中編
「おーいコウキ」
ショートホームルームが終わって、帰る奴、部活に行く奴で慌ただしい教室。
その流れをぼんやりと眺めている俺を晴人が現実に引きずり込む。お前またぼーっとしとる、と晴人がカラカラと笑う。
お前またぼーっとしとる。その言葉が俺の中でぐるぐると回る。
最近俺は、放課後のせわしない流れの中、唯一止まってはっきりと見える「それ」をぼんやりと眺めている事が多い。
「マック寄って帰ろうぜ。んでタワレコ」
RAM RIDERの新しいアルバムヤバイから、と晴人が続ける。
「ワリィ、先にマック行ってて」
「何? 何かあんの?」
付き合い悪いな、と一瞬晴人はまゆを潜めたが、俺の目線の先にいる「それ」に気が付き、ああ、と納得した。
ぼんやりと眺めている「それ」は他でもない。学校が終わって、放課後が始まる僅かな隙間でふと表情が和らいでいる桜井の姿だ。
授業が終わってやっと好きなことが出来る、と思ったヒトはあんな顔をするんだ。
最近俺はその事に気がついた。
「美祢ちゃん見てるとオモロイな」
「うん、意外とオモロイ奴だった」
そう、桜井は思ったより面白い奴。その行動が見てて面白い。
じっと見つめてるだけで、挙動不審になってわたわたと慌て出す。この前も「ほっぺに何かついてるぞ」とジェスチャーしただけで桜井はあたふたしてた。
感情表現が豊かというか。芸術をやる奴はやっぱ表現が豊かなんだなー。
放課後の桜井が部活に行くまでの刹那の時間、それが俺にとって一日の中で一番大切な時間になりつつあった。
「千尋ちゃんが怒るよ?」
「何で千尋が怒ンだよ」
お前も悪いやっちゃなぁと晴人がニヤニヤ笑みを零す。
千尋とは付き合ってるわけじゃねぇし。俺が誰と仲良くしようが関係ないだろ。
「んじゃ先行っとくわ。後でな」
そう言って、晴人は桜井に「美祢ちゃん、さいなら」と爽やかな笑顔で声をかけて教室を後にした。
突然声を変えられた桜井がいつものようにあたふたと挙動不審に陥っている。
何か悔しいけどその姿は、やはり可愛い。
「よっ、桜井」
「て、寺島くん」
晴人の後を追い、声をかけた俺に恥ずかしそうに桜井は笑みを零す。その顔がよく見えるように俺は桜井の前の席にいつものように座る。
桜井の前の席が俺の居場所。
約束しているわけじゃない。だけど、桜井も何処か待っているような気がした。
ま、俺の勘違いの可能性は高いけど。
「そーいえばさ。よく机で読んでる本あんじゃん? あれ、何読んでんの?」
「海外ミステリが多いかなあ」
「マジで!? 俺も割と好き。今読んでんのは何?」
「ポワロだよ」
桜井がカバンから取り出した文庫本のカバーを外し背表紙を見せる。
おお、意外な接点。桜井も海外ミステリー小説が好きだとは。その意外な接点につい心が踊ってしまう。
「いいよな、灰色の脳細胞」
「寺島くんは、どんなの読むの?」
「その言い方、固てえな。コウキでいいよ」
「えっ!?」
桜井の大きな眼が更に大きくなった。もっとフランクに話したかったから何気なく言ったつもりだったけど、逆効果だったのか、耳の先まで真っ赤になってる。
つか、そんな恥ずかしがんなや。こっちまで気まずくなンだろ。
気を逸らすために桜井から文庫本をかすめ取り、パラパラとめくる。
「……えと、じゃあ、皓稀くんはどんなの読んでるの?」
「んー。最近ハマってんのは、エラリー・クイーンかな」
「あ、私も好きだよ」
「マジで?」
うん、と桜井が笑顔で頷いた。
俺との共通点を見つけた。全く共通点もない、まるで人種すら違うのではないかと思うくらい住む世界が違うと思っていた。
これまで桜井は何処か俺に気圧されている様な所があった。
嫌っているわけじゃなさそうだけど、何を話せばいいのかいつも困っている感じ。だから何か共通の話題がないものかいつも手探りで話していた。だけどついにその鉱脈に辿り着いた。
水を得た魚のように、海外ミステリー小説の話で盛り上がる二人。
だけど、その時間もそう長くは無かった。
「――桜井」
いつの間にか二人だけになっていた教室に響いた声。
