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9/17

血肉

ティアがわざわざ購入してきたハオフサットの街とその周辺の地図を、公園に設えられたテーブルに拡げた。


何気に正午を過ぎている。

アランやヘイム・デロ・ツオサートの私兵たちに構っている間に、随分と時間が過ぎ去ってしまった。


これまでに何度か追っ手の姿を見ているが、その都度撒いている。


見張りは視力のいいシーパルに任せ、ルーアは地図を睨み付けた。


捜していた場所はすぐ見付けた。

国立の施設だけあり、しっかりと明記してある。


『ビンス園』。アランやジョサイア・フォルジャーが狙い、ナーシィーの弟がいるという施設。


「……おかしいよな」


「ああ、おかしい」


同じく地図を見ているテラントと言い合う。


まず、アランたちがおかしい。

『ビンス園』を襲撃するという意味がわからない。

が、それはまだいいだろう。


アランたちに、なにか複雑な事情があるのかもしれない。


『ビンス園』にとてつもない秘密が隠されている可能性も、なくはない。


おかしいのは、ダネットだった。


頭に血が昇りやすそうな外見はしている。

だが、それだけの男ではないだろう。


以前ルーアたちが関わった事件では、力を貸してくれた。


冷静に思考する姿を見せてくれたものだ。


直情的なだけの男に、何年も戦場を渡り歩くことができるとは思えない。


戦場は、そして傭兵という職業は、そんなに甘いものではないだろう。


なぜ、即座に『ビンス園』に向かった。


ナーシィーの弟がいるという。

焦るのはわかる。


だが、『ビンス園』にいる者を皆殺しなど、突拍子もない情報を聞かされて、すぐに動くものなのか。


同じことを考えているのか、腑に落ちないという表情でテラントが地図を畳む。


「……まあ取り敢えず、デリフィスたちを追うか。ルーア、馬、乗れるよな?」


「裸馬じゃなければ、多分大丈夫」


正直に言えば、少しだけ不安があった。


ただ駆けさせるだけなら問題ないが、テラントに付いていかなければならないのである。


テラントの乗馬の腕前が、ルーア以下ということはないだろう。


だが、徒歩で移動するにはいささか遠い。


シーパルの話では、デリフィスたちは馬を使っているようだ。

もう到着している頃だろう。


ルーアたちも馬を使わなくては、合流はかなり先のことになる。


「俺とルーアが、先に行く。シーパル、お前たちは……」


「馬車でも借りますよ。あと、できれば情報収集も」


魔法を使い移動するのは、魔力の消耗が激しい。


シーパルやユファレートは、馬を激しく駆けさせるなどできないだろう。


それでは、テラントに付いていけない。


「じゃあ、あたしは、ルーアたちと一緒に行くね」


ティアが、自分の顔を指す。


「……お前、馬乗れんのかよ?」


「大丈夫。任せて」


「……」


自信がありそうだが、それが余計に不安を煽る。


「なんで表情を曇らせるのよ!? テラントも!」


「いやぁ……」


「だってなぁ……」


できれば、別行動をして欲しい。


自信たっぷりな時ほど危険なのだ、この女は。

それは、いつも作る料理で実証されている。


「あたしも行くからね。なんか、凄く嫌な予感がするのよ」


だったら、尚更付いてくるなと言いたい。


「……まあ、いいか。じゃあ、お前もこっちな」


ルーアは、説得するのを早々に諦めた。


どうせ無駄である。

付いてくるなと言っても、付いてくるに決まっている。


それに、嫌な予感というのは漠然としているが、案外馬鹿にできないものなのだ。


「じゃあ、そっちは頼むな、シーパル」


「はい」


襲撃を警戒しながら、情報の収集や馬車捜しをしてもらうことになる。


その上で、眼を離したら迷子になりそうなユファレートの面倒を見なくてはならない。


大変そうだが、まあ頑張ってくれるだろう。


「俺たちは、まずは馬だな」


「すぐ見付かるさ。ここは、『騎馬の国』ザッファーだからな」


テラントは、どこか生き生きとしているようだった。


馬を駆けさせるのは、久し振りだからかもしれない。


元軍人の血が騒ぐ、といった感じなのだろうか。


「……なんかルーア、元気ないね?」


「んー……べつに」


顔を覗き込もうとするティアに、一応否定の形で返すが。


行っても無駄足に終わるのではないかという懸念がある。


そして、馬を借りるには金がいる。

地味に懐を直撃するのだ。


長時間馬を走らせれば、翌日、背中や腰、尻が痛くなる。


(まあ、いいけどさ)


