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BLですが、Hシーンはほとんどありませんので、安心してご覧いただけると思います。
超いいひと
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打ち合わせ先からの帰りの電車の中は比較的空いていたけれど、人の間を押し分けて座るのも面倒臭かったから立っていた。どうせ三つ先の駅で降りるつもりだし…
午後から大雨になるという天気予報通りに大粒の雨が降り始めた。
電車の窓を横殴りに打ち付ける雨粒を見るのは嫌いじゃない。
次の駅で年老いたおばあさんが車内に乗り込んできた。
夕方近く、疲れている労働者たちは年寄りを見ないようにと寝たふりをする。
「ここっ!どうぞ!」と、少し緊張した声が車内に響いた。
座っていた席から立ちあがったスーツ姿の男は、おばあさんに席を譲ろうと誘導する。
「どうもすみませんねえ」と、ペコリと頭を下げたおばあさんが座ろうとした途端、電車が大きく揺れた。おばあさんは前のめりに身体を崩し、席を譲った男は前倒しになったおばあさんを支えつつ、自分も後ろに倒れ込んでしまった。
「だ、大丈夫ですか?おばあさん」
周りのお客たちはやっと顔を上げて二人を心配そうに見守った。
どこからか「大丈夫かね」との声が聞こえた。
おばあさんを席に座らせたスーツの男は、顔を真っ赤にして周りにぺこぺこと頭を下げて「すみません。大丈夫です」を連発している。
たったこれだけのことだったけれど、彼が一生懸命におばあさんを助けている姿を見た時、誰もがなんとなく幸せな気分を感じたはずだ。
馬鹿でお人よしの「いいひと」の行為は、嫉妬すら感じさせないのだから。
降りる駅でちらっとその「いいひと」を振り返った。しっかりと吊り革を掴み、まだ緊張が取れない顔の男とマトモに目がかち合った。
俺は何故か慌てて顔を逸らす。
電車を降りた後も、少し頼りない平凡な顔立ちの男の事が俺はずっと引っかかっていた。
俺は上杉由宇。二十七歳の独身。今後も結婚する予定はない。だって俺、ゲイだから。
自分が男しか興味が持てない人間だってことに気づいたのは中学生の頃。そんで高校生の時に、生物の先生と関係を持った。勿論、俺から誘った。
その時、男同士っていうのは、恋愛云々よりも身体の相性が大事だってことを理解した。事実、色々と面倒な恋愛より、身体の関係だけで付き合う方がなにかと楽なのは確かだ。
大学は地方の国立の建築学科へ進学したけれど、才能の限界を知り、建築関係の企業に就職は出来たけれど、デザインや設計よりも営業を選んだ。
本当は…建築家になりたかった。一応国家試験の二級建築士の免許は取得していたけれど、実際のところ、自分の想い通りになにもかもがやれるわけでもないし、何よりもモチベーションとか野心があの頃の俺には欠けていた。それに何かと外交的な性格も、俺には営業の方が向いていると思った。
新社会人に成り立ての頃は、慣れない仕事と初めての遠い赴任先での生活で、正直何度も辞めようと思い悩んだけれど、上司の先輩の助けで、なんとか辞めずに続けられた。
浅野竜朗先輩は俺が初めて本気で恋愛感情を持った人だった。
四歳年上の浅野先輩は、器量も志も爽やかな男前の人で、しかも俺と同じくゲイだった。だから遊びで良いから一度寝て欲しいと頼んだりしたのだけれど、彼は「悪いな、上杉。いつかまたな」と、まるで相手にしてくれなかった。
先輩と仕事を初めて三か月後、先輩は会社を退職してしまった。同僚の誰にも知らせないまま、突然に先輩は居なくなったのだ。上司に辞めた理由を問いただしても、一身上の都合としか返って来なかった。
だけど俺には思い当たる節があった。
先輩が会社を辞める少し前、ふたりだけで飲む機会があって、俺は先輩を酔わせた勢いで迫ろうとした。そしたら、彼は真面目な顔で「俺にはずっと好きな奴がいたんだ。…別れてしまったけれど…」と、話し始めた。
「どうして別れたんですか?」
