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こうして三門信彦との付き合いが始まったわけだが…
即物的な付き合いから始まった恋愛は、そのままの状態を続けていた。
愛を語らうロマンスには遠い、身体を求め合うだけの関係。
それだけで十分だと思っていたんだ。
二週間に一度の割合で、週末の夜を例のホテルのベッドで過ごす。たまに「エトス」でライブを楽しんだり、食事を一緒にすることもあるけれど、何よりの目的はセックスであって、それは信さんも同じだった。
身体の相性が良いからと、お互いの性欲を満足させるだけの相手だと割り切っていたのは事実だし、それ以上の関係…つまり本当に好きになってしまう…事態を怖れてもいた。
告白したにも関わらず、俺が二の足を踏んだのは、信さんの奥さんに対する想いは誠実であり、夫婦の倦怠やお互いが嫌いになったわけではない…つまりは愛情を感じたからだ。
しかも…彼ら夫婦には五歳になる息子さんがいる。
信さんが思わず口を滑らした時、(ウインドーに飾られたはちみつを抱えた例のクマのぬいぐるみを見て、彼はかわいいなあ、、息子の誕生日に贈ろうかな…と、呟いたのだった)俺は驚いて「本当に信さんの子供なの?」と、思い切り地雷を踏んでしまった。
信さんは黙ったまま返事をしなかった。
俺も気まずい思いを残したまま、いつものホテルに入った。
その後のセックスには尾を引くこともなかったけれど、なんつうか…俺は好きな奴にはあまり隠し事をしたくないタイプなんだ。だから終わった後、シャワーを浴びてソファでひと休みした時に俺から切り出した。
「最初に信さんの家庭事情に踏み込まないって約束したのは覚えてるけど、心から好きになった相手の事をもっと知りたいって思うのは自然だし、このままセフレだけの関係を続けるとしても…お互い腹割って話し合うくらいの信頼は築いてしかるべし!なんて思うんだけどさ。どう?」
「…どうって…」
「なんつうかさあ…俺達付き合い始めてそろそろ五か月近く経つじゃん。お互い隠し事で気まずい関係になるより、手の内晒して理解し合う方が今後の為にも良いと思うけど…違うかな」
「そう…だけど…」
言いよどむ信さんも心情もわかる。この先、このまま付き合いが続くかどうかわからない奴に話す必要も無い事情を説明したところで、荷が軽くなるわけでもないだろう。
正直、俺も自信がない。
信さんの複雑な家庭事情を聞いても、俺にできる事はしれてるし、口を挟める立場でもない。ただ、俺は信さんの心の内を知りたかった。
いや、本当は…話の分かる男を装って、奥さんよりも俺の方が大切な人だ…なんて思わせたかったのかもしれないけれど…
「由宇くんが聞いてもきっととても不機嫌になる話だと思うよ。僕自身、妻とはとても不実な関係を続けていることに嫌気が差すことも多いんだ。誰にも話せない事だから…ね」
「ね、カマかけていい?…信さんの息子さんて、やっぱり信さんの本当の子供じゃないよね」
「…」
信さんはしばらく沈黙した後、黙ったまま首を縦に振った。
「でも信さんは奥さんの事、好きなんでしょ?」
「好きというか…」
信さんは覚悟を決めたとでもいう具合に一度深呼吸をし、ペットボトルの炭酸水を一口飲んだ。
