第2章-8 静かな部屋で、これからの話をしよう
扉が閉まると、廊下のざわめきが一段落して、部屋は木の匂いと、外の冷気を僅かに含んだ静けさで満たされた。二階のいちばん奥、角部屋。窓は城下町の屋根並みと遠くの氷の城を斜めに切り取っている。壁は白い漆喰、梁は濃い色で、指で撫でるとざらりと細かな粉が落ちそうな素朴さ。床板は一歩ごとに小さく鳴き、寝台はふたつ。麻縄で編まれた座面の椅子が二脚、節だらけの天板のテーブルがひとつ。見知らぬ世界の標準仕様が、ここにある。
「……ふぅー」
沙良はベッドの端に腰を落とすと、両手を広げて背中から倒れ込んだ。節のある板張りの天井を見上げる。さっきまでいた屋台の炭火の匂いと、串焼きの脂の香りがまだ鼻の裏に残っている。おっちゃん、いい人だったな――肉、ほんとにおいしかった。
「ね。落ち着くと、一気にどっと来るね……」
夏帆は窓際の椅子に鞄を置いて、軽く肩を回す。彼女の動きはいつも通り無駄がなくて、でもさっきから指先が少しだけ落ち着きなく動いているのを沙良は見逃さない。しっかり屋さんの夏帆だって、今日の情報量はさすがに多すぎる。
「順番に、いったん整理しよっか」夏帆が言った。「今朝までは普通にゲレンデ。昼まで滑って、温泉入って、ご飯食べて、雪が強くなったからエブリイに待避――で、寝落ち。起きたらここ」
「真っ白の世界。ディスプレイオーディオに『ようこそ』出て、指示に従って氷の城の方角に進んで」
「途中でエルダンさんに会って、城門で変な目で見られながらも、入城。で、屋台で肉の匂いに心奪われる」
「で、支払いの段で気づく。我々、ここのお金を持っていない」
二人で顔を見合わせて、同時に苦笑いが漏れた。
「それから商人ギルド。……沙良のコーヒー豆、助かったね」
「やっぱ豆から挽くのは正義だよね。担当の人、香りで目がまん丸になってた」
「それと、飴ちゃん。まさか『技術の粋』みたいな顔で褒められるとは思わなかったけど」
「だって、異世界の子どもたちに人気出るよ、あれ。砂糖は偉大」
テーブルに、商人ギルドで受け取った袋がひとつ置かれている。開けると、キラリと輝く金色、鈍く光る銀色と、十円玉を少し濃くしたみたいな銅色のコインが転がった。縁の刻み、女神像、裏面に“リル”という文字に相当する記号。スマホのカメラをかざすと、画面の上部に「金貨」「銀貨」「銅貨」と小さく注釈が浮かぶ。翻訳は相変わらず、ディスプレイオーディオのリモート接続経由で生きているらしい。
「そういえば、さっきの屋台のおっちゃん、私たちの言葉、普通に通じてたよね」沙良が首をひねる。
「うん。私たちも、向こうの言葉を普通に“聞けてた”。でも、ギルドで書類を書くときはぜんぜん書けなかった。……あの翻訳、やっぱり“音声のやり取り”に最適化されてるのかな」
「ディスプレイオーディオ、めっちゃ優秀。スマホに『接続完了:リモート使用できます』って出たとき、ちょっと鳥肌立ったもん」
「異世界で車のオーディオに命握られる日が来るとは思わなかったよ」
二人とも、そこで少し笑った。笑えるだけの余裕が戻ってきたのは、宿屋の扉が彼女たちを「内側」にしてくれたからだろう。外にはまだ知らないものがたくさんある。でも、内側はとりあえず安全。そう思わせてくれる木と布の境界線。
「で、魔石」夏帆が続ける。「燃料問題が一番のネックだと思ってたけど、あの“屑魔石”で満タンにできたのはデカい」
「ね。さすがにガソリンの給油口に砂利みたいなの入れるの、手震えたけど」
「“細かくした魔石を燃料口へ投入してください”って、文字で淡々と出るのが逆に怖かった。メーカーに怒られそう」
「でも、燃料計がぐいーんって上がって“F”越えしたとき、ちょっとテンション上がった」
「車側、魔力で動くモードに勝手に最適化されたのかな……あとで詳しくログ見よう」
「だね。電気毛布もあるし、ポータブル電源もあるから充電も出来る。エブリイで寝泊りできる体制は、現代日本と同じか、今はむしろ強い。――ただ」
「ただ?」
「ここ、私たちの世界じゃない」
言葉が部屋の空気に落ちて、少しだけ重くなる。窓の外、氷の城は夕陽に輪郭を青く光らせている。氷に夕陽が刺さるとこんな色になるのか――理系っぽい興味が、現実感のなさに薄く混ざり合う。
