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遠回りの二重奏

作者: 星空モチ

挿絵(By みてみん)


5年ぶりに耳にするピアノの音色は、まるで遠い記憶から抽出された香水のように、彩の心に染み渡った。


引っ越し疲れでぐったりとしていた体が、不思議と軽くなる。


「まさか…こんな場所で」


彩は薄暗い新居のリビングに立ったまま、ただ聞き入った。


隣室から漏れ聞こえるショパンのノクターン第2番。


かつて奏太が弾いていた曲。だけど、奏太のタッチではない。もっと深みがある。強さの中に優しさを秘めた音色。


紫藤彩しどう・あや、26歳。


都会の喧騒に疲れ果て、故郷から電車で2時間ほどの静かな田舎町・藤見に移住してきた。


大学卒業後、出版社で校正の仕事に就いていたが、残業続きの日々に心も体も蝕まれていった。


「このままじゃダメだ」


そう思った夜、彩はネットで見つけた藤見町のアパートを即決で契約した。在宅ワークが許可された今なら、無理なく移住できる。


彩の母は彼女が中学生の時に他界した。


「あなたはいつも一人だね」と言われ続けた幼少期。


そんな彩が初めて心を許したのが、大学時代の恋人・奏太だった。


彼の柔らかな笑顔と音楽への情熱に惹かれた。


でも2年間の交際の末、互いの価値観の相違から別れを選んだ。


「僕は音楽一筋で生きていく。君をないがしろにするくらいなら…」


別れた後も彼の演奏会には足を運んだ。あの日まで。


引っ越し荷物を放り出し、彩は息を潜めてピアノの音色に耳を傾けた。


「あまりにも似ている…でも違う」


突然、音が止まった。


同時に玄関のドアをノックする音。


「新しい住人さん?こんにちは、隣に住んでいる高瀬です」


男性的な低い声。


ドアを開けた瞬間、彩の体は凍りついた。


「あ…」


目の前に立っていたのは、5年前、奏太の演奏会で最前列に座っていた無口な男性。奏太の兄。高瀬隼人。


「…紫藤さん?」


彼の目が僅かに見開かれる。


あの日、奏太との別れを知った後、彩に何も言わずに去っていった人物。


「まさか、ここに引っ越してくるなんて…」


隼人の声は冷たさの中に戸惑いが混じっていた。


彩は言葉を失った。この町を選んだのは偶然だったのに、こんな形で再会するなんて。


「音、聴こえてたでしょ。うるさかったらごめん」


そっけない言葉とは裏腹に、彼の目は何かを訴えているように見えた。


隼人は地元の音楽教室で講師をしているという。


東京の音楽大学を卒業後、演奏家の道は諦め、この静かな町に戻ってきたらしい。


「奏太は…」


言いかけて彩は言葉を飲み込んだ。


「弟は海外で修行中だよ。あいつらしいよな」


隼人の口元に浮かんだ微笑みは、どこか儚げだった。


「じゃあ、なにか困ったことがあれば」


そう言い残して去っていく隼人の背中が、妙に頼もしく見えた。


彩は閉まったドアを見つめながら思った。


「これが運命ってやつ?」


窓の外では、春の夕暮れが藤見町を淡いオレンジ色に染めていた。


彩の新しい生活は、思わぬ形で始まろうとしていた。





その晩、彩はなかなか眠りにつけなかった。


窓から漏れる月明かりが、荷物の影を部屋いっぱいに伸ばしている。


「なんで…あんな人と再会するなんて」


心の中でぐるぐると回る思い出のかけら。


大学時代、奏太が演奏会の前に必ず彼女に見せていた不安げな表情。


そして陰で見守る隼人の、どこか寂しげな眼差し。


翌朝、彩が目を覚ましたのは再びピアノの音色だった。


今度はバッハのインベンション。


規則正しく整然とした旋律が、朝の光と共に部屋に差し込んでくる。


「休日なのに早いな…」


時計を見れば午前6時半。


彩はコーヒーを淹れながら、昨日の出来事を反芻していた。


「あの人、どうして田舎に戻ってきたんだろう」


隼人の印象は昔からあまり良くなかった。


奏太のコンサートに毎回現れては、終演後に厳しいことを言う兄。


「もっと感情を抑えて弾け」「技巧に走りすぎだ」


そんな言葉を投げかけ、奏太を落ち込ませていた。


でも昨日見た隼人は、どこかそれらしくなかった。


目の奥に秘めた何かが、彩の心に引っかかる。


午後、彩は町の散策に出かけた。


藤見町は思ったより開けていて、古い商店街と新しいカフェが混在する不思議な風景。


銀杏並木の小道を歩いていると、前方から見慣れた姿が現れた。


「あ…」


隼人だった。背中に背負ったギターケースが意外に見える。


彼もまた彩に気づき、足を止めた。


「散歩?」


そっけない一言に、彩は思わず苦笑した。


