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第2章-10 異世界初めての夕食!

 湯気がふわりと立ちのぼって、鼻先をくすぐった。

 さっき小さな給仕の少女が「お待たせしましたぁ」と置いていった〈おすすめ定食〉は、皿の上でまるで焚き火の炎みたいに香りを揺らしている。こんがりと焼き色のついた肉――厚さは指二本分。表面はさくっと乾いた質感なのに、中からは透明な肉汁が光を受けてきらめいていた。脇には青緑色の葉物と、淡い紫を帯びた根菜のサラダ。籠には焼きたての黒パンが山のように積まれている。


「……きた、ね」

 沙良がごくりと唾を飲む。

「うん。まず写真……じゃないね。匂いでわかる、当たりのやつ」

 夏帆は冗談めかして囁くと、椅子を少し引いて姿勢を正した。異世界で初めての“ちゃんとした晩ごはん”。二人は、妙に厳かな気持ちになって、顔を見合わせる。


「「いただきます」」


 ナイフが肉の表面に触れて、ざくりと気持ちのいい手応えを返した。断面から立ちのぼる湯気。粗めの塩と砕いた香草が断面に小さな星座みたいに散らばっている。

 沙良はそっと一片を口に入れた。


 ――噛んだ瞬間、音がした。

 きゅっと繊維が解ける音。続いて、ぱあっと広がる脂の甘さ。香草の青い香りが、山の空気みたいに肺の奥まで届く。強い火で先に表面だけを固めて、そのあとじっくり温度を入れてる。理系脳が思わず調理工程を逆算する。けれど理屈は次の一口で流される。

 ただ、ただ、うまい。


「おいしい……!」

 気づけば、声が少し震えていた。

「ね。外はカリッとしてるのに、なか、やわらか……。なんの肉だろ。牛でも豚でもない感じ」

 夏帆も目を細める。

 塩気は控えめ。けれど香りの層が厚い。肉の下に敷かれた薄緑の葉を摘んでかじると、わずかにミントと山椒を足して割ったような爽やかな刺激がした。舌の上の脂をすっと洗い流して、もう一口、の余白をつくってくれる。


 パンを割ると、ばりっと音がして、湯気が指にからみついた。外は硬いが中はふわふわで、麦の甘みが素朴にひろがる。肉汁を吸わせて運べば、さっきまでの空腹と緊張が、一気に遠のいていった。


「……現実感、戻ってくるね」

「うん。胃って偉大」

 二人の小声のやり取りに、背の低い影がぴょこんとテーブルの端からのぞいた。さきほどの少女だ。クリーム色の髪が肩で揺れる。


「お味、どう? 辛くない?」

「最高。どれも丁度いい。塩、どこで測ったのってくらい」

 沙良が素直に言うと、少女は胸を反らせて鼻を鳴らした。

「でしょ! お父さんが焼いたの。お肉は〈雪ヤギ〉だから、脂が甘いんだよ。今日は氷原のほうでいいのが入ったんだって」

「雪ヤギ……!」

 名前を聞いただけで、北の空気が口のなかにひろがる。

「サラ、落ち着け。飲み物も来てる」

 夏帆が陶器のカップをすすめる。水は冷たく、ほんのりと鉱物の匂いがした。硬度の高い水。口をさっぱりさせるのにちょうどいい。


 少女は、二人の顔を交互に見て、いたずらっぽく笑った。

「おかわり、どうする?」

「えっと……」

 沙良は口をもぐもぐさせながら、目だけで夏帆に問う。

 夏帆は慎重に周囲を見回し、笑いを噛み殺してうなずいた。

「“少しだけ”なら」

「じゃあ……その……もう少しだけ」


「よっしゃああああ!」

 厨房の奥から、雷鳴みたいな声が轟いた。床板がびくっと震える。

 振り向けば、スキンヘッドの大将――昼間カウンターにいた、あの大男が、腕まくりしたまま両手を広げて仁王立ちになっている。胸の前のエプロンは、例の“ブラウン管推し”を連想させるほど厚手で、なんか頼もしすぎる。


「“もう少し”だと!? よっしゃ、腕が鳴る!」

「ちょ、ちょっと待って大将、ほんとに“ちょっと”で……!」

「心配すんな、任せとけ!」

 返事より早く姿が消え、代わりに厨房からは炭の爆ぜる音。香りが一段、濃くなる。

 少女が困った顔で肩をすくめる。

「お父さん、いつもこう。『少し』が聞こえなくなる病気なの」

「それ病名ついてるんだ……」

 夏帆が小さく笑う。沙良は笑いながらも、胸のあたりにじんわりと温かいものが広がるのを感じた。

(“お父さん”って、やっぱり大将、パパなんだ……。この世界にも、どこにでもある家族の感じがあるんだな)


 皿の上はたちまち空が見えはじめた。沙良は理系女子らしく、無意識に“残量”を計算してしまう。

(パン三切れ、肉あと三口、サラダ半分……配分最適化……)

