた唇が、笑いをこらえる紗良の致命傷を突いた。ぷっと小さな音がこぼれ、夏帆もつられて肩が震える。


「……では、段取りを整えましょう」


 伯爵が短く咳払いし、スッと手を伸ばす。ロドムがいつの間にか戻って来ており、扉口の兵に合図を送った。儀礼を乱さぬ最短経路と警邏の確認――必要な手配が、氷上を滑るスケーターのように静かに済んでゆく。


「エブリイは、離宮のロータリーに駐めたままだよね」


 夏帆が小声で確認すると、紗良は頷いた。


「うん。誰も触っていなければ、ロドムさんに案内してもらった円形の広場の、あそこ石柱のそば」


「よし。じゃ、案内に続こう」


 レイアナは、待ってましたとばかりに裾を持ち上げ、軽やかに先頭へ出ようとする。伯爵が穏やかな笑みのまま、その半歩前に出た。


「陛下。先導は私に。陛下はお後から――“形式上は”。」


「またそうやって、つまらない枠でくくるのね、リオネル」


「枠は作品を美しく見せます。――たとえば額縁のように」


「……ふふ。いいわ、今日は額縁に入って歩いてあげる」


 軽口を返しつつ、レイアナは素直に一歩引いた。伯爵が扉の前で手を上げると、衛兵が重厚な扉を押し開ける。青い光が筋となって流れ込み、冬の空気が頬をなでた。


 謁見の間を後にし、石の廊下を進む。壁に沿って灯る魔光灯が、氷の房飾りのように淡い光をこぼす。絨毯は厚く、紗良のスニーカーの足音を優しく吸い込んだ。曲がり角の先には、円筒状の塔を下りる階段。螺旋に沿って、壁面の凍紋が少しずつ図柄を変えてゆく。雪の結晶が六角から万華鏡へとほどけていくようで、紗良はつい指先でなぞりたくなった。


「触りたい?」


 夏帆が小声でからかう。


「……ちょっとだけ」


「おきゃくさぁん。おさわり厳禁ですよ」


 昨朝の食堂でのやり取りを思い出し、二人の口端がゆるむ。先導の伯爵が振り返り、ほほえましいものを見る目で目を細めた。


 塔を抜け、渡り廊下へ。厚いガラスで囲われた通路の向こうには、内庭が広がる。積雪の上に、冬鳥が小さな足跡を残している。庭の中央には氷のオベリスクが立ち、陽光を受けて七色の屈折を投げた。遠方の外郭壁の向こう、街並みが白い息を吐きながら目覚めているのが見える。案内されたのとはまた違う経路のようだ。


「この橋を渡ると、離宮地区です」


 ロドムが静かに説明を添える。回廊の先、アーチを過ぎると空気の匂いがわずかに変わった。石と蝋と香木の混じった、宮廷の匂いに干し草の温かさが重なる。馬車の往来が多いのだろう。


 やがて広がる円形の空間――離宮のロータリー。半径二十メートルほどの円環に、放射状の石畳が敷かれ、中央には低い石柱が立っている。柱の上には氷の彫像。雪の女神か、あるいは氷魚を掲げる狩人か。周縁には馬車の停泊位置を示す縁石と、車輪止めの木楔。空の澄んだ青を受けて、すべてが輪郭をくっきりと見せている。


 そして、石柱から二つ目の目印――そこに、銀色の箱型の影が鎮座していた。


 エブリイ。


 城と離宮の曲線美の中で、彼女だけは質実剛健な直方体。けれど、紗良と夏帆にとっては、その箱のすべてが安心でできている。見慣れたフロントの顔。角の取れたヘッドライト。鼻先ボンネットに宿る控えめな誇り、エスマーク。


「――あれね!」


 レイアナが声を弾ませた。さっきまで額縁の中を行儀良く歩いていた女王は、額から飛び出して雪原を駆ける子どものように歩幅を広げる。侍女たちが裾をさばきながら追い、伯爵は控えめに肩をすくめた。


