Re:tribution
Ⅰ
――1855年、七月。
優秀な探偵が優秀な探偵助手になれないように、優秀な探偵助手が優秀な語り手であるとは限らない。
二つの事象は二項対立の関係であって(僕が難しい言葉を使うと、レイヴンさんはいつだって『ちゃんと意味をわかっていますか?』と確認してくる)きちんと両立させるには、もう一人、誰か別の僕を増やさなくてはいけない。
つまり僕の書いた報告書が「読みづらい、分かりにくい、冷静さに欠ける」との評価を頂いたとしても、僕が優秀な探偵助手である事には変わりないのだ。
しかし一度だけ、本当に一度だけ、その助手の座が危ぶまれたことがある。
あの日は、ロンドンにしては珍しくもない、街中が黄色く霞んだ初夏の日だった。
いつものように窓枠に積もった黄色い塵を布で清めた僕は、一階のキッチンを改造したメールボックス兼受付に座って、山のように届いた手紙を読みながらお茶を飲んでいた。
毎日のように届く手紙の五割は寄付金の依頼で(ロンドンで名前が売れているという証拠だ)、三割は夜会やクラブへの招致(聞いた事のない怪しげなものも混じっている)、残り二割がお金絡みの家族に対する愚痴、という名の依頼書だった。
僕の雇い主はロンドンでかなり名の知られた探偵だ。
あの忌まわしい「ヒギンズ邸殺人未遂事件」や「アイボリー・ロード事件」を今のロンドンで知らない人はいないだろうし、頭の回る人ならば事件を解決した『思慮深い鴉の瞳を持つ男』の正体がロンドンの外れで探偵業を営んでいるレイヴン・オールドネストのことだとすぐに思い至ることだろう。
大して取柄のない僕が、そのような凄い人と知り合い、更には彼の元で秘書として働くようになった経緯については割愛させてもらう。なにせ、とても長い話になりそうなので。
とにかく彼の探偵と生活をしてみて分かったことがある。彼は偉大にして天才なる人がそうなってしまうように、エリコの壁より堅い他者排斥感をもっていて、外面さの良さに大抵の人は騙されてしまうけれど、実際はかなりの偏屈屋なのだ。
自分の受けたい事件しか受けないものだから、依頼希望の手紙は読まれないままテーブルに積まれる。最悪、薪やメモ代わりにされてしまう。
そして、依頼はあるのに事務所の中は閑古鳥という不思議な現状が生まれてしまった。
それでも、不思議と金銭に対して困ったところを見たことがないので、実は仕事をしなくても良いくらいの資産家なのかもしれない。
昨晩はオペラを観に行ったついでに毒殺未遂事件に巻き込まれたようだから、まだ二階で寝ているだろう。何か用事があるなら執事の鈴と呼ばれるベルが鳴る。声が聞こえる喇叭筒のようなものもあるけれど、今まで使われたことがない。今日もまた、静かで優雅なブランチタイムだ。
そうやって毎日の業務である午前の紅茶と他家の内情調査を楽しんでいると、『玄関ホール』というプレートがかけられた鈴が鳴った。
てっきり僕は、人の好い郵便配達人のロバートがまた手紙を渡し忘れたのだろうと思った。
彼はいつだって次の配達先を気にしていたし、ここから四件隣の、デイジー・ランバルト嬢への想いを隠しきれてもいなかった。
微笑ましい若者の恋愛を見守る年長者としての余裕で、僕は彼の配達ミスをとがめることはしなかった。ランバルト嬢の方も、若くて健康的な若者からの好意にまんざらでもない旨を僕に伝えて来たので、もしこの恋愛が実ったのなら二人は僕に一杯くらい奢ってくれてもいいかもしれない。
なにせ彼らにとって僕は、いつでも暇を持て余して話を聞いてくれる奇特な人間なのだから。
しかしドアを開けた僕が目にしたのは、見慣れたロバートのそばかす顔ではなく、藍色の大きなボンネット帽子姿だった。
「突然のご訪問、失礼いたします。けれど、私、どうしてもレイヴン様にお会いしなければいけないと思って参りました」