教室の扉の傍らに立っている、絵具で汚れたエプロンに、度がきついメガネをかけた寡黙な感じの男。桜井と同じ美術部に所属する田村だ。
「林センセが呼んでたぜ」
そう桜井に言いながらも俺の姿を見る田村の眼は何処か冷たい。
「あ、ごめん! すぐ行きます!! じゃあ、長々と引き留めちゃってゴメンね」
ぱっと桜井が立ち上がり、教室を出ながら笑顔でばいばいと手を振った。
桜井とこうして話す前までは、いやに長く感じた放課後だった。だけど、桜井と話すようになってからはものすごく短い。
向こうの世界に行く桜井に「待てよ」とは言えない。
「もっと話そうぜ」と言える資格なんてない。
俺に言えるのは――
「部活、がんばれよ」
俺のその言葉に、教室のドアに隠れるその一瞬、もう一度桜井が笑顔を見せてくれた気がした。その笑顔が残像のように目に残る。
廊下から田村と桜井が何か話している声が聞こえた。
よく聞こえなかったが、その会話に何か下っ腹当たりがキュウと締め付けられるような鈍い疼きがする。
多分、俺、情けない顔になっていたのかも。
そんな顔を田村のやつに見られたくないし、誰にも見られなくない。
それに金縛りのように立つことも動く事も出来ない。
俺はつい先程までそこにあった桜井の影を感じながら、琥珀色に染まる教室でしばらく時を持て余すしか無かった。
***
「お前、恋してるやろ」
いつもの屋上でぼんやりと校庭を眺めていた俺に突然晴人がのたまう。
「なんだそれ」
「そんな顔してる」
「してねぇし」
「病気だな。それ」
俺には分かる、と晴人。
病気。その言葉を改めて考えて、妙にしっくり来る。そんなものかもしれない。
熱っぽいし、ついボーっとしてしまう。時間が経てばこれは治るのだろうか。
にしても、晴人には嘘がつけない。嘘がつけないというか、こっちの考えていることがすべて見透かされてしまう。
先日の体育でサッカーをやった時もそうだ。俺が望む先に必ず晴人の姿があった。
そして俺にも晴人の考えていることが分かる。
人には「ソウルメイト」という存在が必ず居ると言われているが、それが晴人じゃないのかと時々思う。
「やっほ~、コウキくん」
どこか苛立ちを覚えてしまう気の抜けた声が神経を逆なでした。
聞き覚えのある声。
「やっほ~、千尋ちゃん」
「どもども、晴人くん」
同じように気の抜けた返事を返す晴人。
その声と共に、小走りに駆け寄ってくる軽い音が聞こえる。
「ねぇねぇ、この前の晴人くんとコウキくんの賭けの件だけどさ」
「なんだよお前。うぜぇな。抱きつくな」
甘える猫の様に俺の腕に抱きついた千尋が甘ったるい声で囁く。
賭けってなんだ。晴人となんか賭けたっけ。
「テストで勝った方がアタシとチューするってやつ」
「あ~……」
そんな約束だったっけか。
……いやいや、勝った方じゃなくて、負けた方が、だったろ。確か。
「お前、嘘つくな。『負けた方』だろが」
「えへへ、バレちゃった?」
千尋が俺の顔を覗き込みながら、失敗、とぺろりと舌を出す。
あぶねぇ……危なく騙されるところだった。
「でも、しちゃう? アタシとキス」
「……するわけねぇだろ」
「えぇ~、やろうよ」
ねぇ、と千尋がリップで濡れた唇を震わす。千尋に対して特別な感情な皆無だが、その仕草に思わずドキリと胸が高鳴ってしまった。
女は凄い。千尋は俺のその一瞬の変化を逃さなかった。
「あは、今、想像したでしょ?」
「し、してねぇし!」
動揺する必要なんか無かったが、思わず千尋の腕を振りほどき、俺は顔をそむけてしまった。
クスクスと笑う千尋の声だけが耳に届く。
「だめだよ、千尋ちゃん。コウキは今、病気なんだよ」
俺をフォローしているのか、よりドツボにはめてるのか分からんが、とんでもないことを晴人が呟いた。
てめぇ、晴人。こいつに言ったらめんどくせぇことになンだろが。
思わず俺は晴人を睨みつける。
その視線に気がついた晴人は「まぁまぁ」と言いたげに笑みを浮かべた。
「え? コウキくん風邪なの?」
だから、キス出来ないんだ? と続ける。