「はい。この町に慣れようと思って」


「ならちょっとだけ案内するよ」


予想外の申し出に、彩は戸惑いながらも頷いた。


隼人は彩を古い洋館のような建物に連れていった。


「ここが俺の教室」


内部には防音のスタジオが並び、壁には子どもたちの描いた音符の絵が貼られている。


「…意外」


思わず口にした言葉に、隼人は眉をひそめた。


「奏太とは連絡取ってる?」


突然の質問に、彩は息を飲んだ。


「いいえ、全然」


「そう…」


隼人の横顔には、かつて見たことのない柔らかさがあった。


「明日もピアノ、弾くの?」


「…聴きたい?」


彼の目が、一瞬だけ彩を見つめた。





それから2週間、彩は朝と夕方に聴こえてくるピアノの音色に耳を傾ける日々が続いた。


隼人の演奏は日によって表情が違う。


穏やかで澄んだ音色の日もあれば、激しく情熱的な演奏の日もある。


「今日は何かあったのかな」


彩は隼人の気持ちを音から読み取るようになっていた。


ある雨の日、彩は勇気を出して隼人の部屋を訪ねた。


「すみません、よかったらこれ食べませんか」


手作りのアップルパイを持って立つ彩に、隼人は少し驚いた様子だった。


「…入って」


シンプルな部屋の中央には、艶やかな黒いグランドピアノ。


「部屋の大半をピアノが占めてるね」


「生活の大半も占めてる」


珍しく冗談めいた言葉に、彩は笑った。


お茶を飲みながら、二人は少しずつ距離を縮めていく。


「奏太とはなぜ別れたの?」


突然の質問に、彩は手を止めた。


「私より大切なものがあったから」


「音楽か」


隼人の目が遠くを見つめる。


「あいつはね、小さい頃から天才だった。俺とは違う」


初めて聞く兄弟の話に、彩は息を飲んだ。


「俺も昔は演奏家を目指してた」


「どうして諦めたの?」


「諦めたんじゃない。選んだんだ」


隼人の声には確かな意志があった。


「子どもたちに音楽の種を蒔く方が、自分には合ってる」


窓を叩く雨音をバックに、隼人の言葉は静かに響いた。


季節は初夏へと移り変わり、彩も仕事と新生活のリズムに慣れてきた。


ある日、隼人から思いがけない誘いを受ける。


「来週、生徒の発表会があるんだ。よかったら…」


照れくさそうに言葉を濁す彼の表情に、彩は胸が高鳴るのを感じた。


「ぜひ行きたいです」


発表会の日、彩は会場の小さなホールで感動に包まれていた。


初々しい子どもたちの演奏の後、最後に隼人が弾いたドビュッシーの「月の光」。


その美しさに、彩の目から涙がこぼれた。


帰り道、二人は並んで歩く。


「素敵だった…あなたのピアノ」


彩の言葉に、隼人は足を止めた。


「実は…言いたいことがある」


真剣な眼差しに、彩の心臓は早鐘を打った。


「奏太が帰ってくる」





隼人の言葉に、彩の世界がぐらりと傾いた。


「奏太が…帰る?」


「来月の帰国コンサートが決まったんだ」


隼人の表情には複雑な感情が入り混じっている。


「彼に会いたい?」


その問いに、彩は自分の心の内を見つめた。


その夜、激しい雷雨が藤見町を襲った。


眠れない彩の耳に、隣室から聴こえてきたのは荒々しいピアノの音色。


リストの「雷鳴のエチュード」。


怒りと悲しみが混じり合う音に、彩は思わず耳を塞いだ。


「あの日と同じだ…」


5年前、奏太との別れの後、隣の部屋で隼人が同じ曲を弾いていたことを思い出した。


翌朝、隼人は彩の部屋を訪ねてきた。


「昨夜は悪かった」


疲れた顔で謝る隼人に、彩は勇気を出して尋ねた。


「あの時も…同じ曲を弾いてたよね」


隼人の顔から血の気が引いた。


「覚えてたのか」


「実は…」


隼人はゆっくりと語り始めた。


大学時代、彼もまた彩に惹かれていたこと。


でも弟・奏太の方が先に彩に告白したと知り、自分の気持ちを封印したこと。


「弟を傷つけたくなかった」


その後も彩を見守り続け、彼女と奏太が別れた日、初めて自分の気持ちを認めた。


「でも、もう遅いと思った」


彩は震える声で言った。


「あなたの演奏…最初から気づいてた」


彩が大学時代に一度だけ聴いた隼人のピアノ。


誰にも真似できない独特の音色が、彩の記憶に深く刻まれていた。


「だから…この町を選んだのかも」


無意識のうちに、彩は隼人を探していたのかもしれない。


その日の夕方、彩の携帯に奏太からメールが届いた。


「帰国するよ。もし良かったら会いたい」


隼人にそのことを告げると、彼は複雑な表情を浮かべた。


「俺たち、また振り出しに戻るのかな」


「いいえ、違う」


彩は静かに首を振った。


