どこかへ続く平原
兵士たちに待つよう指示を出し、ジョサイアは明かりの魔法を前方に打ち出した。
兵士の死体が、いくつか転がっている。
そして、橋の前。
折れた剣を構える、大男がいた。
「ダネットだ」
横にいるアランが言った。
確か、ナーシィーの面倒を見ている傭兵である。
誰かに似ているような気がしたが、それが誰なのかわからない。
意識を失っているようだ。
だがジョサイアは、圧倒されそうになっているのを感じていた。
ダネットは、眼を見開いている。
何本もの矢が刺さった体で、傷だらけの状態で、それでも倒れることなく立っている。
明らかに致命傷と思われる傷が、いくつもあった。
まだ、呼吸はしているようだ。
それが、奇跡のようにも思える。
何人もの兵士が、この男に殺された。
いずれも大切な部下である。
恨む気にはならなかった。
戦っているところは見ていない。
だが、この雄々しく立つ姿を目の当たりにすれば、誰にだってわかる。
この男は、戦った。戦い抜いた。
剣折れ、矢で貫かれ、それでも闘志を失わず、最後まで倒れなかった。
ジョサイアは、兵士に進撃するよう命令を出した。
動かぬダネットの横を通り、兵士たちが橋を渡っていく。
ダネットに、とどめは必要ないだろう。
意識はもうないようだ。
だから、痛みに苦しむこともない。
触れたくなかった。
それは、この男の生き様と死に様を、汚すことになるような気がした。
アランと兵士が橋を渡り終えても、ジョサイアはしばらくダネットから眼を離さなかった。
アランに催促されて、ようやく進む気になった。
小さな足跡が二つ、続いている。
おそらく、女と子供のものだろう。
ナーシィーが橋を渡ったところを、兵士たちが見ていた。
まず間違いなく、片方はナーシィーの足跡だろう。
歩幅の乱れ方からして、二人とも負傷しているようだ。
血の跡もあるようだが、わざわざ確かめなかった。
はっきりと足跡が残っている。
追跡は容易である。
ジョサイアは、先頭に立って足跡を追った。
十一人となった兵士たちが続き、最後尾はアランである。
ふと、引っ掛かった。
昨日からの戦闘で失った兵士たち。
橋の前で転がっていた死骸。
今、ジョサイアたちに従う兵士。
数が、合わなくないか。
十か、二十か、明らかに増えている。
振り返ると、ダネットの剃髪した後頭部が見えた。
眼を見開いていた。
瞳に映っているのは、なんだろう。
どこまでも広がるような、ザッファーの平原だろうか。
不意に目眩を感じ、ジョサイアは軽く頭を振った。
前に向き直る。
その頃にはもうジョサイアは、何に引っ掛かっていたのか忘れていた。
◇◆◇◆◇◆◇◆
動かぬ兵士たち。
それは、ここで戦闘が行われたという目印だった。
ナーシィーの弟が暮らしていたという棟は、半分ほどが崩れていた。
ティアとナーシィーの姿はない。
二人の援護に向かっていたはずの、テラントとシーパル、ダネットもいない。
ハーマシアは崩落した天井の下敷きになったと聞かされていたが、それらしきものは見付けられなかった。
足跡が、複数入り乱れている。
デリフィスは、手綱を引いた。
後ろに乗せているユファレートが、窮屈そうに杖を振る。
光の玉が揺らめき、足下を照らした。
生きている人の姿はない。
だから、痕跡で判断するしかない。
足跡は、北に続いているようだ。
いくつも重なっているため、誰の足跡か判断し難い。
数は多い。
二十人以上が北に向かっている。
動ける住人は、避難済みである。
となるとこれは、兵士たちの足跡なのだろう。
テラントたちは、どうしたのか。
『ビンス園』の女性職員の話では、ティアとナーシィーとハーマシアの三人が、怪我をしているということだった。
怪我人の治療もせずに、兵士たちを追跡しているとは考えにくい。
ということは、逆の可能性が高くなるか。
テラントたちは、兵士に追われている。
ルーアが、追い付いてきた。
「どうだ?」
息が上がっているようだ。
飛行の魔法は、負担が大きいと聞いている。
「おそらく、敵も味方も北に向かっているな。俺たちで追う。お前は、少し休めばいい」
「いや、俺も行くよ」
「わたしと代わる?」
ユファレートが言った。
「いや、なにがあるかわかんねえからな。ユファレートは魔力を温存していてくれ。俺は、走って付いてくから」
「わかった」
「よし」
ユファレートがしっかり掴まっていることを確認し、デリフィスは馬を駆けさせようとした。
突然、音が響き渡った。
耳慣れない音だった。
絹を引き裂く音に近い。
それにガラスが割れた音が混ざったかのような響き。
背後から、馬の嘶き。
「おー、さすがシーパル」
馬に跨がっているのは、テラントだった。
その横でシーパルは、膝を付いている。
つい先程まで、誰もいなかったはずだ。
それなのに唐突に、どこからともなく二人は現れた。
同じようなことが、夕方にもあった。
「……つまり、前の俺みたいに、変な空間に閉じ込められていたんだな」
納得顔でルーアは頷いている。
「……ティアたちは?」
聞くと、テラントは渋い表情になった。
「わからん。切り離された。ただ、ティアとナーシィーは怪我をしていたな。ダネットは、無事だったはずだが」
まずい、と即座に感じた。
ダネットは怪我人二人を庇いながら、兵士たちから逃げている状況にある。
「ルーア、二人に説明を」
返事を待たずに、デリフィスは馬を走らせた。
テラントとシーパルに状況説明をしている間に、ルーアは呼吸を整えられるだろう。
兵士くらい、自分一人で蹴散らせる。
ユファレートがいれば、敵の魔法使いは怖くない。
妙に嫌な予感がした。
空気に、血の匂いが混ざっているような錯覚がある。
微かに記憶に引っ掛かる。
リーザイ王国との戦争に参加した時に、通ったことがある道だ。
この先は、峡谷だった。
その前に深い崖があり、渡るための橋が一本ある。
「ユファレート、光量を上げてくれ!」
馬蹄の響きに負けないように、声を張り上げる。
「え? でも敵に……」
「見付かっても構わん!」
「了解!」
ユファレートが、新たに明かりを作り出す。
かなりの光量であり、足下がはっきり見える。
デリフィスは、更に激しく馬を駆けさせた。
背後からも、馬蹄の音が聞こえる。
テラントたちだろう。
馬の余力は、向こうの方があるようだ。
いずれ追い付いてくる。
このまま飛ばしても、問題ない。
「あれって……」
ユファレートに、デリフィスは無言で頷いた。
橋の前、いくつも転がる兵士の死体。
そして、折れた剣を構え立つ大男。
ダネットである。
馬から飛び降り、駆け寄る。
デリフィスは、奥歯を噛んだ。
ユファレートは、息を呑んでいる。
ダネットの体中にある、無数の裂傷、突き刺さっている、幾本もの矢。
全身血塗れになりながらも、ダネットは堂々と立っていた。
今なお、眼を見開いている。
意識を失っても、敵を見ている。
「……ダネット」
名を呟くと、微かに剣が動いた。
「……もういい」
剣を上げようとする。
腕に触れて、それを押さえた。
「……もういいんだ」
膝が折れる。
体を支え、ゆっくり横たわらせた。
ユファレートの杖の先に、柔らかい光が点る。
だがすぐに、その光は消えた。
ダネットの横に膝を付いたユファレートは、俯いている。
テラントとシーパルが追い付いてきた。
駆けているルーアは、まだ後方だった。
「ダネットさん……!」
駆け寄ったシーパルが、魔法を発動させる。
ダネットの全身が、光に包まれる。
「……シーパル、助けられるか?」
どう考えても、助かるとは思えない。
それでもシーパルならば、と期待してしまう。
デリフィスが、これはもう駄目だろうと思ってしまうような重傷を負った者たちさえ、シーパルは救ってきた。
「……助けますよ、絶対に!」
だがシーパルの表情は、自分が怪我をしているかのように歪んでいる。
シーパルの様子に、デリフィスは苦笑した。
嘘を付けない男だ。
ダネットが、苦痛に呻いている。
名前を呼んだのは、失敗だったかもしれない。
意識を取り戻してしまった。
気を失ったまま死ぬ方が、ずっと楽だっただろう。
「……シーパル……もう……」
ユファレートが、シーパルを止めようとする。
シーパルが治療を続ければ続けるだけ、何秒か、あるいは何分か、ダネットの死は遠退くだろう。
それだけ地獄の苦しみが長引くということでもある。
奇跡を信じ足掻くべきなのか、それとも諦めるべきなのか、シーパルの迷いを表すかのように、治療のための光は明滅を繰り返している。
ダネットの目玉が動いている。
なにかを捜し求めているように、デリフィスには感じられた。
楽にしてやるべきか。
デリフィスは、剣の柄に手をやった。
これ以上は、苦しむだけ。
もう助からない傷を負った者には、とどめを刺してやるのが、ザッファーの傭兵たちの間にある礼儀のようなものだった。
ダネットは視線をさ迷わせ、瞳にデリフィスの姿を映したことで、眼球の動きを止めた。
