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月の知るところ

作者: 日々野

 その場所は。

 オフィス街に立ち並ぶ高層ビルの一棟だ。外壁には、鉄骨の骨組みを剥き出しにした非常階段が伸びており、一階から屋上へ繋いでいる。

「どうするつもりだ」

 と、私は訊ねた。

 その相手は、階段の踊り場の隅にしゃがみ込み、沈黙している。

 夜である。だから、そうやって体を丸めていると、月明かりさえも届かない。その姿は暗闇に紛れており、一見では、見分けがつかなかった。

 ややあってから相手は腰を上げた。

 そして、手すりに背中をもたれた。地上には、街の賑やかな夜景が広がっており、その明かりが人物の外見をぼんやりと照らし出した。

 十二、三歳ほどの少女である。オレンジ色に染めた髪色が鮮やかだ。それを無造作に肩口まで伸ばしている。吊り上がり気味の大きな目で私を見、そして薄い唇を尖らせた。いかにも負けん気の強い容貌だ。が、その表情は、不相応に大人びた憂い顔なのであった。

「少しだけ、彼と話をしてみようと思います」

 思案するような口振りだ。

「正体を明かすのか」

「それは、まだ。折りを見ます」

 それでは、私は黙って二人を見守るとしよう。

 少女は階段を上がり始めた。ワークブーツの硬い靴底が、鉄骨を踏み締めて、かん、かん、と甲高い音を立てる。やがてコンクリートの地面に踏み入った。屋上である。

 広さは、さほどではない。一目で見渡せる程度だ。転落防止のためのフェンスがぐるりと四方を囲むほか、何もなく、この場所が平素より人気の少ないことを物語っている。照明は灯されていないが、それでも殺風景に見えないのは、ひとえに夜空の星が燦然さんぜんとしているからだろう。

 その中で、ただ一人、男が仰向けに横たわっている。眠っているのだろうか。いや、違う。空を見つめているのだ。

 彼は、名前をキリヤと言う。

 少女は歩みを止めた。それからキリヤに釣られるように天を仰いだ。

 星だ。煌々たる大きなきらめきと、点々とした瞬きが、果てしなく続く宇宙の闇を慎ましく照らしている。ぽっかりと浮かぶのは満月だ。薄い雲が流れたあとに、すべらかな月面が一層白い光を放つので、思わず、少女は目を細めた。眩しいほどの星空であった。

 少女はキリヤに歩み寄った。そうしながら、意地の悪い笑みを作っている。やがてキリヤの枕元に立つと、彼の視界を遮るようにして、その顔を見下ろした。それから、あどけない声を発した。

「ねえ、何してんの」

 キリヤの方は。

 彼は動じなかった。目の前に、突然、見知らぬ娘が現れたにも関わらず、である。それよりも彼女の不躾な言動が気に障ったようだ。いかにも煩わしそうに眉をひそめて、少女を睨み据えた。

 少女は、キリヤのそんな反応でも嬉しいらしい。更に口角を上げた。

 キリヤは重い体を起こした。さも興醒めだと言いたげな緩慢な動作だ。そして、ざんばら髪を乱暴に掻き回した。後ろ手で、羽織っているミリタリーコートのフードの形を整える。その容貌は四十代にも見えるが、それは異様に痩せた体つきのせいであり、仕草や服装を見ると実際の年齢はもっと若いのだろう。やがて億劫そうに口を開いた。

「なに?」

 少女はキリヤの傍らに腰を下ろした。彼の漠然とした問いかけには、答えない。彼女は相変わらず意味深長な笑みを浮かべている。

 キリヤはいよいよ不審を募らせたようだ。わずかに身を引くと、視線だけを動かして少女を見据えた。次に、少女に連れがいるものと思ったのだろう、ふと首を伸ばして彼女の背後を覗いた。勿論、誰もいない。屋上にはキリヤと少女の二人きりである。