顔の良い探偵の魅力に参ってしまった愛らしいお嬢さんが事務所に来るのはよくある話だが、彼女は違っていた。
天使かと思った。
神秘的な二重の青い瞳。ミルクのように白い顔。まだあどけなさを残した頬を彩る金の巻き毛。
美しい顔立ちの人に、少しは慣れたつもりだったが、まだまだ修行が足りないらしい。
「はっ、はっ、はい! こここ、こちらの椅子におかけになってお待ちください!」
硬直がとけた僕は玄関のコートハンガー横にある椅子をすすめ、すぐさま二階へと駆け上がった。
寝室のドアをノックしても返事がないことは分かっているので、ずかずかと中に入り込み窓にかかったカーテンを全開にした。
「レイヴンさん、玄関に舞台女優もかくやという白い肌の美人がァ!」
「……は?」
対する返事は一言だけ。探偵はまだベッドの住人だった。部屋着を肩にかけたまま、のそりと起き上がる姿はまさに冬眠あけのクマ。明らかに寝不足ですといった顔で此方を向くと、ゴキゴキと首を鳴らした。
「……分かりました。少しだけ、お待たせしてしまうと伝えなさい。可能ならば用件も聞いておきなさい」
「かしこまりました。珍しくすんなり起きるなんて、やっぱり美人の一言が効いたんでしょうかね。僕が不始末を起こす前にアズスーンアズポッシボーでおいでください」
「……あ?」
「失礼しました」
モーニングコールのたびに、明確な殺意を向けられるのは何故だろうか。少なくとも雇い主の眼が開いていることは確認できたので、そのままさっさと扉を閉めた。三日前、うっかりと語り続けたせいで扉に火かき棒が生えた事件を、僕は忘れていない。
おぉ、扉よ。我が命綱。頼もしき味方にして、不動の四方盾よ。今後も我の脳天と眼鏡を守り給え。
Ⅱ
客間だった部屋は改装して、いまは待合室として使っている。彼女を通して紅茶を出した。模様のついた真っ赤な壁紙は苦手だけど、無造作に置かれた調度品の豪華さとの対比を考えれば、これぐらい派手な方が均整がとれているようにも感じた。
「お待たせしました。こちらへどうぞ、えーと」
「アバンリーです。ローラ・アバンリー」
「アバンリーって、占い師の?」
思わず聞き返してしまった僕に、ソファに座りかけた彼女はうっすらと神秘的に笑った。美人が「美人ですね」と言われた時と同じような反応だった。あまりにも当たり前すぎて「それが?」といわんばかりの表情。
「私のことをご存じなのですね」
「新聞でお名前を見ない日はありませんから」
新聞と言った瞬間、彼女が俯いた。重ねた手が僅かに震えている。何か、彼女にとって悪い事を言ってしまったのだろうと思った僕は慌てて話を変えた。
「ところで本日のご用件は?」
「はい。本日お伺いしたのは不躾ながらレイヴン様に御注進したきことがあり、参りましたの」
小柄な彼女がソファに座るとドールハウスに置かれた人形のように見えた。齢の頃は二十ぐらいだろうが、浮世離れした神秘的な雰囲気が彼女の歳を分からなくさせている。
「お願いというと、何か事件ですか?」
「いいえ、事件ではありません。ただ」
「ただ?」
「実は、私の占いにレイヴン様と思わしき方のお名前が出たのです」
「と、言いますと?」
「こちらの探偵事務所に不吉な影が出ていると」
淡いレース地に包まれた指を擦り合わせながら目を伏せ、長い睫毛と横顔が窓の光に浮かび上がった。
「ありがとうございますご褒美です」
「はい?」
「いいえ、何でもありません。それで、その、不吉な影……、というのは、具体的にはどういったものなのでしょうか。他殺? 放火? それとも原因不明の病死?」
咳払いで誤魔化す。うっかり本音がこぼれてしまった場合、気合と押しで会話の波を乗り切ることを学んでいた。
「そ、そこまで具体的な部分は見えません。ただとても不吉なものが、レイヴン様の近くで見えるのです」
「ほうほう、ほっほう?」
