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休日の週末、別段予定はなかったから、いつもの街を俺は慣れた足取りでぶらついていた。
昼間は気になっていた映画を独りで鑑賞し、その後、夕食を取ろうと「エトス」へ向かった。
ジャズクラブ「エトス」はライブハウスだが、食事にも定評があり、味に五月蠅い客達をも満足させるらしい。
俺のお気に入りはデミグラスソースたっぷりのオムライスだ。サラダとスープ付きで二千五百円は安月給の俺には随分と高価なディナーだが、たまの贅沢はストレス解消になるし、なにより満腹した後に聞くライブの生音の心地良い事…。
ひと眠りするにはもってこいの場所だ。
閉店になっても度々起きない俺に、マスターの嶌谷さんは呆れた顔で起こしてくれる。なにがあっても嶌谷さんは怒らない寛大な御方で、独り暮らしの寂しい俺の愚痴やら我儘もめんどくさがらずに聞いてくれる。だから俺は密かに「仏の誠さん」と呼んでいる。
勿論、色事は無しだ。幾ら俺が年上好みだとは言え、親父程に年の違った男を性欲の対象にはしない。それに嶌谷さんの周りには、色々な男性が居るから、あっちの方面には別段困ってはいないだろう。
嶌谷さんは、驚くほど人生経験豊かな人で、世界中を旅してきた話などを聞いていると、そこら辺の下手な冒険映画と比べても、よっぽど面白く、充実した時間を過ごせる。
そう言うわけで、いつのまにか俺は「エトス」の常連のお仲間に加わることになった。勿論、いつかまたここで憧れの宿禰さんに会えるかもしれないという、密やかで邪な旨味も含んでいるのは確かだ。
柔らかい秋雨があがった黄昏時、俺は「エトス」の重いドアを開けた。
顔馴染のチケット切りのスタッフに声を掛けると、今日はイベントで満席だと言う。
「え~?マジで?…あ、そうか、今日はクラシックライブの日だったんだね」
「そうなんです。能見さんが出演されるライブは人気があって、当日券も売り切れなんですよ」
ピアニストの能見響さんは、「エトス」の専属ジャズピアニストだ。だが、本来はクラッシクを得意とされていて、コアなファンも多く、ふた月に一度開かれる「クラシックの会」は彼目充ての客が多い。確かに能見さんは姿形もすこぶる上等だけど、俺の好みではない。俺は見目も精神もS的な男が好みなんだ。
「そうか…。残念だなあ~。能見さんのピアノも聞きたかったんだけどなあ~」
本当は彼のピアノよりも、イケる客を探したいんだけど…。
ここのところ、外れが多くて、食傷気味だ。
「え~と…ちょっと待って下さい。…あ、一席だけ開いてます…けど。ラブソファ席なんですが…。どうします?」
一寸考え、同席する奴が好みの男かもしれない…と、淡い期待を持った俺はその席を買った。ハズレなら、適当にあしらえばいい。
いつもは高級クラブらしくシックな店内に見合うテーブルと椅子が余裕をもって置かれているんだが、クラシックライブは会員ではない普通のクラオタ客も入るから、テーブル無しで椅子とソファがステージに向いてズラリと並ぶ。ラブソファはその名の通りカップル用に用意され、好きにいちゃつけるように最後方の席だ。
薄暗い店の中は間もなくライブが始まるらしく、ざわついている。俺は混雑する客の間を抜け、自分の席に向った。
目的の席にはすでに男がひとり座っている。二人掛けなのだが俺の座る場所には男のコートが置かれていた。
「すみません、ここいいですか?」
ソファに座った背中に声を掛けた。
「え?」
少し驚いた声を上げ、こちらに振り向いた男は極めて平凡な眼鏡をかけた三十過ぎの頼りなげな顔だった。
「…」
別にこの人に罪は無いのだが…
これと言って特筆すべきものはない、一般的な、十人並みの、特色のない、ありふれたサラリーマン風の男の見目に少々の失望を感じる。
従順で人の良さ気は長所と言えなくもないが…俺の触手は一切動く気がしない。
しかし、ここまで来て、踵を返すような大人げないことはしまい。
「ここ、一応二人席なんですよ。ほら」と、俺は手に持ったチケットを見せる。
「あ…す、すみませんっ!…え?ここに一緒に座るんですか?」
「ええ、そうなりますけど…」
「は、…ど、どうぞ」
男は慌ててコートを退かし、俺が充分に座れるだけの空間を保つためにソファの端に身体を寄せた。
「ああ、そんなに隅っこに座らなくても、大丈夫ですよ」
「でも…」
ラブソファというくらいだから、普通に座っていてもお互いの膝頭や腕はどうしても触れ合ってしまう。見知らぬ男とラブソファに座るのは、確かに抵抗があるのかもしれない。
