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挿絵(By みてみん)


9.

 兄、輝有こうの結婚が決まったという報告を受けた俺は、広島の出張のついでに実家に一泊することにした。

 驚かすつもりがなかったが、普段メールも電話もしないから、連絡もせずに実家へ戻った。俺の姿を玄関で見た母は一瞬声も出せないぐらいに驚いた。それから大声で「帰るなら帰るって電話の一本よこしなさいよ!」と、久しぶりに会う息子を歓迎するどころか、逆に怒り出した。

「仕事が忙しくてつい連絡し損ねたんだ。兄貴が結婚決まったそうだから、一言お祝いを言っておこうかなって思ったんだけど…」

「あ~…、もう夕食、昨日の残りのカレーで済まそうと思ったけど、メニュー変えなきゃね」

「別に俺、カレーでいいけど」

「あんたの分まで残ってないの。ちょっと買い物してくるから留守番してくれない」

「…いいけど」

 玄関を上がった俺は二階の自分の部屋への階段を昇ろうとした。その時、母は「あら、あんたの部屋はもうないわよ。二階は輝有夫婦が使うようにリフォームしたの。だから由宇は客間に寝て頂戴」と、にべもない。


 母が買い物に出た後、俺はこっそりと二階の様子を伺った。

 二階の部屋は三部屋とトイレがある。

 それぞれの部屋が俺達三人の兄弟妹の部屋だった。

 リフォームは三部屋を寝室と簡単なキッチン付きのリビングダイニングに分けたもので、別段取り立てて目新しいデザインでもなかった。

「うちの家族のだれひとり、俺が建築家って思い出さなかったのかね」と、俺は苦笑する。

 リフォームするのなら一言相談をしてくれても良かったはずなのに…と、落胆する気持ちもないわけではないが…我ながら虫が良すぎるぼやきではある。

 大学以来この家から離れているのだから、自分の部屋が無くなっているのが普通だし、俺の部屋だけじゃなく、現在オーストラリアで生活している妹の部屋も無いのだから、俺だけが部外者扱いされているわけでもない…

 けれど、当たり前にそこにあると思ったものが目の前からなくなるのは、寂しいものだ。


 夕食はすき焼きだった。父も兄も揃い、妹を除いた四人水入らずで鍋を囲む。

「こりゃまた母さん、奮発したね。神戸牛だ」と、兄の輝有が驚きながら食卓に着く。

「由宇、たまには帰ってこい。いつもは貧相な晩餐が豪勢になるからなあ」と、父。

「お父さんがもう少し高給取りなら、毎日だって神戸牛でもいいんですけどね」と、皮肉交じりの母の冗談に皆が笑った。

 そうか、俺は歓迎されているのか…と、思ったけれど、上げ膳据え膳の客扱いされる事も何かしか気に入らないから、心の底から愉快にはなれなかった。

 つまるところ、俺の心は針の穴のように狭いのだ。


 広い客間にぽつねんと用意されたたまにしか出さないお客用の高級布団が俺の今夜のベッドなのだが、その寝心地の悪さときたら…。言うまでもないが布団の所為じゃなく、俺の歪んだ心が折角のおもてなしを素直に受け入れられなかっただけの話だ。

 だが、当時の俺の心の動揺は…自分でも理解できないほど複雑だったんだ。


 その夜はなかなか寝つけなかった。するとどうでもいいことまでをも延々と考え始め…この家に俺の居場所が無い事が究極の不幸…とか、もう俺なんてこの家には必要ないんだ~なんて、中二病的に思い込んで地面にのめり込む程落ち込んでしまう。


 朝、母親が用意してくれた朝食に手もつけず、「急な仕事が入ったから」と、我が家を後にした。

 家を出た途端に子供じみた自分の行動を反省したけれど、戻る勇気はなく、つまらないプライドが無駄に足を速ませた。

 長い坂を下りる途中、黒のマツダデミオが俺の横に泊まった。兄の車だ。

「乗れよ。駅まで送るから」

 笑わない兄の顔を見て、俺は黙って従った。


 車のオーディオからは聴いたことのあるピアノジャズが流れていた。

 当時は「エトス」に通い慣れた頃だったから、それまでは知らなかったジャズにもすっかり慣れ親しんでいたんだ。

「これビル・エヴァンスじゃない?」

「よく知ってるな」

「兄貴こそ…ジャズを聴くなんて、全然知らなかったよ」

「ジャズだけじゃないだろ?昔から由宇は俺が何が好きかなんて、興味なかったじゃないか」

「…」

「まあ、そんなことより…たまにはゆっくり兄弟で話さないか?どうせ、急ぎの仕事なんて嘘なんだろ?」

「別に…話すことなんて、無いと思うけど…」

「由宇になくても俺にはある。取り敢えず、厳島詣ででもしよう」

 