山鳩? という疑問の声が聞こえたが、それどころではない。
巷で有名な美人女性占い師が殺人予告をひっさげて探偵レイヴンの元を訪れる。
「つまり、誰か死ぬ、と」
「あまりにも、はっきり仰いますのね」
ローラさんは苦笑した。
「それは、そういう性格なのです。ご不快に思わないでくださいね」
いつの間にか、待合室にレイヴンさんがいた。にこやかな声をあげ、肩まで届く結んだブロンドを揺らす。アイロンのきいたシャツと磨いた革靴。ツイードのジャケットは品の良いグリーンだ。美人の前でレイヴンは気を抜かない。彼は静かに進み出ると手を差し出した。
「初めまして。レイヴンと申します」
「はじめてお目にかかります、ローラ・アバンリーです」
彼女は花がほころぶような笑顔で立ち上がった。一瞬だけ、見惚れたような間があった。
「お噂通りの方ですね」
「その噂とやらが良い物であると願っておきましょう。さぁ、おかけください。お話を伺いましょう」
噂通りというのは、顔がいい点だろうか。天然たらしという点だろうか。
どちらにせよ、彼女が言いたいことは分かる。
視界にうつる画像が眩しいと言いたいのだろう。
けれども今日は依頼人まで眩しいのだから、この中で一番目が潰れそうなのは僕だ。
話し合いをするだけで、絵になるってどういうことだ。目が潰れてもいい。網膜に焼き付けたい、この光景。
「……、聞いていますか?」
「申し訳ありません。まったく、聞いておりませんでした」
「私にもお茶を。それと砂糖とミルクを持って来て下さい」
「かしこまりました」
僕に対して慇懃無礼な態度を取る時は、あとでめちゃくちゃ怒られる時だ。でも仕方ないと思う。ディスイズ不可抗力。
きこきこ鳴る台車を押して台所から戻ると、季節が一変していた。否、二人の間で流れる空気が明らかに違っている。こちらをじっと伺うローラさんから敵意を感じ、思わず緊張してしまう。凄く、睫毛、ながい。
「ところでショウ。貴方の鞭はどこに置いてありますか」
御者用の鞭なら玄関の壁に丸めてかけてある。最初は屋根裏の自室に持ち込んでいたのだけれど、「止めなさい」の一言で目立つ玄関ホールにかけることになったのだ。なお、僕が馬車を操ることはない。御者台に乗る事すら駄目だと厳命されている。なおレイヴンさんは僕の雇い主であって、けっして保護者などではない。僕はすでに成人している。念の為。
「玄関にかけてあります」
「そういうことです、ミス・アバンリー。貴女は、廊下にいなかった。玄関の椅子に座っていれば、嫌でもあれは目に入る」
なになに。どういう話?
疑問符しかない僕と違って、ローラさんは無表情のまま、ぎゅっと腕を握っている。
「どうやら、うちにとっての不吉の影とは貴女のことらしい」
「私の言葉を信じて頂けないのは、残念ですわ」
「脅迫の間違いでは?」
僕が紅茶のお代わりを淹れている間に何があったというのだろう。
ただいま冷戦会談真っただ中。相対するのは見目麗しきお二人。笑っていますけれど、ここ極寒ツンドラ地帯もかくやという痛みを伴う空気。
ここで「へい! お待ちィ!」とお茶を出して良いものなのだろうか。それとも空気読みまくって、何事もなかったようにお茶を出すべきか。
「これ以上は時間の無駄ですね。失礼いたします」
結局、出されたお茶に手をつけることなく、ローラさんが立ち上がった。待合室から立ち去ろうとしたところでレイヴンが声をかける。
「そうだ。ミス・アバンリー。私からも貴女にひとつ占いをいたしましょう」
むっとした表情でローラさんが振り返った。
「貴女、早く雇い主と縁を切りなさい。でないと死にますよ」
ローラさんは何もいわなかった。ただ身体を硬直させただけだったが、それは言葉よりも雄弁に彼女の戸惑いを物語っていた。
そこにいるのは先程までいた凛とした女性ではない。視線をさまよわせ、今にも不安に押しつぶされそうな一人の少女だ。
