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俺は感動して何も言えなかった。
勝手に飛び出てきた俺を追いかけてくれた信さんの想いが酷く嬉しかったのだ。
「ごめん…。いい歳して大人げなかったと、後悔してる」
「由宇くんは悪くない。怒るのは当然です。僕は不実な結婚をして世間を欺いている悪い男です。それなのに、由宇くんと一緒にいれるのが楽しくて…やめられなかった。とてもそんな立場ではないんだよね」
「立場とかそんなの…関係ないよ。俺が勝手にあんたを理解した気になって、勝手に怒っているだけなんだから」
「…ごめん。僕の所為で君を不快にさせてしまって…」
「だから、信さんの所為じゃないっ!」
「…」
思わず声を荒げた俺に、信さんは何も応えなくなった。
並行するふたりの影に時折傍らを通る車の影が重なっていく。その瞬間だけ、二人の存在をこの世から消しているみたいで、少しだけ切ない。
なのに、さ…。
腹が立っているのに、こうしてふたりだけで立っている事実に、俺は感動しているんだ。
きっと俺は…この男が特別に、バカみたいに、好きなんだ。
きっと、それだけなんだろうなあ…
「じゃあ…これで。今までありがとう、由宇くん。楽しかったよ」
静かに話し出したと思ったら、思いがけない信さんの言葉に唖然となる。
「え?なにそれ。まさか…俺と別れるつもり?」
「その方が…由宇くんの為だと思う。これ以上僕と一緒に居ても、由宇くんは心から楽しめないだろうし…」
「ばかっ!違うだろ!俺はあんたが好きだから腹が立ったんだ。あんたと別れたいわけじゃない」
「馬鹿な男は嫌いだって…言ったじゃない」
「揚げ足取るんじゃねえよっ!俺は信さんと別れない。まだあんたとのセックスも飽きてないし、第一,再来週の俺の誕生日はスカイツリーの展望デッキのレストランでディナー奢るって約束したじゃん!」
「そう…だったね…。約束したね」
「だからあんたとは別れない」
「由宇くん…」
「信さんが俺の事を嫌いになったって言うんなら、別だけどさ」
「由宇くんをきらいにななんて…なるわけない…。でも…本当に?…いいの?僕なんかで…」
「くどい。そりゃ、気に入らないところは色々あるけれど、バカがつくほどお人よしは信さんのチャームポイントだと理解しているから、大幅に譲歩してやるよ」
「…ありがとう、ございます」
信さんは少し照れたように笑い、そして馬鹿丁寧に俺に向かって深く頭を下げた。
「行こうか。今からホテルに戻るのもかっこ悪いし、少し歩くけど、今夜は俺の社宅に泊まりなよ」
「いいんですか?」
「信さんは俺に真実を打ち明けてくれたんだ。今度は俺があんたに俺の事を知ってもらう番だと思う。俺達はお互いの身体の方は結構味わってしまったけれど、中身を見ようとしなかったんだと思う。もし、これからも本気で恋をしたいのなら、見たくない相手の裏側も見なきゃならない時がくる。まあ、今までそんな本気の恋をしたことがなかったから、俺も要領悪いんだけどさ」
「僕も同じです。僕は今まで…家庭の事情を誰かに話した事も、わかってもらいたいと思ったこともなかったんです。僕は…今日初めて、好きな人を失う怖さを知りました。もしかしたらこれで由宇くんとお別れかと思ったら…本当に、怖かった。僕は…もうずっとひとりだったから、これから先もひとりでも平気だと思っていた。こんなに誰かを必要としていたなんて…こんなに弱かったなんて、自分でも驚いている…」
「信さん」
「由宇くんに家族の事を話したのは、これ以上深みにはまって傷つくより、今、嫌われた方がマシだと、思ったから…。由宇くんは僕を『いいひと』って言うけれど…僕は自分が傷つくのが嫌なだけなんです。『いいひと』なんかじゃない…」
俯いたまま動かない信さんのコートのポケットに入れた手を掴み出し、引っ張りながら俺は橋の歩道に向って歩き出した。
「信さんは『いいひと』じゃない。『超いいひと』なんだよ。それに事情があるのは信さんだけじゃない。こう見えて俺だって色々とメンドクサイ人間なんだぜ?」
「…そんな風には見えないけど…」
「信さんはまだまだ俺の事を知らないってことだよ。さあ、行こうぜ。一緒に手を取り合って、目の前の色んなもの、ちゃっちゃっと片づけて足並み揃えて歩いていこう。俺達だって幸せになる権利はあるはずさ。なあ、そうだろ?」
「…はい。由宇くんとなら探し出せそうな、気がします」
