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第三話

三半規管がアルコール漬けにでもされたかのようにクルクルと回り続けている。

胃をくすぐられているようなフワフワとした気持ち悪さに目を覚ましたオレは起き上がる気になれず、眼底の奥をちかちかさせている瞳をぐるりと動かし、視線だけで辺りを見回す。


一面は鬱蒼とした緑に覆われ、駆け出しの頃にエキストラの仕事で連れて行かれた富士の樹海を思い出させた。あの時は樹海で霧幻怪獣デリーラの触手に追いかけ回される一般人Bをしていたが、木の根がむき出しになった地面は走りづらく、次の日になると脛が打撲で真っ青になっていた。


軽い走馬灯のように過去を振り返っていると、そのうち視界も定まっていく。

だが、目眩みが治っても視界の端に蒼い光がピコピコと入り込んでくる。

すっかり重たくなった頭をもたげると、胸元に先ほどまで手につかんでいたはずのペンダントがちらつきながら輝いていた。


オレは思わず光源へ向けて手を伸ばす。しかし、その手は冷たく、鋭い感触に阻まれた。

手の甲に押し付けられた鉄の矢尻が、皮膚を切り裂かない程度にぐいぐいと押し込んまれている。


見上げると、そこには頭に暗視ゴーグルを巻きつけた漆黒の肌を持った人影があった。

明らかに日本人ではない出立ちに、海外での撮影時に制作部から促された注意事項が頭を過ぎる。

何かがあればぜったいに素早く動かず、相手の指示を聞くこと。


オレはゆっくりとペンダントから手を離し、両の手のひらを向ける。

カチンコの音が鳴った時にも感じたことのない緊張感が脂汗となって首筋を伝う。暗視ゴーグル越しの視線と同期した矢尻は、オレの強張った喉に向かってくる。


「ど、どうも……」


喋るべきではないと分かっていながら、思わず言葉が溢れでる。明らかに外国人であるし、英語で話しかけた方がよかっただろうか。


すると目の前の存在は弓の構えを解き頭部のゴーグルを外す。革バンドに押さえつけられていた黒髪が艶やかに広がると、長く尖った耳が露わになる。

精巧な特殊メイクのようなそれに驚かされたが、すぐにオレはこれが人間とは別の、それもとびきりに特別な生き物なんだとわかった。

両の瞼が開かれると金色の虹彩に縁取られた瞳が薄暗い森の中で優しく輝いていた。その瞬きは先ほど赤い球に見せられたドラゴンの瞳を思い出させた。


「異邦人よ、お前の目的はなんだ?」


不気味な風に揺れる茂みのざわめきの中でも魅惑的に低く響く声が目の前の柔らかく膨らんだ桜色の唇から飛び出す。

特殊部隊めいた服装から、あまりに流暢な日本語の羅列と、発せられた音色に混乱したオレは返す言葉が出てこなかった。


「野党の類でもなさそうだが……」


彼女は急に言葉を飲み込むと、手の平をこちらへ向けて静止を促し、衣擦れの音一つなく矢を弓につがえた。


未だにぼんやりとしている頭でオレは示された通りに、声を押し殺す。

彼女は猫よりも静かな足取りで、蛇のように木々の間をすり抜けていく。そして目を凝らしていたはずなのに、その姿は溶けるように影の中へと消えていった。


ひとり残されたオレの周りには、濃い緑色をした団扇のように大きかったり、槍のように尖ったりした葉に被われた樹々が鳴らす、囁くような音だけが響いている。


彼女はいったい。そしてここは


と、いきなり耳をつんざくサイレンのような音が鼓膜にぶち当たる。

遠くから聞こえたそれはみるみるとオレに向かって近づいてきて、音が途切れるとともに、からんと軽く乾いた響きと共に、洋梨のような細工がついた矢尻が足元に転がってくる。

それはいつだか、大河ドラマの美術スタッフをしていた誰かに見せてもらった鏑矢そのものだった。


一瞬の静寂ののちに、地鳴りと共に太い枝や蔓が凍えたかのように震え出す。


振動が響く度に、巨大な舞台の垂れ幕のような葉の重なりが、まるで強風に吹かれる薄いカーテンのようにふわふわと揺れ動く。


そんな鞭のようにしなる大樹の枝葉の上を、黒い影が俊敏な羽虫のように飛び回っていた。

次第に影が近づいてくると、突然、それはこちらに向かって声を張り上げる。


「走れ! 逃げろ! 隠れるな!」


単純明快な指示に、危険な撮影に慣れ親しんだオレの体は、すぐに反応した。


ああ、これはまた膝が痣だらけになるな。

心の中での呟きと共に、今の声はさっきの彼女のものだと思い起こしながら、手近な幹を掴み、くるりと体を振り起こすと駆け出した。


昔話に出てくる死神のような老婆の腕を思わせる木の根っこが、オレの脚に絡みつき、つまずかせようとまとわりついてくる。


振動が段々と音と揺れを増してくる。

鋭い風切り音が聞こえるたびに、巨大な唸り声が上がる。

後ろを振り向けば死ぬんだろうな、と余りにも冷静な考えが浮かんでくる。

演技を忘れてここまで必死に走ったのはいつぶりだっただろうか。


全力疾走はまるで丸一日続くマラソンの様に感じられ、そろそろ足も心臓も限界だと体が訴えてくる。

オレはいよいよ諦めの境地に達して、足を止めると、こんな目に合わせてくれた元凶を一目見てやろうと思い、くるりと踵を返した。


そこには牙を剥いて、金色に輝く瞳でこちらを睨みつけるビルのように大きな狼が、小枝のように巨木の枝々を踏み抜きながらこちらへ向かってくる姿があった。。


遠くの樹上では、先ほどの彼女が次々と矢をつがえては大狼めがけて放っているが、それはくすんだ灰色の剛毛の中に埋もれていき、まるで蚊が鉄筋コンクリート製のビルを刺し殺そうとしているようだった。

見ず知らずのオレを助けようとしてくるということはきっと彼女は良い人なのだろう。


胡乱な考えが頭を巡り、いよいよ血生臭い熱を持った吐息が顔に吹きかかろうとしたとき、オレの体はまたしても金縛りのように動かなくなった。


しかし、さっきまでと違うのは、身体に電流が走ったかのように腕がひとりでに動き出すと、胸の蒼いペンダントを、あのスターマンのつるりとした体表で輝くシグナルスターを掴み取り、天高くそれを掲げていたのだった。


そしてオレは思わず叫んでしまった。


「変身っ!」

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