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2/17

少年兵

母は死んだが、喪に服することなくダネットは仕事を始めた。


自分は浪費家だという自覚がある。

金は、いくらあってもいい。


近くで、領土争いがあった。

空白地を巡り、その近隣の領主と領主が対立している。


昔からザッファーでは、そういった領土争いが国中で頻発している。


片方の領主に、ダネットは傭兵として雇われた。


何人か、顔見知りがいた。

長年戦場で生き、そして死んでいないダネットは、傭兵仲間たちに一目置かれている存在だった。


二十人の小隊の隊長を任されることになった。


指示された主な任務は、偵察や奇襲、後方撹乱である。


軍に破棄された無人の小さな砦を、ダネットは拠点にした。


砦にある部屋で、一人地図を睨む。

この戦いは長引かない、とダネットは読んだ。

おそらく、勝てるだろう。


戦力差が、はっきりしているのだ。

敵軍に、優れた指揮官などもいない。


下の階が、騒がしくなった。

十人を偵察に出していたが、戻ってきたらしい。


敵軍の偵察隊と鉢合わせになり、斬り合いになったということだった。


二人を殺し、五人を捕虜にしていた。


こちらに、死者は出ていない。

軽傷の者が一人いるだけだ。


報告を受け、捕虜は傷の手当てをして地下牢に放り込んでおけ、とダネットは指示を出した。


気を取り直し、また地図を見ながら状況を整理する。


一度か二度両軍はぶつかり、その後争いは終息していくだろう。


偵察部隊、そして二十人という少人数では、大きな活躍は見込めない。


ならばここは、確実に生き残れるよう立ち回るか。


生きてさえいれば、後払い分の報酬も手に入る。


自分を隊長と仰ぐ十九人も死なせない。


それにより、少しはダネットに感謝するだろう。


戦うべき時には果敢に戦い、従う者をできるだけ死なせない。


そういうことを繰り返すうちに、ダネットの顔と名前は傭兵たちに売れていった。


今では、勝手に仕事が舞い込んでくることだってある。


今回は、堅実に生き残る戦い方でいい。


ダネットは、捕虜となった者たちを一人ずつ呼んだ。


尋問するが、特に新しい情報はない。


元々把握していた敵軍の位置を、再確認できたくらいか。


捕虜の最後の一人が連れてこられた。


子供である。

十二、三歳くらいに見える。


短い黒髪、少し垂れた目尻、曇った瞳、痩せた体。


路地裏などで暮らしていそうな雰囲気の少年だった。


貧困に喘ぐ者が、ザッファー王国には多い。


少年は、突然うずくまった。

足首を押さえている。


少年を引っ張ってきた者が、少し慌てる。


捻挫でもしているのか、と思ったのだろう。


演技だとダネットは見抜いていた。

手枷で隠すようにして、少年が靴底に触れていることにも気付いている。


少年が、跳ねるように立ち上がった。

ダネットに飛び掛かってくる。


冷静に、ダネットは少年の腕を掴んだ。

そのままねじ上げる。


少年の手には、靴底に仕込んであったのであろう小型のナイフがあった。


「身体検査くらいちゃんとしやがれ、馬鹿野郎」


怒鳴るが、少年を連れてきた傭兵は、にやにやするだけだった。


こんな少年にダネットが殺されるはずがない、とでも思っているのだろう。


ナイフを奪い取り、ダネットは部屋の隅に放り捨てた。


少年が、曇った瞳に精一杯の闘志のようなものを見せ、睨み付けてくる。


「……お前が、ここの隊長か?」


少年らしく、まだ声変わりもしていない。


「……だったら?」


少年が、首に噛み付こうとしてきた。


ダネットは、容赦なく少年の頬を張り飛ばした。

少年の体が床に落ち、転がる。


ダネットは、溜息をついた。


「……俺を殺して、それでどうする? 脱出なんぞできやしねえぞ。他の奴らに殺されるだけだ」


睨み上げてくる少年に、虫を払うように手を振る。


「連れていけ」


傭兵が、少年を立たせる。

少年は抗おうとしたが、大人の力に敵うものではない。


