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暗転になると同時に、スポットライトに照らされたステージ上のピアニストとヴァイオリニストが美しいハーモニーを奏で始める。その鮮明な音律がフロア中に響き渡り、クラシックに疎い俺でも一気に高貴で優雅な世界に引き込まれた。
しかし…それよりも気になるのは…
先程俺がキスした隣の男の様子だ。
男は俺から逃げる様な姿勢で身体を斜めにしながら精一杯ソファの端に詰め、狭苦しそうに縮こまっている。
キスした時は辺りが急に暗くなったから男の表情はわからなかったが、小さく「ほぇ~」と驚く声だけが聞こえた。
暗闇に慣れた目で眺めると、眼鏡をかけた男はさっきよりも恐々とこちらをチラ見し、確実に俺を警戒していた。
そんなに身体を離したいほど嫌だったのか、それとも照れ屋さんだったのかわからないけれど、キスした感じじゃ、こいつも男は初めてじゃない。
俺の第六感がそう告げている!
驚かせないようにそっと腕を取り「そんなに固くなってちゃ、せっかくのライブもゆっくり聞けないでしょ?大丈夫ですよ。何もしないから普通に掛けてください」と、呼びかけた。
「…」
男は訝しそうに俺を見つめ、溜息をひとつ吐きつつ、少し身体を戻した。
俺は男の耳元で「すみません。驚かせてしまって…。本当に何もしないんで、ゆっくり能見さんのピアノを堪能して下さい」と、囁く。
「…はい…」
蚊の鳴くような返事に、つい笑いそうになった。本当に控えめで内気な人らしい。
日頃、俺の周りには自己顕示欲の強い者ばかりが揃っているから、こういうタイプは貴重な生物っぽくて新鮮な気がした。まあ、何にしろ気は使わないでよさそうだし、案外こういう平凡な男と付き合ってみるのも、楽でいいかも知れない…。 俺の理想のドラマチックな恋には縁遠いけど…
…つうか…なんだか、急激に眠たくなってきた。
昨日、明け方まで社内コンペのデザインを考えていた所為だろうけど…この高雅なBGMがなんとも…セイレーン級の睡魔って奴…で…
俺にとって音楽って奴は、眠り薬のようなもので、良い音楽ほどノンレム睡眠へ急降下となる。そういう意味で言えば、今日の能見さんのライブは良い出来なんだろうけれど…
いきなりの拍手と歓声の音で目が覚めた!
「えっ!…ええっ!」
周りはスタンディングオベーション。拍手喝采の嵐状態。すぐには何が起きているのかわからなかった。
「やば…」
気持ち良く居眠りしている間に、クラシックライブが終わっていたらしい。
否、居眠りというにはかなり本格的に眠っていたような…気がする。
しかも…俺は隣の男の肩を枕にするだけじゃなく、身体全体でもたれ掛かり、充分に拍手さえできない状態にしてしまっているんだ。
「うわぁ!す、すいません…ぎゃ、ホントにごめんなさい」
俺はあわてて立ち上がった。
この人のシャツ、俺のヨダレなんかで汚してないだろうか。
なによりも…
楽しみにしていたはずのライブを俺の居眠りの所為で、台無しにしてしまったんじゃないだろうか。
「マジであやまります。どうしよう…俺、いい音楽聴くとつい寝ちゃうクセがあって…」
さすがに酷過ぎるマナーだと超反省。俺は隣の男に何度も頭を下げた。
「そう…らしいですね。休憩の時、スタッフの方がドリンクを持ってきてくれたんですけど…あなたがぐっすりと寝ていたので、『こいつが寝てる時は、ライブの出来がいい時だ』って、笑っていらっしゃいましたよ」
「…」
そんな事を言う人は嶌谷さんだろうけれど…気の毒なことをしてしまった。
「本当に失礼しました…。あの…なんかホント…俺、あなたにずっと寄り掛かってしまって…重かったでしょう。…せっかくの能見さんのピアノを楽しみにしてらっしゃったのに…。…すみませんでした」
マジで焦る。
そりゃ、確かに俺は眠かったらどこでもすぐに居眠りできる性質だけど、誰かに寄り掛かって寝たりなんて電車の中でもしたことないし、他人に迷惑かけたことなんか今までに一度だってなかったから、流石に自分自身に呆れて…マジで凹んだ。しかも見ず知らずの人に長時間、寄り掛かって眠っちまうなんて…ありえねえ…。
「そんなに落ち込まないでください。僕も最初は驚きましたけど、本当に気持ちよさそうに眠っていらしたんで、なんだか…起こすのも気の毒で…」
言葉と同様に眼鏡の奥の目が穏やかだったから、俺も少し安心した。
「じゃあ、これで…」
周りの客もすでに立ち上がり、そのほとんどがフロアを後にしようとしている。