社宅のある月島のアパートまでを、俺達は仲よく手を繋いで歩いた。そして、2DKのアパートの狭いシングルベッドにふたり、くっつきあって眠った。
三月なのに真冬並の寒気が戻った…なんてテレビの天気予報が言ってたけれど、信さんの所為だろうか、エアコンも入れないのに、春の日だまりにいるみたいに、心地良い眠りに包まれた夜だった。
それから…そうだな。
俺と信さんのお互いを信じあうという意識は、時間を重ねると共に、少しずつだけれど確実に深まって行くのを感じていた。
信さんは今まで教えてもくれなかった仕事の話を俺にしてくれたり、住んでいる会社の借り上げマンションにも俺を招待してくれた。
三郷の駅近くにあるマンションは俺の社宅と比較にならないほど立派でかなりショックだったけれど、「都心からは少し離れているから、家賃も安いんだよ」と、俺を慰めてくれた。そう言いながらも信さんはマイカーまで持っていて…しかもレクサスIS350…まあ、型は古いけど、結構な代物だ。だが、信さんは「奥さんの実家のお古をもらったんだ。…あまり使う機会がないから、いらないって言っても聞いてくれなくてね…」と、困ったように溜息を吐く。
「乗らない割に車の維持費もかかるんだよね。時々動かさないとエンジントラブルの元になるし、無駄な気がしてならないんだけどね」
「じゃあ、これから俺とデートの時はこれでドライブしようよ。あ、ガソリンは半分持つからさ。俺、運転好きだけど車持ってないから、ふたりで交代で運転すりゃ、日本国中どこだって行けるよ」
「え?…それは素敵な提案だけど…」
「行こうよ、ドライブ。見慣れたホテルで毎回セックスってのも良いけどさ、知らない場所で色んなシチュエーションで抱き合うのも、エロくていいじゃん」
「…由宇くんは凄いね」
「え?何が?」
「どんな事でもポジティブに変えてしまえる力がある。尊敬します」
「…」
信さんの言葉は嬉しいけれど、俺は生まれつき能天気な訳じゃない。
それからは暇があれば、信さんの車でドライブするのが俺達のデートコースになった。
良い景色を見て、美味しいものを探しながら温泉を楽しんだり…まるで熟年夫婦みたいだと笑う。
夏の休暇はふたりとも決まった予定がなかったから、彼方此方をドライブしながらバカンスを楽しんだ。
夜はラブホやビジネスホテルに泊まり、北陸から東北の景観を楽しんだ。
お盆休みの帰省の渋滞を躱して、ナビだけを頼りに険しい山道や人気の少ない海辺の田舎道を走る時など、子供の頃にテレビゲームでRPG必死でやっていた時のドキドキ感を思い出す。突然の激しい夕立の中、窓の外の稲妻を追っかけながら、車内で怖い怖いと震えながらも興奮が押えきれない始末。
誰かと一緒にいて、こんなに心を曝け出して素直に笑いあえるなんて、考えたことも想像したことも無かった。
途中、日本海側の海岸線を歩いていると、海の中に朱色の鳥居がある場所があった。
「なんだか…厳島神社を思い出しますね。高校の修学旅行で一度行ったきりなんですが…」と、信さんが何気なく言う。
「俺の故郷だよ」と、ぼそっと答えた。
「…そうですか。由宇くんの故郷なんですか。…知らなかったなあ~」
「話してないからね。別に宮島に住んでたわけじゃないけど、実家は対岸の山側にあるからね」
「そうですか。良いところなんでしょうね」
「住んでみるとそうでもない。と、いうか、俺、実家は苦手でここのところ家族にも随分と顔も見せてない」
「え?どうして?」
「あんまり楽しくない話だけど…聞く?」
「由宇くんが話したいのなら、僕はいつでもなんでも聞きますよ。それから…何を聞いても、僕は由宇くんの味方だから、安心してください」
そう言って、信さんは俺の肩に腕を回して優しく抱きしめてくれる。
その信頼に応えて、俺も些細なトラウマを話し始めた。
俺の家庭は世間を比べて、どこか変わっているわけでもなんでもない。
父親はそれなりのサラリーマンだし、母親は専業主婦。若い割には一軒家持ちの比較的恵まれた環境で育った。
俺は三人兄弟の真ん中で、ふたつ上の兄と三つ年下の妹が居る。
小さい頃から喘息持ちの兄、輝有は、よく入退院を繰り返し、母はまだ小さかった妹、知香を連れ、街の病院を往復していた。
俺は父親が帰ってくるまで、ひとりぼっちで家で待つことも多かったけれど、兄の苦しみと、狼狽する母親の様子を見ていたら、とても自分の孤独さを訴える事などできなかった。
しかし妹はあっけらかんと素直に「お兄ちゃんばっかり、ちかも抱っこ抱っこ!」と、甘える。一片の嫌みも見当たらぬ純粋な妹の要求に、母も苦笑しつつ応えていた気がする。