「同僚だったんだけど…転勤が決まって、離れ離れになってしまったから…」
「…そんな事ぐらいで…本当に好きな人と別れられるんですか?」
「そうだな…どっかで男同士の恋愛なんて…続くわけねえって…ないがしろにしてたんだよ。だから罰があたった…」
先輩はその人と別れたことを心から後悔したように俺に話し聞かせる。俺は少々の嫉妬を感じつつも、その話に興味を持ち、酔った先輩に続きを促した。
「ねえ、その人、どんな人なんですか?」
「え~?…そうだな。あいつは…思ったことの半分も口にできねえ控えめな男なんだ。愛想のない…捻くれ者で…自分からは欲しがらないし…でも本当はすげえ欲しがってるんだ。…ったく素直じゃなくてさあ…でも…美人でかわいくて、甘ったれで…大好きだった…」
「過去形?」
「え?……そんなん…決まってる…し…。今でも好きだよ…バカヤロ…」
未練タラタラに愚痴る先輩なんてかっこ悪いとも思ったけれど、俺は今でも想いを寄せる先輩の恋人が羨ましかった。
俺は今までそんなに想いを寄せる相手に巡り合ったことは一度もなかったから。
噂では会社を辞めた後、浅野先輩は実家の信州に帰ったらしいけれど、詳しい事はわからない。俺も仕事をこなすことで精一杯だったから、先輩が辞めた後の喪失感は時機に埋められてしまったんだ。
それから三年経って、俺は東京の本社へ転勤になった。
しかも営業から設計部への転属だ。俺自身のたっての希望が叶えられたのだ。
建築デザインを諦めきれないままに、一歩を踏み出せきれない自分の背中を押してくれたのも、浅野先輩だった。
「諦める必要なんかねえよ。頭に沸いてくるものを書き続けろよ。上杉の場合は夢じゃなくて、ゴールは掴める距離にあるんだぜ。俺はあまり人に頑張れって言わねえけどさ、やれる奴には言うよ。おまえはちゃんとやれる男だ。精一杯頑張ってみろよ」
そう励ましてくれた先輩の言葉は、失くしかけた俺の野望…いや、希望に再び火を灯してくれたのだ。
勿論、設計部に配属されても、自分の想い通りのデザインなんてすぐに認めてもらえるわけもなく、まずは下請けの地味な作業の繰り返しだった。
だけど、目的とモチベを失わずにいれば、どんな仕事だって楽しめるってことをこの四年間で俺は覚えたのだと思う。それに、思い通りに出来上がった現物をお客様に喜んでもらえる時の満足感は…言葉では言い表せない程に嬉しいのだ。…まあ、そんな幸運はたまにしか味わえないんだけど…。
時折、浅野先輩の事が懐かしくなることもあるけれど、俺はここで楽しく生きている。ゲイ生活の方も、ここでは遊び場には不自由しない。サロンもハッテンバも適当に遊ぶにはもってこいだ。
今は新橋にあるジャズクラブ「Ethos」が、お気に入りの場所だ。
会員制で値段は張るけれど、集まるお客に間違いがないし、なにより音楽環境が素晴らしい。ジャズに詳しくない俺にでも、音響の良さや文句のつけようのないライブ演奏ぐらいはわかる。
それに…ここは俺の幸運の場所でもあるんだ。
二年前、当時付き合っていた裕福な芸術家気取りの親父に連れられ、初めてこのジャズクラブを知った。その時、店内で見かけたひとりの男の姿に、俺は釘付けになってしまった。
カウンター内に居るマスターと仲よさ気に話している男性は、間違いなく俺の憧れの人…だったんだ。
俺は勇気を振り絞って、その人に歩み寄り、そして心臓が飛び出さんばかりに緊張しながら、やっとの思いで話しかけたのだ。
「あ、の…もしかしたら…建築家の…宿禰凛一さん…ですよね?」
「え?…うん、そうだけど」
「ぼ、僕、あなたの大ファンなんですっ!あなたの建てた教会とか美術館とか…あの横須賀の湾岸公園とか…本当に、もう、大好きですっ!」
「へえ~、詳しいんだね。嬉しいなあ。ありがとう」
そして、憧れの君は、女神のような美しい顔で俺に笑いかけ、握手する為の右手を差し出してくれた。
俺はもうマジに夢心地で…そのまま失神してしまいそうになるのを必死でこらえ、すがるようにその手を両手で握りしめるのだった。