微かに唇を震わせている。
「……シーパル、治療を続けてくれ。喋るだけの体力を、与えてくれ」
苦しみが長引く。
だがデリフィスは、それを要望した。
ダネットはなにかを伝えたがっていると感じたのだ。
淡い光が、ダネットを優しく包み込む。
ユファレートは、眼の端を拭っている。
馬を降りたテラントと、追い付いてきたルーアは、静かにダネットに視線を落としている。
「……よう、団長殿……」
「……ああ」
ダネットは、部下だった。
稀にダネットは、デリフィスのことを団長と呼んだ。
「ティアとナーシィーは、この先だな?」
「……ああ……そうだ……」
「任せておけ。必ず助ける」
少し離れたテラントが、エスを呼んでいる。
現れたエスの姿は、非常に希薄になっていた。
また、『コミュニティ』に干渉されているのだろう。
話す言葉は途切れ途切れで、まともに聞き取れるものではない。
それでもテラントは地図を拡げ、ティアたちが逃げている方向と敵の人数を、辛抱強く聞いている。
「……デリフィス。ナーシィーの奴、な……」
「ああ」
「……俺の……弟だった……」
「……つまらない冗談だな」
「……まったくだぜ」
ダネットは、血を吹き出しながら笑った。
「……頼みが……ある……」
「なんだ?」
「……ナーシィーに……選択肢を与えて……やってくれ……」
「選択肢?」
「……あいつは、傭兵になるしかなかった……けどよ……」
苦しいはずだ。
だが、ダネットの表情は、どこか穏やかだった。
「……向いてねえよ……あいつにはよ……。だから……他の選択肢を……」
「……そうだな。なんとかしてみよう」
ダネットの体から、力が抜けていく。
死のうとしている。
ルーアが、小さく舌打ちした。
『ビンス園』に向かっている一団がある。
王都の方からだ。
二百ほどの騎馬。
装備からして、おそらくヘイム・デロ・ツオサートの私兵たち。
「……デリフィス……」
「なんだ?」
デリフィスは、ダネットの顔に視線を戻した。
「……喉が……渇いたな……」
「……ああ。後で酒をたらふく飲ませてやる。もちろん、俺の奢りだ」
「……ああ、いいな……それ……」
呼吸が弱々しくなってきた。
それでもダネットは、笑みを浮かべる。
「……あと、女も……」
「……それも、俺が準備してやる。もちろん、飛び切りばかりだ」
ダネットが、喉を鳴らし笑う。
ダネットらしい減らず口だ。
言いたいことは、言えたのだろう。
「……魔法を……止めます」
声を詰まらせながら、シーパルが言った。
楽にしてやるために。
ダネットの傷付いた体を包む光が、消えた。
ダネットの眼からも、光が消えていく。
◇◆◇◆◇◆◇◆
酷い奴だ、とダネットは思った。
なまじ頑丈な体をしているためか、なかなか死ねない。
苦しい。痛い。
今までに死んでいく連中を何人も見てきたが、みなこんな苦痛を味わってきたのか。
苦しんでいる者には、さっさととどめを刺してやるものだ。
だがデリフィスは、治療をするよう仲間たちを促した。
酷い奴だ。
お陰で、ナーシィーのことを頼めた。
これで、もう大丈夫だ。
デリフィスの強さは、よく知っている。
その仲間が頼りになることも、よく知っている。
なにも心配する必要はない。
弟を、守ることができた。
ダネットは、ザッファーの大地に倒れていた。
平原と騎馬の国、ザッファー。
どこまでも平原は続いている。
月並みな表現だが、ザッファーの平原はそんな風に言われる。
実際は、どこまでも続いてはいないとしても。
好き勝手に生きてきた。
でかい体で、気儘に暴れてきた。
自由に飲んで、喰って、女を抱いてきた。
そして最後に、弟を守り戦った。
最後の最後に、意義のある戦いをした。
だったら、こう言うべきなのだろう。
いい人生だった、と。
この平原は、どこに続いているのだろう。
血と草の匂いを嗅ぎながら、ダネットはそんなことを考えていた。
◇◆◇◆◇◆◇◆
ダネットの眼を、デリフィスは閉じてやった。
シーパルは、拳を地面に押し付けている。
「……すみません、デリフィス。僕の力不足で……」
「いや。シーパル、お前のお陰だ」
デリフィスは、シーパルの肩を叩いた。
「お前のお陰で、ダネットの最後の望みが聞けた」
立ち上がる。
なにか、ずしりと重い物が肩に載っているような感覚があった。
託された、ということなのかもしれない。
(……確かに、受け取った)
仲間たちを見回した。
テラント、シーパル、ルーア、ユファレート。
信頼に足る仲間たち。
「……追い付けるか?」
これは、エスに聞いた。
「九分九厘追い付ける。絶対と言わないのは、私の謙遜だと思っていい」
まず確実に追い付ける。
ただこの世に、絶対と言えるものはない。
だから、絶対とは言わない、ということなのだろう。
こちらは、馬を二頭確保している。
ティアとナーシィーを追っている者たちの足跡に、蹄の跡はない。
機動力は、こちらが上である。
橋を落とされてでもいれば、渡るために魔法の力に頼らなくてはならなかった。
追跡に手間取っただろうが、敵にその発想はなかったようだ。
「敵の戦力は?」
「アラン、ジョサイア・フォルジャー、兵士が十一人。君たちならば、三人もいれば九分九厘勝てる。どの組み合わせであってもな」
「そうか」
遠くから、地鳴りが響いた。
半壊していた『ビンス園』の棟が、倒れたのだ。
また魔法で攻撃されたというわけではなく、土台に損傷が出ていて、今になって崩れたということなのだろう。
「……僕は、一旦戻ります。あそこには、まだたくさんの負傷者がいる。人手はいくらあっても、足りないはずなので」
「ああ」
シーパルは、閉じ込められていた空間から脱出する際に、かなり消耗している。
ダネットの死で動揺もしているだろう。
そのまま戦闘の場に出るのは、危険だった。
ちょうどいいのかもしれない。
「……これ以上、犠牲は出さない……」
呟きを残し、シーパルは去っていった。
逆に、こちらに向かってくる者たちもいる。
「……心強い味方の御到着だな」
皮肉を込めて、テラントが言った。
ヘイム・デロ・ツオサートの私兵たちである。
主であるヘイム・デロ・ツオサートを家督争いで優位に立たせようと、彼らは動いている。
『ビンス園』の人々を救い、襲撃犯を成敗すれば、それだけ主の評判も良くなる。
世間が噂をすれば、王の耳にも入るだろう。
『ビンス園』には、三人の魔法使いがいる。
救援活動において、魔法の力は絶大なものである。
魔法を使えないヘイム・デロ・ツオサートの私兵たちでは、魔法使いたちに見劣りする活躍しかできない。
だから、アランたちの討伐を優先することにしたというところか。
襲撃犯について、『ビンス園』の人々たちから何も聞いていないということはないだろう。
その時に、デリフィスたちのことも耳に入るはずだ。
デリフィスたちは、『ビンス園』の人々を守った。
安全な場所まで誘導し、怪我人を救い、次の襲撃に備え警護した。
それを、ヘイム・デロ・ツオサートの私兵たちは聞かされているだろう。
アランたちの仲間だろうと疑われていたが、これで誤解は解けたはずだ。
テラントの言う通り、心強い味方だった。
なにしろ、二百の騎馬だ。
一人一人の実力も、確かなものである。
デリフィスたちは、四人。
ヘイム・デロ・ツオサートの私兵たちは、二百。
機動力のある二百の集団で、アランたちを捜せる。
まず確実に、デリフィスたちよりも早く、アランたちを発見するだろう。
アランたちも消耗している。
そこで、二百の騎馬に追われるのである。
アランたちは、みな捕らえられるか殺されるかするだろう。
そして、ティアとナーシィーは助かる。
それでいいはずだ。
だが、蟠りのようなものをデリフィスは感じていた。
なにが引っ掛かっているのか。
テラントが、肩の骨を鳴らした。
考え込みそうになっていたデリフィスは、それで我に返った。
「デリフィス」
「……なんだ?」
「アランと、えっと、なんだ、ジョサイア・フォルジャーか。それと兵士たち。自分の手で、斬り殺したいか?」
「……」
「自分の手でダネットの仇を討ちたいか、って聞いている」
「俺は……」
これまでに、数え切れないほど斬ってきた。
デリフィスのことを恨んでいる者は、大勢いるだろう。
誰かの仇討ちをする資格など、ない。
テラントも、同じように何人も斬ってきたはずだ。
それでも、叫んだ。
妻の仇を討つと。
ダネットは、友人だった。
傭兵団の中で絶対の存在だったデリフィスと、対等に付き合おうとし続けてくれた、数少ない友人だった。
「……そうだな、テラント。俺は、ダネットの仇を討ちたい。ダネットを殺した連中を、この手で皆殺しにしたい」
「あっそ」
テラントは、ひらりと馬を降りた。
手綱を、ルーアに押し付ける。
「じゃあ、譲ってやるよ。アランたちを、ぶった斬れ。あいつらは……」
ヘイム・デロ・ツオサートの私兵たちが、迫ってきている。
