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ホテルに入るまでは名前も知らなかったから、服を脱ぎながらお互いに簡単な自己紹介をする。
男は「三門信彦」と言い、33歳になったばかり。大手製薬会社の研究員で、日々多忙な研究生活に邁進し、自宅と研究室の往復でほぼ一日が終わる。月に一度、街に出て外の世界を覗き見る…賢者モードの暮らしぶり。
なんだかなあ~、その話しぶりや内容やらが、平凡を絵に描いたごとく彼に似つかわしいじゃないか。
俺は今夜のセックスをあまり期待しないように己に言い聞かせてながら、真っ裸のままベッドに寝転んだ。
だけどシャツを脱いだ三門さんの身体を見た途端、淡い期待が膨らんだんだ。
着やせするタイプなんだろうか。服を着ていた時とは想像難い、顔に似合わないしっかりとした筋肉質の体型で、バランスもよく、まさに俺好みのセクシーな肉体美。
「三門さん、なんかスポーツしてんの?」と尋ねると「へ?ああ、中学の時から剣道を続けててね。今も暇を見つけては道場へ通っているんだ。仕事ではほとんど身体を動かさないし、ストレス解消にね」と、答える。
「へえ~、だからか。綺麗な身体してるよね。俺、貧弱だからうらやましいわ~」
「そうかな…。自分じゃわからないけど…」
「ねえ、早く来てよ」
その身体を確かめたくて、俺は三門さんを急かす。
「…ごめん、こういうことは随分久しくてね…。正直に言うと君を満足させられる自信がないんだ。先に謝っておくよ」
上半身だけ裸になり心細げに俺におずおずと近づく三門さんがおかしくて、「大丈夫だよ。俺に任せてよ。大船に乗ったつもりでリラックスしていいからさ」と、彼のズボンを脱がせつつ、さっそく口に咥えた。
三門さんは少しだけたじろいだけれど、すぐに感じてくれた。
それから先は…行きつくとこまで快楽に酔い痴れた…と、いう感じ。
三門信彦の性技は確かに巧いとは言えないけれど、すべてにおいてタフであり、俺はあっさりと自分の敗北を認めた。
慣れない愛撫やぎこちなさも、こちらが指南すればすぐに素直に応じてくれるし、なんというか…こんなに高みに弾けたのは俺の長年の性体験で初めてだったから、嬉しい誤算だったと言える。まあ、人間見目で判断しては損をするという事だ。
「大丈夫かい?上杉君」
行きついた果ての消耗っていうのは、高揚感に比例するわけであり、今夜はそれが半端ない。つまりすごく良かったと言うことなんだけどさ…。
ぐったりとベッドに沈み込んだ俺を、本気で心配してくれる三門さんの優しさが素直に心に響くのはなんだろうなあ~。
「由宇…って呼んでよ。俺も信さんって呼ぶからさあ…」
「う…ん。由宇くん、どっか痛かったりしてない?ごめんね。久しぶりで、つい夢中になってしまって…。水持ってこようか?」
「いいから、こういう時は、黙って優しく抱いてくれればいいの」
「そう…なんだ」
信さんは俺の言う通りに、俺の身体をしっかりと包んでくれた。
腕枕が心地良くて、なんだか本当に満ち足りた気分だ…。
夜は深い。
まだ朝までには時間があるから、もう一回ぐらいは抱き合えそうだ。
これがこの男との最後の一夜なら、もっと味わっていたい。だけどしばらくは勃ちそうもない。続けて三回はこちらも久しぶりで、ここのところ仕事もきつかったし…戦士にも休息が必要だよ。
信さんは片腕で俺を抱いたまま、もう片方の手で俺の髪を撫でてくれている。
なんだか昔見た子猫の毛づくろいをする親猫みたいな光景だなあ~。
そんなわけで俺もすっかり甘えムードになっちゃってさ…。
「信さんの手、大きくてあったかいね」
「そう?」
「俺の両親って厳しかったから、こんな風に抱いてもらった思い出もあんまりなくてさ…。まあ、今更甘える気は更々ねえけど。…やっぱりどっかで甘えたがりなのかもなあ~」
「誰だってそうじゃないかな。僕も無性に人肌恋しくなる時があるよ」
「そうなんだ…」
耳元で響く少し低めの信さんの声は「エトス」で聴くジャズのコントラバスの音に似ていると思った。少しだけ首を捻って信さんの口唇にキスをすると、眼鏡のない信さんの目が二、三回瞬いて、不思議な顔をする。
「好きだよ」と、言うと真っ赤になって「ぼ、僕も…好き…ですよ」と不器用に応えるのがおかしくて、かわいい。
この人、自分の魅力に気がついていないんだろうなあ~。
