彼方からの反乱
この地はザッファー王国から離れ過ぎているため、造り出した自分自身に、余り大きな力は与えられない。
標的を殺すだけなら、必要なかった。
彼は、戦闘を得手とはしていないのだから。
山の湿った地面を踏み締める。
ホルン王国北部では、しばらく雨が降ることはないはずだ。
夜の山道は暗い。
月や星が出てはいるが、木の枝や葉に遮られ、足下までまともに光は届かない。
もっとも、闇を苦にしない眼にするくらいはできるため、不便はない。
ロウズの村のほぼ全景を見下ろせた。
村の中央に『ヒロンの霊薬』を製造するための工場があり、その建物だけが明るい。
(ロウズの村、そして……)
見上げる丘の先に、屋根だけが確認できる。
オースター孤児院。
彼にとっては、家になるはずだ。
こんな夜更けにそこを離れるということは、クロイツの来訪を予知しているのか。
彼は、無力な家族を巻き込むことを恐れているのだろう。
幹の太い木の袂に、彼はいた。
歩み寄るクロイツを、覇気のない眼差しで見上げる。
「やあ、クロイツさん」
「君は、リーザイの地下百三十階で、エスの正体を見たな、ロンロ・オースター」
挨拶は省き、ロンロ・オースターにクロイツは聞いた。
「そして君は、以前エスの力に触れた。理解したのだな。その力は返却したはずだが……」
「ええ」
「今もまだ、我々と同様の力を扱うか。独自にそこまで辿り着くとは、たいしたものだと思う。だが、代償は大きかったな」
ロンロ・オースターは、車椅子に座っていた。
「凡人である君の脳には、負担が大き過ぎる。早くも歩けなくなったかね? 力を手放すことを勧めるよ。廃人になる前にね」
「なんの。まだまだ立っていられますよ。頑張れば、歩くこともできる。楽だから、道具に頼っているだけです」
「なるほど」
「クロイツさん」
ロンロ・オースターが、穏やかに笑う。
「俺は、車椅子ですよ」
台詞と同時に、青年と木の背後に拡がっていた茂みから、なにかが飛び出してくる。
車椅子。つまり、ここまで押してきた者がいる、と言いたかったのだろう。
そう考えた時には、懐に飛び込まれていた。
見覚えがある。化粧っ気のない顔、肩の辺りまで伸ばした茶色の髪、引き締まった体、鉄塊を思わせるような拳。
(……リンダ・オースター)
オースター孤児院の主、そしてロンロ・オースターの母親である女が、そこにいた。
鍛え上げられた鋼にも劣らない拳が、クロイツの脇腹に触れる。
途端に、衝撃がクロイツの体に走った。
肋骨が砕けていく。内臓が潰れていく。
激痛に、クロイツは後退った。
(……痛み?)
痛覚は本体となる自分に置いてきたはずだ。
希薄な存在でしかないこの仮初めの体に、なぜ痛みが走る。
疑問がもう一つ。
リンダ・オースターは、完璧に気配を断っていた。
クロイツの背後を取れたはずだ。
なぜ、もっとも不意討ちを防がれやすく、また、もっとも反撃されやすい正面から掛かってきたか。
息子を守れる位置だからだろうか。
それとも、背後を取る必要がなかったからか。
鋭い痛みを、クロイツは背中から感じた。
リンダ・オースターではない、ロンロ・オースターでもない、別の誰かが背後にいる。
何者かに、背中を斬り裂かれた。
瞬間移動の魔法を発動させ、敵対者たちを視界の中に収められる場所まで転移する。
リンダ・オースター、ロンロ・オースター、そして、剣を持った青年。
リンダ・オースターも青年も、追撃を仕掛けてはこなかった。
三人と向かい合い、クロイツがまずしたことは、自身に干渉している力を断ち切ることだった。
「……君のことを、少々侮っていた」
ロンロ・オースターだ。この未熟な若者が、クロイツの分身のようなこの肉体に干渉し、痛覚がある状態に書き換えていた。
「本体のあなたには、とても手出しできないですけど」
ロンロ・オースターは、車椅子に腰掛け身動ぎ一つしない。
まるで、ここは絶対に安全な場所だと、語るかのように。
リンダ・オースターの背後。確かに、危害を加えるのは難しい。