ティアもテラントも、やる気を見せている。


ルーアだけが鬱々としていても、仕方ないだろう。


気を晴らすために、意味もなくルーアはかぶりを振った。


◇◆◇◆◇◆◇◆


『ビンス園』に到着した。

ダネットの眼には、なにか特別なものがある所には見えない。


白い四角形の建物がいくつか並び、それが渡り廊下で結ばれている。


建物の周りには、多くの草花が植えられていた。


ここで生活しているのは、体のどこかを不自由にしている者たちである。


彼らを慰めるための花なのかもしれない。


『ビンス園』の敷地外にはいくつか家があり、小さな村のようになっていた。


従業員が暮らしているのかもしれない、アパートらしき建物もある。

雑貨屋などもあるようだ。


よく整備された道もあった。

それは、平原の途中途中で途切れながらも王都へと続く。


生活に必要な物資などを、運搬するための道だろう。


国営の施設である。

街の中やその近くに建てればいいものをと思ったが、なにか事情があるのかもしれない。


単純に、土地がなかっただけの可能性もある。


ザッファー王国では多くの貴族が領土権を持ち、少しでも拡大しようと年がら年中争いが起きている。


政府が自由に扱える土地の形は年々歪になり、地図は複雑になっていく。


王都周辺の地は、有力な貴族たちに押さえられているはずだ。


街から遠く離れた国営の施設、『ビンス園』。

その全景を、改めて観察する。


ダネットの感想は変わらなかった。

特別なものは、なにもない。


情報が正しければ、ここはアランたちに襲撃される。


門番に短槍を渡し、ナーシィーは建物へと入っていった。


剣を手放したくないのか、デリフィスは敷地の外で周囲に眼をやっている。


建物の外を見回っている守衛を捕まえ、馬を預けるためにダネットは馬小屋に案内してもらった。


世間話を仕掛けてみるが、守衛におかしな反応はない。


ナーシィーに五分ほど遅れ、ダネットも『ビンス園』の建物の中に入った。


デリフィスがいれば、外の見張りは充分だろう。


建物内部の様子も知っておきたかった。


受付があり、その前にはいくつか長椅子が並んでいる。


建てられて長い年月が過ぎているのか、壁に少し黄ばんでいる箇所がある。

小さなひびも入っているようだ。


それでも、よく清掃されている方だろう。


壁や床、隅に置かれている水瓶を見ればそれはわかる。


病院のロビーを思わせるような造りだった。


閑散としている。

長椅子に座り受付を待っている者の一人もいない。


街から離れているため、施設で生活している者の家族も、そう簡単には訪れられないのだろう。


受付にいるのは、おそらく七十を過ぎている小柄な老婆だった。


受付嬢といえば若い女だろと思ったが、今は昼食時である。


食事を採らせるため、老婆が受付を変わったのかもしれない。


単に職員に若い女がいないだけの可能性もあるが、どうでもいい。


ダネットが受付に近付くと、老婆は顔を上げた。


皺に埋もれそうな細い眼を見開く。


「……ああ、あんたが来るのは何年ぶりかね……ええと……ホルツマンさん」


やや耄碌した様子の老婆に、ダネットは苦笑した。