「いんや、コウキのは普通の病気じゃないんだよ~。なんというか、不治の病というか。心の病気というか、事故というか」
「……えっ、それってまさか……」
ピンと来た千尋がうれしそうにもう一度俺の腕にしがみついた。
「恋? 恋してるの? コウキくん! ……アタシに!?」
「アホか! ちげぇっつの!」
目を輝かせて俺の腕に再度しがみつく阿呆に軽い殺意が芽生えてしまう。
この女、ホント自分に都合のいい方向にしか考えねぇんだな。
「もう、照れちゃって」
「照れてねぇ!」
もう一度千尋の腕を振りほどき、そのまま俺は屋上から逃げるように離れた。
どういうつもりだ晴人のやつ。
晴人の事をソウルメイトだと思っていたが、勘違いだったみたいだ。
それから、案の定噂が立った。
『コウキは恋をしているらしい』
暇な奴らは居るもんだと呆れたが、そんな噂を立たされてはたまったもんじゃない。
憶測が憶測を呼び、俺の一番近くにいる晴人が女子生徒からの質問攻めに会っているらしい。「俺はお前のマネージャーじゃねえっつうの」とぼやいていたが、自業自得だろが。
「先輩もほどほどにしてくださいね」
放課後の一幕、琥珀色の光に包まれた教室から女子生徒の声が聞こえた。ぱたぱたと走るいくつかの音がする。
その声を追うように俺の鼻に入り込む、アルコールの匂い。ペンキの匂いだ。
体育祭の準備で美術部の連中が教室で看板を作っているらしい。
そういえばもうすぐ体育祭か。学級対抗のリレーでアンカーをお願いされていたことをふと思い出す。俺じゃなくて、陸上部に頼むだろ普通。
だけど、頼まれたからには全力でやるしかない。看板を作る奴らに、今校庭で大声を張り上げて作業をしている奴らの為にも。すっげぇめんどくせぇけど。
億劫な気分で教室の前を通りかかった俺の目に映った女子生徒の姿。
「あれ、まだやってたのか」
思わず声をかけてしまった。両手をペンキで汚し、汗で髪を濡らしている桜井だ。
何処か色気があるその姿に思わず見とれてしまう。
そういえば、あの噂を桜井も知っているのだろうか。俺が恋をしているという噂。
俺は恋をしているのか、自分でもよくわからない。
だけど、もしこれが恋なのであれば、その相手は目の前にいる桜井にほかならない。
「え? わ、びっくりしたあ」
集中していたらしく、突然声をかけられたことに驚いた桜井が身を竦ませた。
「あ、悪い。そんな驚くと思わなくて」
「ううん、大丈夫。まだ残ってたんだね」
「それはこっちの台詞。なんだよ、まさか押し付けられてんの?」
さっき出て行ったのは他の美術部か。桜井に押し付けて帰ったんじゃねえだろうな。
「違う、違う! もうあと少しだから、先に帰ってもらったの」
「そう? ならいいけど。なんか手伝う?」
「ううん、もうさっきので終わったから」
そういって、うーん、と桜井は猫の様に伸び、固まっていたらしい筋肉をほぐした。
作業の邪魔になっていたのか、いつもと違い、黒く輝く絹糸の様な髪をまとめて頭のてっぺんで纏めて上げている。綺麗なうなじについ頬が熱くなってしまうのを感じる。
「ン、ん~……」
桜井がもぞもぞと頭をよじり始めた。汗で髪が一筋、頬に張り付いているらしい。両手はペンキで汚れているため、それを剥がそうと右往左往している。
その仕草につい笑みが溢れてしまうが、見てられない。
「ちょっとじっとしてろ。……ほら、取れた」
「あ、ありがと」
桜井の頬の感触が指を通じて伝わる。汗で少し濡れ、冷たい肌の感覚。
思わず鼓動が高なった。ひとつ、大きく跳ねた俺の心臓が、前進に血液を巡らせ、思わず頬が紅潮してしまっているのが分かる。
まずい。もしあの噂を桜井が知っていたら、バレてしまうのではないか。
……でも、言ったら、ひょっとして桜井は受け入れてくれるんじゃないか。どこからそんな自信が湧いてくンのか、わっかんねぇけど。
そんな事を考えている俺の空気を桜井も察知してしまったのか、恥ずかしそうに俯いた。
「桜井、あのさ……」
噂、知ってるか。俺の噂。
そう切り出しかけたその時だった。