本来のクロイツならばともかく、この肉体では『鉄の女』に敵わない可能性が高い。
クロイツは、新たに現れた青年に眼をやった。
「まさか、リンダ・オースターの弟子になっているとは思わなかったよ」
青年のことを、クロイツは覚えていた。
こうして顔を合わせるのは、二度目になる。
青年も、クロイツのことを覚えているだろう。
強力な能力者だったマーシャという少女を、『コミュニティ』から守り続けている青年。
テイルータ・オズド。
それが、青年の名前だった。
『火の村』アズスライで『百人部隊』隊長のウェイン・ローシュに殺されかけたが、なんとか一命だけはとりとめた。
その後、マーシャを伴い東へ流れていったという報告は受けていた。
「ドニック王国へ向かったと思っていたがね。テイルータ・オースターになっているとは予想外だ」
「名字を変えたつもりも、弟子になったつもりもねえよ」
「そうだ。そんな乱暴者、兄だとは認めないぞ。だが、マーシャは俺の妹だ。それについては、どこからも異論はない」
「ロンロ、余計なことを言うくらいなら、黙ってな」
後ろ足で土を蹴り、背後の息子を黙らせるリンダ・オースター。
「……マーシャも、オースター孤児院にいるのかね?」
テイルータ・オズドが、闇の中で眼を光らせる。
「それを聞くってことは、もうあのガキには興味がないってことか?」
「……そうだな。彼女が元のような能力者に戻ることは、二度とないだろうからな」
隠しても意味がない。
どのみち、このテイルータ・オズドが警戒を解くことはないだろうし、『コミュニティ』に対する敵愾心が消えることもないだろう。
鋭く睨み付けてくるテイルータ・オズドを、クロイツは観察した。
体から離れている現在の状態では解析までできないが、テイルータ・オズドが持つ剣も着ている衣服も、なんらかの魔法道具であるようだ。
魔法道具で、身を固めている。
それは、リンダ・オースターも同様だった。
テイルータ・オズドは、魔法道具など所持していなかったはずだ。
リンダ・オースターから借りているのだろう。
では、リンダ・オースターは誰から提供されているか。
決まっている。
「そうか。君たちの所持する魔法道具。それは、ドラウ・パーターの遺産だな?」
ドラウ・パーターの遺産は、孫であるユファレート・パーターが受け継いだはずだ。
ただ、ドラウ・パーターの死後、ユファレート・パーターは帰国したことがない。
現在、ドラウ・パーターの遺産を実質的に管理しているのは、ドニック政府である。
魔法道具は、使い方次第で危険な兵器にもなる。
ドニックの王であるピサロスとしては、放置できないだろう。
ドラウ・パーターは生前、ピサロスに仕える宮廷魔術師でもあった。
その遺産を政府が管理していても、魔術師組合などから非難されることはない。
「ピサロス様が、あたしのことを知ってくださってて助かったよ。お陰で、堂々と物色できた」
「それは、ドラウ・パーターとストラーム・レイルの盟友リンダ・オースターから頼まれたら、断れないだろうな」
「ユファレートちゃんには事後報告になっちゃうけど、まあ許してくれるだろうさ。あの子は、世界の現状を知っている」
リンダ・オースターが、声と姿勢を低くする。
飛び掛かってはこない。
今のクロイツを破壊することの無意味さを、わかっている。
このままクロイツが退散することを、願っているだろう。
リンダ・オースターと並んで構えるテイルータ・オズドに眼を移す。
厄介な存在になるかもしれない。
人を破壊する技術、殺す技術を身に付けた青年だ。
そして、それらを使うことに躊躇いがない。
ドラウ・パーターの遺産で身を固めている。
これでリンダ・オースターの技を受け継いだら、どこまで手強くなるか。
この師弟は、『コミュニティ』にとって危険である。
「……約束が違うな、ロンロ・オースター。オースター孤児院は、『コミュニティ』に降伏したはずだ」
「確かに」
ロンロ・オースターが頷く。
生白い肌が、月の光に照らされている。
