前編
「おぉ、野球部、朝から頑張っとるなぁ」
まだ人の息が混じっていない青白く澄んだ朝、校庭を眺めながら、何処か含みのある口調で晴人がのたまう。
暇なんやな、あいつら、と晴人が付け足した。
スンと研ぎ澄まされた空気を吹き飛ばすように校庭に響く野球部の声。その声の方を晴人と同じようにぼんやりと眺めながら、暇なんだろうなと俺もそう思った。
朝っぱらから無駄な体力使うなんて暇以外の何者でもないやろ。ダッサい。
「つか、何聴いてんの? コウキ?」
すでに校庭の野球部に興味を失った晴人が俺に問うと、無言で片耳からイヤホンを外し晴人に渡した。
「おー、tofubeats? いいよな水星」
俺のipodから流れているのは大学生の兄貴に勧められたアーティスト。同じ年の大学生DJらしい。
俺らとあんま年変わんないのに曲出すってすごいよな。くるくるとカールした茶色の髪の毛をいじりながら全く感情の篭っていない表情で晴人が言う。
野球部もこのイヤホンから流れてくるリズミカルで優しいサウンドも俺らとは違う世界。
ダサいかダサくないかで振り分けて、勉強出来るか出来ないかで振り分けて、俺も晴人も運良く前者だから「一軍」的に扱われて、同じような奴らのグループではしゃいで、後輩からカッコイイと言われ持てはやされる。
だからなんだ。だからどーした。
目と耳から俺を責め立てる光。
俺には無い、光だ。
外の空気と同じようにキンと冷えた体育館で、女の名前が呼ばれた。
珍しい、なんというか古風な感じ。見るからにキンチョーしてる。明らかにそんな所に立つ経験がなさそうな奴。
無理すんな。興味無いけど。
「昆布、話なげーよ」
突然晴人が漏らした言葉に俺はつい吹き出してしまった。
昆布とは校長のアダ名だ。頭が昆布みたいだから昆布。だけど今日の校長はいつもにまして頭が岩に貼り付けられた昆布みたいだ。そう改めて思った俺は声に出して笑ってしまう。
「お前ツボんなや」
いや、昆布て。今日の校長まんまやし。
「つか、あの女、ウチのクラスの子じゃね?」
「居たっけ? あんな奴」
お前よく知ってんな。
県知事賞桜井美祢殿、と昆布が言った。
桜井美祢? そんな奴居たっけ?
受賞歴らしき物をつらつらと述べている前で固まっている女。まっすぐな黒い髪に親が買って来たそのまんまの制服。クラスに居たような気がするけど、記憶に無い。
「よく判らんけど、県知事賞って事は県で一位って事だよな。暇なんやなぁ」
朝と同じ台詞を晴人が呟いた。一位になるくらいだから、まぁ、暇だったんだろうな。
チクリと俺の心が疼いた。
「晴人、お前って本当に可哀想な奴だよな」
「え? 何で?」
可哀想な奴。
自分で口に出して、そういう自分が何処か滑稽に思えて笑ってしまった。きょとんとしている晴人に、俺はアホだから、と付け足す。
晴人は、カッコイイ部類に入るし、良い奴だ。まぁ、俺ほどまでじゃ無いけど。
気を使わなくていいからつるんでて楽しい。だけど、たまに可哀想だと思う。
こいつも俺と同じ。夢とか目標とかいう光を持ってない。だから目の前のモノサシで全部を測る。
俺らのモノサシで言えば桜井美祢はダサくて、ひざ上まで上げたスカートに強制的に上げられた睫毛の女達がダサくない。
だけどそのモノサシはこの狭い世界での話だ。
本当は俺たちがダサくて、あの夢を追うキラキラした桜井美祢がダサくないんじゃねーのか。
俺は昆布の前で俯いている、桜井美祢の後ろ姿を見てそう思った。
イライラする。
ダサいって何だよ。可哀想なのは、どっちだよ。
***
「あっ、やっぱりココに居た」
朝の冷えきった空気から一辺し、ついまどろんでしまう秋の淡い日光が注ぐ屋上で、俺らの幸せな一時を女の声が遮る。
「探しちゃったよ~、コウキくん達」
「あ、千尋ちゃん」
見つかっちゃたかぁ~、と甘ったるい声で晴人が返事を返す。めんどくせぇし、いちいち反応すんじゃねぇよ晴人。
チラリと目を送った先に見えるのは、背の高い女。短く折り込んだスカートから覗くか細い白い足達に、秋風に踊る茶色く脱色した髪。いつも俺らを追っかけてくる千尋だ。