二百人の、武装集団。
「ここで、俺が止める」
「いや、待てよ。二百人だぞ」
慌てたのは、ルーアだった。
「どうやって止める? 作戦でもあるのか?」
「ねえよ。けどまあ、勝算はある」
「……一般人だぞ、あいつらは」
「そんなことは、わかっている」
無闇に殺すことはできない。
ヘイム・デロ・ツオサートの私兵たちは、遮る者に容赦しないだろう。
彼らは、主を領主にするために、手柄を立てようと必死なのだから。
邪魔をする者はアランたちの仲間だと見なし、攻撃してくる。
殺しにくる二百人を、殺さないように一人で戦わなければならない。
「……無理だ。俺も残る」
「バーカ。アランは魔法使いだろ。ジョサイアとかいうのも、魔法使いかもしれない。デリフィスには、お前とユファレートの援護がいる」
「……橋を落としてしまえば……」
「それは立派な、器物破損。街中で家を何軒か吹っ飛ばすよりも、余程まずいぞ、多分」
橋を渡り峡谷を過ぎれば、リーザイ王国である。
昨日までの悪天候により道が悪くなっているのと、深夜という時間帯のため今は人通りはないが、普段は旅行者や行商人が利用しているはずだ。
国に金を落とし、経済を円滑に回す者たちである。
橋を破壊すれば、彼らの足が止まる。
確実に、ザッファー政府に睨まれる。
政府高官の中には、商人たちから賄賂を受け取っている者もいるだろう。
重罪として処罰されることになるかもしれない。
「……二百人だぞ。いくらあんたでも……」
「……二百人のあいつらに、何人だったら勝てるか、だったかな?」
「……は?」
デリフィスは、覚えていた。
盗賊団が根城にしていた砦を、ヘイム・デロ・ツオサートの私兵たちが攻略しているところを、見学していた時だ。
ダネットが、テラントに聞いたのだ。
五百人ほどの盗賊団を圧倒する、ヘイム・デロ・ツオサートの私兵二百人に、何人でなら勝てるかと。
テラントは、昔の部下が百人もいれば勝てる、と答えた。
デリフィスは、五十人で充分だと言った。
するとテラントは、三十人でいいと言い直した。
だからデリフィスは、二十人と訂正した。
十人、五人、互いに言い合い、最終的には。
「覚えていないのかよ、ルーア? なあ、俺、言ったよな、デリフィス?」
そしてテラントは、にやりと笑った。
「『ぶっちゃけ、俺一人で余裕』」
◇◆◇◆◇◆◇◆
デリフィスと馬を並走させる。
ユファレートは、デリフィスの後ろだった。
「大丈夫なのかよ……?」
ルーアは呻いた。
背後に橋がある。
そしてテラントは、一人で二百人を止めようとしている。
ルーアには、無謀なことにしか思えなかった。
いや、勝つだけならできる、ルーアやユファレートなら。
間合いを詰められる前に、相手を皆殺しにするつもりで魔法を乱発すれば、勝てる可能性は充分にある。
テラントやデリフィスなら、二百人に囲まれても突破できるかもしれない。
その剣で、断ち割っていけば。
ただ、彼らはヘイム・デロ・ツオサートに雇われているだけの、一般人なのである。
アランたちの敵であり、本来は共闘できる立場の者たちであるはずだ。
殺せない。
デリフィスにも促されたため、こうして馬を走らせているが、引き返すべきなのではないのか。
テラントは、ルーアたちを先に行かすために、惨劇を起こすつもりなのではないか。
「……速度が落ちている」
ルーアの迷いを見抜いたかのように、デリフィスが言った。
「テラントは、できないことを口にしない」
「けどな……」
ユファレートは、喋る余裕がないのか無言だった。
激しく馬を駆けさせるデリフィスにしがみつくことで、精一杯なのだろう。
振り返ると、テラントの後ろ姿は、もう小さく見えるだけになっていた。
ダネットも、きっと同じようなことをしたのだ。
一人で残り、一人で大勢の兵士たちと戦った。
そして、死んだ。
「信じろ」
デリフィスが言った。
振り返ろうとはしない。
「あれは、自信がある時の顔だ」
「……知らねえぞ、どうなっても」
こうなったら、一刻も早くアランたちを殲滅することだ。
それで、ヘイム・デロ・ツオサートの私兵たちは、目的を失う。
ティアとナーシィーは助かり、テラントは無理をする必要がなくなる。
エスは、いなくなっていた。
複数の足跡を頼りに、アランたちを追う。
おそらく、ヘイム・デロ・ツオサートの私兵たちは、そろそろ橋に到着する。
完全武装の二百人である。
本当に止められるのか。
一本の橋の前。
二百の敵と対峙する、テラントの孤独な戦いが始まろうとしていた。
◇◆◇◆◇◆◇◆
旧人類が滅びたのは、約七百二十年前とされている。
そしてその時から、新たなる人類の時代が始まった。
高度な文明は失われ、代わりに魔法というものが生まれた。
もっとも当時の魔法は、コップを転がす、水を湯に変えるといった程度の、些細な力しかなかったと伝えられているが。
旧人類の道具、今でいう魔法道具の大半も失われ、戦争も変わった。
鉄の塊が宙を駆け、小島ほどの戦艦が海洋に浮かび、街を壊滅させるほどの炎が荒れ狂う戦いから、剣と盾がぶつかり、騎馬が駆け回る、原始的な戦いへ。
武器も防具も、時代と共に進化していった。
鎧は、より厚く、より固く。
剣は、その鎧を破壊するため、より重くなっていった。
ところが、ある出来事をきっかけに、状況は変わった。
長い年月を掛けて発展した魔法と、同じく途方もない時間を注ぎ込まれ研究・解析された魔法道具が、戦場に持ち込まれるようになったのである。
動きの鈍い重装備の兵は、的になるだけ。
それから、武器や防具の軽量化が進められることになる。
時が経つにつれ、全身を覆う甲冑などの重い装備は、廃れてしまった。
デリフィスのように重い剣を振り回す者もいるが、それは人並み外れた身体能力と、魔法などの飛び道具をかわせるだけの、反射神経があるからである。
テラントも、戦場では流れ矢などを警戒し、重い鎧を装備していた。
将軍として、見栄えの良い格好をする必要があった、という事情もある。
『カラドホルグ』を抜くことなく、テラントはただ待った。
ヘイム・デロ・ツオサートの私兵たちの装備は、時代遅れと言えるのかもしれない。
白く塗られた甲冑で、隙なく全身を包んでいる。
時代遅れだが、魔法を使えない者には脅威だった。
生半可な武器は、阻まれてしまうのだから。
橋の前に辿り着き、ヘイム・デロ・ツオサートの私兵たちは馬を止めた。
さすがに、重装備の騎兵二百が並ぶ様は、壮観である。
「我々は、ヘイム・デロ・ツオサート様に仕える者だ。『ビンス園』の襲撃犯である、アランとジョサイア・フォルジャー、ならびにその部下を追っている。そこを通してもらえないか」
テラントは、視線を下げた。
兵士たちの死体、それから、横たわったダネットの遺体に焦点を合わせてから、また視線を上げる。
「悪いけど、ここを通すわけにはいかないな」
宣言したテラントに、何人かがざわつく。
「……なぜだ? 私たちは、君たちがアランの仲間だと誤解していた。それについては謝罪しよう。君たちと、争う気はない。私たちはただ、アランとその一味を捕らえたいだけなのだ」
「……そうだな、お前らは敵じゃない。本来なら、阻む必要はない」
ヘイム・デロ・ツオサートの名を上げるため、という打算的なところはあるが、彼らが追うのは、なんの罪もない人々を傷付けた悪党である。
「……だから、譲ってやるよ。アランたちを討伐したのも、『ビンス園』の人たちを助けたのも、あんたらってことにして、雇い主に報告すればいいさ。けどな……」
テラントは、一度瞼を閉じた。
最後まで立っていたダネットの姿が浮かぶ。
デリフィスが、仇を討ちたがっている。だから。
「……奴らを実際に斬るとこだけは、あいつと、あいつが信頼している奴らに、譲ってくれ」
ヘイム・デロ・ツオサートの私兵たちが、顔を見合わせる。
「……なにか事情があるようだが」
一騎が、進み出てきた。
「私たちは、君たちを全面的に信用したわけではない。阻むというなら、力尽くでも通らせてもらうが」
「通れるもんならな」
「……二百だぞ」
「俺は一人だ」
「そのようだな」
ヘイム・デロ・ツオサートの私兵たち。
彼らは、飛び道具を使わない。
そして、数の利を活かさない。
彼らの中では、飛び道具も人海戦術も、卑怯なことであるらしい。
テラントが一人ならば、向こうも一人ずつ挑んでくる。
馬を降りテラントと対峙したのは、かなりの長身の者だった。
下馬したのは、馬上からの攻撃も卑怯だという感覚なのか、昨日までの長雨で足場が悪くなっているからか。
男は、名乗ったようだ。
テラントは聞き流していた。
これから、二百人と戦う。
いちいち名前を覚えてはいられない。
「テラント・エセンツだ」
知っているはずだ。
少し前に、ヘイム・デロ・ツオサートに雇われた。
その時に、名乗っている。
今また名乗ったのは、それが礼儀だからに過ぎない。
失笑が起きた。
(……?)