父親であるネイト・ホルツマンが、自分とよく似ていることは知っている。


二十年後の自分を見ているような気分で、亡き母に渡された父の顔写真を眺めたものだ。


酒好きで、女好きな男だった。

ネイト・ホルツマンを捜すために行き付けだったという酒場を回ったが、女の従業員の大半が、口説かれたことがあると言っていた。


「……俺は、ネイト・ホルツマンじゃ……」


苦笑を消せないまま否定する。


あんたまさか、親父に口説かれたことないだろうな、などと思いながら。


老婆は、もごもご口を動かしている。


言葉を発しているつもりかもしれないし、意味のない動作であるのかもしれない。


はっと気付いて、ダネットは身を乗り出した。


「婆さん、ネイト・ホルツマンは、ここに来たことがあるのか?」


もしかしたらそれは、襲撃の下準備のためかもしれない。


老婆が、何度か頷く。


「自分の子供だろ。もっと頻繁に会ってやらないと」


早口になってしまったか、耳が遠くなっているのか、老婆にはちゃんと伝わらなかったようだ。


会話にずれが生じている。

苛立ちを、なんとか抑える。


「……あ? 子供?」


「ナーシィー君なら、先に行ったよ。あんたも、さっさと行ってあげな」


「……婆さん、あんた、なに言って……」


自分の表情が歪んでいくのがわかる。


老婆はまだなにかを言っていたが、ダネットは手を振ってこれ以上の会話を拒絶した。


額を押さえ、よろめくように後退する。


躓いて転びそうになった。

踵が、長椅子の脚に当たったのだ。


そのまま座り込みそうになったが、ダネットは我慢した。


できるだけ老婆と距離を取れるよう、受付から離れた所にある長椅子の端に座る。


本当に耄碌しているのかもしれない、老婆はダネットのことを忘れたように、受付でぼんやりしている。


あの老婆は、なんと言った。


(……子供にもっと会ってやれ……? ナーシィーは先に行った……?)


その言い方ではまるで。

ナーシィーの弟が、ネイト・ホルツマンの息子であるように聞こえる。


(……じゃあ、ナーシィー……あいつは……ネイト・ホルツマンの子供?)


ネイト・ホルツマンとナーシィーは、親子だというのか。


有り得ない。

ナーシィーの少し垂れた眼や、おとなしそうな顔付きを思い浮かべる。


ネイト・ホルツマンの顔は、よく覚えていた。

薄めの髪も、大きな鼻も。


直接会ったことがなくても、豪快そうな性格が窺えるような、男臭い顔付き。


ナーシィーと似ているところなど、まったくない。

二人が親子であるはずがない。


ダネットは、ネイト・ホルツマンとよく似ていた。


顔付きも体付きも、頭髪が薄いのも、すべて父親譲りである。


母は、小柄な女だった。

ダネットと似ているのは、酒好きというところだけだった。


外見上、ダネットと似ているところはない。


親子といっても、似ているとは限らない。


ナーシィーはどうなのか。

ダネットの逆ではないのか。


つまり、母親の血を色濃く継いだため、父親であるネイト・ホルツマンに似ている部分がない。


(……ふざけんな……それじゃあ……)


顔を覆う手に力を込める。

指先や爪が肌に喰い込み、痛覚を刺激する。


(あいつは……俺の……腹違いの弟?)