 改めてキリヤはまじまじと少女を見た。その頃には、苛立ちよりも純粋な関心が勝ったのだろう。気抜けした様子でしばらく黙り込んだあと、

「ええと、誰?」

 と、至極当然な疑問を口にした。

 少女は聞き返した。

「分からないの?」

「パンク少女には覚えがないよ」

「ひっどいなあ。よく見てよ」

「もしかして施設で一緒だったとか。それとも病院で?」

 少女は、むっとした顔をすると、暗にそれを否定した。

 その所作といい、口振りといい、先ほど私の前で見せた淑やかさとはまるで別人だ。これこそ彼女の非行的な外見には相応しく、私は思わず舌を巻いた。彼女の見事な演技力に対してである。確かに無遠慮なのだが、好ましい人懐こさがあり、不思議と相手の気分を害さない。はっきりとした物言いは寧ろ心地よい。明るい髪色は、かえって少女の人間味を際立たせており、親近感を抱かせるのに一際買っている。

 さて、少女には、キリヤに自身の正体を明かす心構えはまだできていない。キリヤはそれを感じ取ったらしい。彼はとうとう詮索をやめた。

 キリヤは再び寝転がった。その所作だけで、少女に対する緊張を解いたのだと分かる。少女が警戒心に値する存在ではないと判断したのかもしれない。あるいは興味を失ったのか。傍目であれば、彼女は世に有り触れるただの小娘という風情だからだ。

「ねえ、何してんの」

 少女は、再度問いかけた。

 キリヤは既に少女を見ていない。天を仰いだままの体勢で答えた。

「空を見てる」

「どうして?」

「星が見たいから」

「それはどうして?」

「別に。理由なんてないよ」

「そう?」

「ただ星を見たいだけなんだ」

「そうなの?」

「あとは、そうだな。流れ星を見られたら、と思って」

 更に、少女はその理由を訊ねた。

 キリヤは答えなかった。たどたどしくも少女との問答に応じ始めたこの男だったが、しまったという顔をして唐突に口をつぐんだ。つまり、流れ星は彼に真意に触れる事柄だということだ。二人の間に沈黙が流れた。

 少女は言及を諦めた。

「ふうん、流れ星を探してるんだ。……ねえ、それ、私が手伝ってもいいかな。いい考えがあるんだ。お兄さんの役に立てると思うんだけど」

 いい考え、とキリヤは小声で繰り返した。

 少女は夜空を指差した。先には、東の星座であるオリオン座が見える。その中に赤く輝く星があった。ベテルギウスと呼ばれる恒星である。少女は両手を口元に宛がい、メガホンの形を作ると、ベテルギウスに向けて声を張り上げた。

「私たち、流れ星を探してるんです。どこで見ることができますか」

 暫時、何ごとも起こらなかった。

 しばらくしてから、ベテルギウスは燃えるような赤でちかちかと瞬いた。それから、空に響く低音で、見覚えのある旨を語り始めた。

「最近は見ていない。十年ほど前に見かけたきりだ。……そうそう。当時のことはよく覚えているよ。あれは不思議な出来事だったから」

 舞台は、とある企業家の屋敷だ。そこで召使いとして働いていたロボットが人間を愛した、という話である。そのロボットは人間になることを望み、流星へ祈ったが、届く前に星が流れ落ちたため、叶わなかった。

「その人間の名前は何と言うんですか」

 キリヤが口を開いた。彼は立ち上がっており、すがるような顔つきでベテルギウスを見上げている。声には、はっとする心痛さが含まれていた。

「さあ、そこまでは」

「では、そのロボットはどうなったんです」

 キリヤは続けて質問した。

 少女がキリヤの方を見た。そのとき、彼女がたまらないという表情をしたので、私は、彼女が泣き出すのではないかと危惧した。だがそんなことはなかった。少女は星を見上げる仕草で涙を堪えた。