「……テラント・エセンツ。ラグマの『若き常勝将軍』か」
向かい合う男も、笑っている。
兜で顔は見えなくても、口調でそれがわかる。
(……なるほど)
テラント・エセンツの名を知る者は、ザッファー人にも多くいるだろう。
最大の敵国であるラグマの、最も有力な将軍だったのだから。
出奔したことも、知られている。
テラントの髪の色は、金だった。
ラグマでは、最も標準的な髪の色である。
つまり、彼らはこう思っているのだ。
旅のラグマ人が、はったりのため、テラント・エセンツの名前を騙っていると。
どうでもいいことだった。
わざわざ証明する気にもならない。
「……では、行くぞ、テラント・エセンツ」
声には嘲りが含まれているが、槍を構える姿に隙はない。
よく鍛え上げられているのがわかる。
踏み出してくる。鋭い。
だが、槍が突き出される前に、テラントは男の懐に潜り込み、抜いた『カラドホルグ』を振り切っていた。
甲冑越しに光で腹を打たれ、衝撃に男が転ぶ。
『カラドホルグ』。愛用の武器である。
亡きドラウ・パーターに、預けていた時期があった。
彼は言った。『カラドホルグ』には、使用者の負担を考慮しているのか、制限が掛けられている、と。
それを、ドラウは解除してくれた。
掛けられていたのは、上限だけではなかった。
硬度と斬れ味をある程度に一定させるためだろう、下限も定められていた。
現在の『カラドホルグ』は、テラントの意思次第で硬度と斬れ味をかなり変えられるようになった。
男が、身を起こす。
甲冑に傷と凹みが見られるが、破れてはいない。
テラントは、硬度を保ったまま斬れ味を極限まで落とした状態の光を、『カラドホルグ』から伸ばしていた。
つまり、折れることのない、それでいてなにも斬れない剣の出来上がりである。
これで、斬り殺すことなく戦える。
ただし、苦労は増えるだろう。
男は、すでに立ち上がっていた。
甲冑の上から腹を叩かれただけなのである。
一人を戦闘不能にするために、『カラドホルグ』を何度叩き込まなければならないのか。
それが、二百人である。
一対一を、何百、何千と繰り返さなければならない。
そして、一度でも負ければ、死ぬ。
槍の穂先を逸らし、喉に突きを入れる。
後退した男に代わり、別の者が前に出てくる。
(さあて……)
あと何百回、『カラドホルグ』を打ち込めばいいか。
昂る気持ちを鎮める心地で、テラントは唇を舐めた。
◇◆◇◆◇◆◇◆
微かにだが、前に人影が二つ見えた。
ナーシィーとティア・オースターだろう。
ジョサイアは、腕を上げて舌打ちした。
魔法を正確に当てるには、まだ遠い距離。
それに、泥に足を取られながら駆けていたため、息が切れている。
魔法の制御に、微妙な狂いが生じるだろう。
「行け!」
周囲の兵士たちに命じる。
体力の余っている者たちが、ジョサイアを追い抜いていく。
アランは、いくらか遅れている。
仕方ないだろう。
足を一本失っており、消耗が激しい。
兵士たちに守られながら進んでいた。
ナーシィーとティア・オースターは、それ以上に辛いだろう。
歩幅は、徐々に狭まってきている。
体力的に、限界が近いはずだ。
直に、兵士たちは二人に追い付く。
抵抗する力が、まともに残っているとは思えない。
ナーシィーも、守ろうと足掻くティア・オースターも殺せる。
『中身』を破壊できる。
『コミュニティ』の計画を、挫けるのだ。
それは、世界を救うに等しい行為。
誰にも見られていない。
民衆は、ジョサイアに救われたことを知らずに、日々を生きていく。
ジョサイアは、それでも良かった。
自分たちを『悪魔憑き』や兵士にした『コミュニティ』への、復讐になる。
暗い満足感を覚えながら、ジョサイアは泥を踏み進んだ。
◇◆◇◆◇◆◇◆
半ば泥濘となった道を、ルーアは馬が潰れるのも覚悟で、とにかく駆けさせた。
隣では、ユファレートを後ろに乗せたデリフィスが、同じく馬を走らせている。
道の左右は、見上げるような崖になっていた。
進むうちに、そうなったのである。
土が露出した崖であり、途中に身を隠せそうな物はない。
怪我をしているらしいティアたちが、登りきれるとも思えない。
このまま、足跡を追えばいい。
「……見えた」
跳ねる泥で全身を汚したデリフィスが、眼を細めながら言った。
前方に、十を超える人影。
「よし。このまま突っ込んで、動きを止めてくれ。その間に、俺が奴らの前に回り込む。ユファレートは、デリフィスの援護を頼む」
ルーアが跨がる馬には、もうほとんど足が残っていない。
このまま突撃しても、余り勢いよく突っ込めない。
デリフィスが頷き、速度を上げる。
斜め後ろで、ルーアは続いた。
兵士たちの姿が迫る。
ルーアは、手綱を引いた。
ユファレートが馬から飛び降り、重力を中和しながら着地する。
デリフィスが更に速度を上げ、兵士に後方から突っ込んでいく。
兵士たちが混乱する。
ユファレートが杖を構えるのを横目で見ながら、ルーアは飛行の魔法を発動させた。
疲労が溜まっているが、ティアとナーシィーの命が懸かっている。
出し惜しみをしている場合ではない。
崖に激突しそうなすれすれの所を、飛んでいく。
魔法で狙撃される恐れがあるが、夜空と崖の土色に紛れてしまえば、そう捉えられるものではない。
兵士たちの頭上を越えていった。
アランの姿もある。
教会の神父が着る、黒い祭服のような外套を身に纏っている者もいる。
列の頭では、戦闘が始まっていた。
倒れている兵士。
そして、膝を付いているティア。
足を痛めているのか、ティアの後ろにいるナーシィーは動けないようだ。
ティアに、兵士たちが三人、剣を向けていた。
(……この野郎!)
