第61話 信託
ダメだ……何も手に付かない。
いつもの冒険者ギルドのいつもの位置で、俺はテーブルに広げられた資料の隙間に右頬をつけて、何時間もそんな態勢で机に張り付いていた。
時刻は既に正午を回っている。
俺がそのまま放心していると、不意に軽い足音が耳に入って来る。
「やーまとさん」
耳心地の良い落ち着いたアルトボイス。
「どうしたんですか? 柄にもなく塞ぎ込んで」
ギルドの女職員、アノンが俺に声をかけて来た。
そうか、塞ぎ込んでいる様に見えるか。
「資料全然進んでないじゃないですか。また本部から怒られちゃいますよ?」
そんなこと言われても、手に付かないものは手に付かないのだが。
「また帰還命令無視したでしょう? もう何回目ですか、流石にそろそろマズいと思いますよ?」
そんなこと言われても、帰りたくないものは帰りたくないのだが。
「…………やーまーとーさん♡」
耳元で囁かれ、その吐息で思わずピクリと反応してしまう。
「そろそろ私の事も相手してくれないと、他の男に浮気しちゃいますよ?」
そんなこと言われても……っ……言われても……。
「……えっ!? これはっ!?」
アノンが驚いて俺から顔を離す。
「ん? どうしましたかアノン? てか何ですかそのポーズは……」
俺からは見えないが、アノンはなんか変なポーズを取っているらしい。
「まずいですバジョンさん! これは重症です!」
アノンがそう言う先から、魔動車乗りのバジョンらしき足音がこちらに近づいて来る。
「ああ、ヤマトさんですか。どうせまたオリーさんあたりが何かやらかしたんでしょう」
残念、今回はうちのパーティーメンバーは関係ない。
……いや、オリーに関しては間接的に関係があるのではなかろうか。
「違いますね。これは多分女性問題ですよ。ついに誰かを妊娠させでもしましたか?」
あー、鋭いなーアノンちゃんは……。
「ですわでーすわっ!」
おっ、この声は。
「あ、こんにちはピチカさん」
アノンがその声の主に挨拶をする。
「ヤマトさんはいらっしゃいますのー?」
俺の向いている方向から、明るい声でトテトテと駆けてくる聖女のピチカが目に入る。
「居ますが、今朝からこんな感じで微動だにしないんですよ……」
アノンがそう言うと、ピチカは俺の前まで来て立ち止まり、笑いながら首を傾げる。
「ピチカーー!!」
その瞬間、俺はそう叫びながらピチカに抱き着き、彼女の胸に顔をうずめる。
「クンカクンカ! ハァークンカクンカ!」
「んー? こんな感じでどうしましたのー?」
ピチカは俺に力いっぱいヘッドロックをかけながら、アノンに尋ねる」
「え……あの……」
後ろからアノンのドン引きする声が聞こえる。
「ピチカちゃん! 元気にしてたぁ~? お兄ちゃんピチカに会えなくてとぉっても寂しかったよぉ~!」
俺はピチカのヘッドロックを当然のようにすり抜けると、猫なで声を発しながらピチカに頬ずりをする。
「うーん、これは確かにおかしいですわねっ!」
ピチカが俺の顔面を手のひらで押し退けようとしながら、聖杖の柄頭で俺の後頭部を執拗に攻撃してくる。
「一体どうしたんですかヤマトさん! 確かにちょっとキモイなって思う事はありましたけど、今日のあなたはらずもねぐキモイですよ!」
バジョンも西の方っぽい訛り方で失礼な事を言って来る。
「あのピチカさん。わざわざ一人でギルドに来られたって事は、何か重要な用事があるのではないですか?」
一人だけ冷静な様子のアノンが、俺に弄ばれているピチカに対してそう問いかけた。
「そうですわっ! ”神託”が下りましたのっ!」
俺に対して膝蹴りをかましながら、彼女はニコニコと変わらない笑顔で答える。
「神託? またどうせ下らない事だろ? 前回は教会に入り込んだ猫の捜索とかだったじゃん?」
信託とは、最上位の神官が稀に受け取る、文字通り神からのお告げである。
それは国の存亡にかかわる重大な予言だとされているのだが、とても大雑把な事しか伝えられない上に、何なら単に神官が寝ぼけてたんじゃないかという内容のものまであるので、俺はイマイチ信用していない。
「今回の信託は『ミュゼトの村にドロドロの雨が降り、やがて炎の渦に呑まれるであろう』ですわー!」
ドロドロの雨って、もっとなんかいい感じの表現方法は無かったのだろうか。
「ミュゼト村はここから西側に一つ村を超えた先ある村ですね。この前ヤマトさんとプラソディ町に行った時は横を通り過ぎただけでしたが」
その村には俺も何度か立ち寄った事が有る。
そこは俺達冒険者にはあまり馴染みのない村だが、魔法素材の集積施設があるため人通りは多く、村というよりは小さな町といったような雰囲気だった。
「炎の渦って事は、魔族の襲撃でも受けるのか? 流石の魔族も何もないのに突然村を焼くなんて大胆な事はしてこないだろ?」
俺はそう言うが、昨日魔族が言っていたことを考えると、あながちそうとも言い切れないものがある。
「とりあえず早く行ってみられた方が良いのではないですか? 神託のほとんどはその日に起こる事を予言する物ですので」
アノンが俺にそう提案してくる。
「はぁ……行かなきゃダメか……」
しかし、よく考えたらピチカと二人旅になるのか。
それならば、別に悪い物ではないかもしれない。
「それではー! 頼みましたわー!」
がしっ。
立ち去ろうとしたピチカの腕を、俺は力強く掴んでそれを阻止する。
「あっはっはっは! どこへ行こうというのかね?」
「教会に戻りますわっ!」
ピチカは笑顔で俺の腕をつねりながら、進行方向に体重をかけて振り切ろうと試みている。
「バジョン、魔動車の用意をしてくれ。直ぐにミュゼト村に向かおう」
俺はピチカを自分の元に引き寄せつつ、バジョンにそう依頼する。
「それって、この前の魔動車の事を言ってますよね? あれはそうポンポンと使える物じゃないですよ? それにあなたならホバーボード使った方が早いでしょう?」
バキャン!
ピチカが俺の座っている丸椅子を足で蹴倒す。
「こっちには聖女様がいるんだぞ。聖女様をホバーボードなんかで移動させる気か?」
俺は空気椅子の状態でピチカを抱き寄せると、膝の上にのせて彼女の肩を揉む。
「……あの、そう言えばアメリアさんが昨日、プラソディー町を出てこちらへ向かっているようなんですよね」
アノンの言葉に、笑顔で俺の脇腹に肘打ちをしていたピチカの動きがピタリと止まる。
俺もそれを聞いたショックで尻もちをついてしまう。
「いや、流石に関係ないでしょう?」
そう口にするバジョンの表情は、言葉とは対照的に不安の色が見える。
「……行くか」
俺はそう呟いて立ち上がると、ピチカを自分の肩に乗せた。