当時の俺は母から十分な愛情を注がれる兄と妹が羨ましかった。
あれは小四の運動会の前日の話だ。
兄が突然発作を起こし、緊急に入院することになった。勿論翌日の運動会に兄は出ることもなく、そして兄に付き添う母も応援には来られなかった。
俺は初めての応援団員に選ばれて、一生懸命に練習して、晴れの舞台を母に見せて褒められたかったのだ。
晴天の当日、手作りの弁当も声援も得られないまま、父が買ってきたコンビニの弁当を妹と食べた。
夜、病院から家に戻った母に、俺は初めて怒りをぶちまけた。
「今日の運動会、お母さんが来るのを楽しみにしていたのに、一生懸命頑張って練習した応援合戦を見て欲しかったのに…。お母さんは兄さんばっかり可愛がって、俺なんか少しも好きじゃないんだ!」と、大声を張り上げた。だが母親は俺に怯み様子もなく、「なにが運動会よ、応援合戦よ。輝有は…死ぬかもしれなかったのよ。あんなに苦しむお兄ちゃんを可哀想だと思わないの?輝有はその運動会にも出られないのよ。輝有がどんなに苦しいか…一度あんたが代わってみればいいわ。どうして…わかってくれないのよ」と、俺を叱った。
一晩中続いたであろう看病と心労に疲れ果てていた母だった。だから平常心ではいられなかったし、俺の気持ちを理解する余裕はなかったのだと、今ならわかる。だけどその頃は俺も子供だったから、母の言葉に酷く失望し、そして二度と母に何かを期待することはしまい、と、子供心に誓ったのだ。
それから母との会話は最小限になった。母と言えば、俺の態度を単なる反抗期と片づけ、あまり気にも留めてはいなかった。
本質的に母は物事を深く考えないポジティブ思考の持ち主だ。
兄の病気にはとても敏感になっていたが、その他のことは短絡的に考えていたので、俺の母親に対しての暗い感情など全く知らず、調子の良い時は「何だか近頃由宇はすっかり大人になっちゃったわね。お母さんとしては少し寂しい気もするけど、子育ては間違っていなかったね」などと、暢気な調子で思い上がる始末なのだ。
母と妹は気質がよく似ていたので、取り立てて確執はなかった。だが「私、お母さんみたいな大人にはならないわ」と、俺に打ち明けたりしていたことを慮ると、知香なりに母への確執はあったのかもしれない。
思い出すのは高校受験の時だ。
母は兄が通っていた地元の公立高校を俺に薦めた。理由は「由宇が輝有と同じ高校に行ってくれれば、保護者会も楽だし、輝有に何かあったら、由宇がいてくれると心強いでしょ」と、いかにも当然のように言うのだ。
俺はそれに反抗して、自宅とは離れた私立の進学校を受験すると言った。
「馬鹿じゃないの。あんな難しい高校に由宇が合格するわけないじゃない。それに私立はお金がかかるし、通学だって大変なのよ。お母さんだって毎日早起きしてお弁当作らなきゃならないじゃない」
母の言い分は尤もだったが、ぶちまけた以上、こっちも引く気は毛頭なかったから「高校は私立でお金はかかるかも知れないけれど、その分大学は国立に行って奨学金を受けるつもりだ。弁当もいらない。入学式も卒業式も保護者会も来なくていい。お母さんに迷惑はかけない。だから、絶対この高校を受験する」と、言い張った。
親父の取り成しで俺の言い分は認められたけれど、今になって思えば、あれほど意地を張っていた自分が情けないやら恥ずかしいやらで…完全な悲劇の主人公を気取っていただけの話だ。
プライドを賭けて必死で受験勉強をした結果、無事志望校へ合格し、三年間、一度も休まずに家から学校までを毎日二時間かけて通学し続けた。
兄の喘息は成長と共に次第に改善されつつあったが、激しい運動は医者に止められていたから、高校までの体育の授業はほとんど見学だったと言う。
無事に私立大学を卒業し、兄は地元の市役所に就職した。
俺は県外の国立大学に合格し、親元から離れた生活を始め、今も遠く離れた場所で独り暮らしを楽しんでいる。
兄は、去年結婚し、両親と同居し、子供も授かり、平和に暮らしていると言う。
結婚後も両親と一緒に暮らすなんて、俺には信じがたい話だ。同居を母が望んだのか、兄が求めたのかは知らなかったけれど、さすがにこの年にもなると、羨ましいとは少しも思わなかった。
一見すると平凡を絵に描いたような兄の人生だが、俺は兄の本当の心の内を少しも知らずにいた。
いや、俺は病弱で母のお気に入りの輝有の事など、一度だって真剣に考えたことなどなかったのだ。