彼らの頭上で、ルーアは飛行の魔法を解除した。
「ヴォルト……!」
自由落下しつつ、腕を振り上げる。
九分九厘助けられる。
これ以上の犠牲はいらない。
「……アクス!」
兵士たちの頭上から、ルーアは電撃を振り下ろした。
◇◆◇◆◇◆◇◆
後方に、いくつもの人影が見えるようになった。
ダネットは、突破されてしまったのか。
追っ手が迫りつつある。
足が縺れるが、ティアは歩くのをやめなかった。
諦めない。
どんな絶望的な状況だろうと、最後の最後まで足掻く。
左肩の痛みが、よくわからなくなっていた。
指先に、痺れるような感覚がある。
ナーシィーが転んだ。
支えていたティアも、膝を付いた。
「た、立てます」
もがくが、足腰が震えている。
ティアよりも先に、ナーシィーに限界がきた。
元々子供で体力がないのに、足の痛みに耐えながらずっと進んでいたのだ。
ナーシィーの手から『フラガラック』を奪い、ティアは振り返った。
もう逃げられないなら、ここで戦うしかない。
泥を踏み付ける複数の足跡。
剣を手にした者たちが、近付いてきている。
『あと五十七秒、凌ぎたまえ』
その声はいきなり聞こえてきたが、ティアは驚かなかった。
驚くだけの体力が残っていなかった、とも言える。
『それで、君たちは助かる』
エスの声。
信じていい。
五十七秒だけ凌げば、本当に助かる。
「ティアさん……!」
「伏せてて!」
道は暗い。
伏せることにより、発見を数秒遅らせることができるかもしれない。
気力を振り絞り、『フラガラック』を上げる。
敵が来る。
先頭の兵士の手にあるのは、剣。
すぐ後ろに三人続いているが、彼らの得物は眼が霞み確認できない。
向かってくる兵士たちの圧力に、倒れ込みそうになる。
自分を叱咤し、前方を睨み付ける。
接近してきた兵士が、剣を振り上げた。
左肩の怪我を知っているのか、左上から叩き付けるように振り下ろしてくる。
前進の勢いと体重が乗った一撃を、受け止められる状態ではない。
重心を低くし、ティアは足を前に出した。
斬撃を掻い潜る形で、懐に飛び込む。
兵士の胸に、頭が当たる。
そして『フラガラック』が、兵士の腹を突き破った。
断末魔が、すぐ近くで聞こえる。
兵士の振り下ろした腕が、ティアの左肩を打った。
声が漏れる。
意識が眩み、倒れ込む。
結果的に、それで後続の兵士の剣をかわすことができた。
身を起こそうとしたところで、脇腹を蹴り飛ばされた。
泥に塗れ転がる。
ナーシィーの声が聞こえた。
名前を呼んでいる。
あとちょっとだけ、頑張れ。
みんなが、助けにきてくれるから。
這いつくばった状態から、上体を起こす。
兵士たちが三人、ティアに刃物を向けている。
「ヴォルト……!」
声が、空から降ってくる。
「退け!」
それは、兵士に出された指示だろう。
兵士たちが、後方に跳び退く。
「……アクス!」
ティアと兵士たちの間に、まるで水面に突っ込む鳥のような勢いで着地したのは、ルーアだった。
電撃が弾け、逃げる兵士たちを襲う。
「リウ・デリート!」
声が響き、兵士たちに届く前に電撃が消えていく。
魔法を発動させたのは、黒い祭服を着た、中肉中背の中年だった。
骨格からして、『ビンス園』で遭遇したローブの大男とは別人だろう。
三人目の魔法使い。
敵を倒し損ねても、ルーアに気にする様子はなかった。
肩越しに、鋭い眼をこちらに向けていた。
ティアとナーシィーの負傷具合を確認しているようだ。
「……ルーア」
「……ダネットさんだ」
「えっ?」
「ダネットさんが、時間稼ぎをしてくれた。だから、間に合った」
「……うん」
一人で、何十といた兵士を止めてくれた。
だから、ティアとナーシィーはここまで逃げることができたのだ。
「……ダネットさんは?」
ルーアは、前を向いた。
「無事だよ」
「……そう、良かった」
ティアは、ほっと胸を撫で下ろした。
祭服の男の更に向こうから、剣撃の音と魔法が炸裂している音が響いてくる。
ルーア以外にも、戦っている者がいる。
みんなが、助けにきてくれた。
あと一息だ。
ティアは、立ち上がろうとした。
「……そこにいろ。前に出なくていい」
ルーアの声に、ティアは身震いしてしまうのを感じた。
(……ルーア?)
ルーアの表情を見れば、なにを考えているか、大体わかる。
嘘を付かれても、見抜くことができる。
背中越しでも、感情が伝わってきた。
すごく、怒っている。
「……貴様の相手は、後でしてやる。今は、そこをどけ。私は、急いでいる」
祭服の男が言った。
「……てめえらの事情なんざ、知らねえよ」
ルーアが、ゆっくり剣の柄に手をやる。
「これだけ苛つかせてくれたんだ。覚悟しろよ……」
鞘から解き放たれた鋼が冴えた音を鳴らし、夏の夜の湿った空気の中で響いた。
◇◆◇◆◇◆◇◆
対峙する男は、腰が退けていた。
無理もない。
すでに五回斬られているのだから。
もし甲冑を装備していなければ、と嫌でも考えてしまうはずだ。
男が声を張り上げ気を吐くが、テラントは冷たく看破していた。
力量の差を見せ付けられ、心が折れかけている。
男が剣先を微かに動かす。
次には、斬撃か突きを繰り出してくるはずだ。
どちらが来るか、確認することはできなかった。
男が攻撃の挙動を見せたその時すでに、テラントは『カラドホルグ』を振り切っている。
顔面を打たれ、男はよろめき後退した。
膝を付く。
まだ立てるはずだ。
防具越しに、加減した斬撃を浴びているだけなのだから。
男が俯く。
何度挑んでも、勝てることはない。
それを、悟ったのだろう。
乱れた息を整えながら、テラントはヘイム・デロ・ツオサートの私兵たちを見回した。
敵に回してしまった、二百人。
一対一を、休むことなく何百回と繰り返している。
二百人のうちの百人ほどは、すでに一回か二回はテラントに負けているはずだ。
何度も『カラドホルグ』を叩き込まれ、動けなくなった者が二十人程度いるか。
膝を付いた者を押し退け、別の男がテラントの前に立った。
柄が長い剣を、両手で正眼に構える。
(へえ……)
これは強い。
雰囲気がある。
これまでに相手にしてきた者たちより、一段も二段も上手だろう。
改めてテラントは集中した。
肩で息をするのは、やめることができない。
夏場でなければ、もう少し体力の消耗を抑えられただろうが。
裂帛の気迫と共に、男が斬り掛かってくる。
鋭い。
テラントの手首を斬り落とそうという剣筋。
男が前に出ると同時に、テラントも踏み出している。
轟音。
男の体が吹っ飛ぶ。
『カラドホルグ』の切っ先に、手応え。
突きが炸裂し、発生した衝撃が肩まで伝わっていることに気付いたのは、男が何メートルも先の地面に転がってからだった。
甲冑の胸の部分が、大きく陥没している。
「……あ、悪ぃ。加減ミスった……」
炬火の下で、地面に倒れ込んだまま男は体を痙攣させている。
他の者が、介抱するために兜を外していた。
白眼を剥き泡を吹いているが、呼吸はしているようだ。
死ぬことはないだろう。
テラントは、安堵していた。
必要であるなら敵を斬ることを躊躇いはしないが、人殺しが趣味というわけではない。
泡を吹く男を見て、喚く者がいる。
「馬鹿なっ!? こいつは、ツオサート領最高の剣士と評価されている男だぞ!?」
「……まあ、俺が毎日剣を合わせている奴と比べるとなあ……」
「なんだ!? 二百人だぞ!? それを、貴様は……」
喚き、混乱しながら、男が剣を向けてくる。
「貴様は、何者なんだ!?」
動ける者が、残り百八十人ほどか。
あと一千回くらい一対一で勝ち続ければ、ヘイム・デロ・ツオサートの私兵たちは諦めてくれるかもしれない。
問題は、彼らが数の利を活かさないという信念を捨てた時である。
「……名乗っただろ?」
あと、百八十人。もう一度、それを確認する。
「テラント・エセンツだ」
そしてテラントは、『カラドホルグ』を手に眼前の相手を見据えた。
◇◆◇◆◇◆◇◆
足下に転がっている兵士は、ティアが残された力を振り絞って倒したのだろう。
背後にいるのは、ティアとナーシィー。
ルーアの前にいる兵士が、三人。
兵士の後方に、黒い祭服の男。
これが、ジョサイア・フォルジャーだろう。
全体的に穏やかな雰囲気を持っている。
だが、眼の奥に暗い光がある。
それがなければ、神父だと言われても信じたかもしれない。
デリフィスとユファレートに対しているのは、アランと兵士七人になるか。
