忘れかけた柑橘系
中学校を眺めると、少しだけどその時のことを思い出す。嫌なこと、苦しいこと、痛いこと。楽しかったあの日々は、何故か思い出せなかった。まぁ、どうせ今となってはただの過ぎた過去だ。気にしても仕方無いだろう。……そう思うものの、懐かしさとはしつこいもので、追憶作業は命令に逆らって進められていく。……ならそれこそ仕方無い。俺の記憶にも限りがあるのだから、積極的に思い出してとっとと終わらせてしまおう。…………………………。そういえば、今はもう関わりは無いけども、当時はよく話した奴が数人いたな。だが、どういう奴だったのか。顔は辛うじて思い出せるが、そいつが何が好きで、どういった話をしたのか。それが何故か思い出せない。その面子の中には幼馴染みの女もいたが、彼女が具体的にどういう人間だったのか、俺は訊かれたとしても、答えることが出来ない。何故だろう。まるで記憶に靄がかかったように不鮮明で、パーソナリティが見えてこない。───そうしてどっぷり思考の海に沈んでたからだろう。考えてるその間にも動いていた俺の足は、自分が向かおうとしていた方向とは別の方へ歩いていた。未だに気づかず無意識に動く足は止まらず、中学校からは離れ続けている。我に帰ったのは、自転車が目の前をひゅんっ、と横切ってからだった。
「ん?」
気付けば中学校は見えず、見通しの良い住宅街の中にいた。見覚えは───辛うじてある。だがそれだけで、いつ来たのか、どういった場所なのか俺は思い出せなかった。
「高井田?」
だからだろう。不意に名前を呼ばれて振り向いた先にいた少女を見ても、誰だか判らなかったのは。
視界の隅で空色のカーテンが揺れている。ベッドの前のぬいぐるみは座っているみたいに並べられていて、よく整頓されているのが判る。
「そんなにキョロキョロして、もしかして緊張してる?」
扉を開けつつそう言ってきたのは、この部屋の主であり───俺の幼馴染みである、小川千尋だった。
「いや、物珍しくてな」
「そう?まぁ昔とはやっぱ変わったかな」
そう言って部屋をぐるりと見回す。彼女が言うには、十年以上も前に何度か来たことがあるらしい。が、正直全く憶えてないので言われても困る。
「それにしても、よく上げてくれたな。俺も一応男だぞ?」
文机の上に置かれたポートレートを見ながら言う。そこには千尋と共に、一人の見知らぬ少年が写っていた。笑顔でピースなんかしている。俺の視線を追いかけて、彼女は、納得したような息を吐いた。
「大丈夫だよ。彼はそんな心の狭い人じゃないから」
「はっ……どうだか」
少年の見た目は、正直言ってイケメンではなかった。ただ活発そうな風体と垂れ気味の目が、ありふれた……いわゆるリア充らしい雰囲気を出している。
「こいつで何人目だ?」
「高校入ってからは四人目だね」
こいつ呼ばわりに僅かに眉を寄せたが、問いには普通に答える。俺はそこでふと思い出した。どうして俺が千尋と関わりを持たなくなったのか。───簡単だ。俺が彼女から遠ざかったのだ。
「やっぱりお前……変わったな」
中学時代。彼女は今よりもサバサバしていて、女らしさはあまり感じさせなかった。それが気安くて、よく可笑しな話で盛り上がっていたことが、僅かな断片記憶から読み取れた。
「それって何?可愛くなったってこと?」
そんな俺の内心など察しようも無く、彼女は茶目っ気を込めてこちらにウインクなんかしている。俺は溜め息を飲み込むのに少し苦労した。
「いや、男に媚びてるみたいで気持ち悪い」
だが不快感の籠った台詞は、飲み込みきれなかった。
「えっ……。ぇ?何それ」
突然の暴言に言葉を失う千尋。まぁ漏れてしまったのは仕方無い。俺は彼女の反応を敢えて無視して、自分勝手に訊ねる。
「お前、いつから非処女だ?」
「えっ?えっと……中二からだけど……」
「フリーだった時期はどれぐらい?」
「…………二ヶ月ぐらい」
衝撃を受けた後の鈍い頭に、矢継ぎ早に質問を叩き込む。そうして返ってきた答えは、予想通り。俺を十二分に不快にさせるものだった。
「二ヶ月か!とんだビッチだな。最早病気と言っていい」
俺が彼女と共に過ごしたのは、中学二年の後半から三年の前半まで。俺と接していたときには既に、彼女は俺の気に入らないものに変わっていた。あの語調と態度も、俺と円滑に接するための仮面だったと思えてきた。───実態は知らないが。過去の俺はそれに思い至り、彼女から離れたのだろう。俺の嘲笑うかのような台詞回しに、ようやく千尋は怒りの表情を浮かべた。
「急に媚びてるとかなんとか、さっきから何なのさ!しかもビッチとか……キモっ!頭おかしいんじゃないの!?」
今時な罵倒と共に、手元にあったクッションを容赦無く全力投擲してくる。だが所詮はクッション。胸にぼふんとぶつかるが、当然痛くない。ただ、不快感は与えられた。いくら内心で、お~っ、これが『火が点いたように怒る』か。などと暢気にぼやいても、俺の気は収まらない。俺は相手が激昂したところで、手を止めてやるほど出来た人間じゃあない。