引き摺られながら部屋を出ていく。

廊下から、少年の喚きが聞こえてきた。


また部屋に一人となったダネットは、少年のナイフを拾い上げた。


手入れの仕方を知らないのか、刃がわずかに歪んでいる。


指の力だけで、ダネットは歪みを矯正した。


◇◆◇◆◇◆◇◆


数日が過ぎた。

本隊と本隊が激突し、敵軍が敗走したという連絡は入っている。


すでに敵側は、降伏準備を進めているという話もあった。


ダネットは、戦地ではあるが戦場から離れている砦を動かなかった。


結果はわかっている。

今更功名は上げられない。


少年は、一人だけ別の牢に移した。

他の捕虜と一緒にすると、いざこざを起こすのだ。


夜、一人で泣いていることがあるのを、ダネットは知っている。


捕虜たちから聞いたところによると、傭兵であるらしい。


敵側の領主が、降伏した。

それで、戦争は終わった。


上からの指示により、捕虜を解放した。

当然、あの少年もである。


ダネットは安堵していた。

今回も死ななかった。

そして、当面の生活費を得た。


勇敢に戦わなければならない時もあれば、慎重に構えなければならない時もある。


また間違えることなく済んだということだ。


部隊を解散し、ダネットは街に向かった。


金は、領主の遣いから受け取っている。

しばらくはゆっくりすればいい。


街の門が見えてきた所で、ダネットは立ち止まり振り返った。


「……いつまで付いてくる気だ、てめえは?」


あの少年が、砦からずっと付いてきていた。


「ダネット」


気安く名前を口にする。


「あんたは、ダネット」


「……で?」


「あんたの部下たちが、言ってた。あんたの言う通りにすれば、間違いないって。あんたは、凄い傭兵だって」


「……別に凄くねえよ」


精々中の上といったところだろう、とダネットは自分を分析していた。


なにしろ、デリフィスと共に戦ってきたのだ。


上には上がいるということを、思い知らされてきた。


「なあ、俺をあんたの……」


「ふざけんな」


少年の台詞を、ダネットは遮った。


戦場で子供の面倒を見るなど、御免だった。

傭兵稼業というのは、そんなに甘くない。


「ガキは家に帰って、母ちゃんにでも甘えてろ」


「……母さんは、死んだ」


「……父親は?」


「いない」


「……ちっ」


剃った頭を掻き、舌打ちする。


「他の仕事でいいだろ。なんで傭兵なんかする?」


「俺みたいな子供が、まともな仕事をさせてもらえるもんか」


「それでも、ガキ一匹が喰っていける仕事くらい、探せば他にあるだろ」


「……弟が、施設にいる。だから、金がいる」


「……」


ダネットは、苦々しく顔を歪めた。

苦労話を聞かされて涙を流すような人格者ではない。


「……お前は、少年兵の意味をわかってんのか?」


「わかってる」


他の国ではともかく、ザッファー王国では子供が戦争に駆り出されるのは珍しくもなんともない。


少年兵は、囮や殿軍に使われる。

罠があるとわかりきっている所に、突っ込まされたりする。

所謂、死に兵として扱われる。


当然といえば当然の扱いだった。

稀に例外はあるが、子供は大人より体が小さい。


力が弱く、武器の扱いが未熟である。


大人より、役に立たない。戦力にならない。


だから、捨て駒になるのは少年兵なのである。


「……わかってねえよ」


唸るような声が出た。


少年兵は、すぐ死ぬ。

だから、なによりも生き残るために工夫しなければならない。


「わかってねえから、俺に襲い掛かってきた」


刃物を遣っても、少年にダネットを殺せる可能性はなかった。


殺せたとしても、他の者に打ち殺されるだけだった。


「あの時お前は、おとなしく震えていれば良かった。生き残ることを考えるならな」


「……俺は、これまでに三回戦争に参加した。いつも生き残った。今回も……」


「そりゃ、運が良かっただけだ。運も実力のうち、なんて言うなよ? 運なんて当てにするな。一瞬後にはそっぽを向く」


「……」


「金が欲しいなら、貴族にでも飼われてろよ。けつが痛くなるかもしれんがな」