「彼女とは幼馴染みで僕の唯一の親友…なんだ。…僕の家は祖父の代から薬局を営んでてね。薬局と言っても街にあるドラッグストアみたいなものじゃなく、本当に田舎の古めかしい、薬屋さんって感じの小さな店だ。父は早くに亡くなって、僕は祖母と母に育てられた。彼女…羽月って言うんだけど、羽月さんは隣に住んでいて、彼女も母ひとり子ひとりの母子家庭だった。彼女の母は看護師だったから、彼女の母親が夜勤の時は、羽月さんは僕の家で過ごすことも多かった。彼女は才色兼備で気立てもよく、誰にも分け隔てなく優しかったし、皆に好かれていた。僕はと言えば…昔から引っ込み思案で臆病で…それに彼女以外の女子はなんだか怖くてね…。男の子はもっと怖かった。だから友達もあまりできなくて…羽月さんだけが気の置けない友達だった。…僕がゲイだと告白した時も、彼女は僕を軽蔑することもなく、逆に力強い味方になってくれた。中学の頃、いじめられていた僕はなにかと彼女に助けられてきたんだ。中学を卒業してすぐに彼女の母親が再婚して、僕達は離れ離れになった。僕はその後、実家と離れた都内の大学へ進学したんだけど、その大学の薬学部で偶然彼女と再会して…あ、こんな話大丈夫?気分悪いなら、止めようか?」
「今更止めるなんて、ありえねえし、俺も大人ですから、多少のジェラシーを感じても冷静でいられますよ。いいから続き聞かせてよ」
本当はこれ以上聞きたいとは思わなかった。
羽月って奥さんへの信さんの信頼感…たとえ性的な関係はないとしても、十分な「愛情」が見えたし、それは意外なほどに俺の心を傷つけていたのだ。
信さんの話は続く。
大学時代になってもふたりは仲の良い親友同士の付き合いを続けた。卒業した後、信さんは大手の製薬会社へ、奥さんは…母親の再婚先の病院に勤めた。
看護師だった羽月さんの母親の再婚相手は、静岡の掛川市の街中にあるでかい総合病院の院長だった。勿論院長の方も再婚だった。言うなれば玉の輿って奴。だから、羽月さんは大病院のお嬢様…だったわけだ。
容姿にも恵まれ学内のミスコンにも選ばれ、もてまくっていたけれど、不思議と恋人は作らなかったらしい。
「信さんの事が好きだったんじゃないの?」と、俺が言うと、信さんはすぐに真面目な顔で否定した。
「羽月さんにはずっと好きな人がいたんだ。ただ…結婚はできない相手だったから…」
そこでようやく俺は理解した。
「その結婚できない男の子供を妊娠してしまった奥さんは、ゲイで結婚する充てのない信さんに頼み込んで取り敢えず形だけの結婚をした…って事じゃねえの?」
「違うよ。由宇くんの想像力には感心するけど、彼女は僕を利用しようとは少しも思っていなかった。妊娠したことで悩みを相談されたのは事実だけど、ひとりで子供を産んで育てる、と僕に言い切ったんだ。だから僕がお腹の子の父親になる事を提案した。勿論羽月さんは反対したけれど、彼女との結婚は僕の方にもメリットが多かったんだ。その頃、僕の祖母は亡くなり、母は細々と続けていた薬局も辞めて、あまり気力の無い独り暮らしをしていてね。なんとかしてやりたいと思いながら、仕事の所為にしてほったらかしにしていた。でも、羽月さんと結婚したいと言いだしたら、生まれ変わったみたいに元気になってね。僕達が結婚すると同時に羽月さんの親と同居を始めて…今は、羽月さんのお父さんが経営する病院で介護福祉士として元気に働いている。…僕は、羽月さんに感謝しているんだ。結婚なんてできるはずもない僕と一緒になって、親の面倒まで見てくれる。しかも僕が自由に遊ぶことも許してくれているんだ。色々と気を使って服を買ってくれたり、お小遣いまでくれるんだよ」
「…それで?」
「え?」
「信さんは幸せなの?」
「…不幸だとは言えまい」
「じゃあ、奥さんは信さんと結婚して幸せなの?」
「そうだね…。僕と結婚して幸せ…と、いうか子供と一緒にいられることが幸せなんじゃないのかな…」
「で、本当の父親は?どうしてるの?」
「…」
「奥さんがずっと好きだった相手の人と、まだ今も付き合っているんでしょ?そうじゃなきゃ、おかしいよ。奥さんは信さんに子供の父親役も一緒に暮らすことも求めていない。子供にも自分にも満ち足りた相手がいるからじゃない。違う?」
