第1章-1 中古エブリイと理数女子の夢
第1章-1 主人公・川瀬紗良
雪が降ると、胸が高鳴る。
それは、子どもの頃から変わらない反射のようなものだった。
川瀬紗良が物心ついたとき、冬はすでに父の季節だった。
父親は根っからのスキー好きで、シーズンが近づくと仕事の合間にワックスがけを始め、週末になると家族を乗せて雪山へ向かう。
「休日は家でゆっくり」なんて言葉は、川瀬家の辞書には存在しなかった。
雪山での一日は、紗良にとって特別な時間だった。
朝まだ暗いうちに車にスキー板やウェアを詰め込み、コンビニで朝食を買って高速道路をひた走る。
助手席で頬杖をつきながら、だんだん白く染まっていく景色を眺めるのが好きだった。
父は豪快なタイプで、滑りはスピード重視。
一方、紗良は慎重派で、技術やフォームにこだわるタイプだった。
小学校高学年になるころには、家族で滑るよりも、自分のペースでゲレンデを楽しむようになっていた。
そして、スキー帰りには必ず温泉に立ち寄るのが、川瀬家のルールだった。
雪の中を一日滑り続けた後、露天風呂に身を沈める瞬間の幸福感――。
頬に冷たい空気を感じながら、肩まで熱い湯に浸かると、体の芯までじんわりと解けていく。
この「スキー+温泉」セットは、紗良の中に深く刻み込まれていった。
中学に入るころ、周囲の友人たちは次々とスノーボードを始めた。
「スキーよりカッコいいし、モテるし!」というのが彼女たちの決まり文句だった。
紗良もその流れに押され、ある日父の反対を押し切ってスノボをレンタルしてみることにした。
――その結果。
ゲレンデ半ばで見事に後頭部を強打。
派手に転び、雪煙が舞い上がる中、星が飛び交うような感覚と頭の鈍い痛みが同時に襲ってきた。
「あ、これ…絶対、明日の朝には冷たくなって永眠コースだわ…」
半分冗談、半分本気でそう思った。
スノーボードはその日をもって彼女のスポーツ人生から姿を消し、スキー一筋の道へと戻ったのだった。
大学生になっても、スキーは紗良の生活の中に息づいていた。
冬休みや春休みには友人とゲレンデへ行き、帰りに温泉に寄る。
いや、冬以外でも温泉は彼女の定番レジャーだった。
初夏の新緑を見ながら山あいの露天風呂に浸かる日もあれば、秋の紅葉を背景に湯気に包まれる日もある。
「温泉」という目的地があると、遠出がより楽しくなる。
そして、遠出を繰り返すうちに、紗良の興味は自然と“移動の快適さ”に向かっていった。
宿に泊まらなくても、自分の車で移動して、そこで眠れたらどれだけ自由だろう。
スキーの朝イチのリフトにも余裕で乗れるし、温泉街で夜まで過ごしても、寝床はすぐそこだ。
そんな妄想が頭を占めるようになってから、彼女は自然と“車中泊ができる車”というキーワードをネット検索に打ち込むようになっていた。
ネット検索は次第に深みにはまり、車種の比較表をエクセルで作るほどの凝りようになった。
軽バン、ハイエース、ミニバン…。
サイズ、燃費、積載量、維持費――。
条件を満たしつつ、学生の自分でも手が届く現実的な選択肢として浮かび上がったのが、スズキの「エブリイ」だった。
後部座席を倒せばフルフラットにでき、スキー板や寝袋も楽に積める。
内装のカスタム例を見ては、「自分ならこうする」とノートに描きためた。
もはや、それは一種の研究の域に達していた。
そしてもうひとつ、車中泊の夜を想像するとき、必ず頭に浮かぶものがあった。
それは、ネット小説だ。
高校時代から読んでいたが、大学に入ってからはさらにのめり込み、就寝前のルーティンになっていた。
ファンタジー、SF、異世界転移もの――。
スマホの画面をスクロールしながら、見知らぬ世界を旅する物語に没頭する。
車中泊で夜を過ごすなら、きっと小説が最高の相棒になるに違いない。
「雪山でスキーして、温泉入って、ご飯食べて…車の中で布団にくるまって小説読む…。
これ以上の幸せってある?」
そう口にすると、友人たちは笑った。
けれど、紗良は本気だった。
それは彼女が描く“理想の休日”であり、“自由”の象徴でもあった。
こうして、幼少期からの習慣と趣味が一本の線のように繋がり、「車中泊できる車」という夢が現実味を帯び始めていた。
この時の紗良はまだ知らなかった――。
その夢が、やがて思いもよらぬ形で、文字通り“異世界”へと彼女を連れ出すことになるとは。