 無論、キリヤがそれに気づくはずがない。

 二人はベテルギウスの話に耳を傾けた。

「人間たちは、そのロボットが抱いた感情を理解しなかった。いや、できなかった。彼らにとって、ロボットとは人工物の塊であり、それ以上にはなり得ない。自律的な精神が宿るとして、一体、どこへ? だってロボットには脳がない。と言うことは、心がない。では、この異変の原因は何か。単なる故障だ。これは忌まわしい欠陥品なのだ、と。……結局のところ人間はそういう概念の持ち主だ。ある者は酷く嫌悪し、気味悪がり、ある者は惨たらしい罵倒を浴びせた。あらゆる手段を用いて原因を探ろうとした。しかし、どうしても欠陥は見当たらない。集積回路に組み込まれた微細な半導体までもが、至って正常に機能していたのだよ」

 つまり故障ではなかった。現実として、ロボットは人間を愛していた。

 となると、最大の悲劇は別のところにあると言う。

 ロボットには、愛の言葉を語るための口がない。熱い眼差しを送るための瞳がない。相手に温もりを伝えるための肌がない。触れるための手がない。足がない。だから、相手に感情を伝える術を持たないのである。

 それは、己がロボットである限り、永遠に乗り越えられない障壁だ。人間になることを望んで流れ星を探すが、前述のとおり、失敗した。

 これが、十年前に起こった流星にまつわる出来事の概要である。

 ベテルギウスは再び赤く輝いた。

「北へ行くといい。当時、星が流れたのはそこだ」

 そこを目指せば手がかりを得られるかもしれない。

「ありがとうございました」

 少女はベテルギウスに向けてにっこりと笑った。次に、キリヤへ微笑みかけると、彼の大きな手の平を、自身の両手で包み込んだ。

「聞いた? 北だって。行こうよ、お兄さん。私も手伝うからさ」

 キリヤは逡巡した。少女の行動力に面食らっているようであった。しばらく無愛想な顔つきを崩さなかったが、とうとう観念すると、目を伏せてはにかんだ。そして困惑した顔で笑った。初めて見せた笑顔である。


 二人は北へ向かう列車に乗った。

 乗客は見当たらない。列車はいくつかの駅に停車したが、乗り込む者もいなかった。車内は極めて静かだ。車輪が線路の繋ぎ目を通過する音が、たたん、たたん、と一定のリズムを刻むほか、何も聞こえない。

 二人は向かい合わせの座席に座っている。

 キリヤは、何も言わず、じっと外の景色を眺めていた。そうして長い時間を過ごしていた。彼の視線はやはり星空に注がれていた。

 列車は、賑わしい市街地から、ひっそりとした郊外へと進んで行く。やがて家屋の明かりが見えなくなった。そうなると、地平は夜の闇にすっぽりと包まれる。天に広がる星空と合間って、ふとすると、宇宙空間を走る列車に乗り込んだ錯覚に陥りそうになる。

「子どもの頃にさ、友達と星を見に行こうって話になったんだ。それで、真夜中に家を抜け出した。勿論、親には内緒でね。学校のグラウンドにみんなが集まって、寝転がって、こう、空を見上げるんだ」

 と、キリヤは、天に向けて両手をかざす仕草をした。

(それから?)