父親似の兄、母親似の弟。

まったく似ていない兄弟。


(……そんな偶然、あって堪るかよ)


ネイト・ホルツマンが、母以外の女にも、あちこちで手を出していたことは知っている。


その女たちの誰かが、ネイト・ホルツマンの子供を産んでいてもおかしくない。


以前ダネットは、ナーシィーが未納している税金を、代わりに払ったことがあった。


余りに簡単に手続きが終わったことを、不思議に思ったものだが。


もしかしたら、役所には記録が残っていたのではないか。


ダネットの父親が、ネイト・ホルツマンであること。


ナーシィーの父親が、ネイト・ホルツマンであること。


ダネットとナーシィーが、異母兄弟であること。


身内の者が代理として納税の手続きを行いにきたと、役人たちは思ったのではないだろうか。

だから、すぐに終わった。


父親であるらしいネイト・ホルツマンに、ダネットはなにかを求めるつもりはなかった。


息子だと名乗り出ると、向こうも困るだろう。


母が死に、一人になった。

べつにそれでいい、としか思わなかった。


一人でいることを、寂しいとも楽しいとも思わなかった。


孤独だという意識さえなかっただろう。


だが、弟がいたのかもしれない。

喜ぶべきなのだろうか。よくわからない。


呻く。

自分の中にある、なんとも表現し難い感情を持て余し、ダネットは頭を抱えた。


◇◆◇◆◇◆◇◆


この辺りは、何度か来たことがある。


デリフィスがそれを思い出したのは、馬を駆けさせる最中だった。


北は、リーザイ王国である。

あの国との戦争に参加した時、何度か通ったのだ。


草原の中の村や集落を、いくつか記憶している。


当時は『ビンス園』という施設の存在など、知りもしなかったが。


『ビンス園』のすぐ北に、ちょっとした丘がある。


草原が続くのは、そこまでだった。

その先には断崖絶壁があり、一本の橋だけが通行を可能にしている。


断崖絶壁の先は、峡谷である。

リーザイ軍を迎え撃つ地は、主にそこだった。


それ以上の侵攻を許せば、ザッファー王国は危機に陥る。


王都ハオフサットまで、草原が拡がっているだけであり、進軍は容易い。


ザッファー王国は死力を尽くし王都防衛に努めることになり、戦争は激しくなるだろう。


今のところ、まだそこまでの事態にはなったことはない。


ザッファー王国とリーザイ王国の間で起きる戦争は、小規模なものだった。


ザッファーは南のラグマ王国の侵攻を警戒し、リーザイは北と北東から圧力を受けている。


どちらにも、大兵力を投入するだけの余裕がなかったのだ。


現在両国は、停戦状態にある。

もし今でもリーザイ王国との戦争が続いていたら、リーザイ人であるルーアと旅をすることも、なかったかもしれない。


そんなことを思いながら、デリフィスはしばらく『ビンス園』の周囲を見張った。


襲撃の予兆などない。

やはり、偽情報だったのか。


デリフィスは、少し安心していた。

戦闘を恐れはしないが、一般人を守りながらの戦いは、どうしても窮屈なものになる。

なにも起きないのも、退屈だが。


『ビンス園』の方へ眼をやった。


今頃ナーシィーは、弟に会っているのだろうか。


(……?)