学校の流行に乗り着崩した制服に手入れを怠っていない顔立ちの千尋は男女問わず人気がある。
例のモノサシで言えばイケてる側の女子生徒。
まぁ普通に可愛いのは確かだけどさ。
「お昼一緒に食べようって言ったじゃないコウキくん」
「そうだっけ? 覚えてねぇし」
「なにそれひっどお」
酷い、と言いながら千尋は笑顔でピンク色の潤った唇を震わせた。
朝そんなことを言われたような気もするが、覚えてない。と言うか興味ない。
千尋のファンに聞かれたら恨まれてしまうだろう言葉を考えながら、俺は地面に寝転んだままめんどくさそうに千尋を一瞥した。
「あ、コウキくん見た? 張り出し」
そういって図々しく、千尋は俺と晴人の間にちょこんと腰をおろす。今日も可愛いねと囁く晴人に、頬を赤らめ、ありがと、と千尋が微笑んだ。
その姿とギャップがある無垢な笑顔。
その笑顔で骨抜きになった男は両手の数では足りないだろう。昨日もバスケ部の先輩に告白されたと言っていた。だが、この笑顔に騙されたバスケ部の先輩がいたたまれない。そんな事軽々しく俺に話すなっつの。
「なんだよ、張り出しって」
「中間テストの張り出しだよ。見てないの?」
「見てねー」
テストの結果なんて、マジで興味無い。
一応勉強はしているが俺のためじゃない。教師を喜ばせるため、親を喜ばせるためだ。ンでいい大学行って、良い会社に就職して、そんだけ。何も熱くならない。全教科100点だろうが、あっそ、て感じ。
ーーいつからこんなに心が冷めちまったんだろう。
中学ン時に地方からここに越してきて、ナメられない為に努力した。田舎モンと馬鹿にした奴らを見返す為に努力した。そのまま勉強出来て、良い格好して、運動できれば高校生活はバラ色だと思っていた。
だけど違った。
何か心にポッカリと穴が空いちまった。その穴をふさぐ為に晴人と馬鹿やって、擦り寄ってくる女達と遊んで。
だけど、その穴は塞がらない。大きくなるばっかりだ。
俺に穴が空いてるのか、穴に俺がしがみついてるのかもう判んねぇ。
「あ、コウキ『賭け』覚えてるよな?」
「賭け?」
「そう、俺とお前、中間テストで負けたほうが何でも言うことを聞くってやつ」
「へぇ! なにそれ!? 面白そう!」
おもちゃを見つけた子供の様に目をきらつかせながら千尋が身を乗り出す。
そんな約束したな。そういえば。ノリで了承したけど。
しかし、何で千尋が喜んでんだ。
「ねぇ、晴人くん、晴人くんが勝ったら、コウキくんがアタシにチューするってのはどお?」
「……は?」
「良いね。写メ取ろうぜ、それ」
悪乗りする晴人に、千尋が「きゃ~、そうなったらもうアタシ、公認の彼女だね」と身をくねらせてほざく。
マジで阿呆だな、こいつら。
「ざっけんな。つか、そもそも俺が負けるかっつの」
「今回は俺本気出したぜ?」
いつも本気じゃねぇかお前。自信に満ちた笑みを浮かべている晴人に思わず吹き出してしまった。
「何笑ってんだよお前。ツボが判んねぇ奴だな」
「あ、そうだ、俺が勝ったら晴人が千尋にチューな」
「へ? ……ああ、でも、それもいいな。千尋ちゃん、俺舌いれちゃうぞ~」
冗談半分で投げた言葉に晴人が乗ってくる。覚悟してね、と戯ける晴人に「いや~ん」とまんざらでもなさそうに千尋がさらに身をくねらせた。
その反応がいちいちうっとおしい。めんどくせぇから今ここでチューしろよお前ら。
この馬鹿みたいな二人に俺は声を出して笑ってしまった。
と、晴人と千尋のアホくさい声が響く屋上の入り口のドアがゆっくりと開いた。
何処かおっかなびっくりな扉の動きだ。
「あっ……」
ドアから見えたのは、素朴な感じの女子生徒。
俺らの姿を見て目が泳いでいる。知らない女子生徒。
「あら? こんな所に一人で来て。教室から逃げて来ちゃったの?」
千尋が冷たい目でその女子生徒を一瞥した。その目に、女子生徒はまるで蛇に睨まれた蛙のように立ちすくんで俯いた。
「あの子、千尋ちゃん知り合い?」