「さっき言っただろう?おかしいのはお前の方だよ。クソビッチ」
その台詞が、最後の追撃となった。千尋の瞳に涙が満ち、途端に頬を滑り落ちる。
「酷い……どうしてそんなこと言えるの?前はもっと優しかったのに……」
それは俺が、千尋を見たままの少女だと思い込んでいたからだ。人を見て態度を変えて何が悪い。そいつに現実を……どう見られ、思われているかを突きつけるのは、果たして悪なのだろうか。
「俺は変わってない。さっきから何度も言ってるが、変わったのはお前だ」
「~~~~~~っ!帰って!もうアンタなんか見たくもない!!」
そう叫び散らした末に、先程投げたクッションを掴んで、そのまま顔に押しつけた。顔面を押し潰さんばかりにクッションを抱き締めている。
「………………………………」
俺はその様を───敗北した様を冷ややかに見下ろし、静かに部屋を出た。すると、扉のすぐ前の廊下に新しい……いや、懐かしい顔を見つけて、少々気まずい思いが湧いた。後ろ手に扉を閉めつつ、俺は相手が口を開く前に、小声で話しかけた
「盗み聴きか?いい趣味だな」
「別にいいでしょ」
扉の前から早々に離れようと廊下を歩き始めると、当然のように彼女もついてきた。どうやらもう少しお話しする気があるらしい。
「プライベートだなんだなんて関係無いでしょ?妹なんだから」
「そうなのか?いや……まぁ、いいけど」
彼女は千尋の妹で、名を琴音という。俺とは二つ違いだから……今は確か、中三だったか。俺が中三の頃の部活の後輩で、千尋とは別口で付き合いがあった。
「見てたんなら何で止めなかったんだ?」
「何を?」
「俺を」
琴音と千尋は、俺が知る限りそれなりに仲が良かった筈だ。なのに泣かせるがままにしておくのが、不思議に思ったのだ。
「止める必要なんて無い。だって“ちひ”のためだもん」
俺の足は玄関に着いたが、琴音は離れず。そのまま外まで着いてきた。
「ちひは高校生になって、やっぱり変わったもん。大して知りもしない、ちょっと気に入っただけの人にも、平気で身体を預けちゃう。普通に考えても、おかしいよね」
「……………………」
妹の目から見ても、千尋は変わったのだろう。或いは、元からおかしかったか。いずれにしても───俺の独り善がりな罵倒文句に、証人が加わったような……僅かな安心感を覚えた。
「ああやって正面から、それもある程度の信頼を持ってる人から言われないと、気付けないと思ったの」
二人の足音が変わった。砂利の敷かれた駐車場を横切って、高架沿いの道に入る。
「俺は信頼されてたのか?」
もう二年以上関わりを避けてたのに。
「じゃないと家には入れないでしょ」
まぁ確かにそうか。そういえば、千尋が変わった時期は丁度、俺が千尋から離れた時期と一致する。…………そりゃちょっと考え過ぎだな。
「先輩はそれなりに信頼される人だと思うよ?好き嫌いは置いといて」
「どういう意味だ?」
一般的に『好きな奴=信頼してる人』だと思うのだが。
「確かに先輩は、人に好かれるようなタイプじゃない」
ちなみに動物にも好かれない。猫に近寄ると大抵逃げられるし、犬には吠えられるな。みんな死ねばいいのに。
「だけどブレないでしょ?そういうのって、何だか安心するもんなんだよ」
まるで確信してるような口調。きっと琴音自身がそう思っているのだろう。だが───俺はその意見に、否を唱える。俺はそんな風に善く語られる人間じゃない。馬鹿で自分勝手で、それなのに他者を見下したくて舌を尽くす。紛れも無い愚者だ。愚者故に、成長が無い。ブレないのは変わりようが無いから。成長も退化も。琴音の見方は、感情と理性がつり合ってる人間にしか出来ない、人間らしさの欠けた見方だ。大衆向けの見方だと、俺は単なる嫌な奴さ。だが俺に、そんな偉そうに否定する権利は無い。だから、
「……ありがとう。でもそれは過大評価だよ」
俺は呆れたように、それだけ呟いておいた。
琴音と別れた後、俺は自宅へ直帰した。元々外に出ていたのは、何てことない、ただの散歩だったのだ。家の中には誰もいなかった。食卓の上に『今日は一人で食べて』という書き置きがあり、その隣に即席めんの袋が鎮座していた。ここにいない俺以外の家族は、今頃死にかけの祖母の見舞いで、退屈を持て余していることだろう。叔母から電話がかかってきた日。家族会議の中、唯一人同行を拒んだ俺に、三人は何も言わなかった。ただ、母は何か言いたげに袖を弄っていたっけ。食卓の品々を黙殺して踵を返す。文机上に不規則に並べられたプリント群を見る。それらは志望大学の過去問を問題集からコピーしたものだ。息抜きのつもりで外出したのに、気持ちを改めいざ再開───とする気は起きなかった。俺はプリントを片付け、脇に置いてあったラップトップPCの電源を入れた。いつからか消えない不快感。泥のように溜まったそれを吐き出すべく、インターネットのウィンドウを開く。検索エンジンに卑猥な単語を打ち込みながら、俺はズボンを引き摺り下ろした。