おかしなものを見付け、デリフィスは眼を細めた。


ダネットが、頭を抱えているのが窓越しに見えたのだ。


頭部の位置からして、椅子かなにかに腰掛けているだろう。


危険な感じはしないが、只事ではない雰囲気はあった。


辺り一帯を見渡してみる。

地平まで続くような草原には、人影一つない。


『ビンス園』の周囲にある家々から、敵意ある視線を感じるということもない。


少なくとも今は、近くに敵はいないだろう。


そう判断して、デリフィスは『ビンス園』の門を守る者に剣を押し付けた。


デリフィスの剣を受け取った門番は、その重さによろめいている。


外にいるつもりだったが、ダネットの様子がおかしい。


玄関まで、足下を気にしながら進んだ。


『ビンス園』では、体のどこかを不自由している人々が生活しているらしい。


彼らに対する考慮か、余計な段差など一切ない。


建物の中へと入る。

通気を考えてか、窓が多い。

出入りが容易い建造物だということだ。


守りに向いた建物ではない、そんなことを考えながら、ダネットの元へ向かう。


長椅子に腰掛けたダネットに声を掛けたが、反応はなかった。


聞こえていないはずはないが、頭まで届いていないという感じだった。


二度、三度と名前を呼ぶと、ようやくダネットは顔を上げた。


青い顔色をしている。

眼は、どこか虚ろだった。

普段のダネットからすれば、まったくの別人である。


「……デリフィスか」


「……なにがあった?」


「……いや、なにも」


明らかになにか隠している。

なにかがあったのだ。

ダネットからダネットらしさを奪う、なにかが。


無理矢理にでも聞き出すべきだろうか。


危機感のようなものは伝わってこない。


聞かずとも、必要があれば自分から語り出すだろう。


「……ナーシィーの様子を見てきてもらえるか?」


ダネットに言われた。


一人になりたいのだろう。

デリフィスのことを、追い払おうとしている。


「ナーシィーは、弟の所か?」


「……多分な」


「名前は?」


「……さあな」


気力をどこかに置き忘れたような返答の仕方である。


わずかに逡巡するが、デリフィスは放っておくことにした。


どう接するべきか、わからない。

時間を置けば、勝手に立ち直るような気もする。


第一自分には、誰かを気遣うような芸当はできない。


受付に行き、ナーシィーの弟の名を聞く。

受付にいるのは、老婆だった。


あっさり教えてもらえた。

来訪者に対し、無警戒過ぎるように思える。


裏返せば、ここは安全だという意識が老婆にあるということかもしれない。


『ビンス園』に襲撃を受ける理由などない、という証明であるような気がした。


やはり、ダネットは偽情報を掴まされたのではないか。


外を眺めるが、変わった動きはない。


取り敢えず、デリフィスはナーシィーを捜すことにした。


昼食を採ることを考えてもいい時間だ。


酒の肴ではないが、ナーシィーに話をさせてもいい。


ダネットと共に戦場に行ったことがあるはずだ。


戦場でダネットにどういうことを言われてきたかは、少し興味がある。


腹が膨らめば、ダネットも普段の状態に戻るかもしれない。


老婆から教えられた道順を思い出しながら、塗装された床を踏んでいく。


すぐにナーシィーの元まで行けるだろう。


ハーマシア。それがナーシィーの弟の名前だった。


◇◆◇◆◇◆◇◆


ハーマシアがいる部屋の前まで来て、デリフィスは唖然とした。


開け放たれた扉から、中の様子が窺える。


クレヨンで描かれたのだろうか、意味を為さない目茶苦茶な落書きが、壁にも床にもある。


部屋の隅には、でたらめに積み木が重ねられていた。


カーテンは切り裂かれていた。

窓枠はあるが、ガラスはない。

外とは鉄柵で遮られている。


ナーシィーがいた。

抱えている幼児に、手を噛み付かれている。


腕にも頬にも、引っ掻き傷ができていた。


幼児がハーマシアなのだろう。

唸り声を上げながらナーシィーの手に歯を突き立て、離そうとしない。


デリフィスに気付いたナーシィーが、寂しそうに笑った。


ハーマシアの口を無理矢理開かせ、手の自由を取り戻す。

弟を置いて、部屋を出てきた。


ハーマシアは奇声を上げながら、床を転がり回っている。


通りすがりの職員らしき中年の女が、ナーシィーと入れ替わりに部屋へと入る。


赤ん坊をあやすような声で、ハーマシアに語りかけていた。


「……いいのか?」


ナーシィーに聞く。