二人の相手ではない。
このジョサイア・フォルジャーと三人の兵士に、ルーアは集中すればいい。
「ライトニング・ボルト!」
「リウ・デリート!」
電撃を撃ち出すが、兵士まで至る前に消失した。
ジョサイア・フォルジャーが防御の魔法を発動させたのである。
夕刻に戦った時のアランと、同じような戦法を取るつもりだろうか。
攻撃は兵士たちに任せ、防御と補助に徹する戦い方。
まともに付き合えば、長期戦になる。
これまでの戦闘と移動で、魔力も体力もかなり消耗していた。
長引けば、それだけ不利になっていく。
「ディレイト・フォッグ!」
兵士たちが前進するタイミングに合わせ、魔法を発動させた。
濃い霧が、ルーアと兵士たちを包む。
ルーアは迷わず前に駆け出した。
「リウ・デリート!」
ジョサイア・フォルジャーの声が響く。
魔法の効果を消し去る魔法である。
それは、使うだろう。
防御と補助に徹しているのだから。
兵士たちの視界を遮る霧は、消したいはずだ。
その行為は、ルーアの視界を晴らすということでもある。
そして兵士たちは、ルーアに接近されていることを知らない。
霧が消える。
すぐ近くにいるのは、不意を衝かれ反応が遅れている兵士たち。
剣を右に振って一人の顎を砕き、左に返して別の兵士の肩から胸までを裂く。
残った兵士が、後退する。
「ノームド・ロック!」
地面が盛り上がり、ルーアの足首に絡まろうとする。
これに捕まると、しばらく動きを制限されてしまう。
ルーアは、敢えてかわさなかった。
足首を、土の手が掴む。
ジョサイア・フォルジャーは、防御と補助を担当している。
敵の攻撃要員は、あと兵士が一人のみ。
そして、ジョサイア・フォルジャーがルーアの動きを封じ込めにきている間、兵士を守る者はいない。
「フォトン・ブレイザー!」
「……! ルーン・シールド!」
放った光線は、ジョサイア・フォルジャーの前に展開した魔力障壁に止められる。
だが、間にいた兵士は消し飛んでいた。
咄嗟のことで、自分の身を守るだけで精一杯だったのだろう。
兵士たちがあっさり倒されたことに驚いたのか、ジョサイア・フォルジャーが一歩後退する。
その間にルーアは、足首を掴む土の手に剣を叩き付けた。
泥が混ざった土の手が、脆くも崩れ去る。
ジョサイア・フォルジャーの表情には、焦燥の色が浮かんでいた。
夕刻の戦闘では、アランと兵士たちの連携に随分苦しめられた。
同じ戦法でいいと思っていたのかもしれない。
兵士たちは倒した。
これで、一対一である。
無理に速戦に持ち込む必要はない。
敵の実力を見極め、勝率が高くなる戦い方をすればいい。
ただし、ティアが出血していることを考えれば、だらだら時間を掛けるのは避けたいが。
ジョサイア・フォルジャーの後ろでは、デリフィスとユファレートが、兵士たちを次々倒していた。
剣を振り回すデリフィスから距離を取り、ユファレートは安全圏から遠距離魔法を連発していた。
二人は上手く連携を取っているようだ。
デリフィスは、他人の力を当てにしないことが多い。
まず自分の戦い方を重視し、他人がそれに合わせるのなら、特に拒まず共闘する、という姿勢である。
だが、今は違った。
兵士たちの中に突っ込み怯ませ、すぐに身を返す。
その空隙に、ユファレートは魔法を叩き込んでいる。
アランが魔法を使う素振りを見せても、デリフィスは完全に無視していた。
ユファレートを、全面的に信用しているのだろう。
アランの魔法は、全てユファレートに撃ち落とされていた。
互いの力を引き出し合っている。
見事な連携だった。
デリフィスが、戦い方を変えた。
それだけ、ダネットの仇を取りたいということなのかもしれない。
アランとしては、どうしようもないだろう。
デリフィスとユファレートという化け物染みた力を持つ二人が、完璧な連携を見せているのだから。
抵抗らしい抵抗もできずに、兵士たちが倒れていく。
一方的な戦いだった。
デリフィスの剣に斬り飛ばされ、更にユファレートの魔法の直撃を受けている兵士には、憐れみさえ感じてしまう。
勝敗の行方を気にする必要はないだろう。
ルーアは、眼の前にいるジョサイア・フォルジャーに集中した。
魔法を使った。
どの程度の魔法使いなのか。
使用した魔法をざっと解析した印象としては、それなりの実力者であるようだ。
少なくとも、アランよりは上だろう。
油断していい相手ではない。
「フォトン・ブレイザー!」
まずは、正面から攻撃し、敵の出方を見る。
ジョサイア・フォルジャーも、同じ魔法を放っていた。
二人の中央で光と光がぶつかり、道を照らす。
互角の押し合い。
ただ、ルーアにはもっと上がある。
ジョサイア・フォルジャーはどうか。
「フォトン・ブレイザー!」
出力を上げ、再び光線を撃ち放つ。
ジョサイア・フォルジャーも、申し合わせたように同じ魔法で応じる。
また、光と光が激突する。
だが、今度は明らかにルーアの方が押していた。
ジョサイア・フォルジャーの魔法が、砕けていく。
光線が空間を貫き、ジョサイア・フォルジャーへと迫る。
(……なんだ?)
ジョサイア・フォルジャーの両肩と両脇腹が、盛り上がっている。
黒く平べったい板のような物が、いくつも生えてくる。
それらはジョサイア・フォルジャーの体から分離し、眼の前で複雑に組み合い、壁のようになる。
光線が、壁に当たった。
轟き、砕け、光は消失していく。
(弾き飛ばされた……)
壁には、傷一つない。
『悪魔憑き』だったか。
遮るそれは、巨大な亀の甲羅のように見える。
「アランと戦ったそうだな。『悪魔憑き』を知っているようだが」
壁の向こうから、ジョサイア・フォルジャーの声。
「果たして、私ほどの力を持つ者を見たことがあるかな?」
甲羅に、わずかな隙間が空く。
そこから、ジョサイア・フォルジャーはルーアのことを見ていた。
ルーアが腕を振り上げると、甲羅も閉じる。
「ファイアー・ボール!」
火球が直進し、甲羅にぶつかり炎を撒き散らす。
周囲を警戒しつつ、ルーアは後退した。
反撃は、ない。
安易に正面から甲羅を攻撃すれば、直後に瞬間移動の魔法などで死角に回ってくると予想していたが。
ジョサイア・フォルジャーは、動かない。
「……無駄だよ。鉄壁の防御だと、私は自負している」
「……」
「ファイアー・ボール!」
使われた魔法を、そのまま使い返す癖でもあるのかもしれない。
甲羅を開き、火球を放ってくる。
貫通性のある魔法ではない。
止めなくても、ティアたちに害はないだろう。
火球が地面に突き刺さり、火柱を立てる。
ルーアは後方に大きく跳躍して、魔法をかわしていた。
「ルーン・エンチャント」
着地と同時に、剣身に魔力を貼り付かせる。
燃え盛る火柱を、しばし眺める。
「……鉄壁?」
ダネットを死なせた。
その時から多分、ジョサイア・フォルジャーたちの敗北は決まっていた。
「笑わせんな……」
自慢というわけではないが、準絶対魔法防御壁さえ破ったことがある。
「フォトン……」
残った魔力は少ない。
それでも、最大に近い威力のものを捻り出していく。
「……ブレイザー!」
光線が雷の如く突き抜け、火柱を消し飛ばし、一瞬で甲羅に衝突する。
衝撃は、地すら揺るがした。
光が渦巻く破壊の跡を駆けていく。
鉄壁だとかいう甲羅に、亀裂が走っていた。
魔力が宿った剣を、亀裂に叩き付ける。
甲羅に、向こうが見えるだけの隙間ができる。
引きつったジョサイア・フォルジャーの顔に、ルーアは掌を向けた。
「フレア・スティング!」
「……ルーン・シールド!」
ジョサイア・フォルジャーが魔力障壁を展開させるが、ルーアが放った炎塊が、いとも容易く破壊する。
巻き込まれないよう後退し、次に打つ手を模索する。
炎はジョサイア・フォルジャーの身を焦がしていたが、浅い。
『悪魔憑き』は、この程度では死なない。
「ディレイト・フォッグ!」
ジョサイア・フォルジャーも後退し、魔法の霧を発生させる。
視界を奪われるのは危険である。
ルーアは更に後退し、魔法の範囲外に逃れた。
霧の中に、ジョサイア・フォルジャーがいる。
どう動いてくるか。
身構え、備える。
攻撃がこない。
次の魔法を使う様子もない。
十数え終わるまで待ち、ルーアは魔法を発動させた。
「リウ・デリート」
霧が晴れていく。
背中を向けているジョサイア・フォルジャーの姿が見えた。
逃走している。
「……の野郎!」
逃げる背中に、照準を合わせる。