「ご自分でも薄々とお分かりなのでは? 詳しくお話しても良いですが、まずはお座り下さい。ミス・アバンリー。温かいコーヒーでもいれましょう」
魔法にかけられたように、ローラさんはふらふらと部屋の中心まで戻ると、椅子に腰をかけた。
ところでそのコーヒーを淹れるのは僕の仕事でしょうか。できれば今度こそ、最初から最後まで話を伺いたいものです。
Ⅲ
コーヒーを淹れて戻ると、幸いなことに、まだ話は進んでいなかった。
レイヴンは悠々と足を組んで彼女を観察しているし、ショックから立ち直った様子のないローラさんはレイヴンの前でうつむいている。
「最初に、貴女のことから始めましょう。ミス・アバンリー。貴女が世間で言うところの霊能力、というものを持っていないのを私は知っています。貴女には類まれな観察力がある。それを利用されましたね?」
「はい……」
思ったよりも呆気なく、ローラ・アバンリーは自らの出自と占いをいんちきだと認めた。
いや、彼女の生い立ちを聞いてしまえば、いんちきと言ってしまうのは酷だ。
彼女は絶えず、人の顔色を伺いながら生きてきた。
貧困院や救貧院は自国の弱者を救うのに精いっぱいで、流れ込んできたアイルランド移民、具体的に言ってしまえばアバンリー夫妻を救わなかった。孤児となったローラのような子は暴力や鞭で押さえつけられ、消費される労働力として生きるしかない。
「私が生き延びたのは、単に他人の顔色を伺うのが上手かったからです。相手が何をして欲しいのか。何を言って欲しいのか。何を求めているのか。要求を満たせば殴られることは少ないですから」
「貴女は占い師などではなく、私のような探偵になるべきでしたね」
「出来ることなら」
そう言って、彼女は少しだけ笑った。虐待されていた人は、大きくなってもその心の傷が完全に癒えることはない。そして彼女は成長し、染色工場で働くことになった。彼女の特技を知った仲間の一人が、冗談半分で彼女のことを占い師だと呼び始めたのだ。
初めは渾名のようなものだったのだが、噂に尾ひれや背びれがつき、遂に本気の客まで現れた。そして、彼女は成功しすぎてしまった。
「折を見て断りたかったのですが、周囲が喜んでくれるので辞め時を見失ってしまいました。その内、新聞が好き勝手に書くようになって……」
「しかし、良いお金になったでしょう?」
「否定はしません。前よりも良い暮らしができるようになったのは事実ですから。そんな中、一人の紳士が現れて言ったのです。この騒ぎを鎮めてやると。代わりに協力を求められました。貴方の信用を失墜させる手伝いであるとすぐに分かりました」
「具体的に、彼は、貴女に何を求めたのですか?」
「こちらの探偵社に近々不幸が起こるという暗示を広める事。そして手紙を一通、他の郵便の中に紛れ込ませることです」
「かわいそうに。それだけではないでしょう?」
案じるような声色に、ローラさんは観念したように肩を落とした。
「砂糖の中に、ヒ素を混ぜろと」
「え、ヒ素?」
まさかの殺人指示だ。ぎょっとした僕の顔色を見て、ローラさんは慌てて続けた。
「ヒ素といっても弱いものです。警告のつもりで、入れるつもりだと聞きました。ヒ素には独特の、強い匂いがありますから。例え、入れた量を全て飲んでも死ぬことはないでしょう。毎日少しずつ体調を悪くするくらいだろうと思って、引き受けました」
「引き受けちゃったの!?」
危うく一流の探偵では無い三流の秘書が謎の体調不良を起こすところだった。実にデンジャラスだ。
「ヒ素の入手は簡単でした。私の職場には、そういった薬品が沢山置いてありますから、そこから少しくすねるだけ。秘書さんがレイヴンさんを呼んでいる間に、キッチンへと向かいました。一軒家の間取りなんて、どこも似たようなものです。幸い、手紙を紛れ込ませることは簡単にできましたが、砂糖がどこにあるか分かりませんでした。ですから、手紙の近くにあった茶筒の中に入れておいたのです」
