第2章‐12 氷の城の離宮へ
氷の城の広大な敷地内に足を踏み入れた銀のエブリイは、雪と氷の光に包まれながら、ゆっくりと進む。先導する黒塗りの馬車の前輪が石畳を滑るたびに、金属と石がかすかにこすれる音が耳に届く。左右には布で包まれた槍を持つ兵士が控え、警戒を緩めない。
やがて目の前に、ロータリーのような広い空間が現れた。石畳の円形広場には、遠くからでもわかるほどの空間の余裕があり、馬車は自然と停まる。沙良はハンドルを握ったまま、後ろを振り返った。
「ここで……止めていいのかな」
声は小さく、息を整えながらつぶやく。左右の兵士の姿に目を向けると、確かに半歩後ろで控えていたはずの兵士たちが、気づくともう見当たらない。空間は静まり返り、冷気だけが二人を包む。まるで存在そのものが、雪に溶け込んでしまったかのようだった。
夏帆は軽く肩をすくめ、目で沙良に合図を送る。足元の凍った石畳を見つめながら、視線で「そのままで大丈夫そう」と知らせる。二人は小さくうなずき、静かな緊張感を抱きつつ、ロータリーの端で待機した。
ふと前方で馬車の扉が静かに開き、ロドムが姿を現す。中年の落ち着いた男性で、黒い外套を羽織り、灰色に整えられた髪が朝日に柔らかく光る。丁寧な仕草で一礼すると、二人に向かって歩み寄った。
「はい、それで構いません。では、お二人ともこちらへ、ご案内いたします」
沙良は少し間を置き、エブリイのハンドルから手を離し、落ち着いて答える。
「わかりました……」
二人は車から降り、冷たい空気の中で深呼吸をした。凍てつく匂い、石畳の冷たさ、遠くから聞こえる雪を踏む馬の蹄音。すべてが異世界の城の中枢に踏み入れた証だった。
ロドムの後に続き、二人は石造りの建物へ向かう。外壁は厚く、氷の城の重厚感を受け継いでいるが、装飾は控えめで、離宮風の建物らしさが漂っていた。窓枠には淡い氷の模様が彫られ、日の光が透けると床に青白い光の筋が映る。
重厚な扉が開き中へ案内される。
「すごい……」夏帆が小さく息を漏らす。
沙良もつぶやく。
「うは、何だこれ……カーペットがふかふかだよ、やばい、触りたい」
視線の先には、床一面に厚手のカーペットが敷かれ、石の冷たさを全く感じさせない。夏帆は少し呆れながらも笑う。
「ねえねえ、ふかふかだよ、ふかふか」
ロドムは落ち着いた口調で案内する。
「お嬢様方、こちらの部屋にておくつろぎください」
二人が通された部屋は、中高の学校の教室ほどの広さで、豪華なテーブルとソファーが配されていた。窓の外には庭園が広がり、雪化粧の木々が整然と並ぶ。自然光が室内に柔らかく差し込み、豪華ながらも落ち着いた空間を演出していた。
控え室らしく、部屋の隅には二人のメイドらしき女性が控えていた。白と黒の清楚な服装、丁寧な立ち姿、凛とした表情。沙良は目を輝かせ、思わず心の中で叫ぶ。
「うは、今度はメイドさんだよ、ホンマモンのすげー」
夏帆は少し苦笑いを浮かべながらも、周囲の雰囲気を察して静かに息を整える。
「なるほど……」
ロドムは二人を部屋の中心まで案内し、軽く身をかがめて示した。
「どうぞ、こちらにお座りください。必要があれば、何なりとお申し付けください」
二人はソファーに腰を下ろす。沙良は目の前のカーペットをじっと見つめ、手で軽く触れる。感触は柔らかく、思わず笑みが漏れる。
「やばい、ふかふか……」
夏帆はそんな沙良を見て、微かに目を細めた。
「……もう落ち着いてよ」
二人の視線が部屋全体に巡る。テーブルの上には豪華な装飾はないが、精巧な木彫りが施され、豪奢さを控えめに主張している。窓から見える庭園の雪景色と相まって、異世界の城の静謐さと威厳が伝わってくる。
沙良は思わずソファーに深く腰掛け、目を閉じる。
「……うわぁ、すごい。こんなところに来ちゃったんだね」
夏帆は窓の外を見つめ、冷たい朝の光が雪面に反射するのを眺める。
「ええ。……でも、ここで立ち止まっても仕方ない。用件を済ませないと」
ロドムは二人の視線を感じ取り、柔らかく笑みを浮かべた。
「お二人とも、どうぞご安心ください。こちらでは安全が確保されております。必要な説明は順を追って行いますので、まずはおくつろぎください」
沙良は目をぱちぱちと瞬かせ、まだ少し興奮気味で笑う。
「……でも、メイドさんまでいるなんて、本当にすごい世界だな」
夏帆は微笑みながら、沙良の肩を軽く叩く。
「……落ち着いて、ね。これから話を聞くんだから」
二人がソファーに腰を下ろし、まだ興奮と緊張で心拍が少し速いままの頃、控え室の片隅で控えていたメイドの一人が、静かに歩み寄った。白い手袋をはめた指先で丁寧に銀のトレーを持ち、そこには蒸気の立つ紅茶のポットと小さなカップが載っている。
「お嬢様方、よろしければお茶をお持ちいたしました」
声は柔らかく、控えめながらもきちんとした響きがあった。
沙良は手を伸ばし、そっとカップを受け取る。熱の伝わる陶器の感触が、少しだけ心を落ち着かせる。夏帆も隣で同じようにカップを手に取り、深呼吸をひとつ。
「……ああ、やっと落ち着けるね」
沙良が笑みを浮かべ、カップの縁に口をつける。紅茶の香りが鼻孔をくすぐり、緊張の糸が少しずつほどけていく。
窓の外の雪景色が揺れる光の粒とともに、控室に静かな時間が流れた。豪奢なテーブル、ふかふかのカーペット、そして心地よい紅茶の香り――全てが、異世界の氷の城の一室で、二人にほんのひとときの安息をもたらす。
沙良はカップを両手で抱え、夏帆と視線を合わせる。小さな笑みが交わされ、二人は静かにこの時間を味わった。
「……少し落ち着いたかな」
夏帆がつぶやき、沙良も小さくうなずく。紅茶の香りに包まれながら、二人は控室の豪華な空間で静かに待機した。これから何が待っているのか、まだわからない。しかし、このひとときで心を整え、覚悟を少しずつ固めていく。