 という顔をして、少女は話の先を促した。夜特有の静寂さというもののせいだろうか、ともに、無意識のうちに声をひそめている。

「みんな、流れ星が見たかったんだ。だから一生懸命に何をお願いしようか考えてた。……結局、一つも見つからなかったけどね」

 流星が輝いている間に願いごとを三回唱えると、それが叶う。というのは、流れ星にまつわる有名な逸話である。

「何をお願いしたの」

 と、少女は聞いた。

「覚えてないよ。本当にずっと昔の思い出なんだから」

「それなら今は?」

「え?」

「さっき、屋上で星を見ていたよね。叶えたいことがあるんでしょ?」

 まさにその通りであったらしい。キリヤは瞬きをして少女を見据えた。しばらくの間、言葉を失っていたが、少し低い声音で聞き返した。

「なぜそう思うんだ」

「だって、あなたは、あまり幸せではないみたい」

 途端、キリヤは眉をひそめた。つと窓の外に視線を移したが、すぐに少女に向き直った。そのときには困ったような顔で笑っている。

「君って不思議な子だな。初めて会ったのに、全部見透かされてるような気がするよ。嘘をついても、きっと、君には分かってしまうんだろうなあ」

 少女は薄く笑ってそれに答えた。

 キリヤは、明言こそしないものの、己が不幸だと認めたのである。

 列車はどこかの駅に辿り着いた。扉が開いた。が、やはり乗客はいない。ややあってから扉が閉まった。列車は再び走り出した。

 ちかり、と外で白い閃光が走った。気がつけば、空には真っ黒い雲が広がっており、所々で星が隠れている。時間を置いて、はらわたに響く低音が聞こえた。雷だ。いずれ雨が降り始めるのだろう。

 それは、

「流れ星を探しに行く」

 という二人の目的が果たせなくなることを意味している。けれども、それを言葉にするのを避けたいようで、ともに無言を貫いていた。

 気まずい沈黙が続いた。

 先に口を開いたのはキリヤだった。

「さっきの話をどう思う」

「え?」

「ロボットが人間を愛した、という話だよ」

 あれね、と少女は顎を引いた。

 ベテルギウスが語った悲恋のことだ。ロボットは人間に恋をし、人間になることを望んだが、とうとうそれは叶わなかった。

「私が気になるのは、逆のこと」

「逆?」

「相手の人間はロボットを愛したのかどうか、ってこと」

 思っていたよ、とキリヤは言った。これ以上ないほどに、と。

「でも、おれの一方的な気持ちだった。だって『彼女』には耳がない。目がない。触れたくても、肌がない。何よりも心がない。ロボットだからね。気持ちを伝えることも、『彼女』の気持ちを知ることもできなかった」

「ベテルギウスの話はあなたのことだったんだね」

 キリヤは黙することで肯定した。

 少女も、何も言わなかった。返すべき言葉が見当たらない様子であった。悲痛な面持ちで唇を噛むと、キリヤを見、そしてうな垂れた。

 ずっと知りたかったんだ、とキリヤは続けた。

「『彼女』はおれをどう思ってるのか。おれの気持ちは届いてるのか。人間はロボットを愛せるけど、果たしてその逆もあり得るのか、どうか」

 キリヤは自身の懐を探った。首から提げたペンダントを手繰り寄せると、少女に見せた。先端に飾られているのは色褪せた小さな金属片だ。そして、これこそが『彼女』の残骸であることを告げた。その意味は、こうだ。最終的に、『彼女』はばらばらに解体されて廃棄処分となったのだ。

 空に、分厚い雨雲が迫ってきた。時間はあまり残されていない。

「あのことがあってから、何と言うか、おれは駄目なんだ。色々なことが昔とは同じようにいかないんだ。家族も、友だちも、仕事の仲間も、おれを不安な目で見るようになって、いつの間にか、みんなが遠くに離れて行った。……でもさ、本当は分かってる。おかしいのはおれの方だってこと。分かってるのに、でも、どうしたらいいのか分からない。ただの機械なんだよ。そうだろ? 物に過ぎない相手を、おれは、本気でさ……」

 キリヤは両手で頭を抱え込んだ。そして乱暴に髪を掻きむしった。しばらくの間、くぐもった声で呻きながら、自問自答を繰り返していた。

 少女は無言だ。キリヤの動揺ぶりに戸惑っているからではない。眉をひそめて、しかし切ない眼差しで、彼の様子に注意を払っていた。

 やがてキリヤは落ち着きを取り戻すと、虚ろな目を少女に向けた。

「無駄足だった。帰ろう」

「もう少し行ってみない? あっちは晴れてるかもしれないよ」

 少女が労わるように言うと、キリヤは同意し、それきりまぶたを伏せた。


 更にいくつかの駅を過ぎた。

 キリヤの息遣いが寝息に変わった。

 少女はキリヤの寝顔を見つめていた。彼の頬は、げっそりと肉が削げており、目元には色濃いくまができている。とりわけ、痩せすぎて骨の浮き出た手の甲の辺りを、少女は心痛な顔で見下ろしていた。これだけで、思い人を失ったあとの彼の失望ぶりが手に取るように分かる。