「するどい…ね…。そうだよ、結婚はできないけれど…羽月さんは今もずっと彼と愛し合っているし、子供も…父親とは明かせていないけれど、彼も息子を可愛がっている。…幸せだと思う」
「むしろ、信さんの存在が邪魔なんじゃね?結局、信さんはいいように利用されてるだけじゃん」
「そうだとしても、羽月さんが幸せなら、僕の存在の意味はあるだろうし…もし僕が邪魔になったと言うのなら離婚してもかまわないと思っているよ」
「なんだよ、それ…」
なんかマジでむかついてるんですけど…
「…信さん、あんた、いいひと通り越して、バカだっ!大馬鹿だ!」
「ゆ、由宇くん…」
「俺、バカな男は嫌いなんだよ!」
無性に腹が立った。
信さんにも羽月って奥さんもその相手の奴も、何も知らない周りの奴ら全てに、腹が立つ。
俺は手早く服を着て靴を履くと、信さんを残してホテルの部屋を出た。
月島の社宅へ帰ろうにもバスも電車もすでに終わっていたけれど、小一時間歩けば着く。
頭と身体を冷やすには却ってちょうどいい。
街燈に照らし出された俺の長い影を見ながら、早足にただただ歩いた。吐く度に白くなる息も見飽きはじめた頃、ふと立ち止まって夜天を見上げた。
天上には三日月がおぼろに霞んで見えた。
あと二週間で、俺の27の誕生日がくる。
信さんと初めて一緒に祝えると喜んでいたのになあ~。
自分から煽って口を開かせたはずなのに、今更聞かなきゃ良かったなんで、自分勝手も甚だしいけれど、三門信彦と言う人間を今まで通りに見ることができないんじゃないだろうか。
嫌いなわけじゃない。逆だ。信さんの奥さんへの優しさ、信頼、愛情すべてが羨ましくて妬ましくて…あそこまで信さんを繋いでいる絆が、憎いだけなんだ。
「俺だったら耐えられるもんかっ!」と、暗く冷たく張り付いた空気の中に罵った。
「信さんのバカヤロウ!嫌いだ!」
信さんのイク時の顔が好きだった。頼りなさ気な顔のクセに、体力だけは限界なしで、俺を降参させる。俺の中に打ち付ける時だって、その瞬間に「好きだよ、由宇くん」って、囁く声だって、俺はすごく好きで…たまらなかったんだよ。
身体の相性が良いからって、信さんのすべてを知っていた風な心持でいた自分だった。それで自分だけが信さんを理解できていると思い上がっていたんだ。
「…馬鹿なのは俺の方なんだけどさ…」
信さんが奥さんとの今の状況に満足しているわけでもなく、逆に不安だったからこそ、俺と寝て少しでもストレス発散していたんじゃないか。
俺に心を許して誰にも言えなかった心の内を、折角吐露してくれたのに…
信さんだって、不安で仕方ないのを、無理矢理納得させているのに…
何逆ギレしてんだろ、俺…
「戻るかな…」
勝鬨橋を目の前に俺の足は止まった。
今からホテルに戻って、信さんに謝って…それから…それから…
駄目だ。
俺、きっと腹立って、信さんに嫌な事ばかりを言うだろう。
俺の好きな男があんな理不尽な立場で居つづけることに我慢ができない。
だけどそれは俺が決める事じゃなくて、信さんの問題だ。
わかってる…
「よし、今夜は一旦家に帰って、明日!明日また考えよう!」
そう思って橋の歩道を渡ろうとした時、後ろから「由宇くん!」と、大声で俺を呼ぶ信さんの声が聞こえたんだ。
俺は慌てて振り向いた。
息を切らしてこちらに走ってくる信さんの姿に、本当に現実なのかと漠然と眺めていた。
「由宇くん…良かった。急いで追いかけたんですけど、ホテルから出た時は、姿が見えなくて…。月島の社宅に住んでるって言ってたから、もしかして歩いて帰ったならとこっちかと思って…」
「…なんで…きたの?」
「マフラー忘れたでしょ?三月過ぎても、まだ寒い日もあるから無いと困ると思って…」
そう言って、俺の首にマフラーを丁寧に巻きつける信さんの手は…俺が一番欲しかったものだって、認めるのが悔しいぐらいに、あたたかかった。