 輝有が俺に対して、色々な意見やこういう風に強引に何かを求めたことは無かったから、正直驚いた。

 俺にとって上杉輝有と言う人間は、始終きつそうな咳をする顔色の悪い、滅多に大声を出さない従順でおとなしい奴…ぐらいの認識だった。

 

 宮島口フェリー乗り場の近くの駐車場に車を置いて、連絡船に乗り宮島へ渡る。

 子供の頃は学校の社会科見学やら初詣でよく宮島へは通ったものだが、ここ何年も行かなかったから、観光客の多さに驚いた。

「今日は土曜日だから余計多いのさ。ちょうど満潮だから大鳥居が良く見えるよ」

 そう言われても俺には珍しくも無いから、他の観光客のように立ち上がって感嘆の声などあげるわけもない。

 桟橋に着いても一目散に厳島神社に向かう観光客とは逆の方向へ歩いた。

 昔、夏になると家族でよく行った海水浴場を目指して歩く。

 久しぶりに兄と並んで歩いて、ふと気がついた。

「あれ?兄貴、背が伸びたんじゃね?」

 輝有は病気の所為で、小さい頃から身長も体重も平均よりはかなり低かった。

「ああ、大学の頃にステロイドを止めてからは、少しずつ伸び始めてなあ。なんとか175に届いたかな。まあ、おまえには追いつけそうもないけどな」

「別に俺に追いつかなくてもいいだろうに」

「俺は…おまえにずっと追いつきたかったんだよ」

「…」

 俺には輝有の言葉の意味がわからなかった。


 桜の時期にはまだ少し早い三月の半ばだった。晴天の空に春霞がかかり、対岸の景色が少しぼんやりと見えた。

 海辺には当然のように俺たちの他に人影は見当たらなかった。

 俺と輝有は松林の奥に並ぶ石垣の土手に座り込んだ。

 

「懐かしいな…。昔はよく家族で海水浴に来たけれど、俺はあんまり泳げなくて、おまえと知香が親父と楽しそうに泳いでいるのを眺めてばかりだった」

「母さんがうるさかったからな。兄貴の発作が怖くてあれもダメ、これもダメってね」

「俺よりお袋の方が神経質だったけれど…大抵の母親は子供の病気には敏感だから、仕方あるまい。それにあの頃の俺には、お袋しか頼れるものはなかった。発作が起きると怖くてたまらなかったからな…」

「…」

「うらやましかったよ。おまえの何もかもが。丈夫で健康な身体、母親に少しも媚びないクールさと強さ。あっという間にひとりで大人になって、家からも俺からも瞬く間に羽を広げて巣立ってしまった…。本当になあ、おまえは最高にかっこよくて、俺の憧れだった…」

「なにそれ?はは…まさか」

 信じられない告白だったから、俺は輝有の横顔をまじまじと見つめた。その横顔はしっかりと整った大人の顔をした俺の知らない兄の姿だった。


「由宇は小学生の頃は町内の少年サッカー部に所属してただろ?俺、おまえの練習や試合の様子を、こっそり見に行ってたんだ。おまえがシュートを決めた時なんか、自分が蹴ったみたいに興奮したよ。中学の時はバスケ部で高校の時はテニスだったよな。運動もマトモにできなかった俺には、なんでも出来るおまえがうらやましいどころか、憧れのスターみたいなもんさ。しかも、おまえは有言実行で国立大学に合格し、家を出てそれから、大手の建設会社に就職。今じゃいっぱしの建築家…片や、俺は地元の市役所に就職。たった二歳しか違わないのに、差は開く一方。兄貴の尊厳なんてこれっぽちも見当たらない。それを恨んだりする理由なすら見つけられない。…すべておまえの努力と才能で掴み取ったものだ」

「そんなことねえよ。市役所の仕事だって立派だよ。それに建築家っていったって、マトモな仕事なんて全然もらえてないし…兄貴が憧れるようなもんじゃねえよ」

 俺を褒めちぎる輝有の言葉に嘘はないと感じても、決して手放しで喜べる気分じゃなかった。


「おまえの苦労はおまえしかわからないから、俺は今、俺の感じたままを話している。正直、勝手気ままに生きるおまえをうらやんだり、憎んだりしたこともあった。だけど身勝手なのは俺の方だった…」

「…」

「市役所の窓口で仕事していると、知ってる顔の客が結構いてね。俺が知らなくても、向こうから声を掛けてくる。それがおまえの知り合いがやたらと多いんだ。小学校、中学校の先生やらおまえの友達、その親御さんやら…。由宇はどうしてるのか?元気かい?って聞かれるんだ。そして皆口を揃えて『由宇くんは明るく元気で親切で、お世話好きでおしゃべりで、本当に笑い顔がかわいくてねえ…』って、話すんだよ。おまえ、中学の時は生徒会長をやってたんだな。全然知らない話をされてさ。驚いたよ」