「そんなの、嫌だ!」


「……とにかく、俺に付いてくんな。ガキの相手なんかしてられるか」


なおも付いてこようとする少年を、ダネットは土を蹴り飛ばして威嚇した。


街に入り、撒くために早足で移動する。


行き付けの宿で部屋を取り、これまた行き付けの酒場に入る。


まだ昼であるが、ダネットには関係なかった。


戦争に加わっている間は、ほとんど飲まない。


その代わり、戦地から帰還後、浴びるように飲む。


大勢で騒ぎながら飲むのも、一人で静かに飲むのもダネットは好きだった。


奥の個室で、何時間も掛けて杯を重ねていく。


飲むことにより、生きて帰ってきたのだと実感できる。


酩酊状態になり、ダネットはソファーに横になった。


自分のいびきを聞いているような気がする。


脳にちくりとした痛みを感じ、ダネットは眼を開いた。


寝転がるダネットを、見下ろしている女がいる。


二十歳くらいだろう、長い黒髪の、とてつもない美人だった。


個室にいたはずだ。

だから、他の客ではないだろう。


体のラインがはっきり出る黒いボディスーツを着ている。


従業員のようにも見えない。

女を隣に座らせて飲むような店ではないのだ。


得体の知れないものを感じた。

人間の姿をしているが、人間味を感じられない。


女が、小さく唇を動かした。


「……まだなのね?」


「……あんたは?」


ちゃんと発声できているか怪しいが、ダネットは聞いた。


「ソフィア」


また脳に刺激があり、今度はそれで眠たくなった。

眼を開けていられない。


眠りに落ち、次に目覚めたのは数時間が経過してからだった。

酔いが回ったままである。


あの女は、なんだったのか。

ただの夢か。


飲み直し、ダネットは夢のことも女のことも忘れた。


酒場を出ると、すでに夜になっていた。

道の端に、あの少年が立っている。


まあ、でかい図体であるため何をしても目立つダネットを捜し出せていても、不思議ではない。


少年を無視して、ダネットは千鳥足で宿へと向かった。

少年は、無言で付いてくる。


宿の中までは入ってこなかった。

金がないのだろう。


夏真っ盛りである。

屋外で寝ても、凍死することはない。

蚊には刺されるだろうが。


就寝場所よりも、食事をどうしているのか気になった。


少年は痩せている。


そのうち諦めるだろうと、ダネットはそのまま眠った。


翌日、ダネットを起こしたのは顔馴染みの傭兵仲間だった。

仕事の斡旋に現れたのである。


ある貴族が、私兵として使える者を集めていた。


報酬は、普段受ける仕事の約三倍というところか。

かなりおいしい仕事である。


傭兵として顔と名前が知れていれば、こうして仕事が舞い込んでくることもある。


ダネットは外に出て、少年を捜した。


いた。民家の壁にもたれて、眠っている。

ダネットは、少年を蹴り起こした。


「仕事を紹介してやる」


寝起きにしては、少年の顔付きはしっかりしていた。

眠りが浅かったのかもしれない。


ダネットが報酬額を口にすると、少年は呆気に取られた表情をした。


「ただし、お前の報酬の半分は、俺のもんだ」


「なっ……!」


「嫌なら来るな。雇い主を捜すのも、傭兵の仕事だ。てめえで雇い主を見付けるんだな」


「……」


睨み付けてくる。

最初に出会った頃と同じ、闘志を秘めた瞳だ。


ダネットは、鼻を鳴らした。


「傭兵として生きるための授業料込みだから、当然の額だと思うがな」


自分の額に触れる。

二日酔いのため、頭が痛い。


「どうする?」


「……行く」


「だったら、さっさと立て」


「……もう行くのか?」


「当たり前だ。ちんたらして、募集を締め切られたらどうする」


少年が立つのも待たず、ダネットはさっさと歩き出した。


急かしたが、自分の準備はまだである。


少年は、ちゃんと付いてきていた。


「……そう言や、お前の名前は?」


「ナーシィー」


「そうか。ナーシィー、戦場では、精々泣きべそをかかんように気を付けろよ」


「泣くもんか」


(……どうだかな)