「同じクラスの子じゃん。でも知らないか。いつも一人でボッチなの。彼女」
千尋が「可哀想な子」と付け加え、嘲笑した。その言葉にぞわぞわと俺の毛が逆立つ。
おい、何言ってんだお前。可哀想ってなんだよ。ボッチってなんだよ。
中学の時にクラスメイトに受けた仕打ちが脳裏に浮かび、苛立ちで俺は思わず立ち上がった。
「……お前、ンな言い方すんなや」
急に豹変した俺に千尋は目を丸くした。
晴人はまたか、と呆れたような表情。
「……え? コウキくん怒ってる? なんで怒ってるの?」
「怒ってねぇし」
ムカついてんだよ。お前に。
お前に孤独の苦しみがわかるか。わかるわけねぇよな。だから簡単に「可哀想」とか言う。
「どうしたの急に」と困惑した表情を見せている千尋を無視して、俺はすっかり幸せと程遠くなってしまった屋上から逃げ出すように女子生徒が立つドアに向かった。
「俺らもう行くから、お前、ここ使っていいぞ」
「……えっ? あっ……」
突然の出来事に目を白黒させている女子生徒の顔が俺の目に映る。
つか、前にも同じような事があった気がすンな。いつだったっけ。覚えてねぇ。
マジでゴミみたいなやつばっかりだ。だけど、そんな奴らに好かれる俺も同じようなもんだろうな。
まってよ、と千尋の声が追いかけてきたが、無視してやった。
***
廊下の窓から覗くどんよりとした空。朝まで気持ちいいほど晴れていた空が、いつの今にも落ちてきそうなほど重く垂れ下がってきている。
「お前、賭けがあるから、ぜってぇ本気だしたろ」
「だから、出してねぇ」
「居るんだよな、『勉強なんかやってねぇ』つって、影で猛勉強してる奴」
渡り廊下で中間テストの張り出しを見た後から、晴人はずっとこの調子だ。
中間テストの張り出し。同学年の生徒の内、成績上位者30名が貼りだされる「イケてる奴らの証明書」だ。まぁ女子生徒にとって、ガリ勉君達はノーサンキューだろうが。
案の定、というか当然の結果だが、俺が3位で晴人が4位。15点の点差には少しひやりとしたが、結果は俺の勝ちだ。
俺に勝とうなんざ百年早えよ。
「普通にやっただけだっつの。しつけーな、お前」
「ま、いっか。千尋ちゃんとチューできるし」
「あのさ……よくよく考えると、負けたほうが得じゃねぇか? それ」
お前と千尋がチューしても俺に何の得もねぇし。
ウケるけど。
「『歌王』で千尋ちゃんが待ってるから、いこーぜ。何人か千尋ちゃんの友達もいるみたいだし」
歌王、カラオケか。
「コウキ、お前に俺のキステクニック見せてやンよ」
「うぜえ。ンなキモいモン見たくねぇ」
わざとらしく俺の肩を抱きながら晴人がのたまう。
俺が晴人に唯一負けているのが女の経験か。一年で付き合った女の数は片手では済まないと晴人本人が言っていた。しかし「二股はかけない」というのが晴人のポリシーらしい。各々本気だと晴人本人は純愛を気取っているものの一年でその数はどうかと思うぞ。
俺の肩を抱いたうざったい晴人の手を押しのけ、晴人と千尋のキスを、俺と千尋の友達がギャーギャー騒ぎながら写メに撮る絵を想像して見た。
笑いがこみ上げてくる。そのまま晴人と千尋が付き合うことになっちまえば、もっとおもしろんだがな、とぼんやりと考えたその時だった。
俺の目に飛び込んできた、校舎の玄関に飾られている一枚の絵。
丁度雲の間から差し込んできた陽の光が窓から差し込み、スポットライトのようにまるでその一区画だけが浮かび上がらせている。
満開の桜の下、自転車らしき物を押している男女の姿が描かれた絵だ。
その絵に何故か全身の毛が逆立つような感覚に襲われてしまう。
それは、不快感じゃない。
絵なんて判らん。だけど、どう表現すれば良いか判らないけど、「幸せ」という感情が描かれている感じ。
キラキラして、眩しい絵。
「桜井……美祢」
絵の下に、この絵を描いた生徒らしき名前と「県知事賞」と書かれたプレートが飾られている。
桜井美祢。
その名前にあのまっすぐに伸びた黒髪の女子生徒が脳裏に浮かんだ。あいつだ。
これがあいつの絵か。
「お~い、行くぞ、コウキ」