 しかし、そんな計算をあざ笑うかのように、厨房の幕がばさっと開いた。


 ――どん。

 目の前のテーブルが、少し鳴いた。

 大将が置いた大皿は、見ただけで笑ってしまうほど豪快だった。厚い肉が二枚、重なるように盛られていて、その間に薄切りの香草と黄玉ねぎのような野菜が挟み込まれている。縁には焦げ目のついたレモンの親戚みたいな果実がぐるりと飾られて、さらに別皿で煮込みスープの小鍋、バスケットにどっさりと二回目のパン。


「“少しだけ”の追加だ!」

「どこがーー!」

 沙良と夏帆の声が揃った。周りの客がどっと笑う。

「サラ、どうするのこれ」

「わたしに聞かないで……でも、残すのは、いや……」

 笑いながらも、沙良の目は真剣。

 大将が腰に手を当て、満足そうにうなずいた。

「嬢ちゃんら、昼間、外の屋台でもうちの焼き串を褒めてくれたんだってな。あいつは俺の弟分みたいなもんだ。礼をしなきゃ礼がすたる。さあ、食え!」

 そう言ってドンと背中を叩かれ、まるで試合開始のゴングを鳴らされた気分になる。


「……やるか」

「やるのね」

 二人の視線が真ん中で合った。


 まずは薄切りにしたほうの肉――香草を挟んで重ね焼きにしたほうへ。ナイフの刃先が、しゅっと軽く入る。口に運ぶと、香りが花開くように立ち上がった。

 表面はぎゅっと火が入っているのに、中はふんわり。香草の青さが脂の甘さに寄り添っていて、厚切りのときとは違う“軽さ”がある。これならいける、と脳がうなずく。


「うま……!」

 沙良は目を細めて、思わず天井を見た。木の梁に吊るされたランプがゆれ、その明かりが肉汁の表面に星みたいにちらちらと映る。

「これ、焼きを二段階にしてる。最初に高温で焼き付けて、あとで火から外して余熱。香草は途中で乗せてる……」

「理屈は後で。今は食べる!」

 夏帆がパンで肉汁をぬぐって口へ運ぶ。ぱちんと何かがはじける音がした気がした。香草の粒――たぶんこの世界のキャラウェイかフェンネルに似た何か――が歯の下で砕けるたび、香りが爆ぜる。たのしい。食事って、こんなに楽しかったっけ。


 周りのテーブルから「お嬢ちゃん、がんばれよ」「それはうまいぞ」と野次とも声援ともつかない声が飛ぶ。ざわめきと笑い声が、いつのまにか心地よいBGMになっていた。

 少女が水のピッチャーを抱えて走ってきて、二人のカップに注いでくれる。

「お姉ちゃん、すごいね。こんなに食べる女の人、あんまり見たことないよ」

「わ、わたし普段はもっと小食なんだよ……!」

「うそつけ」

 夏帆が即ツッコミ。少女が「えへへ」と笑って、また別のテーブルへ駆けていった。


 スープの小鍋のふちから、ほかほかと湯気が立つ。器にすくって口に含むと、濃い。骨から出た旨味に、芋と根菜の甘さが重なって、まるで腹の底から抱きしめられているみたいだった。胡椒系のスパイスが後から追いかけてきて、鼻に抜ける。

「……生き返る」

「今日はいろいろあったからね」

 スキー場の駐車場、吹雪、目覚めたら白の世界、氷の城のシルエット、商人ギルドのざわめき、魔石商の眩しさ――今日一日が一気に走馬灯みたいに脳裏をよぎる。そんな日が、今はこの木の匂いのする部屋で、温かい皿の前にいる。奇跡みたいだ、と沙良は思った。