「……まあ、いいか」
呟いて、ルーアは腕を下ろした。
距離がある状態では、魔法使いに魔法は通用しにくい。
向かってくるならともかく、遠ざかるならば放置しても良かった。
傷付いたティアとナーシィーからも遠ざかるということなのだから。
それに、ジョサイア・フォルジャーが逃げる方向。
デリフィスとユファレートがいる方向である。
自ら進んで処刑台に昇るようなものだった。
倒すまではいかなかったが、充分に痛めつけた。
押しきってやろうと、魔法を連発した。
少し疲れている。
あとは、デリフィスに譲ってやればいい。
ティアとナーシィーの傷の具合を確認するため、ルーアは逃げる背中から視線を外した。
◇◆◇◆◇◆◇◆
まだ、アランがいる。
兵士も、七人残っているはずだ。
ルーアは、強かった。
ジョサイアは、それを認めた。
アランが遅れを取ったのは、ルーアに力があったからだ。
アランたちと合流し、それから叩く。
光が煌めいた。
直撃は避けたが、魔力障壁を破壊され転倒したのは、アランだった。
分厚い剣を持った男が、アランに接近する。
アランが、腕を振った。
ジョサイアと同じく、『悪魔憑き』である。
アランの腕が伸び、高速で弧を描き、剣士を死角から襲う。
男が、剣を一閃させた。
岩壁にぶつかり転がるのは、ちぎれたアランの腕。
光が見えた。
剣士の後方に、女がいる。
長い髪をした女。
一瞬で撃ち出された光球が、アランの顔面を灼く。
男が、剣を振り上げた。
アランの体が、刃に跳ね上げられ宙を舞う。
更に光が、アランの胴体を貫いていく。
剣か魔法か、どちらがとどめになったかわからないが、地に伏せるような格好で転がったアランは、明らかに事切れていた。
なにが起きた。
脳が、理解を拒絶している。
立っている兵士が、一人もいない。
みな屍に戻り、泥道を埋め尽くしている。
泥を踏む音が耳に入り、ジョサイアは我に返った。
剣士が、こちらを見ている。
動悸が激しい。
胃が締め付けられているような感覚がある。
咄嗟に、ジョサイアは後退した。
とにかく距離を保つことだ。
「!?」
右足を払われたような衝撃。
足首に、穴が空いている。
女魔法使いが、ジョサイアに杖を向けていた。
剣士からとてつもない圧力を感じ、つい女魔法使いから意識を外した。
だが、束の間のことだ。
その束の間を、見逃さないのか。
剣士が踏み出してくる。
ジョサイアは、前方に壁を造り出した。
『悪魔憑き』の力によって構成された、黒い甲羅のような壁。
鉄壁の防御。
破砕した。
剣の一振り、ただそれだけで。
「ひっ!?」
力場の魔法で、剣士を押し返そうとした。
衝撃波に、力場が崩れる。
女魔法使いの攻撃。
男が、分厚い剣を振り下ろす。
座骨を砕かれながら、ジョサイアは考えていた。
なにを間違えたのだろう。
どこから間違えていたのだろう。
彼らが、ダネットという傭兵の仲間だとは知っている。
ダネットを殺したのが、まずかったのだろうか。
あの傭兵は、ジョサイアたちの前に立ち塞がった。
仕方なかったのだ。
ナーシィーを狙わなければ良かったのだろうか。
そうすれば、ダネットを殺すことも、こうして殺されることもなかった。
あの子供の内側には、『中身』がいる。
誰かが破壊しなければならない。
世界を守るための戦いであるはずだ。
なぜ、こんな目に遭う。
ネイト・ホルツマンを受け入れなければ、利用されることもなかった。
『コミュニティ』を裏切らなければ。
『コミュニティ』では、部隊の副隊長を任されていた。
指揮を自分が執っていれば、自分が隊長になっていれば、部隊が失敗を重ねることはなかった。
自分やアランが『悪魔憑き』になることも、部下たちが兵士になることもなかった。
『コミュニティ』に育てられなければ。
生まれなければ。
剣が、胸を裂いていく。
魔法が、腹に穴を空ける。
なぶり殺しにするつもりはないのだろう。
ジョサイアは、必死に抵抗していた。
本能が、懸命にジョサイアを生かそうとしている。
腕を斬り飛ばされる。
喉を潰される。
なにを間違えた。
わからない。
意識を失いながらも立ち塞がった、ダネットの姿が思い浮かんだ。
そうか。
ジョサイアにあるように、ダネットにも戦う理由があった。
ルーアにも、この剣士にも、女魔法使いにも。
戦う理由が、喰い違ってしまった。
それだけだ。
相手が悪かった。
斬り裂かれる。
穴を穿たれる。
剣が、魔法が、ジョサイアを壊していく。
◇◆◇◆◇◆◇◆
テラントは、息をついた。
次に向かってくるのは、誰か。
二百人のヘイム・デロ・ツオサートの私兵たち。
まだほとんどが立っている。
動けなくなった者も、しばらく休めば回復する。
甲冑で身を守っている者を、殺さず、過剰に痛め付けず戦闘不能にするというのは、やはり難しい。
彼らは悟っているはずだ。
全員、腕が立つ。
だがそれでも、二百人の中にテラントと互する者はいない。
一対一では、勝てない。
そろそろか、とテラントは用心した。
信念を捨て、大勢で向かってくる。
さすがに、二百人を同時には相手できない。
道を譲ってもいい頃合いかもしれない。
時間は、充分稼いだ。
デリフィスたちはきっと、ティアとナーシィーを救い、アランたちを倒すだろう。
ヘイム・デロ・ツオサートの私兵たちから、勢いは奪った。
心が挫けた者もいるだろう。
上手く逃げられるか。
また、一人前に出てきた。
まだ、一人で向かってくるか。
剣を構える。
彼ら全員に共通して言えることだが、隙がない。
「……テラント・エセンツ、本物か……」
男が言った。
「戦場で負けを知らず、卓越した戦術眼と指揮能力を持ち、個の武勇でも並ぶ者は無し、か。誇張された噂だと思っていたが、向かい合うと納得できる」
「……そりゃ、どうも」
「……私たちは、アラン一味を捕らえなければならん」
「諦めな。今頃俺の連れたちが、みんな倒してしまっているさ」
「返り討ちに遭っている可能性もあるだろう?」
「ないな。あいつらはみんな、俺と同じくらい強いよ」
「そうか。もっとも、その言葉を鵜呑みにはできないがな」
男が構えを崩し、首を振った。
後ろにいる仲間たちを見たようだ。
いよいよ、全員でくるだろうか。
「……私は、ビアファラという。一応私が、兵団長となっている」
テラントは、おやと思った。
冑から覗くビアファラと名乗った男の眼は、なかなか澄んでいる。
「テラント・エセンツと剣を合わせられる機会など、二度と来ないだろうからな。剣士として、手合わせを願いたい」
テラントは、小さく吹き出した。
彼らは、数の利を活かさない。
戦争を舐めるなと言ってやりたい。
自分の部下ならば、殴り飛ばしているだろう。
テラントには理解できない信念。
だが、最後の最後まで貫き通すのならば、少しは認めてもいい。
「……来な」
ビアファラが打ち込んでくる。
剣を合わせたのは、礼儀のようなものだ。
押し返し、手首に『カラドホルグ』を叩き付ける。
地面に、剣が転がった。
ビアファラは、すぐに剣を拾った。
斬り掛かってくる。
斬撃を払い除け、逆に肩口を斬り付ける。
ビアファラは、何度も向かってきた。
その回数分、『カラドホルグ』を叩き込む。
二十数回、押し返したか。
ビアファラは、膝を付いた。
自嘲気味な笑いが漏れている。
「……二百人いて一人に敵わないか……しかも、傷一つ付けられず、一人も殺されることなく……」
「……もういいかな」
指揮官であるビアファラの心が、折れた。
時間も稼いだ。
これ以上の足止めはいらない。
右に移動し、橋の前を開ける。
「行きたけりゃ行けよ。」
だが、テラントの前を遮る者がいた。
一人ではない。
剣を向けている者が、三人。
更に、横に回り込んでくる者もいる。
「待て、お前たち!」
慌てたのは、ビアファラだった。
「相手は、一人なんだぞ!」
「……時間を掛けすぎた、ビアファラよ」
テラントの前方を遮る男たちのうち、中央にいる者が苦々しく言った。
「アランたちには追い付けないだろう。その男の言う通り、倒されているかもしれん。私たちは、なにをしていた? たった一人に止められたなどと、報告できるか。この男の口だけは、封じなければならない」
(……べつに、ベラベラ言い触らすつもりはないけどな)
言ったところで、信用はされないだろう。
テラントは、真っ直ぐに踏み出した。
『カラドホルグ』を振り抜く。
これまでとは違い、斬れ味を最大まで上げている。