「別に…話す必要はないと思ったから…」

「俺は家で笑っているおまえの顔を見た記憶があまりない。おまえが生徒会長をするほどの世話好きでおしゃべりでコミュ能力が高いなんて、想像もつかなかった。だからさ…もしかして、由宇はずっと家では本当の自分を見せてこなかったんじゃないのか?…って、その時初めて考えたんだ。おまえは小さい頃から俺やお袋に気遣って、さして我儘も言わず手も掛からず、甘える事もしなかったけれど、あれは自分自身を押し殺して過ごしていた姿だったんじゃないのか…。それを強いたのは俺じゃなかったのかって…。俺はもっと早くそれに気づいてやるべきだった。おまえを理解して、おまえが本音を曝け出せる…頼られる兄貴にならなきゃならなかったんだ。それが、お袋を独り占めしていた俺の償いになるはずだったのに…。ごめん、由宇、今まで気づいてやれなくて…」

「いや、あの…別に謝られるようなことじゃない。喘息で苦しんだのは兄貴だし、それを心配して看病するのは母親の役目だ。そりゃ、母さんにかまってもらえなくて寂しかったのは確かだけど、それで兄貴を責めたりはしたくなかった。ただ苦しんでいる兄さんを見たくなかったのは確かだし、一心不乱に兄さんだけを見つめている母さんにも、俺は関わりたくなかった。…そうだよ。俺はもう兄貴たちに関わりたくなくて、余計なことを考えたくなくて、あの家から逃げたかったんだ。だから俺に謝るなんて、マジで止めてくれ」


 これ以上輝有の話を聞くのは堪えられなかった。何故なら、俺は輝有に謝られるような人格ではないと知っていたからだ。俺は、俺の為だけに生きてきただけだ。


 しばらくの間、沈黙が続いた。波の音だけが繰り返し…時折、強い波が黒く砂浜を染めるのをじっと見つめていた。


「…本当は、親との同居の事、彼女は反対だったんだ。二世帯住宅にリフォームするからって、なんとか頼み込んで説き伏せた」

「え?そうなの?」

「何かの本で読んだんだか…人生にはそれぞれに役割があるそうだ。もしそれを信じるなら…俺の役目は両親と新しい家族を守ることなんじゃないだろうか。ささやかで平凡で、面白みの少ない生き方かも知れないが、それをつつましく貫く人生ってのも、意外と楽しめるかもしれない…なんて、考えるようになった。

俺は死ぬか生きるかで長い間、両親に心配させてしまった。だから老後の面倒を見るのは当然俺の役目だと思っている。そして、おまえと知香をあの家と両親から自由にしてやるのが、俺がおまえ達に出来る償いだと思っているんだ」

「償いとか…そんな…。輝有が責任を感じることでもねえだろ」

「あるよ。あるんだよ…。だけど俺を憐れんでくれるなよ。おまえをうらやんだり、憧れたりした時もあったけど、俺は由宇にはなれないし、由宇の後姿を追ってみても自分が惨めなだけだ。だから偉そうに言うわけじゃないが、俺らしさってのを見つけ出した…ってところだ」

「…」

「二階のリフォームの件もお袋はおまえに頼めば安くすむから、って言ってたんだ。あれでもお袋はおまえの事が自慢でね。近所や親戚なんかにはおまえの自慢ばかりしているんだよ」

「…そうなの?」

「もっとおまえに甘えて欲しい、甘えたいとも思っているんだろうけど、そりゃお袋の手前勝手な都合のいい話って奴だ。甘えたい時に甘えさせてもらわなきゃ、それはもう初めから無いと思った方がマシだって話しだろ?」

「…うん」

「それに由宇にはもうあの家に関わって欲しくなかった。誤解しないでくれ。由宇を無視したり拒否しているわけじゃない。おまえには…家なんかに囚われずに、自由に羽ばたいて欲しいって…願っている。多分それは…俺が出来なかった事をおまえに託してみたいっていう思いも少しはあるだろうけれど、それよりも…いつまでも俺の憧れでいて欲しいっていう…勝手な思い込みがあるんだよ」

「輝有…」

「どっちにしろ、おまえは親や家や家族やそんなつまらない事に、煩うことなく、自由に生きてくれ。俺はそんなおまえを応援したい。駄目かな?」



 どう、返事をすればいいのか、わからなかった。

 俺は輝有の想いに応える程の器量を持った男なのか?

 俺が輝有よりも良い男になれるなんて…とても思えない。

 病気の苦しみに耐えて、色んな葛藤を乗り越えて、親の面倒も全て背負い込んで、自分は平凡な生活を選んで、そして俺には自由に生きろって?

 こんな想いを本気で抱いている輝有に、俺はとても敵わないし、それ以上に…自分の情けなさに愕然とした。


 

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