 だが、際限なく食べられるほど人の胃はできていない。

 二皿目の厚切りに差し掛かったところで、沙良のお腹が「ぽん」と小さく鳴いた。

 苦しい、ではない。けれど、はっきりと“満ちてきた”信号。

 夏帆もフォークを止め、顔にうっすら汗を浮かべる。

「……ねえ沙良。ここが、折り返し地点かもしれない」

「うん。ペース配分、誤った。大将の“少し”は、単位が違った」

 二人で小さく笑う。


 そこへ、よく通る声。

「嬢ちゃん、足りてるか!」

 大将がカウンター越しに片手を上げる。

「た、足りてます! じゅうぶんすぎるくらい!」

 沙良が慌てて手を振ると、カウンターの奥から別の影がすっと現れた。

 女将――昼間、帳場の隅で見かけた端正な女性だ。黒髪を後ろで束ね、白い前掛けをきゅっと締めている。目じりはきりっと上がっているのに、笑うと柔らかくなるタイプの人。


「あなた、また調子に乗ってるでしょう」

 冷たいわけじゃない、でも、背筋が伸びる声音。

 大将がわずかに肩を縮める。

「いや、嬢ちゃんがな、“もう少し”って言うからよ」

「“もう少し”を二人前追加で解釈するのは、あなたの悪い癖」

 女将が腰に手を当てると、周りの常連らしき客がどっと笑った。

「出た出た、奥さんの小言だ」「あれがないと、この宿も締まらんよ」

 少女が端っこでくすくす笑っている。

「お父さん、また怒られてるー」


 叱られつつも、大将の目じりはどこか嬉しそうだった。

 沙良は胸の奥が温かくなる。なんだろう、この空気。知らない街なのに、懐かしい。

 ああ、そうか――人の暮らしだ。

 異世界でも、人は怒るし笑うし、作りすぎて叱られもする。そういう“いつもどおり”が、ここにもある。


「……ねえ夏帆。もし明日からも、こういう“いつもどおり”に混ざっていけたら、なんとかやってける気がする」

「うん。まずは、ちゃんとお礼とお金を払える“いつもどおり”からね」

 二人は視線でうなずき合い、最後のひと口に集中する。

 パンをちぎって、香草の粒をかるくはたいて、肉の端を乗せる。小さく整えたそれを、そっと口へ。

 噛む。

 ――ああ、終わるのが惜しい。


 皿がきれいになったとき、沙良は両手をそっとお腹に当てた。ぱん、と張っている。

「……やった。完食」

「えらい。わたしは半分、沙良に助けられた」

「あとで請求書、送ります」

「やめて」


 少女がすぐに駆けつけて、空いた皿を器用に重ねる。

「お姉ちゃん、すごい! ぜんぶ食べた!」

「君の持ってきた水とパンが名アシストでした」

「えへへ、明日もがんばるね!」

 少女は元気に手を振って、厨房へ走っていった。


 女将がほどなくしてやってきて、ふわりと香る湯気の立つ陶器の壺をテーブルに置いた。

「消化にいいハーブ煎じ。サービスね。今日はよく食べてくれたから」

「ありがとうございます……!」

 口に含むと、レモンバームと何か松の新芽みたいな香りが重なった、不思議と胸のすっとする味だった。お腹にあたたかいものが落ちていく。


「お会計はお部屋づけにしておくわ。明日の朝、出立の前にでも。あ、それと、お湯はこのあとお部屋に運ばせるから」

「はい。ほんとうに、いろいろ……ありがとうございます」

 頭を下げると、女将は「旅は腹が要っていうからね」と、目を細めて笑った。


 階段をのぼるとき、沙良は自分の足どりがおかしなことに気づいた。お腹が重すぎて、自然とガニ股になる。

「……ペンギン歩き」

「可愛いよ、沙良ペンギン」

「可愛くなくていい。軽くなりたい」

 二人で笑いながら部屋に戻ると、ほどなくしてノックの音。

 扉を開けると、さきほどの少女が、両手に桶とやかんを抱えて立っていた。白い湯気が、廊下の灯りの中でやさしくほどける。

「お湯、お待たせしましたー!」

「ありがとう。助かる……」

 洗面器に注いだ湯に手を浸すと、じんと指先が解けていく。タオルを湿らせて顔を拭うと、今日という一日がようやく“終わり”の形を取りはじめる。


 寝台に腰をおろすと、藁と布を重ねたマットが想像よりずっと柔らかかった。天井の梁に吊られたランプの光が、部屋の角を淡く照らしている。窓の外では、遠くの城壁の見張りが合図を交わす笛の音が、一度だけ短く鳴った。


「……ふう」

 横になった途端、重力が別の星のものになったみたいに、お腹の重さがずどん、とのしかかる。

「夏帆、動けない」

「うん、分かる。わたしも、いま、布団がブラックホール」

「その喩え、理系としては反論したいけど、いまは放棄する」

 二人でくすくす笑う。


「ねえ、明日どうする?」

「まずは、街の地図。商人ギルドでもらえるか聞いてみる。それから、魔石の相場。燃料は確保できたけど、コスパ把握しないと」

「うん。あと、トイレの場所も複数把握」

「リアル」

「リアル大事」

 ふたりの声が、だんだん毛布に吸い込まれるように小さくなる。


 変わらないものと、変わってしまったもの。

 スキーの後、吹雪に閉じ込められたあの夜。目覚めたら白い世界。氷の城。商人ギルドのざわめき。魔石のきらめき。そして、今夜の食堂の笑い声。

 全部が同じ線の上にあって、明日に向かって伸びていく。


 沙良は、お腹を両手でそっと抱えた。満腹の幸福感は、少しだけ痛い。でも、この痛さは“生きている”っていう合図だ。

「……明日も、がんばれる」

 自分にだけ聞こえるくらいの声でつぶやく。

 隣のベッドから、夏帆の寝息が返事みたいに規則正しく聞こえてきた。


 ランプの火を細く絞る。部屋の空気が、夜の深さに合わせて静かになっていく。

 どこか遠くで、犬か、夜警の笛か、短く高い音がまたひとつ。

 沙良の意識は、温かい腹と、木の匂いの枕と、さっき飲んだハーブの香りに抱かれて、するりと眠りの底へ滑り落ちていった。


 ――こうして、異世界での初めての夕食は、満腹と笑いと、少しの明日への勇気を残して、静かに終わった。


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