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目の前の海に佇んだ小さな鳥居が波に打たれ、激しい飛沫を撒き散らしていた。
あの後、輝有とふたり、引き潮の干潟を大鳥居まで歩き、参拝したけれど、俺は輝有への問いに答える事はできなかった。
一年以上前の昔話だと言うのに、昨日の事みたいにはっきりと思い出す。
「あの時…なんて応えれば良かったんだろう…」
隣に座る信さんにすべてを話し終えた俺は、答えを求めるでもなく、呟いた。
「そうだね…。多分…感謝の気持ちを言えば、良かったんじゃないかな」
「感謝?」
「そう。由宇くんを産んでくれた母親への感謝。由宇くんを理解してくれる父親への感謝。由宇くんを育ててくれた家族への感謝。そして、由宇くんを一等愛してくれるお兄さんへの感謝。由宇くんは沢山の愛情に囲まれて生きてきたんですよ。その証が今の由宇くん自身です。僕は…由宇くんに会えて、本当に良かったと思ってる。だから今、由宇くんを育ててくれた家族にありがとうって、言いたい気持ちで一杯です」
「信さん…」
「今度、実家へ帰る機会があったら…僕の気持ちの分も含めて、『ありがとう』って、伝えてください。あ、勿論僕の事は内緒ですよ。もし家族に由宇くんがゲイだって知られてないのなら尚更です。うちの親もそうだけど、マイノリティに理解のある僕達の世代とは違って、あの人たちに理解を求めるのは難しい」
「さすがに親にカミングアウトする気はないけどね。そうだな…。きっと、そういう事も含めて実家から遠ざかっていたのかもしれないしね…。でも信さんがそう言うんなら…今度帰ってみるかな~」
「はい、是非、そうして下さい。その時はなにか…プレゼントを持って行くといいですよ。特に母親は息子がくれたものは何でも喜ぶものですから」
「信さん、詳しいなあ~」
「うちは奥さんの実家の分もあるので母の日やら誕生日やら敬老の日やら…とにかく行事のプレゼントは忘れないように贈っています。高いものじゃなくてもいいんです。花やハンカチみたいなものでも、充分喜んでくれるみたいだから…」
「へえ~。そんなもんで喜ぶんだ。女ってわかんねえなあ。まあ、女性と付き合った経験がないから、わかるはずもないんだけどね」
「僕も…奥さんにアドバイスされて、わかったことなんです」
「…奥さん、いいひとだよね。俺、ジェラシー感じちゃうんだけど」
「…」
墓穴を掘ってしまったと、信さんは拙い顔で黙り込んでしまった。
俺もそれ以上突っ込まない。
信さんは、家族の事は必要最小限しか話さない。
多分…何を話しても俺が信さんに同情して、怒り出すのを案じての事だ。
誰だって好きな人が理不尽な目に合っていると感じたら、腹が立つのは当然だ。
二週間後、俺は実家へ帰ることにした。信さんの言う通りに、母親と兄貴の嫁さん、そして生まれたての赤ちゃんへのプレゼントを持って。
嫁さんへのプレゼントは、デパートの女性従業員に薦められた色鮮やかなストールに決まり、赤ちゃんへのお祝いも適当な服のセットで誤魔化せたが、母親への贈り物はなかなか決まらなかった。
悩みながら化粧品のフロアを歩いていた時、ふと母の匂いを思い出した。
近づいてみるとディオールのディオリシモというオードトワレだった。
昔から、いつだって母からは微かにこの匂いがしていた気がする。間違いかも知れないけれど…俺の記憶の中の母の香りだ。
今度は前もって母に連絡をして、実家を訪れた。
土曜日だった所為もあり、家族総出て俺を迎えてくれて、こちらも恐縮する。
それぞれのプレゼントを渡し、それなりに義務感から解放された気がした。
結婚式の時に二、三言話しただけの兄の嫁さんは、さっぱり系の眼鏡美人で、良い距離感で居てくれそうだ。変に色っぽかったり、甘えられたりするタイプは苦手なんだ。
生まれて半年になる赤ちゃんも思った以上に可愛かった。色白の女の子で三月生まれだから「陽奈子」と付けたらしい。 行政書士の資格を持つ奥さんは産休中で、半年経てば元の職場に戻ると言う。