ダネットは、夜の地下牢で一人泣いているナーシィーの姿を思い出していた。


子供なのだ。辛い時、悲しい時、泣いても別におかしいことではない。

大人だって、泣く時は泣く。


なんとなく、死んだ母親のことを思い出した。

泣くことはなかったが。


つまらない記憶を追い払うため、ダネットはこれから得る報酬のことを考えた。


◇◆◇◆◇◆◇◆


平原で、敵軍と向かい合った。


ダネットは、腰の剣を抜いた。

背中にも剣を背負っている。

馬の鞍にも剣を提げていた。


戦場で、武器は消耗品だった。

何人も斬れば切れ味は落ちるし、無理な力の加え方をすれば、簡単に壊れる。


ナーシィーは、短槍を持っていた。

非力なため、重い武器はまともに扱えない。

リーチを補うための短槍である。


予備の武器に小剣、格闘となった時のために短剣も持たせてある。


短弓も持っているが、遣う機会は多分ないだろう。


射的の腕前は、微妙なところだった。

馬は、よく乗りこなす。


武器や馬は、雇い主の貴族が提供してくれた。

さすがに金余りの貴族である。


もっとも、中には武具も食料も手当てしてくれないケチな貴族もいる。


敵も、貴族の私兵や雇われた傭兵たちの軍だった。


ついでにいえば、ダネットたちの雇い主の兄が、敵軍の雇い主だった。


要するに、兄弟喧嘩である。

主義主張の喰い違いが、戦争にまで発展したのだ。


金持ちの喧嘩は、大きな騒動になる。


屋敷にいる当人たちに殺し合う意思はなく、互いに相手を少し懲らしめてやろうという程度の意識しかないだろう。


だが、下っ端の者にとっては、紛れもない戦争である。


「……なんで、兄弟で争うんだろう……?」


ナーシィーの呟きを、ダネットは聞いていた。


「兄弟だからこそ、かもな」


「……どういうこと?」


「気にすんじゃねえ。なんかもっともらしいことを言ってみたくなっただけだ」


約一千の軍である。

敵は、四千ほどか。


原野戦であるため、小細工は通用しにくい。

つまり、人数の差がそのまま出る。


勝ち目はないと、ダネットは思っていた。


今回は、それでいい。


ナーシィーがまず学ばなければならないのは、上手い負け方だった。

つまり、死なずに済む負け方である。


命は一つしかない。

だから、勝ち方よりも負け方、敵の倒し方よりも身の守り方、戦い方よりも逃げ方が重要になる。


勇敢さよりも、臆病さの方が大事だった。


デリフィスのような特別な者に臆病さは不要だが、そういった者は稀である。


敵軍が突進してきた。

なかなか統率の取れた動きである。


対するこちらは、軍が編成されたばかりであり、訓練らしい訓練も行われていない。


貴族の私兵と傭兵たちの混成の軍であり、指揮系統さえはっきりしていない。


あっという間に崩された。

敵の兵が迫ってくる。


隣にいるナーシィーの動揺が、伝わってきた。

ナーシィーの前に出る。


混戦となった。


敵と、自分たちへ向かってくる武器、ナーシィーの位置を意識しつつ、ダネットは剣を振った。


あちこちから喚声が上がっている。

馬蹄の響きに、地が揺れる。

手足が、首が飛ぶ。

矢が飛び交い、血が雨のように降る。


これが、戦争だった。


ナーシィーは、短槍を握り締め震えている。


頭から血を被り、全身が赤く染まっている。


「手綱から手を放すな!」


落馬したら、ナーシィーの小さな体は軍馬の蹄に踏み砕かれるだろう。


味方は、総崩れとなった。


「逃げるぞ! 武器は捨てていい! 馬にしがみついてろ!」


ナーシィーの馬の尻を叩き、駆けさせる。


ナーシィーの手から奪った手綱を引っ張り、走る方向を無理矢理変える。


敵の列の横腹に突っ込み、穴を空けた。

そこを駆け抜ける。

ナーシィーも付いてきていた。


振り落とされないよう、馬の鬣を握り締めている。


ナーシィーを先に行かせ、ダネットは追跡してくる兵を打ち払った。


