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その話しのあとにみんなでワイワイしていると、いつしか話題はルナがカクンしていたことに移っていて、坂本さんが「君には居眠りの霊は憑いてないんだけどね」と言ったりして大いに盛り上がった。そのとき僕が「昨日夜更かしでもしたの?」と聞いてみると、ルナはテヘヘと笑いながら「十時には寝たんですけど」と言った。
ルナは確か前の日は出勤日で、大抵は午後0時から午後九時まで営業しているので、午後十時に寝るのは逆になかなか難しそうなのだけれど、僕はそんなルナの話しを聞いていて、ルナの摩訶不思議なパワーを支えているのはその睡眠だと思わずにはいられなかった。でも意外なことに、聞くとルナは坂本さんの話しをよく覚えていて、実は話しをまともに聞いていなかったのは僕だけだということが判明したのだが、もしかするとルナの睡眠はもっと特殊なものなのかもしれない。
ルナと比べるのはどうかと思うが、僕が大学院時代に所属していた研究室の神谷教授もウトウトしながら話しの聞ける人だった。神谷教授は学長も兼務していたから忙しく、週一で開かれる研究報告会くらいにしか顔を出せなかったので、そこで学生から小一時間中身のあるようなないような話しを聞かされるのは辛かっただろうと思うのだが、僕の見る限り神谷教授は毎回一度は必ずウトウトしていた。
僕が報告者だったときも中盤辺りで神谷教授はもうウトウトしていて、その報告会はある意味で神谷教授に聞いてもらうための会なので、僕はちょっと緩急を付けたり大きめの声で話したりして起こそうとしたけれど無駄な努力だった。それで結局全て話し終わるまで神谷教授はウトウトを続けたのだが、いざ神谷教授からコメントをもらおうとしたとき、いつもの鋭い指摘がパッと出て来たので僕は正直怯んでしまった。しかもその指摘は報告の主要部分、つまり中盤以降の話しをよく理解しないとできそうにない指摘だったので、神谷教授はウトウト中に僕の話しを聞いて理解したのだろう。
ルナの方は誰が見ても話しを聞いてないだろうと思わせるカクンで、勢い余ったら机に顔面を打ち付けるやつだ。でも神谷教授のウトウトはゆっくり頭が前方に倒れていき、ある角度になったらそこでしばらくユラユラするやつなので、ちょっと分かりにくいがよく見ればまあ分かる。それに僕は話しをしてはいたが常に前から神谷教授の顔に気を配り、しかも神谷教授に話し掛けるように話していたので、まずウトウト具合いは見逃さなかった。
ウトウトしてる人の顔は例外なく、誰だって普通の人なら見ただけでだいたい分かるに決まっている。だからルナと神谷教授は程度の差はあるが、話しを聞いているときはやはりちゃんと起きている状態ではなかったと思う。僕が想像するに、二人は頭で思ったことが突然現実味を帯びてしまうような、あの現実と夢のどっちつかずな状態の中にいたのだろう。
ルナは子供のころからよく寝ていたというので、そんな状態で話しを理解しようとする機会は他の人より圧倒的に多かったはずで、それが本人の自覚にかかわらず積み重なり、ルナにその能力をもたらしたのかもしれない。神谷教授もそんな訓練を重ねて能力を獲得したと思うのだが、たぶんルナよりもっと意識的であったに違いない。そもそも神谷教授が学生時代、授業中にウトウトしていたなんて考えられないし、たとえあったとしてもごく稀で、限りなくゼロに近かったはずだ。
でも科学者になってキャリアを積み上げ、教授と学長を兼務するまでになったころには、忙しさに加えて年齢的な老いも感じでしまって、神谷教授の身体が強く睡眠を欲するようになったのだろうと思う。学長というプレッシャーも影響したかもしれない。しかしそうはいっても、教授および学長として人の話しはちゃんと聞かないといけないので、絶対に聞き洩らせないが眠いという、つまり意思と本能の戦いを緊張感の中で長きにわたって続け、神谷教授のことだから創造的な解決をということで、その能力にたどり着いたのかもしれない。
寝るのと聞くの(つまり起きるの)を同時にするというのは何とも面白い能力だけれど、たぶん寝るのと起きるのを交互に繰り返したわけではなく、やっぱり二人はそれらを同時にしていると思う。だいいち坂本さんの話しや僕が神谷教授にした話しは論理的に積み上げたらそこそこの分量になって、それを夢うつつの状態で、つまり断続的に聞くだけで全てを理解できるのか。
もちろん聞く内容だって初めてのはずだから、神谷教授でもちゃんと起きているときならまだしも、夢うつつでは難しいんじゃないかと思う。神谷教授で難しいならルナにはもっと難しいはずだ。まあひょっとしたらルナの場合は、あとであっちの世界のお師匠さんにこっそり内容を聞いているのかもしれないけれど、もしそうなら本当に羨ましい、というかズルい。ミチルはカンニング的なことは僕に一切してくれないのだ。
僕は時間を無駄にしてしまったことを反省しつつ、といってもお店選びで時間を無駄にしたことではなく、お客さんの時間を無駄にしてしまったことを反省しつつアパートに帰った。「ミラクル★フォーチュン」を出る時間は最終までいるのでいつも二十三時過ぎで、普通に帰ればその日のうちに着けるのだけれど、そのころにはアパートの住民たちはもうほとんど帰っているだろうし、なかには寝ている人もいるから静かに部屋へ入らないといけない。
でも静かにといっても音を立てないようにするだけでは駄目で、大事なのは振動を抑えることだ。振動とはもちろん階段を上ったり共有廊下を歩くときにアパートに与える振動で、残念ながらそのアパートはたとえそれがちょっとの振動であっても、揺れているのが住人に分かるほど揺れてしまう。