「陛下、足元にお気をつけて」


「はいはい!」


 答えだけは可憐に、しかし歩みは止まらない。エブリイの前に立つと、レイアナは白手袋の両手を胸の前でぎゅっとまとめ、満面の笑みを浮かべた。


「これが――“エブリイ”。」


 名を呼ぶ響きが、薄い霜をほどくように空気に溶ける。


「そう! エブリイ! なんて響きの良い名前なのかしら!」


 レイアナはくるりと紗良の方を向く。


「ねえ、触ってもいい? どうやって乗るの? 動かして見せてもらえる?」


 ――今言うか。紗良は笑ってしまいそうになる頬を押さえつつ、律儀に順番を立てた。


「順番に、ぜひ。まずは外側の安全な部分から触れていただいて、仕組みを少しご説明しますね。乗り込むのは、そのあとで」


「わかった。全部、教えて」


 女王は、宝物庫の鍵束を受け取ったような表情をした。


 紗良はボンネットにうっすら積もっていた雪をそっと払う。雪の粉が、きらきらと舞って落ちた。金属の肌が顔を出す。女王は息を呑む。


「まぁ……冷たい。けど、氷の冷たさと違う。硬いのに、なめらか」


 拳の第二関節で、コツン、とやさしくノックする。金属特有の響き。レイアナの瞳がさらに輝いた。


「音も違う。木や石とは別の……。これが、異世界の“鉄の馬車”の音」


「こっちは“ドア”。ここを引くと開きます。ただ、今は説明だけ。開けるのはもう少しあとで」


「ええ……でも、いま開けてみたい……!」


 女王がほんの少しだけ身を乗り出す。その肩を、伯爵の穏やかな声がそっと押しとどめた。


「陛下、せめて運転者の準備が整ってからに」


「リオネルはすぐそうやって大人ぶるんだから」


「陛下が楽しむには、準備こそが最短距離です」


 軽く押し問答。紗良の口元が緩む。夏帆がそこで一歩前に出て、補足した。


「陛下、一点だけ、先にお伝えしておきます。……この車、うしろ側は“車中泊仕様”に改造してあって、ベッドと棚が入っているんです。だから座席は前の二つだけ。乗れるのは、運転席と助手席の――二名です」


「二名……!」


 レイアナはぱちぱちと瞬きをした。すぐに、いたずらっぽい笑みが浮かぶ。


「では、運転は紗良がするのよね? 助手席は――」


 視線がするりと夏帆に流れる。夏帆は思わず背筋を伸ばした。


「わたしは外から見守る方が、全体を把握できます。安全確認も兼ねて」


 さりげなく身を引く。レイアナは嬉しそうに、小さく手を叩いた。


「では、今日はわたくしが“お客さま席”。ふふ、楽しみ」


 伯爵が咳払いを一つ。声音は淡々としているが、どこか諦めの甘さが混じっている。


「乗車前に、幾つか確認させてください。――まず、音。馬を驚かせない程度でしょうか」リオネルが訊いてくる。


「はい。エンジンの音はそこまで大きくありません。しかも、ここは広く開けていますから、反響もしにくいと思います」


「次に安全。急発進や急停止は厳禁。王の御身です」


「もちろん。ぜったいにしません」


 伯爵は頷き、ロドムに目配せする。ロドムは離宮の出入り口側を確認させ、通路に人が入ってこないよう侍従に手配した。衛兵は一定の距離を保って配備され、場の視線は自然と円の外側へ流れていく。


「では、外観の説明をもう少し」


 紗良は車体の周りを半歩ずつ移動しながら、指で示す。ヘッドライト。ウィンカー。ワイパー。タイヤとホイールハウス。サイドミラー。スライドドアの取っ手。リヤハッチ――こちらは今日は開けない、と付け加える。


「全部が“目的のある形”をしているのね」


 レイアナは感嘆の息を漏らす。言葉の選び方が、ものを見る目の良さを示していた。


「特にここ、タイヤ。これが地面と唯一つながっている部分。今は冬仕様のゴムで、雪でも滑りにくい溝になっています」


「溝……。雪の結晶と同じで、形に意味があるのね」


「はい」


 女王は満足そうに頷き、ふと顔を上げる。北の空は澄み切り、薄い雲が氷の薄片のように浮かんでいる。遠くから、鐘の音が一つ。刻限を知らせる穏やかな響きが、ロータリーの空に輪を描いた。


「では……そろそろ、乗ってみても?」


 見上げる瞳が完全に“子どもの遠足”である。伯爵は天を仰ぐ代わりに、青い息を一筋だけ吐いた。


「陛下。最後の確認。――助手席の乗降はどうするのです?」


「ここを、こうです」


 紗良は助手席側のドアノブに指を掛け、レイアナの視線を確かめてから、ゆっくりと引いた。ガチャリ。スッ。ドアが音を立てて開く。内側から、車内の匂い――ほんのりとした木の香り、冬の布の匂いがこぼれる。(若干鍋パの残り香がする気も……)