ナーシィーは、泣きながら馬を駆けさせている。


同じ方向へ逃げている者がいた。

ダネットたちと同じ傭兵だろう。

脇腹に傷を負っている。

胸と肩にも、矢が突き刺さっていた。


かなり深い傷に見えたが、手当てをする暇などない。


しばらく、三人で逃げた。

途中で残党狩りの兵に見付かり、追われた。


七人か。


「少し待ってろ」


ダネットは馬を返し、敵へと突進した。


三人を斬り殺す。

残りは、逃げていった。


馬が潰れ掛けている。

馬を奪い、乗り替えた。


ナーシィーたちの所へ戻ると、二人とも馬を降りていた。


ナーシィーは下馬しただけのようだが、傭兵は転げ落ちたらしい。


表情に、すでに生気は残っていない。


脇腹の傷が、致命傷であるようだ。

胸に刺さった矢に、肺が傷付けられているかもしれない。


ここまでよく逃げたと言うべきだろう。


傭兵の側に、ダネットは膝を付いた。


「……お前、名前は?」


「……」


傭兵の口が、喘ぐように動く。

だが、言葉を発せないようだ。


「家族は?」


傭兵が、首を横に振る。


「そうか」


ダネットは、剣の先を傭兵に向けた。


これ以上は、生きていても苦しむだけである。


傭兵が、微かに笑った。

ダネットは、傭兵の胸に剣を突き立てた。


遺体はそのままである。

やがて、土に帰るか獣の餌になる。

戦場における死とは、そういうことだった。


傭兵の懐から、財布を抜き取る。

死体漁り専門の野盗の物になるよりは、ダネットの酒に代わる方が有意義だろう。


ナーシィーは、道の端にうずくまっていた。


胃の中の物を、吐き戻しているようだ。


剣を収め、ダネットはナーシィーの背中を見つめた。


「……なんでだよ……なんで、こんな……」


「なんでも糞もあるか。これが、戦争だ」


舞台では、勇猛な将軍たちの活躍が派手な殺陣と共に演じられる。

吟遊詩人は、祖国の英雄たちを華やかに歌う。

民衆は、それらに拍手喝采する。


だが、これが現実の戦争だった。

手足がちぎれ飛び、内臓がはみ出し、血に塗みれる。

剥き出しの殺意に当てられる。


泣き出す者がいれば、嘔吐する者もいる。

糞尿を漏らす者だっている。


そして、ナーシィーが選んだ場所でもある。


「……大丈夫か?」


「……臆病者だって、馬鹿にしてるだろ?」


「……」


「……俺、怖くてなにもできなかった。ただ、震えて……」


「馬鹿になんかしてねえよ」


口の周りを拭ったナーシィーが、睨み付けてきた。


ダネットが嘘を付いている、とでも思っているのだろう。


「本当だ。泣くのも、吐いちまうのも、恥ずかしいことじゃない。誰だって、最初は怖い。俺も、そうだったさ」


「……あんたも?」


「そうだ。だから、拗ねてんな。立て。逃げるぞ」


ダネットは、ナーシィーの腕を掴み立ち上がらせた。


あと一日も逃げれば、街に辿り着ける。


取り敢えず、そこまで行けば安全だった。


暗くなったザッファーの平原を駆ける。


半日ほど進んだところで、ダネットは馬を止めた。


ダネットはともかく、ナーシィーと馬が限界である。


干し肉を少しかじり、ナーシィーは泥のように眠った。


ダネットは、火を見張るために起きていた。


四時間ほどで、ナーシィーは眼を覚ました。


食欲はないようだ。

水だけを飲んだ。


「……兄弟なのに、なんで仲良くできないんだろう?」


雇い主である貴族のことを、考えていたらしい。


「お前、弟がいるって言ってたな」


ナーシィーが頷く。


「施設にいるって言ってたが、なんでだ?」


「……生まれつき、眼が見えない。耳も聞こえない。だから、喋れない。それで、施設にいる」


「……」


「……俺は、あいつの兄ちゃんなんだから、だから俺が、頑張らないと……」


ダネットは、ナーシィーの頭を乱暴に撫でた。