「外から歩いてきたにも関わらずお茶を飲まなかったのは、そういう訳でしたか。ところでその洋服や靴は一体どうされたのですか。自分で買ったのですか?」
「いいえ、全て貰い物です。ドレス、化粧品、靴、宝飾品、すべて」
「その、レースの手袋もですか」
「はい」
「先ほどからしきりに気にしていましたね」
「お恥ずかしながら、つけ慣れないものでして」
「買ったばかりのレースは肌触りが悪い。普通は水に濡らして馴染ませますが、貴女の手袋にはそうやった気配がなかった。考えたのは、母親からレースの使い方を教わらなかったということ。または、教えてくれるような存在が身近にいなかったということ。その件についてはもう、ご自分で話してくれましたね。私の思ったもう一つの疑問は、なぜレースを普段使いしない方がそうまでして、レースの手袋をしているのかということです。しかも汗をかきはじめるこの夏場に。お洒落の為かと思いましたが、もしや、最近、手に痣ができませんでしたか? それと、震え」
「はい。しかし、なぜ、それを?」
「貴女自身が、既にヒ素中毒だからです」
残念そうにレイヴンが言った。
「ヒ素中毒ですか? 彼女は紅茶を飲まなかったのに」
「順番が違います。紅茶を飲むどころか、彼女はここに来る前からヒ素中毒なのですよ。お仕事は染色でしたね。簡単に手に入ったと仰いましたが、色を抽出し固定するのは毒性が強いものなのです。そして彼女の使う白粉。そこにも強いヒ素が含まれています。ヒ素は皮膚に直接触れているだけで吸収されますからね。震えが出るということは、かなり体内にため込んだ状態になるでしょう。と、いうことは紺色に染められたそこのドレスにもヒ素が含まれているかもしれません。このままでは近日中に『有名な占い師、謎の変死を遂げる』と書かれた新聞が出回るでしょう。ですから私は近々死ぬかもしれない、と申し上げたのです」
白粉のせいではなく、ローラさんの顔が青くなった。
「ショウ、今日の午前に届いた手紙は何通ありましたか?」
「二十四通です」
「ここにあるのは?」
「二十五通ですね」
「増えている差出人は?」
「『トリビュート社』です」
「では、それを開封して下さい」
「分かりました!」
「大丈夫、なんですか?」
「しっ」
レイヴンは、なぜか鋭く彼女の言葉を遮った。
何という事もない白い手紙。どこにでもある封筒と、どこにでもある紙。
トリビュート社からの手紙にはたった一言だけ。
『次はお前だ』と書かれていた。
「特徴のある文字ですね。ふむ、紙についたのは何の匂いでしょうか……」
「ちょっと待ってください!? こちらの脅迫者さんの中では誰かがサラッと故人または犠牲者みたいな扱いにされているんですけれどこれってレイヴンさん宛てなんですかそれとも僕宛てなんですか!? ねぇ、犯行計画どういう感じだったんですかこれ!?」
「誰宛てかはさておき、こう毎晩毎晩同じような手口で仕掛けられるのは頭にきますね」
「え、毎晩ってどういう事……」
「あの、恐らく秘書さんに何かしら事が起こってから、この脅迫状をレイヴン様が読むという計画だったのではないかと思います。秘書さんが午前中、お茶を飲みながら手紙をキッチンで読んで暇をもてあましている話はご近所で有名ですから」
「しまった。もう少し放っておくべきでしたか……」
向こうで隠れて悔しそうなレイヴンさんはさておき、何故だか一瞬、突然現れた美人に何でも喋ってしまうお喋りのポストマンの顔が思い浮かんだ。ロバート、まさか君……。
「説明ありがとう、ローラさん。お宅で取り扱ってるヒ素って本当に毒性低いの!? 転職をすさまじくオススメするよ僕ァ!」