「ネイト・ホルツマン。ネイト・ホルツマンが接触した、ジョサイア・フォルジャー。ジョサイア・フォルジャーの仲間である、アラン。『コミュニティ』を裏切った者たちだ。我々『コミュニティ』に所属する者たちは、彼らの認識ができなくなった。君の仕業だな? 私はそれを、『コミュニティ』に対する攻撃と見なした」
「それは、大いなる誤解です」
ロンロ・オースターが、車椅子の上で器用に肩を竦める。
「ネイト・ホルツマンさん。彼ね、なんでか俺のことを知ってました」
「彼には、組織に所属していた時、『フォルダーの住人』について調査させていた」
『フォルダーの住人』。エスの子供と言ってもいい者たちである。
所属しているのは、大半が女だった。
『ネクタス家』に嫁ぐ者を選別する機関なので、当然ではあるが。
ネイト・ホルツマンには、『フォルダーの住人』たちのことを極秘に調査させていた。
エスに不必要と判断され、『フォルダーの住人』から追放された者たちと接触させたのである。
ネイト・ホルツマンは、女好きとして『コミュニティ』の中でも有名だった。
他の者からすれば、女の尻を追いかけ回しているように見えただろう。
レジィナという女がライア・ネクタスの子を産んだ今、隠す必要のないことだった。
「おそらく、その過程で彼は、君の存在を知った。エスの力を盗み出し追放された、ロンロという者の存在をね」
「なるほどー」
わざとらしく、何度も頷く。
「彼ね、何度も何度も俺のことを呼ぶんです。それで、つい接触しちゃったんですけど」
「……ふむ」
「その時に、俺の力を盗んでくれたんですよ」
「……そんなことが可能だとは、思えないね」
「でも、絶対に不可能だとは言い切れないでしょう?」
「……つまり君は、こう言いたい訳だ。全てはネイト・ホルツマンの仕業であり、オースター孤児院は『コミュニティ』に逆らうつもりはない。全ての責任は、ネイト・ホルツマンにある、と」
「そういうことです」
詭弁だろう。
だが、追及しても無駄に思えた。
現在、ホルン王国北部にオースター孤児院を叩けるだけの戦力は置いていない。
そして、ここは遠い。
ライア・ネクタスやストラーム・レイルの力になりたくても、なにもできないだろう。
「リンダ・オースター」
「……なんだい?」
「君はそれでいいのかね?」
「……ロンロは、あんたと約束した。約束は守るよ」
「君ほどの者が、『コミュニティ』に膝を屈したままで良いと?」
「約束は約束だからね。けどあたしは、ロンロが約束したのはあんたであって、『コミュニティ』ではないと思っている」
「と言うと?」
「あんたがこの世界からいなくなった後は、遠慮しない」
クロイツは、思わず笑っていた。
自分が世界からいなくなった後のことなど、考えたこともなかった。
世界からいなくなっているのだから、当然『コミュニティ』からも去っている。
クロイツ不在の『コミュニティ』とは戦うと、『鉄の女』は言ったのだ。
どうでも良かった。
自分がいなくなった後の話なのである。
「そうか。君は、戦う意志を捨てていないか。さすがは、ストラーム・レイルが最も信頼する者の一人だ」
「……」
「ストラーム・レイル」
その名前を、クロイツは繰り返し口にした。
リンダ・オースターにとって、特別になる名前。
「ストラーム・レイルは、戦い続けた。その目的は、『システム』の呪縛から『ネクタス家の者』を解き放つことにあるのだろう」
テイルータ・オズドが横に回り込もうとしているが、クロイツは無視した。
ロンロ・オースターの力による影響は、すでに無い。
この肉体を破壊されても、如何なる痛痒も感じない。
「ライア・ネクタスは、二十歳で死ぬはずだった。だが、死ななかった。彼は現在、二十五だ。彼は、救われた。『システム』の呪縛から逃れられた。ストラーム・レイルの願いは叶ったのだ。英雄の、長く辛い戦いの日々は、報われた」
リンダ・オースターが、前傾姿勢になる。
奥歯を噛んでいるのが窺えた。
「一見するとね」