「そうだな。兄貴は、弟を守らないとな」


ナーシィーは、また泣きそうになっている。


ダネットは火を踏み消して、ナーシィーを馬に乗せた。


街まで、敵に会うことはなかった。


丸一日宿で休み、次の日に銀行に向かった。


通帳に納められていた金額に、ナーシィーは驚いている。


報酬額は知っていたはずだが、実感がなかったのだろう。


これでしばらく、施設に金を払える。そう素直に喜んでいた。


それからナーシィーは体調を崩し、数日寝込んだ。


ダネットは情報屋に頼み次の仕事を探させ、自分は酒を飲みのんびり過ごした。


情報屋が現れたのは、二週間が経過してからのことだった。


二人組の傭兵といえば聞こえはいいが、実際のところナーシィーは武器もまともに扱えない足手纏いである。


なかなかダネットが出す条件に合う仕事が見つからなかったのだろう。


酒場でダネットが勧めた麦酒のジョッキを手に、情報屋は深刻な顔をしていた。


「ダネットさん、あんたの連れのことだが……」


情報屋は、ダネットのことを名の知れた傭兵として知っていた。


それで連れであるナーシィーのことが気になり、興味本意で調べてみたらしい。


「施設に弟がいるようだが、このままだと追い出されるぞ」


「……どういうことだ?」


情報屋の話によれば、こうだった。


ナーシィーの母親は、死ぬ二年前から、生活苦のため国に税金を納めていない。

ナーシィーも、一年近く納めていなかった。


まともに税金を払ったことのないダネットは知らなかったが、ザッファー王国では、労働して収入を得ている者は幼児にも老人にも納税の義務がある。


そして、母親が未納していた分は、最も近しい親族のナーシィーが払わなければならない決まりらしい。


そして、ナーシィーの弟が入っている施設は、国営だった。


わずかな援助金を政府が与えているだけで、実質は民営のようなものらしいが。


だが、名ばかりとはいえ国営は国営である。


三年以上納税を怠っている者と、未納者に養われている者には、国の施設を利用する権利が剥奪される。


眼が見えない、耳が聞こえない、喋ることもできない者が野に出されたらどうなるか。

わかりきっている。


二週間前に報酬を得たが、三年分の税金を納め施設に金を払えるだけの額なのか。


「……て言うか、あのガキ、そんなこと一言も言わなかったぞ。国から通知とかこないのか?」


「……字を読めないんじゃないか?」


「ああ……」


貧困のため教育を受けられず、読み書きができない子供が、ザッファー王国には大勢いる。


宿の台帳に記されたナーシィーの字は、かなり汚かった。


名前だけはなんとか書ける、という程度なのかもしれない。


世話の焼けるガキだ。

苛立ち紛れに、ダネットはジョッキを煽った。


翌日、ダネットは役所に向かった。

ナーシィーから約束通り奪った二週間前の仕事の報酬の半分と、死んだ傭兵の財布から抜き取った金で、ナーシィーの未納分の税金を立て替える。


血の繋がりのない代理による支払いのため、かなり時間を取られるのではないかと思っていたが、簡単に手続きは終わった。


拍子抜けしてしまうほど、あっさりとしたものだった。


ナーシィーから報酬の半分を受け取り、死んだ傭兵から財布を奪った。


だが今回の支払いにより、残った金はわずかなものだった。

麦酒一杯飲むのが精々である。


子供の面倒を見て戦場を駆け回り、その報酬が酒一杯とは、随分と割りに合わない仕事である。


「ああ、俺様ってなんていい奴なんだ」


他の通行人に聞こえないように、ダネットは言った。


ニヒルに笑おうとして失敗し、口許が引きつる。


(気持ち悪ぃ! 俺が俺を激しく気持ち悪い!)


蕁麻疹が出てくるような気がして、服の中に手を突っ込み、胸や腹をダネットは引っ掻いた。

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