街からこれだけ離れていては、弟と会える機会は限られてくるはずだ。


「いいんです。どうせあいつ、俺が兄ちゃんだってこともわかってないし」


腕の引っ掻き傷を撫でながら、ナーシィーが答える。


「……そうなのか?」


「生まれつき眼が見えないんです。耳も聞こえない。ずっと真っ暗で、音がない所にいる。なにかを教えることもできない」


「……」


「でも、用意された食事を自分で食べることはできるようになったみたいです。手掴みですけど」


「……そうか」


「プロの人たちって凄いですよね。俺には無理なのに、ここの人たちはちゃんと、ハーマシアの面倒を見てくれる」


「君も、たいしたものだ」


正直な感想を、デリフィスは言った。


ナーシィーは、自分のことを兄だともわからない弟のために、金を稼いでいるのだ。


「俺が君の立場なら、なにもかも投げ出して、逃げ出すかもしれない。弟のためにそこまで懸命になれるか、疑問だな」


剣は預けてきた。

慣れ親しんだ重みがない背中を少し気にしながら、デリフィスは自分の台詞を反芻した。


「……もしかしたら、皮肉のように聞こえたか? そんなつもりはないが」


「……たまに、自分でも馬鹿らしくなる時があるんです。なんでこんなに頑張らなきゃいけないんだろう、って。ハーマシアは、俺のこと兄ちゃんなんて思ってなくて。多分、一生わからないままで。それなのに、あいつのために怖い思いをして戦争に行かなきゃいけないのか、お金を稼がないといけないのか、って」


「そうか」


ハーマシアの喚き声が響く。


「……なぜ、ダネットを選んだ?」


気を遣うということは余りないが、さすがに話題を変えようかという気分になった。


「……え?」


「確かに、あいつは傭兵として、なかなか優秀だ。だが、人を育てるということについては、どうかな。ダネットよりましな奴が、いたはずだ」


ナーシィーが俯く。


デリフィスは、軽く手を振った。


「言いたくなければ、べつに言わなくていい」


「……あの人、少し父さんに似ているんです」


「……そうか」


ダネットとナーシィーが並んでいるところを、思い浮かべる。


おそらくナーシィーは、勘違いしているのだろう。


外見上、二人に共通している点はまったくと言っていいほど無い。


ナーシィーの父親については知らないが、華奢な少年から想像するに、優男なのではないだろうか。


ダネットとは正反対である。


詮索はしないが、ナーシィーは記憶がはっきり残らないくらい幼い頃に、父親を失ったのではないだろうか。


父親、つまり大人の男は、とてつもなく大きく見えたはずだ。


それで、大きな体をしているダネットに、父親の面影を見てしまった。


「……それにあの人、前に言ってくれたんです」


「なにを?」


「『兄貴は、弟を守らないとな』って」


「……」


「なんか、よくわからないんだけど、それが凄い嬉しかったんです。弟のために頑張っているのは、間違っていないって言われているような気がしました」


頬を赤らめ、照れたように笑う。


ダネットのことだ、深く考えての発言ではないだろう。


それでもナーシィーは、ダネットになついている。


乱暴に扱われても、信頼しているように見える。


ナーシィーに付き纏われて、ダネットが得をすることはないだろう。


それでもダネットは、なんだかんだ言いながらも、ナーシィーのことを気に掛けている。


人の繋がりとは、そういうものなのかもしれない。


ハーマシアの面倒を見ていた職員が寄ってきた。


「ナーシィー君。ごめんだけど、君がいることで、ハーマシア君怯えているみたいなの」


「……わかりました」


「……怯える?」


聞くと、ナーシィーはまた、寂しそうに笑った。


「眼と耳が利かない分、あいつ、鼻が良いんです。匂いで人を判別するみたいで。普段側にいない俺たちがいることで、警戒しているんです」


「そうか」


「行きましょう、デリフィスさん。お腹が減りました」


「ああ」


ナーシィーの、少し後ろを歩く。


デリフィスに、家族と呼べる者はいない。


母は死に、父は誰かもわかっていない。


もし守るべき家族がいたら、この少年のように、デリフィスも自分を犠牲にしたのだろうか。


やはり、疑問だった。


小さな雨粒が、わずかに窓を濡らしている。


遠くの空を眺めると、雲の切れ間から日が差しているのが見えた。

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