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握潰されるに至った経緯はもう忘れてしまった。でもその前後のことは多少覚えていて、確か僕はキリストみたいに磔にされた状態にあり、のちに握り潰されるであろうことを知っていたから必死に暴れて逃れようとしていた。僕の夢ではそんなふうに身動きの取れない状態にいるときが多いのでよけい恐怖を煽った。
僕が覚えているのはその程度で、あとはひたすら恐怖心と握り潰されたときの不快な感じだけだ。いや、そういえば、まさに握り潰されようとする瞬間、僕は顔を自分の右肩の方に背けた気がする。たぶん目も瞑っていた。しかしなぜか僕の覚えている映像は、そんな自分を上空から俯瞰しているところなのだが、まあそれはいいとして、僕はそんな状態で大事なところを潰されてしまったのだ。
あの恐怖は本当にすごかった。僕は全然それが夢だなんて思わなかったから現実とほぼ変わらない。実際に棒に磔にされて、ばかでかいペンチが目の前に出てきたら同じ恐怖を感じるだろう。でもよく分からないのは潰されたあとの不快な感じで、今思い返してみてもやっぱりあれは痛みではなかった。遠いけれどあえて例えるなら、足や手が痺れて感覚がなくなった感じだが、こう言葉にするともっと遠くなった気がする。
ただ不思議なことに、潰されたあとは本当に股間がなくなった感じがした。痺れともやはりちょっと違う、僕の股間は僕の身体からなくなってしまったという確かな手ごたえとでも言えばいいのか、とにかくすごく確信めいたものだった。それにそんな股間がなくなった手ごたえを感じている自分の股間を手でスッとして、ああ本当に股間がなくなったんだなと思った記憶もある。でもこれはどう考えてもおかしくて、僕は磔にされているから自分の股間を手で触るのは不可能なはずだ。なのでたぶん先に言った自分を俯瞰している自分の方が触ったのだろう。
しかしそのあとすぐに目を覚ましているので、おそらく股間を潰された瞬間には僕は少し覚醒していたんじゃないかと思う。そんなことをされたら、たとえ痛みがなかったとしても普通は激しく取り乱し、この先一生棒なし玉なしで過ごすのかという絶望みたいなものを感じるはずだが、そういった現実的な感想は全然持たず、ただひたすら恐怖心と、なくなってしまったという身体的な違和感があるだけだった。きっとそのときすでに、自覚はなかったがそれが夢じゃないと薄々感じていたのかもしれない。
それとも人は夢を見ているとき、元々未来というものを意識できないのだろうか。僕は夢について全然知識を持ち合わせていないが、僕の夢を振り返ると問題になっているのは今ばかりで、未来のことは全然意識してなかった気もする。過去も意識していなかったかもしれない。ちゃんと覚えていないので信憑性はないが。
「そうやって股間の消失を確認したときに、おれは目を覚ましたんだよ」
僕は欄干にもたれかかって鯉の動きを目で追っているルナと山川に言った。
「もおー、タケルったら」
「それで、お前にまだチンコ付いてんだよな?」
「やだぁ、山川さん」
「当たり前だろ。ていうか、夢の話しを始めたのはルナだからな」
「あれ、そうだっけ?」
「ていうか、ビビり過ぎじゃね?」
「いやお前なら、間違いなく恐怖でちびってたぞ」
「んなわけねーだろ。なあルナちゃん?」
「あ、あそこにカモがいる!」
すると近くにいたとも子さんが「あれはオナガガモですよ」とすかさず教えてくれた。とも子さんはもう何回も井の頭恩賜公園の散策ツアーをやっているので、公園のことはほぼ知り尽くしていた。僕や山川が適当に何か聞いてもまず答えが返って来るし、一聞いたら十返って来るので本当に井の頭公園のことがよく分かったのだが、とも子さんは「いつもしゃべり過ぎちゃうんです」と言ってそれを気にしていた。
でも僕はそれが嫌だなんて全然思わないし、山川なんて「もっと教えてくださいよ、とも子さん」と馴れ馴れしく言うくらいだからそれは本心だろう。それにしても、山川は初対面の人にもこんなにグイグイ行けるやつだったのか。僕は坂本さんと出会ってから大きく変わったが、山川も何か変化のきっかけがあったのかもしれない。
僕が一方的にしゃべっていただけだが夢の話しはここで中断されてしまって、二人は相変わらず双眼鏡を覗いたりとも子さんの説明を聞いたりしていた。そんな中で、僕は湖面を見ながらまだ夢のことをくどくど考えていると、不意に面白いことが頭に浮かんで来た。おそらく多くの人はどんな夢を見るかは実際に夢を見てみるまで分からないと思うのだが、中には自分の見たい夢を自由に見られる強者もいるかもしれない。
僕の勝手な想像だけれど、そんな強者たちは何かしらの方法で自分の内面に働きかけて、その内面を上手くコントロールして特定の状態にすることによって、自分の見たい夢をみているんじゃないかと思う。つまり身体の内側から夢をコントロールする方法と言えるのだが、内側からコントロールできるのなら、逆に外側から夢をコントロールする方法もあっていいような気がした。そう考えたとき、僕の頭にまず浮かんで来たのは、神谷教授やルナのウトウトしながら話しが聞けるという能力だ。
僕が誰かの話しを聞いているときにウトウトして夢うつつになってしまった場合、その話しの内容が夢に反映されるなんてことは今まで経験したことはないけれど、あの二人はそんな場合でも、実は耳から聞いた音を夢の中でそのまま再現し、その再現された音を夢の中で聞いて話しの内容を理解していたのではないか。外側からの聴覚的な刺激が見る夢を決定していく、というプロセスも起こりうるんじゃないか、そんなふうに考えているとカモの親子が目の前の湖面を通り過ぎていった。