「わぁ……結構狭いのね」


 レイアナの声が、ごく小さく漏れた。彼女は足元の裾を侍女に預け、紗良の指示に従って段差をまたぐ。座面に手を添え、背筋を伸ばして腰を下ろす。クッションは思いのほか柔らかく、ふわりと受け止める感触に、口元がほどけた。


「座り心地がいいのね。硬すぎず、柔らかすぎず」


「長距離でも疲れにくいように、体重を分散させる形に作られているんです(JOINだもんね)」


 夏帆は運転席側の外で、慎重に周囲を見回していた。衛兵の位置、通路の人の流れ、馬の所在。ロータリーの中央へは近づけないように、侍従がさりげなく緩い柵を形成してくれている。


「紗良」


「うん、わかってる。――まだエンジンはかけない」


 紗良は運転席側のドアを開けかけて、手を止めた。いったん振り返って、伯爵と目を合わせる。


「リオネル伯爵。ひとつ、お願いがあります」


「うかがいましょう」


「エンジン始動の音が…えぇっと聞きなれない音がします。万が一、近くに神経質な馬がいたら驚くかもしれないので……扉の向こう側に、誰もいないかだけ確認を」


 伯爵は微笑んだ。理屈が筋であれば、彼はすぐに理解し、動く男だ。


「ロドム」


「はい」


 短い指示で、確認は瞬く間に済む。伯爵が顎で合図を返した。周囲は安全だ。


「ありがとう」


 紗良は運転席に身を滑り込ませる。ハンドルを握り、深く息を吸った。視界の端に、エブリイのインパネ。日本で見慣れた、地味で、頼もしいデザイン。シンプルなメーターパネル。ディスプレイオーディオの待機画面には、見知らぬ地図ではなく、薄い水色の待機アイコンだけが控えめに脈を打っている。(相変わらずACCにもしてないのに不思議な画面だなぁ)


 ――ここは異世界。けれど、この運転席だけは、いつだって“帰ってこられる場所”だった。


 紗良はキーを握った。ぐ、と捻る――その前に、顔を上げる。


「陛下」


「なに?」


「大丈夫。――すっごく静かにします」


「ええ。信じてる」


 レイアナの微笑みは、冬の陽射しみたいにあたたかい。紗良は、こくんと頷いた。けれど、キーはまだ回さない。今日は“説明の章”。動かすのは、次の物語でいい。


「まずは、ベルトを、これをこうして……カチッと」


「あら、こういうのね。――こう?」


「はい、カチッと。……お上手です」


 カチン。バックルの確かな音。レイアナが、子どもみたいに目を丸くする。


「音がかわいい」


「安全の音です」


 外で夏帆が小さく親指を立てた。伯爵は相変わらず平静だが、緊張の糸はほどけたようで、口元に微笑の影が差している。


「ところで、うしろは本当に“寝床”なの?」


 レイアナが後方をのぞき込む。紗良は、ミラー越しに車中泊仕様の室内を見た。木目の棚。折り畳み式のベッドフレーム。荷物を固定するゴムバンド。夏帆の“パッパ”が手を入れてくれた、要点だけが美しく生きている内装だ。


「はい。ベッドと棚。夜はここで寝ます。――見た目より、ぜんぜん快適ですよ」


「素敵。わたくし、こういう“目的のために形が生まれる”のが好き」


 女王はうっとりして、背もたれにそっと身を預けた。


 紗良は、ふっと息を吐く。ロータリーを渡る風が、微かに車体を撫でた。外では夏帆が、衛兵とささやき合っている。手短なやり取り。笑いが一つ、低く弾けた。ロドムが控えめに頷く。


「じゃあ、次は――」


 紗良が口を開いたとき、レイアナがこちらを向いた。瞳の輝きは、最初にエブリイを見つけた時からずっと変わっていない。


「次は、動くところ、よね?」


 ――ええ。もちろん。だけど、それは“次の章”。


 紗良は唇にいたずらっぽい笑みを乗せ、軽く肩をすくめた。


「はい。準備は万端。……“お楽しみ”は、もうすぐです」


 女王がこくりと頷き、外で夏帆が「了解」と口だけで言う。伯爵は遠くで鳴った鐘に視線を上げ、空の青さをひとつ目に映した。


 氷の城の離宮ロータリー。白い箱バンを囲んで、女王と伯爵と侍従たちと、それから異世界の旅人ふたり。冬の太陽が、みんなの肩に等しく降り注いでいた。


 ――そして、エブリイの小さな冒険は、次のページでとうとう動き出す。


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