母は…俺の買ってきた香水を見て、酷く驚いた顔をした。
「これディオールのディオリシモじゃない…。どうしてこれを?…お父さんから聞いたの?」
「え?いや…。デパートをぶらついてて、なんかこれって母さんの匂いじゃないかって思ったからさ…。だから買ってみたんだけど…当たりだったら良かったよ」
「お父さんから初めてもらったプレゼントが、このオードトワレだったの。まだ結婚する前の話なんだけどね。それから、ずっとコレを付けていたんだけど…まさか、由宇の始めてのプレゼントがコレだなんて…。お母さん、こんなに感激したの、初めてよ」
「…良かった…よ……!」
…マジびびった。
俺のプレゼントした香水をしっかりと抱いた母が俺の前で涙を滲ませたのだ。
絶句する。つうか…
信さん効果、すげえ~。
プレゼント効果、絶大だな~。
偶然にもその日は、町内の祭りの日だった。
夏を見送る意味合いの地方の祭りで俺達は「ヨド」と呼んでいた。
母は前から用意していたと言う浴衣を出し、俺に着れと言う。
着物を着るなんて…浴衣だけど…子供の頃以来で…それよりも俺用の浴衣を母親が用意してくれていた…と、言うありえねえシチュエーションに感動よりも恐怖が先に立って、とても断る勇気が持てなかった為、俺は母の言うがままに、動きにくい浴衣を着る羽目になった次第。
「じゃあ、行ってくるよ」と、家族に見送られ、兄の輝有とふたりきりで家を出て、近くの神社へ向かう。すでに日は暮れていた。
「いいのかよ。ひなちゃんと嫁さん、置いて俺達だけで出てきてさ」
「かまわんさ。ひなはまだ小さいし、奥さんはああ見えて人見知りだから、人込みは嫌いなんだ。近所の知り合いにいちいち挨拶するのも、好奇心に晒されるのも面倒だしさ」
「まあ、田舎だから仕方ないよなあ」
縞模様の鶯色の浴衣は輝有に良く似合っていたし、俺の浅黄格子柄もなんだか懐かしくて…変に胸が熱くなった。
「昔、子供の頃、兄貴と…知香も居たかな。祭りに行ったよね」
「知香が金魚すくいで釣れなくて泣いてたなあ。今じゃ立派な海外派遣のツアコンだからなあ」
「そう、知香も頑張ってるんだな」
「あの時のおまえは、今日の浴衣そっくりの柄を着ていた」
「よく覚えているね」
「そうだな…。何故だか由宇の事は些細な事も覚えていたりするんだ。俺の目がおまえをずっと追っていたからかもしれんが…」
「…」
「しかし…意外だったよ。おまえが俺の家族やお袋に贈り物をするなんてさ。なんかあったのか?」
「いや…ただ…兄貴にあの時の返事をしなきゃって…思ったんだ」
神社の境内はすでに沢山の人出で賑わっていた。夜店の灯りが虫を呼び寄せるみたいに沢山の子供たちで溢れかえっている。
小学、中学の時の同級生が俺を見つけては「うわ~由宇だ。しばらくだな」と、繰り返し驚く。「今度の同窓会、絶対来いよ」と、言われ「ああ、必ず行くよ」と、返すと、隣の輝有が小声で「ぜってー行かねえクセに。適当な奴」と、嘲笑う。
「別に…これぐらいの嘘で、あいつらが喜ぶなら、いいじゃん」
「いつわりの優しさ…だな。由宇らしいよ」
お参りして神社を一周した後、境内の脇にある林に向って歩いた。
背の高い木陰で佇んでいると、うだるような夏でも不思議と風が通り過ぎて、昔から心地が良かったんだ。
眩しい境内の灯りは俺と輝有と大樹の影を地面に映し出す。
「懐かしいかい?」
「うん、そうだね。なにもかも懐かしい。でも…」
「でも?」
「輝有の言う通り、俺にはもう過去のものでしかない…って思ったりもする」
「そうだな。俺も同じだね」
そう言って、林の奥に歩く輝有の後を、俺は追った。
「輝有、あの時の返事だけど…」
「うん」
「兄貴は親も家の事も心配いらないから、俺に好き勝手に生きろって言ってくれたよね。俺、本音言うとありがたいって思った。めんどくさい事全部兄貴に背負わせることになっても、それは兄貴が小さい頃に受けた恩に報いるだけの事だから、気にするな、とも思った。でもやっぱり違う。輝有がそれを受け入れる覚悟を決めた思いに、俺は向き合うべきだった」
「…」