微笑み、見つめる。憐れみを込めて。
運命に抗う者を。
リンダ・オースターの背後に見える、ストラーム・レイルを。
「ルーアは、十八歳だ。九月には、十九歳になる。……その一年後は、二十歳だ」
「……だから、なんだって言うんだい?」
「ストラーム・レイルの願いは、歪んだ形で叶えられた」
それは、リンダ・オースターの自制を崩す決定的な一言。
痛烈な打撃を喰らわせてくれたリンダ・オースターに返す、強烈な皮肉。
「結局、彼は報われない。彼の長く辛い戦いは、無駄に終わる」
地が揺れるのを感じた。リンダ・オースターの踏み出し。飛び掛かってくる。鉄の拳。
だが、届きはしない。
リンダ・オースターの耳の中に、哄笑と皮肉を残すことに成功した。
それに満足しつつ、殴り殺される前に、クロイツは長距離転移を発動させた。
◇◆◇◆◇◆◇◆
テイルータとマーシャがリンダ・オースターと出会ったのは、三ヶ月ほど前のことだった。
ドニック王国を目指していたが、『コミュニティ』の刺客から逃げ回るうちに、武器と食料を失った。
山中で力尽き、獣の餌になりそうになったところを、リンダ・オースターに助けられたのだ。
そして、行き倒れる寸前だったテイルータとマーシャは、ロウズの村にあるオースター孤児院に連れていかれた。
それからずっと、この中年女とその子供たちとの生活が続いている。
マーシャは、マーシャ・オースターになった。
人見知りなところがあるのか、最初は戸惑っていたようだが、徐々に打ち解けていった。
同年代の子供が何人もいることが、大きかったのだろう。
家族と友人を得たマーシャは、今では素直に新しい生活を楽しんでいる。
笑顔を見ることが多くなった。心からの笑顔だ。
だから、オースター孤児院の者たちと家族になれたのは、マーシャにとって良いことなのだろう。
マーシャが知らなかった『楽しい』と『嬉しい』が、オースター孤児院とこの村にはある。
ある理由により、オースター孤児院は『コミュニティ』からの攻撃を受けない。
だから、マーシャはオースター孤児院で生きていけばいい。
髪を伸ばすことも、少女らしい格好をすることもできる。
オースター孤児院こそ、マーシャの居場所だった。
だが、自分はどうなのか。
暗殺者として鍛えられ、実際に何人も手に掛けてきたテイルータ・オズドという男に、余りにも不釣り合いな場所ではないのか。
恨んでいる者は大勢いるだろう。
いつか、自分の存在が孤児院や村に災いをもたらすのではないか。
テイルータの迷いなどお構い無しに、オースター孤児院の子供たちは纏わりついてくる。
怒鳴ったり蹴ったりしても、近くをうろちょろする。
何度も鬱陶しいと思った。
腹が立ったこともある。
体力が回復するまでの辛抱だ、と我慢した。
三ヶ月が過ぎた。
明日こそは。あと一日だけ。
そんなことを考えているうちに、百日近くが経過したのである。
なぜか、離れることに苦労している。
家族とはなんなのか。考えさせられた。
テイルータは、父に捨てられた。
兄たちは、テイルータがいないものとしている。
オースター孤児院の者たちは、みなリンダ・オースターと血の繋がりはないらしい。
だが、紛れもなく家族だった。
「さて、帰ろうか」
リンダが、ロンロの座る車椅子を押す。
ロンロの呼吸がわずかに乱れていることに、テイルータは気付いた。
ロンロは、訳のわからない力を使う。
負担が大きい力だということだろう。
同じような力の持ち主として、クロイツという男のことをリンダには教えられた。
知らない者ではなかった。
マーシャと出会った日、テイルータはクロイツと遭遇している。
「……相変わらずだったな」
あの時は、腹や喉に刃物を突き立てた。
だが、クロイツは平然としていた。
「あんたの一発で、普通なら死ぬはずだ。けど、あいつは……」
「昔っからさ、あいつは。倒そうなんて考えない方がいい」
「ンなこと考えねえけどよ」
自分よりも強いかもしれない相手とは、戦いたくない。
得体の知れない化け物ともだ。