「帰れるかな、私たち」沙良が、真正面から訊ねた。さっきまで自分の口で言うのが怖かった言葉。
夏帆は、いちど息を吸って、吐いた。
「正直、わからない。けど、確率で言うなら、いますぐの“自力帰還”は期待値低い。ここまでの現象が偶然の重なりで再現可能とは思えないし」
「うん。帰還ルート探索、っていう研究テーマがいきなり降ってきたみたい」
「ただ、手がかりはあるかも。ディスプレイオーディオの“ようこそ”と“誘導”。あれ、偶然じゃない。意思がある。少なくとも、私たちを“ここに来させた側”か“来たことを把握している側”が存在する」
「氷の城?」
「かもしれないし、違うかもしれない。ただ、門の外で走っていった連絡員、覚えてる? あれ、多分“上”に報告が行ってる」
「“上”は、私たちの存在を知ってる――」
「うん。だから、目立ちすぎもダメ、隠れすぎもダメ。しばらくは、街のルールに乗っかりながら、情報を集めよう」
「パーミッションとトラスト。権限と信頼の獲得だね」
「そう。それと、資金繰り」
二人は同時にテーブル上のコイン袋に視線を落とした。じゃら、と銀貨が触れる音が小さく鳴る。
「コーヒー豆と飴ちゃんだけだと、すぐ目立っちゃうよね。あまりにも“異質”すぎて」
「うん。単発の高単価を狙うと足もつきやすいし、常時供給できないのはディスアド。ここで“普通に”売れるもの、継続的に供給できるもの……」
「……お茶は?」
「ペットボトルのお茶、数本しかないよ。それに、容器が異世界バレする」
「確かに。ガムも飴ちゃんと同じく嗜好品で、リピート性あるけど供給が限られる。コーヒーは豆を挽くデモ込みで“体験”として売れるけど、豆は有限」
「それに、豆を挽くハンディミルを出すのも、ちょっと技術露出になる」
「だとすると――普通に、力仕事?」
夏帆の言葉に、沙良は目を丸くしたが、すぐに笑った。
「理系女子、突然の肉体労働に目覚める」
「いや、私たち、意外と体力あるよ? スキーで鍛えられてるし」
「まぁね。搬入手伝い、修繕、配達、御用聞き。エブリイあるから、荷物運びはワンチャン重宝される」
「ただ、車の存在はやっぱり目立つ。許可もわからない。商人ギルドで“運び屋”登録があるなら、その枠に入るのが安全かも」
「ギルド……また行こっか。あ、エルダンさんに会えるといいな。なんか信用してくれた感じあったし」
「それと、宿屋の大将も。“いかついけど気が利く”は私の中で信用ポイント高い」
CRTエプロンを思い出して、二人でくすっとする。あの“謎エプロン”の意味はいつか聞いてみたい。異世界にブラウン管文化、あるのだろうか。
「あと、治安」と夏帆。「城門の槍の持ち方、兵士の靴のすり減り方、目線の配り。プロ感があった。逆にいうと、何か起きたら、割とすぐ動く街」
「うん。だから、夜の外出は控えめに、飲み過ぎ厳禁、揉め事回避。スリにも注意」
「そのへんは日本でも一緒だけどね」
二人の会話は、いつもの「計画会議モード」に入っていた。学祭の出し物の段取り、スキー遠征の装備確認、車中泊の買い出し。そういうときと同じテンポで、現状と課題が整理されていく。違うのは、ここが異世界だという一点だけだ。
「帰還の可能性については――」と夏帆が言いかけたとき、沙良が手を上げた。
「ちょっと待って。ディスプレイオーディオに訊いてみよ」
鞄からスマホを取り出して、ホームボタンを押す。ロック画面には、昼間に撮った城下町の通りの写真。見慣れないはずなのに、もう「今日の私たち」の場所だと頭が理解しているのが不思議だ。アプリを立ち上げると、案の定、上部に小さく《接続中:SA-DA_Remote》と表示された。
『帰還方法のヒントはありますか?』
画面に打ち込み、送信。数秒の無音。やがて、見慣れた、どこか事務的な文字列が表示された。
《照会中……/条件:未充足。 既知の帰還経路:未検出。 推奨:対象エリア“氷の城”に関する情報収集、ならびに高魔力地帯での反応測定》
沙良と夏帆は顔を見合わせた。
「“氷の城”って、やっぱりキーワードなんだ」
「高魔力地帯……物理でいう高エネルギー加速器みたいな場所、なのかな。現象再現のための“場”が必要ってこと?」
「パパっと答えが出るわけじゃないのは残念だけど、少なくとも方向性は出た」
