第2章-1 異世界転開幕
――視界が真っ白だ。
目を覚ました沙良は、一瞬、吹雪の中で寝てしまったのかと思った。
しかし、外は吹雪どころか、凍てつく静寂に包まれている。
雪は降っていない。だが、あたり一面は白銀の海。
そして、雪面は月光のように淡く光を放っている。
「……え?」
助手席で寝袋にくるまっていた夏帆も、もぞもぞと身を起こす。
まだ寝ぼけ眼のまま、ぼんやりとフロントガラス越しの景色を見て――固まった。
「……ここ、どこ?」
聞かれても、沙良にも分からない。
昨夜のスキー場駐車場は、確かに雪に覆われていた。
だが、周囲にはロッジやリフト、照明塔の影が見えていたはずだ。
今、見えるのは――
見渡す限りの、誰も踏み入れていない粉雪の丘。
遠くには、現代日本の山にはない、歪んだ形の針葉樹が並び、
さらにその向こうに、氷の城のような青白い建造物が陽光を反射して輝いている。
「やっば……映画のセット?」夏帆が小声で呟く。
「いや、そんなでかいロケやるならロケバスとかスタッフとかいっぱいいるはず」沙良は眉をひそめる。
「それに……」
ダッシュボードの中央、ディスプレイオーディオに文字が浮かび上がっていた。
『ようこそ。あなた達を待っていました。』
『さあ、そのまま進んでください。』
「……」
「……」
二人して固まる。
最初に声を上げたのは夏帆だった。
「これ……冗談だよね?誰かがBluetoothでつなげてるとか……?」
「でも私のスマホ、機内モードだし、圏外で電波なんて入ってない」
「……あー、そうか。じゃあ誰がこれを……」
沈黙。
いやなほど心臓の音だけが響く。
そんな中で、沙良がぽつりと言った。
「……とりあえず、お湯沸かそっか」
「はああぁぁ!?」
「ほら、こういう時は冷静になるためにカフェイン摂取だよ」
「異世界かもしれない状況でコーヒー!?」
「いや、たぶん異世界って決まったわけじゃないし……決まったとしても、コーヒー飲むでしょ?」
理系女子の思考回路は、時に常人には理解しがたい。
沙良はそう言いながら、後部スペースのキャンプ道具ボックスを開け、ポータブル電源と電気ケトルを引っ張り出す。
寝袋から顔だけ出して見ていた夏帆は、呆れたように溜息をつく。
「……ねえ沙良、普通はさ、まず脱出とか情報収集とか考えるよね」
「情報収集はコーヒー飲みながらやるの」
「いや、それ絶対優先順位逆ぅ!」
それでも、湯が沸く音と木の香り混じりのコーヒーの匂いが広がると、夏帆の表情も少しだけ和らいだ。
窓の外は、相変わらず現実味のない幻想的な雪原。
だが、湯気と香りが、二人を少しだけ日常に引き戻してくれる。
カップを手に、沙良はつぶやく。
「……でも、あのディスプレイのメッセージ。あれ、やっぱ普通じゃないよね」
「当たり前でしょ。車のオーディオが勝手に喋る時点でホラーなんだけど」
「喋ってはない。文字だけ」
「そういう問題じゃない!」
ひとしきり言い合ったあと、沙良は運転席に座り直し、キーを回した。
エンジンは――かかった。
かすかにアクセルをあおると、いつも通り軽やかに回転数が上がる。
「……動くね」
「ってことは、帰れる?」夏帆が希望の光を見せる。
しかし、シフトを入れてゆっくりと前進すると――
タイヤが踏む雪の感触が、日本の雪道とは明らかに違う。
軽いのに沈み込まない、不思議な抵抗感。
そして、遠くに見えた氷の城が、まるで蜃気楼のように距離感を狂わせる。
「……やっぱり、普通じゃない」沙良がハンドルを握りながら言う。
「知ってた」
二人はコーヒーを飲み干し、まずは周囲を少し探索してみることに決めた。
エブリイのエンジン音が、異世界らしき静寂の中に小さく響き、吸い込まれるように消えていく。
彼女たちの、異世界での最初の一歩が、今始まった――。




