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第2章‐11 氷の城からの使者

 朝の光は、街の雪面でいったん細かく砕かれてから、宿屋の窓へやわらかく射し込んでくる。ガラスに付いた薄氷が溶けて、雫がつうっと筋を作った。

 一階の食堂は、夜の喧噪が洗い流されたあとの清々しい匂いに満ちている。炭火の灰の香り、温め直したスープの湯気、焼きたての小ぶりな丸パン、そして朝一番にひいたハーブのさわやかな青さ。木の床はところどころ年季の入った艶があり、踏むたびにぎし、と小さく鳴った。


 カウンターに入っているのは昨夜と同じ大将――スキンヘッドに逞しい腕、分厚い胸には布のエプロン。見かけはごついが、客に出す鉢や皿は欠けのないものを選び取る指先の繊細さがある。

 そして、奥からぴょこっと顔を出したのは、例の小さな給仕の少女。クリーム色の髪が朝の光でふわっと輝いて、ぱっちりした瞳が今日も元気そうだ。


「おはようございまぁす!」

 小さな声が弾む。沙良は、思わず口元が緩んだ。


 ……胃は、まったく減ってない。

 昨夜の「やり過ぎ盛り上がり事件」で、お腹はまだ丸く主張を続けている。ベッドの上で横になるたびに、パンパンのお腹がふにっと抵抗してきたほどだ。それでも――


「えへへ」


 沙良は椅子に腰を下ろし、姿勢を正してから、こそっと囁く。

「……あの子の給仕、もう一回受けたい」


 向かいの夏帆が、じとっとした目で沙良の頬をつついた。

「おきゃくさぁん。おさわり厳禁ですよ(笑)」


「してないしてない、視線が伸びかけただけ」


「伸びかけたらアウトです。はい、紳士淑女の態度で臨みましょう」


 二人でくすくす笑いながら、四人掛けのテーブルに並んで腰を下ろす。昨夜と違うのは、客の顔ぶれの眠たげな表情だ。目を擦りながらスープを啜る職人風の男、パンをちぎって子どもに渡す若い母親、書き物をしながら干し肉をかじる旅の文官らしき人影。宿屋の朝は、どこか世界の輪郭を整えてくれる。


「あさごはん、どうされますか~?」

 少女が駆け寄ってくる。小さな前掛けがひらりと揺れ、くるぶしの上で止まる靴がこつ、と床を叩く。


 沙良、反射的に手を上げる。

「は、はいっ! 朝食セット、二つ、お願いします!」


 夏帆が小声で肘を入れる。

「お腹、ぜんぜん減ってないのに?」


「給仕は心の栄養です」


「その理屈は新しいけど認めない」


 少女はにこにことメモ板に書きつける。

「はいっ、あさごはん二つ! スープは野菜とお豆のと、干し魚の出汁のと、どっちがいいですか?」


「や、野菜のお豆で……」

「私もそれで」

 返事が揃うと、少女は「りょーかいですっ!」と元気いっぱいに走っていった。ちょこちょこ動く後ろ姿を見送りつつ、沙良の頬がゆるむ。


「ね、かわいい」


「はいはい、わかったから。……で、今日どうするの?」

 夏帆が視線だけで周囲を探る。

 昨夜、二人は“とりあえず寝よう”の一言で、今後のことを棚上げにした。現実から半歩だけ目をそらし、毛布に潜り込む。その逃避は、朝の光であっさり剥がされる。


「氷の城のこと、調べたいよね。ここが城下町ってことは、図書館か寺院みたいな記録の場所もあるかもだし」

「うん。あと、魔石の相場とか、補給ルートの確認も。屑魔石で満タンは確認できたけど、単価が変動するなら予算組み直し」


「理系っぽい話になってきた」


「理系女子は家計簿もエクセルです」


 そんな軽口を交わしていると、木鉢の擦れる音が近づく。少女が両手で抱えたトレイには、湯気を立てるスープ鉢、薄く切られた燻製肉と白いチーズ、蜜を垂らした干し果物、香草を練りこんだバター、半分に割った丸パンが二つずつ。

 湯気の向こうで、少女が胸を張る。

「おまたせしましたぁ! あさごはん二人分です! スープ、あちちですから気をつけてくださいね!」


「ありがと。……うぅ、いい匂い」

 スプーンですくった豆と根菜が、朝の胃袋にやさしく沈んでいく。干し魚の塩気が苦手な沙良には、この穀と野菜のやわらかい甘さがありがたい。パンの表面はほんのり温かく、中はむちっとしていて、香草バターがじんわり染みる。