殺せる状態での斬撃である。
喋っていた男の、甲冑の前だけが割れる。
男が、尻餅を付いた。
左右にいた者たちは、跳び退いている。
「俺も死にたくはないからよ……」
『カラドホルグ』を振り切った姿勢で、低く告げる。
「……そっちがその気なら、俺も手加減はしない」
「二百人いるんだぞ!?」
声を震わせながら言ったのは、テラントを右から衝こうという体勢の男か。
睨み付ける。
「だから?」
何人かが、後退った。
彼らはこの数時間、テラントに負け続けた。
負け癖が付いている状態である。
圧倒的に優位な状況でも、弱気になってしまうものだ。
「これから俺は、お前たちから馬を奪う。そして、『ビンス園』に向かう。重装備のお前らじゃあ、俺に追い付けはしない」
間合いを詰めようとしている者たちに視線を向け牽制し、テラントは続けた。
「お前たちとは、『ビンス園』で決着を付けることになる」
「……それに、なんの意味がある?」
聞いてきたのは、ビアファラだろうか。
「わからないか? 俺たちは、『ビンス園』の人々を守ってきた。瓦礫の下敷きになっていた人々を助け、傷の治療を行った。お前たちは? 怪我人を放ったらかしにしただろ? 『ビンス園』の人たちは、どっちの味方をするだろうな?」
「……『ビンス園』の者たちを、巻き込むつもりか?」
尻餅を付いた男が、呻く。
「一般市民が、傷付くことになるぞ」
「傷付けるとしたら、お前らだろ。掠り傷一つでも付けてみろ。その時点で、お前らはアランたちと同じく悪党だ。俺も、容赦しない」
「……」
「言っとくが、俺だけじゃないからな。お前たちも見たはずだ。盗賊たちのアジトに馬鹿でかい風穴を空けた、ヨゥロ族の男をな。あの魔法を、今度はお前らが浴びることになる」
彼らは、魔法を認めない。
だが、魔法の強大な力を知らないわけではないのだ。
テラントの仲間に、シーパルとユファレートという世界屈指の魔法使いがいることを知っている。
「全滅も、覚悟しとけよ」
はったりであるが、テラントは堂々と言い放った。
二百人に包囲されている状況だが、絶望はしていない。
突破し馬を奪うのは、不可能ではない。
そのまま逃げてしまってもいいが、『ビンス園』でヘイム・デロ・ツオサートの私兵たちと争うことには、意味があった。
『ビンス園』の人々は、テラントたちの味方をしてくれるだろう。
共に戦うことはなくても、心情的には味方をする。
一般市民が支持するということは、世論を味方に付けるということでもある。
ビアファラたちは後々、テラントたちはアランたちの味方だった、逃亡幇助をしたと報告するかもしれない。
だが、『ビンス園』の人々の証言があれば、信憑性は失われる。
ビアファラが、剣を収めた。
考える頭があれば、わかるはずだ。
このままテラントと争い続けても、得る物は少ないと。
最悪、全滅も有り得ると。
主であるヘイム・デロ・ツオサートに、益はない。
そして、覚えているはずだ。
最初に、テラントがなにを言ったかを。
「……譲る、と言ったな? 私たちがアラン一味を討伐したことにしていい、と」
「ああ。確かに言ったぜ」
「そうか……」
ビアファラは、眼を閉じた。
自問しているように見える。
だとしたら、考えているのは主であるヘイム・デロ・ツオサートのことだろう。
「……私たちは、アラン一味を討伐した。そして、これ以上君たちと争わない。もちろん、『ビンス園』の人々に危害を加えることもない」
「……」
口許が緩みそうになるのを、テラントはなんとか我慢した。
まだ、終わっていない。
最後の最後まで、二百人と戦える超人のように振る舞わなければならない。
ビアファラたちが、気を変えないように。
「……私たちの負けだ、テラント・エセンツ」
敗北宣言。
だが、彼らはなにも失わない。
アランたちを討伐したのは、彼らということになるのだから。
二百人が一人に止められたという事実などなく、名誉だけが残る。
テラントは、それで良かった。
デリフィスが満足さえすれば、名誉などいらない。
他の者たちも、剣を収めていく。
表情は変えずに、テラントは安堵していた。
◇◆◇◆◇◆◇◆
倒れているのは、ジョサイア・フォルジャー、アラン、兵士たち。
彼らが動かないことを確認しつつ、ルーアは佇むデリフィスとユファレートに近付いていった。
「……少しは、すっきりしたか?」
デリフィスが、崖に挟まれた狭い天を仰ぐ。
「……どうかな。よくわからん」
「わたしは、全然……」
ユファレートは、沈んでいる様子だった。
「まあ、ダネットさんはべつに、仇討ちなんて望んでいなかっただろうからな」
「……うん」
ルーアは、親指で自分の後方を示した。
「けど、ティアとナーシィーを助けることはできた」
「……うん。そうだね」
ユファレートの表情が、少しだけ柔らかいものになる。
「あれ? ルーア、今普通に、ティアのことティアって……」
「……オースターとナーシィーを助けることはできた」
「わざわざ言い直さなくても……」
ルーアは、咳払いをした。
「あいつらの傷の手当てはした。だけど、怪我して随分経つみたいだからな。後遺症とか残ったらあれだし、一応ユファレートも見てやってくれ」
「わかった」
頷き、ユファレートはティアたちの方へ走っていった。
デリフィスは、まだ夜空を眺めたままだ。
戦闘さえ終わってしまえば、静かな夜だった。
草木がない峡谷な分、虫の音も聞こえない。
「……戦闘には、勝った。だが……」
「ああ」
言い淀んでも、デリフィスが言いたいことはわかる。
勝ったと言っていいのだろう、これは。
だが、ダネットが死んだ。
だから、この戦いは負けも同然なのである。
敵を殲滅しても、気が晴れることはない。
「……いつの間にか、随分面倒なことになったなぁ」
味方に一人でも犠牲が出れば、それだけで負けた気分になる。
難儀なことである。
あのストラームやドラウでさえも、犠牲を出しながら戦ってきたというのに。
ユファレートに呼ばれて、ルーアは振り返った。
「……デリフィス。ユファレートに、しんどいこと言わすなよ」
「……ああ」
ダネットが死んだことを、ティアとナーシィーはまだ知らない。
いつかは、誰かが告げなければならない。
ダネットという男と、傭兵という職業を最も理解しているのは、デリフィスだった。
傭兵であるナーシィーに事実を伝えるのは、デリフィスであるべきだとルーアは思っていた。
ユファレートは、ティアを支えている。
ルーアたちの方から、三人の元へ向かった。
ティアは、肩を押さえ苦しそうな顔をしている。
「……大丈夫か、オースター?」
「……まだ……いるの」
「……あん?」
「これで終わりじゃないの! まだいるのよ! もう一人、魔法使いが……」
「彼については、気にしなくていい」
「うおっ!?」
いきなり横に湧いたのは、エスである。
「君たちとこれ以上関わることはないだろう。彼は間もなく、『コミュニティ』によって処分される」
「……ああ。アランたちは、『コミュニティ』の裏切り者だったな。……にしても、相変わらず心臓に悪い……」
「……あっ。ナーシィー君、気にしなくていいからね。なんか白いけど、全然怪しい人じゃないから! 普通の人だから!」
まったく説得力のないことを言うティア。
突然現れたエスの白い姿に、ナーシィーは眼を白黒させている。
まあ、普通の反応である。
そんなナーシィーに、エスは一瞥をくれた。
(……ん?)
なにか、苛立っているようルーアには感じられた。
「……優れた魔法使いではある。だが、それでも舞台の中央に立つのは、分不相応というものだ。だから、彼は死ぬことになる」
呟くように言い、ルーアに視線を向けてくる。
「……ルーア、君には可能性がある」
「……なんだよ、急に」
「ストラーム・レイルも、君には期待しているだろう。死んだドラウ・パーターも、ランディ・ウェルズも。私とは、違う期待の仕方だろうがね。だが君は未だに、舞台の端にいる」
「……」
エスがなにを言っているのか、よくわからない。
いつものことではある。
だが、なんとなく悟った。
エスが苛立っているのだとしたら、その理由はルーアにあるのだろう。
「精進したまえ」
言い残し、消え失せる。
普通の言い方だったが、なぜか吐き捨てたかのようにルーアには聞こえた。
消失したエスに、ナーシィーが動転している。
普通の人だと、懸命にティアが言い聞かせていた。