リンダやその友人たちは、得体の知れない化け物たちと戦い続けてきたらしい。
『コミュニティ』という輪郭のはっきりしない組織と、敵対し続けた。
テイルータが村を去れない理由の一つは、オースター孤児院の者たちに引き止められているからだった。
もしかしたらそれも、将来のことを見越してかもしれない。
『コミュニティ』との戦いに、テイルータを取り込もうとしていないか。
リンダには、組み手のようなことをさせられる。
テイルータに、『コミュニティ』をどうにかしようなどという考えなどなかった。
それは軍や警察が考えるべきことであり、個人でなんとかなる問題ではない。
テイルータの存在など、巨大な組織にとっては羽虫が飛んでいるようなものだ。
それでもテイルータは、リンダの相手をした。
実力を付けて損はないだろう。
いつか去る時まで、利用すればいい。
テイルータの魂胆など、リンダは見抜いているだろう。
他にも何人かは気付いているはずだ。
だが、なにも言ってこない。
唯一文句を言うのが、ロンロだった。
「……なんだ、お前も来るのかよ。家族でもなんでもないのに……痛っ!?」
リンダに頭を叩かれる。
「甘いんだよ、母さんもみんなも……」
「マーシャが寂しがるだろ」
リンダの台詞に、テイルータは舌打ちした。
ロンロはまだ、ぶつぶつ言っている。
「大体、オースター家じゃない奴なんかに、敷居を跨がせることなんか……」
「別に俺は、オースター姓になってもいいんだぜ?」
本音だった。
いくつもの偽名がある。
テイルータという名にもオズドという姓にも、こだわりはない。
兄たちなどは、テイルータが未だにオズド姓なのを不快に思っているはずだ。
だから、名前などどうでもいい。
むしろ、オースター姓を名乗る方が、オースター孤児院にいる間は都合が良いだろう。
目立たなくてすむ。
「マーシャが、嫌だってさ」
そう、リンダの言う通り、なぜかマーシャはテイルータがオースター姓になるのを嫌がる。
拒絶に近い反応をする。
そのためテイルータは、テイルータ・オズドのままだった。
「……なんだって、あのガキは……」
疑問を口に仕掛けて、テイルータはやめた。
どうでもいいことだ。
そして、どうでもいい理由なのだろう。
普通に考えて、テイルータのような暗殺者崩れと同姓に成りたい者などいない。
リンダが、溜め息をついた。
「あんたは、ほんっとバカだねえ」
「……あ?」
「そんなもん、マーシャが将来、マーシャ・オズドに成りたいからに決まってるでしょうが」
「ぶッ!?」
激しく吹き出した。
気管や鼻の奥に、痛みを感じるほどだ。
「クソババアァァ! てめっ! なに言って……うおぉっ!?」
仰け反ったテイルータの鼻先を、爪先が唸りを上げて通り抜けていく。
まともに当たれば首から上がなくなりそうな回し蹴りに、テイルータは尻餅を付いた。
「てめっ……!」
息が詰まる。
見下ろすリンダの視線。
「クソ……バ……なんだって……?」
いくつもの死線を潜り抜けてきた勘が告げる。
死ぬ。
「……な、なにも言ってねえよ……」
テイルータはなんとか口にした。
「……そうかい」
リンダの体から、殺気のようなものが抜けていく。
『クソ』呼ばわりされたことについては、どうでもいいらしい。
車椅子の上では、母親の怒りを背中で感じたか、ロンロが小刻みに震えていた。
◇◆◇◆◇◆◇◆
ゆっくりと指を曲げ、動きを確かめる。
体に戻ってからしばらくは、いつも感覚が鈍い。
寝起きの状態に近いかもしれない。
「リンダ・オースターにしてやられた、ってとこかしら?」
飾り気のない部屋は暗い。
ここは、ハオフサットにいくつかある『コミュニティ』のアジトの一つ。
持ち主のいない屋敷を、組織が政府から買い取りアジトにしたのである。
造りはしっかりしているが、調度品が不足している。
無人となった肉体の護衛をしていたソフィアに、クロイツは苦笑を向けた。
「と言うよりも、ロンロ・オースターに、かな」
「……あんな子に、あなたを出し抜けるほどの力があるとは思えないけど」