骨董品じゃないけど、誰も気がつかない名品を探し出す楽しみっていうのも、わかる気がする。
「俺さ、普段はどっちもいける性質でさ。なんかさ、タチの時は征服欲っていうの?そういうのを求めてるし、ネコの時は甘えたり、我儘になったりするのが楽しいんだけど、本当の充足ってさあ…満足感?…そういうのを味わえるセックスってあんまりないんだよね」
「そうなの?」
「うん。だけど、今日、信さんとして、なんか、これが満たされるってことだなあ~って、思っちゃったよ。…ああ、心配しないで。信さんを好きになったとかそういうメンドクサイ話じゃないんだ。身体の相性って大事なんだね、っていう話だよ」
「僕の方こそ…すごく良かったよ。恥ずかしい話だけど、これまでそんなに経験がないから…うまくいくか心配でね」
「奥さんとは?」
「…」
「悪い、聞かない約束だったね」
「…ごめんね」
「いいよ。最高の一夜を味わったんだから、他はどうでもいい気分…。俺は信さんに惚れたんじゃなくて、信さんの身体に惚れたの」
「褒めてくれてる…ってことなのかな?」
「そうだよ。だからさ、今夜はこのままずっと抱いててよ、ね?」
「由宇くんの望むままに…」
信さんの胸に抱かれたまま目を瞑ると、途端に睡魔が襲ってきた。本気で寝ちゃ駄目だと思えば思うほど、深い眠りに惹きこまれていく。
結局、目が覚めた時はすでにチェックアウト寸前で…。
信さんは俺に腕枕をしたままで動けずにいたし、ふたりして慌てて着替えを済ませ、部屋を出る。
フロントで支払いをする信さんの背中を眺めていると、なんだかこのまま別れてしまうのが、もったいないと言うか、心残りと言うか…寂しいと言うか……
何線に乗るのかも聞かずに駅のコンコースで別れることにした。勿論お互いの電話番号もメルアドも交換などしていない。
「じゃあ、これでお別れだね」
「うん…。あのさ、こんなこと言うのは大人げないし、しつこいって思われるってわかってるけど…さ、あんたとまた寝たい…って言ったら、どうする?」
「え?…」
「つまりさ、信さんの身体が欲しいって事だよ」
「…」
「いつか…気が向いたら、でいいんだけど…」
「由宇くん、僕は…」
「来週!いや、再来週!二週間後の夜、俺『エトス』で待ってるよ。信さんが来なかったら、すっぱりと諦めるから」
「…」
「信さん、いいひとだから、気を使うだろうけど、俺は遊び人だから、信さんが来なくても他の奴と楽しめるし…その点は心配してくれなくてもOKです」
「…わかりました。よく考えてみます」
「うん、じっくり考えてみてよ。身体が目的とは言っても、付き合っていけば恋も生まれてしまうかもしれない。この人とずっと一緒にいたいって思うかもしれない。そんな先まで考えてどうするって思うかもしれないけど、俺も信さんも大人だから、考える必要はあるよね」
「そうだね」
「今はあんたともう一度寝たい…それだけが俺の真実…かな?」
「うれしいよ、そう言ってもらえると…。ありがとう」
「こちらこそ、です」
俺達は握手をして別れた。
二週間なんてあっという間に来ると思っていたけれど…。
仕事中も信さんとのセックスを思い出し、やっぱり手放すのは惜しいとか、もっと良い男が他にいないものかとか…色々と考えてしまう。
信さんと背格好の似た男と寝てみたりもしたけど、期待外れもいいとこで、こっちが落ち込んでしまう始末。
益々信さんが愛しくなったりさあ…。信さんも俺の事を思ってくれたら良いんだけれど。
だけど期待薄な気もする。
第一ゲイなのに妻帯者って…俺には理解できない。色々な理由があるにせよ、結婚という一生を添い遂げる誓いをした者同士が愛し合えないって、意味不明。
奥さんの事を嫌いなら、奥さんが買った服を着たりしないだろうから、仲が悪いとは思えないんだよなあ…
まあ、色々考えてみても仕方がない。
先の事は、次があったらでいいだろう。
二週間後、俺は不安と期待が交わった胸の高鳴りを抑えつつ、「エトス」に向かった。
すでにオープンの時間は過ぎ、辺りは暗かった。
「エトス」は表通りから入り込んだ静かな袋小路にある店だったから、派手なネオンじゃなく、おちついたランタンの淡い彩光だけで入口が示されている。
その入り口の壁際にぽつねんと立つ男の影が見えた。
もしかしたら…と、思って俺は一目散に走り寄った。
「信さん、来てくれたんだ」
「はい…来てしまいました…」
二週間前と変わらない、自信の無い照れた笑顔が懐かしい。