それからしばらくして、レイヴンさんは、いつものように、ふらっと出かけたまま帰ってこなくなった。
ローラさんをそのまま家に帰すのも心配だったので、彼女には臨時の、住み込みの探偵事務員二号になってもらった。
年頃の女性の洋服をどう用意するかでひと悶着あったけれど、友達のシスターが色々持って来てくれたので僕は一人で女性服や下着を買いに行かずに済んだ。
シスターのお蔭で色んな名誉が守られたので、今度彼女にはお菓子の差し入れをしようと思う。というか、誓約させられた。誓いを破った場合、僕の命はない。例え地球の反対側に逃げたとしても、それは絶対だ。
しばらくして、ロンドンから少し離れたブレントウッドの倉庫街が火事で燃えたという話を新聞で読んだ。どうやらローラさんの勤め先が所有していた倉庫らしい。
ほどなくして、テムズ河沿いの染物工場でも大きな爆発があった。そちらはしっかり、ローラさんの勤め先だった。相当な規模の爆発だったらしく、停泊していた小型船舶も一緒に吹き飛んだそうだ。
煉瓦造りの工場は木っ端みじん。倉庫の中身もそりゃあもう綺麗に燃えつきていた。不思議なことに、両方とも怪我人はでなかったそうだ。もしかしなくても、どこかの探偵さんの仕業なのだろう。
彼と爆発炎上の間には切っても切れない深いご縁があるからだ。おのれ、近くで見たかった。
どちらともレジナルド・メイフェア氏所有のものだったことから、危険物の取扱がなかったかどうか、警察はレジナルド氏に話を聞いているらしい。恐らく余罪がぽろぽろ出てくるに違いない。今から楽しみだ。
戻ってきたレイヴンに「何をしたんですか」と訊ねたら「なにも」と返された。
「なにもしていませんよ?」
その時、滅多に見る事のない外面用笑顔だったので、僕はそれ以上、深入りすることを止めた。世の中には聞いてはいけないこともある。色々燃えた。それでいいのだ。
助手の仕事を手伝うようになったローラさんが、ものすごく仕事ができる女性だったのは言うまでもない。そもそも、人の心の機微を読み取って有名な占い師として売れたくらいだ。机の上の小さな紛争は、彼女のお陰で綺麗さっぱりと片付いてしまった。雇い主に至っては、もういっそ、ずっと彼女が助手がいいと真顔で冗談を言う始末。ははは。冗談だよね?
「いえ。私は、一度命を狙われたらその時点で辞めますので……」
と、このように先輩を立ててくれる美人で可愛くて出来る後輩の情けにより、無事、僕は首にならずにすんだ。
ちなみに、レイヴンが不在の間。僕だって何も仕事をしなかったわけじゃない。
お茶に投入されたヒ素を殺鼠剤として活用してみたり、にんにく料理を作り続けてローラさんをげっそりさせたりした。
別にヒ素にニンニク臭があるから嫌がらせをした、という訳ではなく、単にヒ素の排出にはニンニクを食べれば良いという知人のベンガル人から聞いた情報を参考にした結果である。効果があるかは分からないけれど、前より顔色が良くなったような気がしないでもない。つくづく、僕は知人に恵まれていると思う。
それから、ローラさんの次の職業も見つけてきた。これは褒められても良いと自負しているが、ダートフォードに住む会計士一家の乳母の仕事だ。ロンドンからは少し離れてしまうけれど、住み込みで、食事付きなら悪くない条件なんじゃないだろうか。何より、話をしてみた限り、彼らは犯罪や性悪とは縁の無い、ごく普通の良い人たちだった。
占い師のほとぼりが冷める頃にまたロンドンに戻って来ればいいだろうと別れ際に言えば、彼女は僕たちに感謝をしてくれた。荷物を抱えた彼女は淡い色のワンピースを着て、どこか晴れやかな顔をしていた。
三週間も経てば、当たる占い師の噂はぱったりと途絶えた。その代わり、僕たちのところには一通の手紙と写真が届いた。
珍しくレイヴンさんが読んだ手紙は、今も大切にファイルキャビネットの中にしまってある。