 ……入る。入ってしまう。

 昨夜の満腹感は、少女の「おいしいですか?」の一言でどこかへ消えていく。


「おかわり、ありますからね!」

 小さな給仕が目をきらきらさせて言うので、沙良の理性がぷつっと音を立てた。


「じゃ、じゃあ、パンだけ、もう少しだけ……」


「はいっ!」

 少女の足音が軽やかに遠ざかる。

 夏帆が眉間を押さえた。

「“もう少しだけ”という呪文、昨夜も聞いた」


「今朝はほんとに少しだけ……」


「じゃあ“おさわり厳禁”の代わりに“おかわり厳禁”で」


「それは厳しい」


 二人で笑っていると、カウンターの方で布を捲る音がして、女将さんが姿を現した。昨夜、大将を叱りつけていた凜とした女性だ。朝の光で髪の艶が増して見える。

 女将さんは二人の席の手前で立ち止まり、周囲に配慮しながら声を落とした。


「お嬢さん方。朝のうちにお伝えしたいことがあってね」


「はい?」

 夏帆が姿勢を正す。女将さんの瞳が、ほんの少しだけ深刻さを帯びた。


「氷の城から使者が来ているよ。あなた方に、お越しいただきたいそうだ」


 沙良と夏帆、同時に目を見開く。

 やっぱり目をつけられていた――入門時、門で連絡員が駆けていった姿が脳裏に蘇る。

 食堂の空気が、体感で一度すっと冷えた気がした。周囲の客の視線が、あからさまではないが確かにこちらへ寄ってくる。


「今、宿の入口で待っている。兵士が二人と、執事のようなお方が一人」

 女将さんは、必要な情報だけを簡潔に伝える手つきで言う。

「怖がらせるつもりはないが、城の呼び出しは良いことも悪いこともある。……ただ、この宿に来るときの足取りや、屋台でのやり取りを見ている限り、あなた方は礼儀を知っている。胸を張るといい」


 夏帆は短く息を吐いて、微笑んだ。

「ありがとうございます。準備を整えて、すぐ伺います」


 女将さんはうなずき、踵を返す。

 残された二人は、互いの顔を見合った。ほんの一瞬、笑いが消える。


「……どうする?」

「“当たって砕けろ”かな」

 夏帆が言って、すぐに肩をすくめる。

「ただし砕けない工学的配慮をして」


「砕けちゃったらどうするの」


「砕けないで(笑)。当たって、割れにくい材質で行く。つまり準備」


「具体的には」


「まずは礼。正面から向こうの土俵に上がる。次に退路。エブリイは必ず連れて行く。三つ目に情報。謁見があるなら、こっちからも聞くべきことを整理する」


「了解。……パンのおかわり、返上する」


「それは現時点で最大の英断」


 二人は笑い合い、残ったスープを飲み干した。少女がタイミングよく戻ってきて、パンの籠を差し出す。

 沙良は一瞬だけぐらついたが、胸に両腕を組んで、首を横に振る。

「ありがと。でも今日はね、これで十分。とってもおいしかったよ」


 少女は少し残念そうに、でも誇らしげに微笑んだ。

「はいっ。またおひるにでも、たくさん食べてくださいね!」


「うん、また来る」


 席を立ち、一度部屋へ戻り、荷物を肩に。宿の入口の方へと降りていく。扉のむこう、冷たい空気の層が薄く張られていた。

 取っ手に手をかけると、金具がきい、と小さく鳴る。扉が開いた。


 石畳の前に、二人の兵士が直立していた。白銀の鎧には雪の紋が刻印され、手に持った槍は槍頭の方に布を巻いている。足元には霜が薄く張り付いて、吐く息が白い。

 兵士の半歩後ろに、黒い外套の男――執事風の人物が立っていた。中年の落ち着いた顔、髪はよく手入れされた灰色。胸元のブローチは、見慣れない紋章。彼は二人を見るなり、丁重に一礼する。


「お初にお目にかかる。氷の城、門政局付(執事相当)のロドムと申す。昨日、街への訪れの折より、陛下――城主様のお耳に、稀なる“乗り物”の話が届いております。つきましては、本日、城へお運び願いたい」