晴人の声にいつの間にか自分が一人になっていた事に気がついた。
絵を見て、判った。桜井美祢は暇だったんじゃない。絵が好きなんだ。画家になるのが夢だったりするんじゃないだろうか。桜井美祢にはきっと夢がある。
だからこそ、この絵はキラキラと輝いてる。
もう一度俺の脳裏にあの黒髪の後ろ姿が映った。
この絵を描いたあいつはどんな顔をしているんだろう。どんな声で、どんな事を考えているんだろう。
これまでその存在すら気にもとめなかったクラスメイトの桜井美祢という女子生徒が、俺の心の部屋の片隅に静かに現れた。そんな気がした。
***
つい気持ちまでどんよりと落ちてしまう肌寒い季節から次第に心地良い季節に移った頃、校外学習で美術館に行くことになった。シャガールっていう画家の作品が展示されているらしい。
女のヌード画でもあれば気持ちはノッたかもしれないが、子供の落書きの様な抽象画の作家。
特に興味が無かった俺は、晴人と適当に時間を潰してカラオケに行く予定だった。
「コウキの事気に入っている女の子が来るんだけどさ」
「へぇ」
うちの学校の制服があちこちに見えるまるで貸し切りの様な広大な美術館の展示ホール、ぷらぷらと流すように展示された絵を眺めながら俺は生返事を返した。
「反応薄っ。つか、お前が女とカラオケ行きたいっつーからセッティングしてんのに」
口から魂でてんぞコウキ、とジェスチャーを交えながら晴人が茶化す。
この校外学習、俺は興味が無かった。絵なんてものはわからないし、シャガールがどんな絵を描いているのかも知らない。
だけど、絵を見ているうちに、いつの間にか引きつけられていた。俺の脳裏に、あの絵がフラッシュバックの様に浮かび上がったせいだ。
桜井美祢のあの絵。
同じ系統に属するであろう抽象画。
あの日、彼女の絵を見てから、あろうことか話したこともない桜井美祢の存在が俺の視界にちらついていた。似たようなパッとしない女子生徒の中に見える桜井美祢の姿。
だけど、一度も話しかける事は出来なかった。
女慣れしまくっている晴人レベルとは行かないが、普通に女に話しかけることなんてワケない。でも、桜井美祢には無理だった。絵に真剣でキラキラしている彼女に、俺の心の中が見透かされそうで怖かったからだ。
そう、桜井美祢はキラキラと光っていた。
「なぁ、晴人、この絵どう思う?」
「絵?」
改めて俺に促されて晴人が展示されている絵に目を移す。
「わっかんね。俺らとは全く違う世界」
「……だよな」
俺もそう思うよ、晴人。
「ンなことよりもよ、今日のメンバーの中にガチでヤバイ子がいるから」
苦労したんだぜ、とその「ガチでヤバイ女」を熱弁する晴人につい笑いがこみ上げてくる。
と、そんなくだらない事を話している俺達の前に一つの絵を見上げる女子生徒の姿が映った。黒髪の女子生徒。
「……あれ? 桜井じゃねぇ?」
「桜井って、……誰だっけ?」
ぽつりと呟いた俺に晴人が返す。
桜井の存在が気になっているのは俺だけだからな、晴人は今だ知らなくて当然か。
「ほら、前に絵の受賞で」
「ああ、桜井……『ジミー』な?」
「ジミー? なんだそれ?」
「いやさ、桜井ってなんか地味じゃん? だから『ジミー』」
「……笑えねぇ」
「笑えよ。マジでツボが判んねぇ奴だなお前」
ドッカンドッカン来るくらい的を得てンだろよ、と晴人が続ける。
だけどマジで笑えねぇ。校長の昆布は笑えるけど、桜井のそれは笑えねぇ。
なんでか判んねぇけど。
「でも何気にさ、よく見ると可愛いよなジミー。中の上、いや、上の下か中位じゃね?」
晴人が難しい顔で呟く。
そう言われて俺は視線の先、絵を仰ぎ見上げている桜井の姿を改めて見た。
なんつーか、学校で見る桜井とは違う。絵を見る桜井はいつもよりキラキラしてる気がする。
「アホらし。晴人、先に下のカフェで待ってろよ」
「へ? どこ行くん?」
「トイレ」
「トイレかよ」
ちゃんと手洗えよ、と吐き捨てて晴人が階段を降りていく。
だが俺の足はトイレには向かわなかった。俺が向かったのは、じっと絵を見つめる桜井の側ーー