沙良は続けて、ふたつ目の質問を打ち込む。
『私たちがこの街で目立ちすぎないように暮らすには?』
《推奨:①商人ギルドでの身分登録の追加(運搬補助、雑役)②宿屋での長期滞在契約(割引あり)③不要な技術露出の回避(特に電気機器)。※翻訳機能は音声優先で継続可能》
「“不要な技術露出の回避”だってさ」沙良が笑う。
「だよね。ここと私たちの世界の“距離”は、なるべく詰めない方がいい。少なくとも今は」
「うん。……あ、これも訊こう」
『エブリイの保管と安全。街のルールに合わせるには?』
《推奨:馬屋(裏手広場)での駐車許可取得。夜間は車体カバーの使用。火気厳禁エリア遵守。※魔石燃料の取り扱い:施錠可能な容器にて保管》
「車体カバー、持ってきてないよね」
「……コッコのマーク(ホームセンター)で買っておけばよかった、って今さら悔やんでも遅いか」
「布でも代用できるかな。宿の大将に相談してみよう。いらない帆布とかないかって」
「そうしよ」
会話は現実的なトーンに落ち着いていく。今夜はこの宿で寝る。明日は商人ギルドで“運搬補助”の登録の可否を確認。エルダンさんが街にいるなら、彼の商隊の荷運びを手伝えるかもしれない。昼は市場の価格感を覚える。夕方、氷の城の周辺で“高魔力地帯”を探すための目視偵察――もちろん無茶はしない範囲で。
「ねぇ、夏帆」
「なに?」
「私たち、案外、やれるかも」
沙良の言葉に、夏帆は少しだけ目を丸くして、それから笑った。
「うん。私も、そう思う」
少しの沈黙。窓の外には、氷の城の輪郭がさらに青く、際立って見える。城下の通りには、炭の匂いとスパイスの香りがわずかに流れてくる。夕方の市場の片付け、馬のいななき、誰かの笑い声。外は生活の音で満ちているのに、ここは泡のように静かだ。
「……それにしても、宿屋で幼女受付、出なかったね」
「うん、マッチョ大将。しかもCRT愛好家。異世界、深い」
「いつか“幼女受付”の宿にも出会えるかな」
「出会ったら、テンション爆上がりすると思う。でも今は、あの大将の豪快さがちょうどいい。現実に根を下ろしてくれる感じ、する」
「わかる」
沙良はベッドにころんと横になって、天井に手を伸ばした。手のひらを通して、今日あったことをなぞる。
(スキー、温泉、吹雪、白い世界、ディスプレイオーディオ、エルダンさん、城門の人、屋台のおっちゃん、商人ギルド、コーヒー、飴ちゃん、魔石、満タン、宿屋の大将)
ひとつひとつがはっきりしているのに、夢みたいにつながっている。不思議な日だ。きっと忘れない。
「沙良」
「ん?」
「もし、この世界にしばらくいることになったら、私、やってみたいことがある」
「なに?」
「この街の“当たり前”を、ちゃんと覚えたい。単位、物価、挨拶、季節の行事。生活のリズム。……それが分かれば、帰る道が見つからなくても、私たちは“ここで生きられる”」
「夏帆、そういうとこ、ほんと好き」
「うん、知ってる」
二人で笑う。こうやって笑えるのが、救いだ。
そのとき――
ガンッ、ガンッ、ガンッ!
鍋の底を木槌で打つ、腹の底に響くような音が廊下の向こうから鳴り渡った。最初の三発で耳が“合図だ”と理解し、続けて連打が来る。
ガンガンガンガン! ガンガンガン!
「うわっ、なにっ」
「たぶん、夕食の時間の知らせ!」
扉の向こうから、マッチョ大将のよく通る声が響く。
「おーい! 飯だぞー! 温かいうちに降りてこいよー!」
二人は思わず顔を見合わせ、同時に頷いた。さっきまで“これから”の話をしていた心の重りが、すっと軽くなる。今は、とりあえず、食べよう。生きていくために、そして、少し笑うために。
「行こっか」
「うん、行こう」
沙良はスマホの画面をタップして、ディスプレイオーディオの小さな表示を確認する。《翻訳:稼働中》《安全度:宿内—高》。見慣れたフォントが、不思議な安心をくれる。夏帆はコイン袋を確かめて、小袋を腰に括りつけた。鍵を挟み、扉に手をかける。
廊下の橙色の灯りが、ふたりの影を長く落とした。木の階段は、もう人々の足音でわずかに騒がしい。肉の焼ける匂い、煮込みの湯気、笑い声。異世界の夜の入口が、そこに開いている。
――二人は、夕餉の合図に導かれるように、階段を降り始めた。