同じように軽く会釈をして出口へ向かう眼鏡の男の腕を、俺は反射的に掴んだ。
「あ、あの、晩飯まだでしたら、お詫びにおごらせて下さい!」
「え?…いえ…。そんなに気になさらずとも、本当に大丈夫ですよ。気にしてませんから」
「いえ!このままじゃあ俺が気になるんです。高いお金払ってせっかく楽しみにいらしたのに、俺の所為で…。是非ともおごらせてください!」
「でも…」
「大丈夫です。変なセールスはしないし、俺ゲイだけど、あなたに無理に迫ったりしませんから!」
俺の必死さに男は怯みがちになりながらも「じゃあ、食事だけ…」と、ひきつった笑顔を見せながらも承諾してくれた。
約三十分後…
「すいません。無理に誘っておいて、ラーメン定食だなんて…。給料日前なんで、あんまり手持ちがなくて…」
「いえいえ、充分美味しいですよ」
ご馳走してやるからと大口叩いた割には、新橋駅裏にある行きつけのラーメン屋が今の俺の財布では精一杯だった。
「僕も好きなんだけど、とんこつラーメンの美味しいところがなかなか見つけられなくて…。良いお店を教えてもらいました。ありがとうございます」
「…」
なんというか…この人、予想以上に「いいひと」みたいだ。それに平凡な利点がこの人には似合っていて、妙な魅力を引きだしている…気がする。
いやいや、別に惹かれているわけじゃないから。
でも…やっぱり気になるかな。
眼鏡が曇るからと眼鏡無しで食べ始めた顔は、インテリに見える眼鏡姿よりも多少間の抜け面に見えるけど、それも「いいひと」に輪をかけて見える。
上手な箸の持ち方やら下品にならないラーメンの啜り方やら、この人に似つかわしい仕草だ。時々目につく指輪が気にならないことはないけれど…
「…なんか僕の顔に付いてます?」
「え?いいえ。あ、そうだ!その服、俺の好きなブランドなんです。そのコートもそこの新作ですよね。高かったでしょう」
「…いや…これは妻が…」
そう言い淀んだまま、男は黙り込んだ。
本物の妻帯者なのか…。俺の予想が外れるなんて、滅多にないんだけどな…。
残念?…いや、別にこの男と寝たいなんて思っていたわけじゃないんだけど…さ。
俺のテンションが下がった所為なのか、その後は会話も途切れがちになり、ラーメン屋を後にし、駅に向って歩き出した。
「あの、今日は本当にすみませんでした。ラーメン奢ったぐらいじゃ、元取れませんよね。今度『エトス』で能見さんのライブがある時には、チケット奢らせてください」
「そんなに…気にしなくていいんですよ。一緒に居られて楽しかったし…」
「ほんとですか?」
「はい。独り暮らしなもので、こんなに誰かと仕事以外の話をしたのは久しぶりで…とても楽しかった。こちらがお礼を言わなきゃならないぐらいだ」
「独り暮らし…って?奥さんいらっしゃるんでしょ?」
「向こうも仕事があるので、別々に暮らしているんです…。まあ、色々事情がありまして…」
「あ、すみません。詮索するつもりは全然ないから…」
「大丈夫、気にしてないよ。じゃあ、これで、お別れですね」
「…」
男は一度だけ丁寧に頭を下げて、駅に向って歩いて行く。
その後ろ姿がなんとなく…
なんとなくだけど…人恋しさに寂し気で…さ…。
「待ってくださいっ!」
俺は男を追いかけ、その腕を掴んだ。
男は驚きながら、笑ってくれた。
「今夜はあなたに何度腕を掴まれたことでしょうね」
「その…今夜だけでいいから、俺と寝てくれませんか?」
「は?」
「本気じゃなくていいんですよ。一夜だけの遊びだと軽く思ってくれればいいから…。あんたと寝てみたいんだ」
「…無理に迫らないって言ったくせに…」
「そ、そうだけど…。もしどうしても嫌だったら、寄り添って一緒に寝るだけでもいいですから」
「…」
「駄目ですか?」
「ホテル代は僕が持つってことなら…OKですよ」
「ホントに?」
「今夜は僕も誰もいない家には帰りたくない気分でしたから」
「じゃあ、本気で…迫ってもいいですか?」
「僕も男ですから…一応、性欲はあるつもりです。よろしくお願いします」
その夜、俺と男が泊まったホテルは安ラブホテルでもない、一流のシティホテルだった。
名前も知らない、別に好みでもない、どこにでも居る平凡な男との一夜は、想像を遥かに超え、恐ろしく刺激的で、天にも昇るほどの快感を得られたのだから、俺の勘はまんざらじゃないのだと確信した。
男の名は「三門信彦」と言う。
正直、こんな平凡で底なしのおひとよしに、本気で惹かれるなんて…今でも信じられないのが本音だよ。