 声はよく通るが、角のない響きだった。

 兵士の片方が視線だけで周囲を巡らせ、もう片方は通行の邪魔にならぬよう半身を引く。人々の足が、好奇と畏れの間で微妙な曲線を描いて遠巻きになる。


 夏帆が一歩前に出た。

「お招きに感謝いたします。ただ、いくつか確認を。私たちは、その乗り物“車”で向かってもよろしいですか?」


 ロドムは、すぐに頷く。

「もちろん。あなた方の乗り物は、城でも話題です。馬車で先導いたします。護衛の兵が左右につきますので、後に続いてください」


「ありがたいわ。……では準備をして参ります。五分、いただけますか?」


「承知しました」

 ロドムは半歩下がり、兵士に視線で合図を送る。兵士がうなずいて所定の位置へ散る。通行人の流れが、自然と宿の前を避けるようになった。


 沙良と夏帆は、互いに短くうなずき合い、宿の裏手へ。そこは昨夜も通った、馬と荷車のための広場だ。

 鼻先に白い息をふくらませた栗毛の馬が数頭、杭に繋がれている。干し草と革と獣の匂い。雪を踏む蹄の音。

 その端に、銀色のエブリイが小さく控えていた。見慣れた四角い顔、頼り甲斐のある箱形の背中。異世界の光の中でも、やっぱり相棒は相棒だ。


「よし、起きてもらおっか」

 沙良が声をかけるように、軽くドアに手を置く。キーをひねると、セルがまわり、エンジンが低く喉を鳴らした。

 いきなりの始動音に、繋がれていた馬がびくりと耳を立てる。厩務らしい男がすっと前に出て、鼻面を撫でて落ち着かせた。

 夏帆がその男に軽く会釈する。

「驚かせてごめんね」

 意味はたぶん通じていない。それでも、柔らかい調子は万国共通だ。男は「ああ」と笑い、馬の首筋を落ち着いたリズムで撫で続ける。


「魔石の残量、オッケー。昨日の屑魔石、効いてるね」

 メーターはしっかり“F”の上を指している。沙良は胸の中で小さくガッツポーズ。

 夏帆は助手席側で荷物を確認しながら、淡々とチェックリストを唱える。

「身分証替わりのギルド控え、僅かな現金リル、飴ちゃんサンプル、コーヒー豆少量、簡易フィルター、携帯用ミル、ポータブル電源、毛布、着替え、救急キット。……OK」


「理系なのに、こういう段取り異様に早いよね」


「理系だから、かも」


 二人は顔を見合わせて笑った。

 フロントガラスの向こう、ロドムの乗る黒塗りの馬車が石畳にゆっくりと出てくる。御者台の男が手綱を軽く鳴らし、車輪が雪と砂を噛む音がさわさわと続く。左右には、槍を携えた兵が二騎ずつ。

 ロドムが馬車の窓から身を傾け、沙良たちに軽く会釈した。

「準備はよろしいですかな」


「ええ。こちらはいつでも」

 夏帆が返し、沙良がギアを一速に入れる。

 馬車が先導し、その左右を兵の馬が並走する。エブリイは半身ぶんほど間隔を保ちながら、その後ろにぴたりと付く。石畳のわずかな段差がタイヤを通じて掌に伝わり、異世界の凹凸が直に触感へ変換される。


 宿の正面を通り過ぎる時、少女が扉の影から顔を出して、ちいさく手を振った。女将さんが背後で腕を組み、どっしりと頷く。

 沙良はクラクションの代わりに、軽くライトをチカっと一度だけ瞬かせた。少女の瞳が、きらっと笑う。


 町の通りは朝の仕事で賑わい始めていた。雪かきをする人、魚を捌く人、干し草を担いで走る少年。氷の結晶を模した飾りが屋根から吊るされ、陽にきらきら光る。

 馬車の鉄輪がリズムを刻み、蹄が雪を踏む音が伴奏する。そこに混じって、エブリイの軽いエンジン音がポロポロと漂う。異物であるはずの音が、なぜかこの街の朝に溶けていく。


「ねえ、緊張してる?」

 ハンドルを握る沙良に、夏帆がぽつりと訊いた。


「してる。けど、わくわくもしてる。……この世界で、私たちでできること、ちょっと見えてきたから」


「うん。帰る方法も、向こうの偉い人なら何か知ってるかもしれないしね」


「当たって砕けろ、だっけ」


「砕けない材質で、ね」


 二人は笑い、視線を前に戻す。

 遠く、城の外郭が青白く輝いていた。雪と氷で象られた塔と橋、朝日に反射する霜の光。まるで冬のオーロラが地上に降りて固まったみたいだ。

 ディスプレイオーディオは、いつもの淡い光で静かに地図を示す。『最短経路 城門→氷橋→内郭門』――昨夜、街へ導いたのと同じ落ち着いたガイダンス。音声は出さない。街の音を邪魔しないように、控えめに、でも確かに二人の背を押す。


 馬車が速度を落とし、内城門の前で一旦停止する。兵士が名乗り、門楼の上から返答が降ってくる。鎖が持ち上げられ、分厚い扉が内へ吸い込まれるように開く。

 ロドムの馬車が先に進み、兵士が左右から視線でエブリイの進入幅を示した。沙良が頷く。

 ――この世界へ来てから、二人は何度も小さな決断を重ねてきた。あの屋台の前で、商人ギルドで、魔石商で、宿のカウンターで。

 そして今、もうひとつ。


 軽いアクセルワークで、白い箱バンは氷の城へ向けて滑り込む。

 雪の光がフロントガラスに踊り、二人の顔に反射した。

 未知の扉が、音もなく、確かに開いていく。


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