「侮っていたのは、認めるよ」
「それで?」
「それで、とは?」
「まさか、放っておくつもりかしら?」
ソフィアは、少々苛立っているようだ。
尖った視線を避ける心地で、クロイツは軽く部屋を歩き回った。
よろける。やはり、感覚が鈍くなっている。
「ロンロ・オースターの行為は、『コミュニティ』への攻撃。あなたは、そう感じたんでしょ?」
「確かにね。だが、思ったよりも手強い。これは、彼個人ではなく、オースター孤児院の印象だが。それに、今の状況はそこまで悪くない」
「……なぜ?」
「エスも、彼に妨害されているからさ」
ストラーム・レイルやライア・ネクタス、それにルーアたちだけでは、おそらく気付けない。
だから、悪い状況ではない。
「……なぜ、あの子はエスの邪魔までするのかしら? 中立だと……違うわね……どちらの味方でもないと、主張しているつもり?」
「それもあるだろうが、おそらくもっと、単純で幼稚な理由だよ」
「?」
「彼は、エスのことが嫌いなのさ」
幼い子供が、親に反抗しているようなものだった。
必死で背伸びし、自分を大きく見せようとしている幼稚さを感じさせる。
以前のロンロ・オースターにはなかった印象である。
心境の変化でもあったか。
エスを相手にしているからか。
「……エスの味方ではないのね?」
「現段階では。だから、焦る必要はない。我々に認識できない存在だとは言え、ネイト・ホルツマン、ジョサイア・フォルジャー、アランは、この国が捜してくれる。少なくとも、追い詰めてはくれる」
虚偽の情報を流した。
元『コミュニティ』の一味だったアランという者が、国王暗殺を企てていると。
頭から信じる者は少ないだろう。
最初は、半信半疑でいいのだ。
それでも噂の内容が内容だけに、警察は調査しない訳にはいかないだろう。
そして、調べるうちにネイト・ホルツマンやジョサイア・フォルジャーの名前が浮かび上がる。
噂に、信憑性が出る。
手筈は整っている。
あとは、情報戦を得意とする部下たちが上手くやってくれるはずだ
三人は、追い詰められていくだろう。
『コミュニティ』を裏切った者たちではあるが、必ずしも『コミュニティ』で始末する必要はない。
彼らの相手をするのは、この国の警察や軍である。
あるいは、六人の旅人たちがしゃしゃり出てくるかもしれないが、その辺りはどうでもいい。
潰すのは、誰でもいいのだ。
ネイト・ホルツマンは、『中身』を隠している。
見逃す訳にはいかない。
「一応、考えてはいるのね」
「考えているし、手ぶらで帰ったつもりはないよ。糸を見つけたよ。おそらく、ロンロ・オースターとネイト・ホルツマンを繋ぐ糸だ。解析さえ済めば、いつでも切断できる」
ネイト・ホルツマンは、隠すことも隠れることもできなくなる。
クロイツが、主導権を握れる。
「解析には、どれくらい掛かるの?」
「取り掛かってみなければ正確なことは言えないが、長くても二、三日だろう。……雨さえ降らなければね」
そういえば、今後の天気の確認を怠っていた。
自分にしては珍しいことだと、クロイツは思った。
ストラーム・レイルとライア・ネクタスの存在が、大き過ぎるからだろう。
彼らのことを意識するため、細かい確認などに遅れが出る。
今は、大丈夫なはずだ。
ザイアムが、向きになってストラーム・レイルと戦っている。
ストラーム・レイルは、ザイアムを倒すまでは身動きが取れないだろう。
そして、ザイアムを倒すのはストラーム・レイルを倒すのと同じくらい、難しい。
ライア・ネクタスに対しては、ソフィアがいる。
ソフィア以上に、ライア・ネクタスを押さえるに相応しい存在はない。
要するに、『ネクタス・システム』を起動させなければいいのだ。
ソフィアならば、簡単にそれができる。
予想外の不都合はあったが、大きな問題はない。
だからクロイツは、局面を決定付ける一手を打つための準備を、確実に進めればいい。
安心して、クロイツは今後の天気を確認した。
そして、絶望した。