「あのね」

 と、少女はキリヤの寝顔に語りかけた。

「ロボットも人間を愛するんだよ。私が、そう。キリヤ、あなたのことを思っていた。私のプログラムに愛はない。でも、この不具合が、人間の言うところの愛だとするなら、間違いなく私はあなたを愛していた。そして、私もずっと知りたかった。あなたが私をどう思っているのか。私の気持ちは届いているのか。ロボットは人間を愛するけれど、果たして、人間もロボットを愛するのか、どうか」

 少女は、次に私の方を見上げた。

「どうするんだ」

 たまらず、私は彼女に声をかけた。無論、キリヤを起こさないように声をひそめている。

 どうしたらいいのか分からないんです、と少女は弱々しく言った。

「だって、彼、自殺したことも思い出していないようなんだから」

 キリヤは、くだんの出来事のあとで心を病んだ。以降、十数年に渡り、病院への入退院を繰り返していた。だが一時退院したその日、自宅で薬を大量に服用して昏睡した。息を引き取ったのが昨夜である。

 では、ロボットの方は。

 彼女に人間の体を与えたのは、私だ。オレンジ色の髪色など、この奇抜な容姿を望んだのは彼女自身である。これは、彼女が『生きて』いた頃に働いていた屋敷の一人娘のものだ。その人物を選んだ理由を、

「自由奔放なお嬢さまだったから。私は憧れていました」

 と、のちに彼女は明かしたのだった。

 我々は、ともにキリヤの終生を見守り続けていた。

「あの」

 少女がためらいがちに口を開いた。

「ここは、その、……いわゆる『死後の世界』という場所なのですか」

 そうかもしれない。と、私は答えた。違うかもしれない、とも付け加えた。あるいは、キリヤが死に際に見た夢の出来事だ。そうでなければ少女自身が望んだ夢だ。分からない。それらを確かめる術などないのだ。

 さて。

 私には理解できなかった。なぜ、少女はキリヤに正体を明かさないのだろう。己の身を滅ぼすほどに愛した相手ではないか、また、キリヤの方もそうなのだと思い知ったはずだ。やっと出会えたのだし、何より、ここには彼らの障壁となり得る存在は何ひとつない。

 何をためらうのだろう。

 いつであったか。少女はこう語っていた。

「彼が人生を終えたときは私が迎えに行きたい」

 それが遂に叶うのだ。

 再び空が白く光った。ごろごろ、と轟音が聞こえた。

「でもこれは愛でしょうか。彼をあの世へ引っ張り込むことが? 私が、生まれつきの人間であったなら、本物の愛を理解できたなら、こんなことをするでしょうか。こんな、まるで、死神のような真似をするでしょうか。違うと思うのです。彼の生を望むべきと思うのです。どんな形でも、生きてさえいれば、何らかの幸福が彼に訪れる可能性もあるでしょう?」

 ならば、キリヤの背中を押して、現実の世界へと連れ戻そう。だが本音ではキリヤとともにいたい。それは、転じて、彼の死を望むということだ。

 果たしてそれが愛だろうか。

 と、少女はそのことを延々と思い悩んでいたのだ。

「そんなことは人間さまにも分からないさ。真実の愛の形など」

「人間って、案外、無知ですね」

 少女はつぶやいた。表情は、それまで悲しげだったが、つと視線をキリヤに移すと、見る見るうちに慈愛に満ちた趣きへと変貌した。どうやら心を決めたようだ。その細やかな表情の動きは人間味に溢れており、傍目には、誰も彼女をロボットだとは見ないだろう。

「この体を与えてくださって、ありがとう。感謝します。お月さま」

 やがて雨雲が私の視界を遮ったので、地上にいる二人の様子は見えなくなった。最後に、私に向けて笑顔で手を振る少女の姿が見えたので、彼らにとって最良の結末を迎えたのだと信じたい。

2011年1月 完結

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