奏太の帰国コンサートの日、彼は華やかなステージで国際的な演奏家として成長した姿を見せていた。


バックステージで再会した三人。


「二人とも、幸せそうだね」


奏太の温かな笑顔に、緊張していた彩と隼人の心が解けた。


「兄さん、もう自分を責めるのはやめなよ」


奏太の言葉に、隼人は驚いた顔をした。


「実は…知ってたんだ、兄さんの気持ち」


奏太は静かに語った。


兄・隼人は幼い頃から演奏家としての才能を認められながらも、両親の事故の後、弟を育てるために自分の夢を諦めたこと。


「兄さんこそ、本当の音楽の才能を持ってる」


隼人の目に涙が浮かんだ。


「あの日、別れを告げたのは、二人の邪魔をしたくなかったから」


奏太の告白に、彩と隼人は言葉を失った。


「でも兄さんは自分を責めて、もう一度チャンスを逃した」


三人は、長い間交差していた想いを、初めて正直に語り合った。


藤見町の秋祭りの夜。


彩と隼人は銀杏並木の下で肩を寄せ合っていた。


「あのね、ずっと言いたかったことがある」


隼人の弾くピアノには、かつての荒々しさはなく、温かな光に満ちていた。


「子どもたちに教えることが、本当の自分の道だったって気づいた」


彼の顔には、もう迷いはなかった。


「君も、都会の生活が合わなかったんだよね」


彩は頷いた。


「人生って不思議…別々の道を選んだのに、こうして巡り会えた」


「そうだね、私たちは…遠回りして、本当の居場所を見つけたんだ」


二人の指が、そっと絡み合う。


奏太からのビデオ通話がつながった。


彼はニューヨークで次のコンサートの準備をしている。


「二人とも、やっと素直になれたね」


微笑む奏太に、隼人は昔のように厳しい顔で言った。


「お前は相変わらず技巧に走りすぎだ」


一瞬の沈黙の後、三人は声を合わせて笑った。


冬の訪れと共に、藤見町の音楽教室では小さな変化があった。


隼人の隣で、時々彩も子どもたちを教えるようになった。


「私、昔ピアノを弾いてたの、思い出したから」


彼女の演奏は技術的には未熟だが、聴く者の心に直接語りかける温かさがあった。


「君の音、好きだよ」


隼人の言葉に、彩の頬が赤く染まる。


その夜、二人のアパートの窓から流れ出る四手連弾の音色が、静かな町に響いていた。


互いの音を聴き合い、補い合いながら奏でるハーモニー。


遠回りした二人の旋律は、今、美しく響き合っていた。


あとがき:『遠回りの二重奏』を書き終えて


皆さん、『遠回りの二重奏』をお読みいただき、ありがとうございました!久しぶりの投稿になりましたが、この物語を通して皆さんと心を通わせることができたなら嬉しいです。

この作品は、私自身が音楽と再会した時期に構想を練り始めました。ピアノの音色って不思議ですよね。何年経っても心に残る、あの独特の余韻。隼人と彩の物語も、そんな「時を超えて響く音」のように書きたいと思ったんです。

実は執筆中、隼人のキャラクターに何度も悩まされました。最初は「ツンデレお兄さん」にしようとしたのですが、なんだか陳腐な感じがして…。結局「内に秘めた情熱と責任感の強さ」を持つ人物として描くことにしました。皆さんには彼の優しさが伝わったでしょうか?

藤見町という架空の町は、私が学生時代に訪れた地方都市がモデルになっています。駅前の古い商店街と新しいカフェが混在する風景が、なんとも言えず懐かしく感じられて。季節の移ろいも大切にしたかったので、わざと一年を通した物語構成にしました。

一番苦労したのは、三角関係の描き方です。単純に「兄と弟の恋のライバル」ではなく、それぞれが自分の人生の岐路に立っている状況を描きたかったんです。奏太も「悪役」ではなく、自分なりの優しさを持った人間として描けていたら嬉しいです。

「遠回りして見つけた幸せ」というテーマは、実は私自身の経験とも重なります。思い通りにならない人生の中で、回り道をしながらも自分の居場所を見つけていく…そんな過程を大切にしたいと思いました。

それから、ラストシーンの四手連弾は、私の友人カップルからヒントをもらいました!最初は全く違う結末を考えていたのですが、二人で一つの曲を奏でるイメージが浮かんだ瞬間「これだ!」と確信したんです。

次回作も既に構想中です。今度は「音楽と記憶」をもっと深掘りした物語になるかもしれません。またぜひ読みに来てくださいね。

皆さんの心に少しでも残る物語になっていたら、作者冥利に尽きます。いつも温かいコメントをくださる読者の皆さんに、心から感謝しています。これからも「遠回りしながらも、確かに繋がる心」を大切に物語を紡いでいきますね。

またお会いしましょう!

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