「俺の方は気にしないけど…あなたが無理なら、俺、後ろに立ってますから」
「え?いや、そんなことは…。だ、大丈夫です。どうぞ、座ってください」
「じゃあ、遠慮なく…」
もとよりこっちは遠慮する気はない。ワンドリンク付きで四千円も払ったのだから。
しかし…確かに思ったよりも男二人が座るにはラブソファは狭い。
肩を寄せ合って愛を語るには便利だが、今日初めて会った他人同士が肩を寄せ合うには、少々ハードルが高すぎるようだ。
眼鏡の男は俺の事を気にしないフリを必死にしているが、緊張しているのか、プログラムを広げた指が微かに震えている。
俺はその様子が面白くてじっと見ていた。が、ふとその横顔にデジャヴを感じた。
「すいませんが…」
「え?」
「その眼鏡外してもらえます?」
「は?」
訝る男にニッコリと笑いかけ(愛嬌だけは一人前と上司からも太鼓判を押されている)、俺はもう一度「眼鏡、取ってください」と、言った。
男は少し戸惑いつつも素直に眼鏡を取って、視線を外しながら俺に顔を見せた。
「…」
どこかで見た記憶があるんだけどなあ…取引関係の顧客かなあ?…いや、だったら覚えているはずだ。
しばらく考えてみたけど、どうもはっきりとしない。
「すみませんでした。もういいです」と、男に謝った。
男は「はあ」と、気の抜けた風に返し、眼鏡をかけ直す。
俺は再び俯いた男の横顔をちらりと眺めてみた。
「…あっ!」
「え?」
そうだ!思い出した!宿禰さんと始めて出会った帰り、電車の中で向かい側の席で眠っていた男だ。
あの時、俺は整った宿禰さんとこの男を見比べてて…楽しんでいた。
俺の声に男は驚いた顔で俺を見かえす。
「いえ、なんでもないです」
俺は笑って返した。さすがにあなたが電車で寝ていた姿を眺めていましたので、知ってます…とは、言えまい。
しかし、それ以前にもどこかで見た記憶が…あ……
「そうだっ!」
「はいっ?」
男は再び素っ頓狂な声を出して、俺を見る。
「あ、驚かせてごめんなさい。いえね、俺、あなたの事どっかで見た記憶があって…」
「…わたしをですか?」
「そう!やっと思い出した!総武線の電車内でおばあさんに席を譲ろうとして、一緒にコケた人だ!そうそう、間違いないや。あ~、すっきりした~」
「…」
男はポカンと口を開けて俺を見ている。
よく考えたら…確かにいい歳した大人が、くだらないことで燥ぎすぎだ…。
「あ…え~と、ゴメンなさい。俺、あの時、あなたを見てすごくいいひとだなあ~って思ってて…」
「…」
「ホントですよ。変な意味じゃないです。本当に、いいひとだと感心したんですっ!」
「…別に…いいひとなんかじゃないですよ。お年寄りに席を譲るのは誰だってするものでしょう…」
「でも、俺、なんか幸せな気分になったんです」
「…はあ…」
男はしみじみと俺を見つめ、そして、少し憮然な表情で何も言わず俯いたまま、黙ってしまった。
「…」
不機嫌にさせてしまったのかと、不安になる。
折角ライブを楽しもうって時に…。
俺が悪いんだけど…。
「あの…気を悪くされたのなら…ごめんなさい。俺、つい調子にのっちゃって…」
「…いえ、別に…。大丈夫です」
「本当?なら良かった~。クラシックお好きなんですか?」
「え?…はい。そんなに詳しくはないけれど…聴くのは好きなんです。実は…この店にくるのは初めてで…」
「え?そうなの?」
「はい…。ピアニストの能見響さんのCDがとても気に入ったもので…。今日、駅前のチラシで能見さんのライブをここで聴けるって知って…。それで入ってみたんですが…なんか、ここちょっと様子が違うというか…」
「ああ、いつもはゲイの方が多いんですよ。でも今日は普通のお客さんもいらっしゃるから、変に絡む奴はい少ないですよ。安心して下さい」
「はあ…」
こういう話は慣れていないのか、男は顔を赤らめながら、頭を掻いた。その左指の薬指には、結婚指輪が垣間見えた。
俺に至っては、この時までこの男がゲイだとばかり思っていたから、本当に既婚者なのか…と、疑いを持たずにはいられなかった。
バカな話だが…自分がゲイだと、つい周りの男も同類だと勘違いしてしまう。実際はゲイなんてアンダーグラウンドマイノリティでしかないのにさ。
「あの…」
「え?」
顔を上げた男の顔が、驚くほど近くにあった。
お互いの顔を見合わせた時、室内の灯りが一斉に消えた。
俺は暗闇に紛れ、目の前の男の口唇に軽くキスをした。
惹かれたからじゃない。ただの挨拶代りのコミュニケーション。
そう、これから始まる素敵なライブのアントレ(入口)だよ。