「あ~!! こんなところにいた!!」
二人以外に誰もいない教室に甲高い声がこだました。
その声に驚いた桜井が思わず身をすくめる。
「……千尋」
教室の入り口に立っていたのは、千尋だった。
「ちょっと、コウキくん。探したよ?」
「は? 何で俺を探す」
「一緒に帰ろ?」
小走りに駆け寄ってきた千尋が、なれなれしく俺の腕に手を回した。
「おい、なんだおま……」
千尋の腕を剥がそうとするが、ぎゅっと抱きしめられた俺の腕は言うことを聞かなかった。恥ずかしそうに俯いている桜井がチラリと俺達に目線を送る。
千尋のやつどういうつもりだ。
「あらぁ、桜井さん。居たの?」
「……ッ」
千尋が白々しく俺の腕に抱きついたまま、身を乗り出してそう囁くと、桜井が目を丸くして身を引いた。
「ごっめーん、邪魔しちゃった?」
「あ、いいえ、邪魔だなんて、そんな」
「おい、千尋、いい加減に……」
「アタシ達これからデートなの。ほら、あなたも知っているでしょう? コウキくんが恋してるって話」
桜井に魅せつけるように、千尋はギュッと俺の腕を抱きしめる。
こいつ、まさか……
「……あれ、アタシの事なの」
「おいッ! 千尋ッ!」
「桜井さん、クラスでいろいろコウキくんと仲良くしているみたいだけど、勘違いしないでね」
千尋がきゅっと口角を上げ、挑戦的な笑みを浮かべる。
見てたのか。ずっと、俺と桜井の事を。
冷酷にそう囁く千尋に、つい怒りがこみ上げてくる。
だがーー
「そう、だったんだね。いつも一緒に居るから、そうじゃないかと思ってた」
怒りをすり抜け、心に届いた優しい桜井の声が俺の身体から力を奪った。
待て。ちょと待て。
「おい、桜井」
違う。俺が、俺が想っているのは……
「あは、桜井さんもそう思ってたんだ? そうなの。ごめんね桜井さん」
千尋の言葉に小さく笑みを浮かべる桜井。だが、ペンキで汚れた手がきつく握りしめられているのに俺は気がついた。
「おい、桜井、違」
「あれ、寺島……と、橋本さん?」
誤解を解こうとした俺の声を遮って、低い声が俺の耳に届く。
「……田村」
現れたのは田村。桜井と同じ美術部の田村だ。
「なにしてんの?」
「ううん、なんでもない」
そう答えたのは桜井。
「立て看担当じゃないのに、どうして寺島と橋本さんがここに?」
「ごめんね、田村くん。コウキくんを探してたらここに」
千尋の言葉に、なるほど、と眼鏡を上げ直し田村が俺にあの時の冷たい目を送る。
どこか卑下するような目。
「……あまり来ないでくれるかな?」
「は?」
田村が言った言葉の意味が判らず、俺は思わず聞き返してしまう。
「悪いけどさ、迷惑なんだよね。君みたいな人にかき回されるの」
「何だって?」
「……ッ! 田村君!?」
迷惑? 何が言いたいんだお前。
千尋の事で上がりかけていた俺の頭の温度は即座に沸点に達し、そのまま田村に詰め寄る。
「君みたいなチャラチャラした人に、桜井さんの周りをうろちょろしてほしく無いって言ってるんだよ」
「てめぇッ……!」
「やめてっ、田村くんも、皓稀くんもッ……」
胸ぐらをつかもうとした俺と田村の間に、泣き出しそうな表情で桜井が割って入る。
田村、それは、それは、桜井の言葉か。彼女の本心なのか。
「僕らと君たちは住む世界が違う」
田村の静かな声が俺の心に響く。
住む世界が違う。
そんな事は判っていた。
俺には何もなくて、桜井にはある。
俺には光るものはなくて、桜井には光り輝いている物がある。
住む世界が違う。そんな事は判っている。
何かの間違いで、俺も夢中になれる何かが欲しかっただけだ。
ーーそれが桜井だっただけだ。
「皓稀くん」
泣き出しそうな桜井の顔。
情けない。何時から俺はそんなに弱くなった。
「悪い、桜井。勘違いしてた俺が馬鹿だった」
「……えっ?」
心配そうに見つめる桜井に俺は心ない一言を放ち、ゆっくりとその場から逃げた。
迷惑。田村の一言がやけにキツイ。
田村の言うとおり、住む世界が違う俺は立入るべきじゃなかったのかもしれない。
俺の心の穴は、また、大きくなった。