「ありがとう、兄さん。これまで俺を見守ってくれて、本当にありがとう。それから…親父とお袋の事、よろしくお願いします。何かあったら、俺を頼ってくれていい。俺も家族のひとりだし、兄貴の助けになるのなら、出来る限りのことはするつもりだから。だから…だからさ、昔に会いたくなったら、またここに帰ってきてもいいかな?」
「勿論だよ、由宇。勿論さ…」
「良かった…。帰って来るなって言われたら、どうしようかと思った」
「そんな事、俺が言うもんか」
「言ったじゃん。あの時、もう家とは関わるなって」
「おまえを苦しませたくなかっただけだ。でも、今はあの時と違って吹っ切れたみたいだから、もう大丈夫だな」
その時、俺は輝有に本当の事を言おうと思った。
「輝有、俺…一生結婚はしないつもりだ」
「そう…か…」
「俺、ゲイなんだ。中学の頃から気づいてたけど、家族には知られたくなかった。だけど世間がなんて思おうと、俺は自分を恥じてないし、一社会人としてマトモに生きてるからそれはそれでいいんだけど…、親には嫁さんも孫も見せられない。輝有が期待する俺の実像はこんなもんだ…」
「…」
「失望させたなら謝るよ」
「俺の初体験の相手は大学の時の先輩だった。男のさ」
「え?」
「ユースホステルのサークルで知り合った。優しくてかっこいい人で…まあ、旅先でなんとなくいい雰囲気になっちゃって…俺も好奇心で寝てみた」
「はあ?」
「ま、俺が入れる方だったから、まだバックバージンだけどさ」
「いや…あの、兄貴から聞きたくない言葉ですよ、それ。つうかいいのか?そんなこと俺に話して…」
「おまえ以外に話せる奴もいないだろ。それに、なんとなくおまえが女が駄目ってことは気づいてたよ。ずっとおまえを見てたからな」
「…そう…なんだ。なんか…これぞ複雑な心境って奴だわ」
「おまえがゲイじゃなかったら、俺も先輩と寝なかったかもな…」
「な!お、俺の所為なのか?」
「百パーおまえの所為だな。先輩とやってる時、おまえの事考えてたし…」
「そ、それ以上意味深発言はするなよ。ホントに帰って来れなくなるわ、俺」
「そうだな。俺も一応父親だし…。あれ以来、男とは寝てないし…これから先も可能性は薄いな」
「そこは無いって断言してくれよ~」
なんだよ、変な言い回ししやがって。これじゃ、輝有が俺に惚れてる…みたいに取れるじゃねえか。
妙な具合に心臓の音が頭の奥まで響いてじっとしていられなかった。
「もう帰ろうぜ」
俺は急ぎ足で境内に方へ歩いた。
「由宇、おまえ、随分変わったなあ」
俺を追いついた輝有は俺の肩に並んで歩く。
「なにが?」
「そんなにつんけんするな。褒めているんだ。うん、なんだかすごくいいひとになった。おまえがお袋にプレゼントするなんてさ、考えても見なかったし、人当たりが優しくなったよ」
「そう?自分じゃわかんねえけど、女性にはプレゼントが一番って教えてもらったからさ」
「彼氏か?」
「うん、今、一番好きな人だ」
「俺よりいい男か?」
「え?…いや、輝有の方がかなりイケメンだよ。でも、そいつ、いい奴なんだ」
「おまえよりもか?」
「ああ、超が付くくらい『いいひと』。そこに惚れてる」
「そうか…良かったな」
「いつか輝有に会わせようか?」
「いや、止めておく。ジェラシーを感じてしまうのも癪だからね」
そう言って微かに笑う輝有の顔が、少し寂し気に見えたのは、俺の思い上がりなのかもしれない。
だけど激しく鳴っていた心臓も、今はなんだか温かいだけ。
人から愛をもらうのは、嬉しいものだから。
着ていた浴衣を「せっかくだから持って帰れ」と言う母親に「また、ここに来た時に母さんに着せてもらうよ。その時まで預かってて」と、答えた。
母は驚いた顔をして、それから震える声で「わかった。また来てくれるなら、こちらでしまっておくわ」と、言った。
俺は少しだけ罪悪感を感じた。輝有から親に絶対にゲイだとは言うなと、念を押されていて良かったと思う。
今度泣かれたら、俺だって迷ってしまうよ。
信さんの場合はもっと大変なんだろうなあ。
あの暢気な顔がひきつっているのを想像して、俺はひとりで笑ってしまった。