ちょっと待て。
何でそっちに行くんだ。
次第に桜井の黒髪が近づいてくる。声をかければこちらに顔を向けてくれるだろうか。
いや、こんなチャラチャラした奴と話したく無いかもしれない。そっぽを向いて去って行ったらどうする。
ーークソ、俺は童貞のガキかよ。
ただ女に話しかけるだけなのに、何でこんなにキンチョーすんだ。
「こういう絵って、どうやってみんの?」
取り敢えず、絵について聞いてみた。及第点の質問だろ。
だが、声をかけられるとは思っていなかったらしく、逆にこっちがびっくりするくらい桜井は動揺し、軽く飛び退いた。
いや、そんなにびびんなくても。
「抽象画っていうんだっけ」
あうあう、と目が泳いでいる桜井をフォローするようにもう一つ俺は合いの手を差し出した。
「うん。えっと、正確なデッサンよりも心象風景をデフォルメしつつ表現することを重視してる人たちの描いた絵のことを指すんだけど……って、意味わかんないよね。ごめん、私、説明下手だから」
「へぇ、心象風景をデフォルメね。俺、絵とか判んねぇからやっと理解出来たわ。この絵、好きなの? さっきからじっと見てるけど」
「うん、リトグラフのやつは見たことあるんだけど、本物は初めてだから。シャガールが誕生日に奥さんから花束をもらった時の喜びを表してるんだって。まっすぐな愛情みたいなものが表現されてて、気に入ってるんだ」
絵を見ながら、笑顔で桜井は答えてくれた。
笑顔。
俺に説明する桜井の横顔はうれしそうだった。
絵が本当に好きなんだな。桜井の横顔を見て思った。俺のカンは当たっていた。桜井は暇であの絵を描いたんじゃない。心底好きなんだ。絵が。
「へぇ、そう言われると。何か判る気がすンな。色とか、構図とか、幸せーって感じが」
「でしょう? だから好きなんだよね」
チクリと小さな刺が心に刺さった気がした。
「あなたも好きなの?」と聞かれたら返事を返せる自信がない。毎日だらだらと目的もなく過ごしていますなんて言ったら嫌われるに決まっている。
聞かれる前に何か返さないと、と焦ってしまった俺はとんでも無いことを口にしてしまった。
「お前の絵も見たよ」
「……え?」
待て待て待て、何言ってンだ俺は。
目を丸くして俺を見る桜井の顔を見て、全身の毛が逆立った。
ストーカーかよ俺は。
青ざめてるの気付くんじゃねぇぞ、桜井。
「学校の玄関に飾られてたやつ。なんかこう、キラキラしてて俺はいいと思う。あの絵」
俺の口は壊れた蛇口の様に、心の声を漏らしていく。
桜井の目がさらに大きく開いた。そりゃ驚くよな。いきなり声かけられストーカーみたいな事言われたら。
俺も驚いてる。
「え、いやあれは全然、大したことなくて」
桜井がパタパタと手を振りながら謙遜する。
「いやなんで、そんな挙動不審になンのよ。賞取ったんだろ? もっと自信持てよ」
不審なのは俺だけどな。
「シャガール展に来てて、そんなこと言われたら誰だってなるよ!」
顔を真っ赤にして桜井が困った顔を見せる。
その表情に思わずドキリと鼓動が高なってしまった。晴人が言っていた通りだ。今まで気が付かなかったけど可愛い。
俺に見せてくれたその一瞬に、思わず俺は子供のように嬉しくなってしまった。
そして、なんだかんだでその後結局二人で一緒に美術館を回ることになった。
思ったより桜井は明るくて、思ってたとおり好きな事や夢にまっすぐだった。
今まで出会ったことのない子。今まで俺の周りには居なかった子。
夢もやりたいことも無い俺を嫌うかと思ったけど、そんな事はなかった。
それが何よりも一番うれしい。
夜、晴人から怒りの電話が来るまで、晴人をカフェに置き去りにした事も、さらにカラオケもブッチしてしまった事も忘れていた。ガラになく俺の頭は桜井で一杯だったからだ。
ーーやべぇ、思い出しただけでにやけてしまう。
可愛い子を見つけ、フケたという言い訳をかまし、今度飯をおごるという事で晴人は落ち着いたものの、俺は上の空で昼間の桜井の嬉しそうな姿を思い出し、その顔はニヤついたままだった。




